『影響を与えるクリスチャンの特徴!』②

―第2の特徴/「だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」(1ペテロ3:15)―《使徒17:1-15/今回は17:2b-3、11》
―水晶に頼る人生から水晶を創ってくれた神への方向転換!そして「勇気」ある行動へ―
●十年以上も前の事ですが、ある日の事、水晶の首飾りやブレスレットに40万円程を費やして来られた求道中の男性の方が牧師室を訪ねて来られました。その方は、水晶という石は邪気を払って幸運を呼ぶという事を信じていましたので、2年間のローンを組んで購入したのでした。この方に対して私は、水晶という石に力があるのではなく、水晶を造られた神に力がありそのお方に信頼し、そのお方を宣べ伝えて歩む幸いについて語りました!太陽を拝むのも同じようなものです。太陽はなくてはならない大切な物ですが、太陽より力のある大切なお方は太陽を造られた聖書の神です!神はその方に対して、何が一番力があるのか、何が一番幸せをもたらすのか、何が一番ほめたたえられるべきなのかを悟らせてくださいました!そして、神はその方に勇気を与えて下さり、二つで40万円する水晶を手放す決心を導いて行動に移させて下さいました!そして、スッキリした顔で翌日の礼拝に出席しました!神がお働きになれるという事は、実に素晴らしい事です!
―「勇気」を失い、人を恐れた人生を送って来た男性―
●そして、その翌週の事ですが、ある男性の方が牧師室を訪れました。「職場をクビにされた」という報告でした。その理由は、社員の財布からお金が紛失し、職場の中では一番新米である彼に疑いが掛けられたというのです。「財布とカバンの中を見せなさい」という上司の言葉に対し、「私はやっていませんので、見せられません」と答えました。すると後で、彼のバックとコートが机の上に置かれていて、「もう来なくていい」という意思表示だったというのです。彼は、それ以上何も言えなくてその職場を去りました。
●実は、その事が起こる数年前に、彼が勤めていた別の職場で、自分自身の財布から4万円が盗まれたという苦い経験をしました。その職場では、内部の担当窓口に通報する事によって調査してくれるのですが、彼はその手続きを取りませんでした。理由は、職場の同僚との間でややこしい問題に発展しないためでした。これらの問題に直面する中で、彼に欠けていたものは何だったのでしょうか?それは、信仰から来る勇気でした!彼は、人を恐れていました!私がその話しを聞いて、箴言29:25を彼と分かち合いました。「人を恐れると罠にかかる。しかし、【主】に信頼する者は高い所にかくまわれる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは【主】である」、と!「人を恐れず、神を恐れる(尊敬する)信仰者となろう」と語り掛けました!そのために、「毎週教会に通い、聖書を学び、聖書の神を真剣に求めよう」、と語り掛けました!
●そしてまた、詩篇4:1、3、8も開きました。「4:1 私が呼ぶとき 答えてください。私の義なる神。追いつめられたとき あなたは私を解き放ってくださいました。私をあわれみ 私の祈りを聞いてください。・・・
―1―
4:3 知れ。【主】はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき 【主】は聞いてくださる。・・・4:8 平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます。【主】よ ただあなただけが 安らかに 私を住まわせてくださいます」!そして、私は彼に対して、「どうぞ、『追いつめられたとき・・・解き放ってくださ(る)』神を求めて下さい」と強く迫りました!「入門コース』から始めよう、毎週の礼拝に通おう」、と語りました!
【復習】 「勇気」の後に来るものとは!?
―使徒パウロの「勇気」/前回のメッセージより―
●愛する皆さん、「勇気」って大切です!その「勇気」について、私たちは前回のメッセージを通して、使徒パウロから学びました。パウロは、何度ユダヤ人から迫害を受けた事でしょう。「もうユダヤ人と関わらないで、異邦人にだけ宣教したらいいでしょう」と思うのですが、彼が「テサロニケ」に着いた時、何のためらいもなく「ユダヤ人の会堂」に入って行きました!(17:1)すると案の定、「ねたみに駆られ」た「ユダヤ人たち」が「広場にいるならず者を集め、暴動を起こして町を混乱させ」、「二人を探して集まった会衆の前に引き出そうとし」ました。するとし仕方なく、80Km離れた次の街「ベレア」へ移動しました。「ベレア」に着くと、パウロは、すぐさまどこへ行ったでしょうか?それは、「ユダヤ人の会堂」でした!パウロにとって、「ユダヤ人の会堂」は、一向に臆する所ではありませんでした!パウロの「勇気」は、衰えを知りませんでした!「勇気」なしには、人々に影響を与える事はできないものだという事を物語っていました!それが、先週のメッセージの第一のポイントでした。
―「勇気」プラス何が必要なのか?/今回のメッセージの導入―
●さて、前回学んだ「勇敢な者」と今回学ぶ「福音を正しく説く者」とは、どうつながっているのでしょうか?その答えはこうです!もし、キリスト者が「世界をひっくり返(す)」程の影響力を及ぼそうとするならば(新欽定訳/NKJV)、「勇気」プラス正しいメッセージが必要です!正しいメッセージであっても、「勇気」がなければそれをしっかりと伝える事はできません!逆に、正しくないメッセージを「勇気」を持って語っても、それはカルト同じで、聞く相手に更に大きなダメージを与えてしまうだけです!ですから、真理を「勇気」をもって大胆に伝える事がパウロのした事で、それが「世界をひっくり返(す)」程の影響力となって行きました!
【序論】 福音の真理を語るという事は、いったい何を意味しているのか?!
―福音の真理を語るという事は、いったい何を意味していると聖書は言っているのか?―
●福音を正しく説く、福音の真理を語るという事は、いったい何を意味していると聖書は語っているのでしょうか?私は、過去に、『信じがたい福音の真理』と題して礼拝メッセージを取り次いだ事があります。その時、「十字架の愚かさ」という4ページのプリントを作成して、そのままそれを読んでメッセージをするという事を試みました。その時の中心聖句が、1コリント1:23-24でした。使徒パウロは、次のように記しています。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、1:24 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
―2―
福音の中心であるキリストの十字架を語るという事は、「ユダヤ人」にとってもまた異邦人である「ギリシャ人」にとっても、すなわち全世界の人々にとっては信じ難いものであると語っているのです!
―「ユダヤ人」にとっての十字架刑とは?―
●まず、ユダヤ人ですが、彼らにとっては、「十字架につけられたキリスト」は「つまずき」でした!なぜなら、「ユダヤ人」は「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」という申命記21:23の御言葉を信じていたからです。十字架という木に吊るされたイエスが救い主でありまた神であるという事を受け入れる事は、「ユダヤ人」にとってはまず不可能な事でした!
●ユダヤ人には、「ミシュナ」というモーセ五書の律法を注解した書物がありますが、それには、神への冒涜者と偶像礼拝者のみが十字架刑に処せられると明確に記しています!ですから、「ユダヤ人」の目には、イエスは「神にのろわれた者」であり、「神への冒涜者」でありまた「偶像礼拝者」だと映っていました!(Wow!)そして、ローマの権力に反抗した多くの「ユダヤ人」が十字架刑によって殺される姿を嫌というほど見せられて来ましたので、同じようにローマ兵によって十字架に架けられて殺されたイエスを救い主そして神として信じる事は、ユダヤ人にとっては到底不可能でした!
―「ギリシャ人」(異邦人)にとっての十字架刑とは?―
●一方、「十字架につけられたキリスト」は、ユダヤ人以外の異邦人の目にはどう映っていたのでしょうか?十字架刑というのは、元々ペルシャ帝国にその端を発した処刑方法です。その処刑方法をその後に続く帝国が受け継いで行きました。そこで、新約聖書が書かれたローマの時代において、十字架刑とはどのようなものであったのかを探ってみましょう。ローマ社会では、十字架刑とうのは、人間のくずとみなされた人々、最も卑しく、最も下劣な人々に対してのみ執行されて来た処刑方法でした!具体的には、反逆的な奴隷、悪名高い強盗、暗殺者、戦争で打ち負かした相手の兵士たちに対して執行されました!ですから、永遠の創造者なる神が十字架刑に処せられるというのは、異邦人の世界でもまた全く意味が無く愚かな事でした!ギリシャ神話に登場する神々は不死身でしたので、十字架刑で罰せられる神なんて、門前払いもいいところでした!(I see!)
―序論のまとめ―
●使徒たちをはじめ全てのクリスチャンが語るべきメッセージは、何とユダヤ人と異邦人が拒否する「十字架につけられたキリスト」なのです!「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚か」であるイエス・キリストについて、クリスチャンは語らなければならないのです!その真理を聖書はどのように表現しているでしょうか?それは、つまり、「つまずきの石、妨げの岩」なのだというのです!(ロマ9:33/1ペテ2:6-8)すなわち、ユダヤ人、異邦人を問わず、人々は「十字架につけられたキリスト」につまずいたのです!
―今回のメッセージの導入―
●人々が「十字架につけられたキリスト」につまずかざるを得ない理由をもう少し考えてみましょう。救い主は、なぜ人々が吐き気を催しそしてさげすんだ十字架に架からなければならなかったのでしょうか?その答えが人の罪ゆえであるという事は、皆さんもよくご存じの点です。(続く)
―3―
正しい福音とは、救い主を十字架に架ける程の罪について、その罪が人々にはあるのだという事を指摘します!人の罪深さは、聖い神を怒らせているとも聖書は語っています!「神は正しい審判者、日々、憤る神」(詩篇7:11)、と!それゆえ、神は、人が自分の罪を悲しんで悔い改めるよう呼び掛けているのです!「あなたの罪の身代わりとなって十字架であなたの罪の罰を受けてくださったキリストを救い主として信じるように」、と!これが、今回のメッセージで取り扱う福音を正しく説く者の福音のなのです!
●今回は、『世界中を騒がせてきた者たち』シリーズの二回目で、主題が前回と同じく『影響を与えるクリスチャンの特徴!』です。副題が、「だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」(1ペテ3:15)です。「世界をひっくり返(す)」クリスチャンの第二の特徴である福音を正しく説く者ついて、共に聖書を学んで行く事にしましょう!
【全体のアウトライン】
〇本論:影響を与えるクリスチャンの特徴!/二回目
[1]勇敢な者(使徒17:1-2a、10)/済
[2]福音を正しく説く者(使徒17:2b-3、11)/今回
[3]弟子化する者(使徒17:4、12)/次回
[4]反対される者(使徒17:5-9、13-15)/次回
【今回のアウトライン】
[2]福音を正しく説く者(使徒17:2b-3、11)
1)聖書に基づいて論じる/テサロニケにおいて(使徒17:2b-3)
ア)「論じる」とは(使徒17:2b)
イ)聖書からキリストを論じる(使徒17:3)
2)聖書に聞き、聖書を調べて証明する/ベレアにおいて(使徒17:11)
ア)御言葉の真理に心を開く(使徒17:11a)
イ)御言葉を綿密に調べて真理を証明する(使徒17:11b)
【本論】 それでは、本論に入りましょう。
[2]福音を正しく説く者(使徒17:2b-3、11)
1)聖書に基づいて論じる/テサロニケにおいて(使徒17:2b-3)
ア)「論じる」とは(使徒17:2b)
●それでは、第二ポイントの福音を正しく説く者について御言葉を学んで参りしょう。その一番目は、聖書に基づいて論じるという点です!「論じる」とは、どういう意味なのでしょうか?パウロがテサロニケに着くと、二節の前半に記されていますように、「いつものように」会堂にいるユダヤ人の「ところに入って行き」、大胆に彼らと向き合いました。そして、その後半には、パウロは「三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った」事が記されています。「そして」、続く三節で、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかった」事を説明し、また論証して、「『私があなたがたに伝えている、このイエスこそキリストです』と説明し、また論証し」ました!
―4―
●既にお伝えしましたように、「十字架につけられたキリスト」は、ユダヤ人にとっては大きな「つまずき」でした!彼らの救い主像とは、救い主は王としてイスラエルに君臨し、自分たちを支配している敵の手から解放して、ご自身の王国にユダヤ人を導き入れるというものでした!救い主がご自身の民であるユダヤ人の手によって殺されるという事は、ユダヤ国民にとっては全く理解を超えるものでした!イエス様と三年以上にわたって共に過ごした12使徒たちでさえも、この真理を理解するには長い時間を要しました!(マタイ16:21-22/ルカ24:25-26)文字通り、ユダヤ人にとっては、「十字架につけられたキリスト」は大きな「つまずき」であったのです!
●そのようなユダヤ人たちに対して、パウロは「論じ合った」と聖書は告げています!すなわち、パウロが一方的に「論じた」というのではなく、互いに「論じ合った」のです。パウロからの一方通行の語り掛けではなく、相手からの質問も受け、対話をし、問答するという形で進められました!それが、パウロが用いたユダヤ人会堂でのやり方でした!(18:14、19,19:8-9)クリスチャンの効果的な伝道とは、信仰に関する様々な質問に対して受け答えをするというところにあります!そのような効果的な伝道について、使徒ペテロは次のように語っています。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」、と!(1ペテ3:15b)まさに、その通りです!
イ)聖書からキリストを論じる(使徒17:3)
●そして、再度二節の後半ですが、「聖書に基づいて」パウロは「彼らと論じ合(い)」ました!(17:2b)何を言わんとしているのでしょうか?ここは、大切なポイントです!信仰に関する受け答えの中で、聖書がその答えとなる真理を与えてくれるのだという事を示しています!パウロは様々な質問に対して答えを出す時に、人間的な浅はかな知恵を用いる事はしませんでした!また、ユダヤ人が好んでいた聖書以外の伝統を用いる事もしませんでした!そうではなく、旧約「聖書に基づいて彼らと論じ合った」のです!パウロは、自分が語っている事を、ユダヤ人が最も尊んでいた起源の書である旧約聖書から「説明し・・・論証した」のです!その中心メッセージが、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならない」という点でした!(17:3a)
●ルカは、ここでパウロのメッセージ全体の内容を細かく記録してはいませんが、イエス・キリストの苦しみと死を説明するために、モーセの律法に記されている、身代わりとなった犠牲のささげ物を引き合いに出したに違いありません!また、パウロは間違いなく詩篇22篇やイザヤ53章を取り上げて、救い主が死ななければならなかった事を、御言葉によって証明したに違いありません!それから更に、詩篇16篇を用いて、救い主が死からよみがえる事も間違いなく証明したに違いありません!旧約聖書の預言を用いて救い主の死と復活を証明して後に、三節で、次のように結論を出しました!「私があなたがたに伝えている、このイエスこそキリストです」、と!イエス・キリストのみが、「聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」によって、旧約の預言を成就したのです、と!(1コリ15:3-4)「世界をひっくり返(す)」程の影響力を与えるキリスト者というのは、このように神の言葉である聖書によって真理を証明して行く人なのです!
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2)聖書に聞き、聖書を調べて証明する/ベレヤにおいて(使徒17:11)
ア)御言葉の真理に心を開く(使徒17:11)
●福音を正しく説く者についての二番目は、聖書に聞き、聖書を調べて証明する事なのですが、「ベレア」での出来事を取り上げます。テサロニケから逃れたパウロは、「ベレア」というもう一つの町で、ユダヤ人対する同じ方法の伝道を試みます。ルカは、11節で、「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(17:11)と伝えています!
●明らかに、ベレアのユダヤ人たちはテサロニケのユダヤ人たちとは違って、パウロの働きに対して偏見を持ち、暴動を起こすような事はしませんでした!その証拠に、ベレアでパウロに対する迫害が起こりはしましたが、その迫害を「扇動して騒ぎを起こした」のはベレアのユダヤ人ではなく、テサロニケから押しかけて来たユダヤ人たちであったからです!(17:13)(I see!)テサロニケでは、パウロが「論じ合っ(て)」説得した結果、「ある者たち」が「納得」して「パウロとシラスに従った」だけでした(17:4a)。しかし、ベレヤのユダヤ人たちは「非常に熱心にみことばを受け入れ」、パウロが伝えたメッセージが「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」のです!(Incredible!)彼らは、御言葉の真理に対して心が開かれていました!それゆえ、ルカは、「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で」と書き記したのです!(17:11a)
イ)御言葉を綿密に調べて真理を証明する(使徒17:11b)
●「毎日聖書を調べた」とありますが、「調べた」という言葉に注目する事にしましょう。これは、法的な捜査でよく用いられた言葉です!この素晴らしいベレアのユダヤ人たちは、刑事のように綿密に証拠を調べて、パウロが語った福音が確かに旧約聖書の約束を成就している真理である、という結論に達したのです!(Wow! & Wow!)本当に正直に御言葉を調べる人々は、必ずそのような結論に達するのです!
●ヨハネの5:39で、イエス様は、ユダヤ人リーダーたちに対して次のように語られました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです」、と!そして、数節後の46節で、「あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから」、と加えて語られました!そして更に、ルカ24:25-27で、復活された後に、イエス様ご自身が旧約聖書を用いられて、弟子たちを次のように確信付けました!
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
使徒の時代とは異なって、現在の私たちは旧新約両方の聖書を持っています。その旧新両方の聖書が、イエス様がキリストすなわち救い主だと証明しているのです!
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●福音を拒絶する殆どの人々は、聖書の知識がありません!何世紀にもわたってなされた聖書に対するとげとげしい批判のいくつかは、あきれかえる程の無知からきています!ですから、福音宣教における重要なポイントは、キリスト教の真理を聖書から紐解いて証明する事なのです!
―それでは、どうしたらクリスチャンが神の言葉を十分に知り、
それを効果的に用いる事ができるでしょうか?―
●一番目は、聖書を学ぶに当っての前提条件があります。それは、罪を告白する事です!使徒ペテロは、1ペテロ2:1-2で次のように語っています。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」、と!不純な思いでまた汚れた思いで御言葉を学んで、それから何かを得ようとするのはふさわしくありません!そのような動機で聖書を学ぶなら、その学びが実りあるものになる事は決してありません!
●二番目に、聖書を学ぶには、勤勉にそして熱心に学ぶ必要があります!使徒パウロは、「信仰による真の我が子テモテ」に対して(1テモ1:2)、「真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい」、と命じました!(2テモ2:15)「最善を尽くしなさい」という事は、怠け心で、適当で、いい加減な聖書への取り組みは、「聖書に通じ(る)」クリスチャンを生み出す事にはならないのだという事を告げています!(使18:24)
●三番目に、御言葉を学ぶクリスチャンは、その学んだ真理を実生活に適用する事に心を注ぐ事が大切です!ヤコブは、「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」、命じています!(ヤコ1:22)聖書を学ぶ全ての人の究極の目標は、単に聖書の知識を増やす事ではありません!そうではなく、その学んだ御言葉によって、その人の内に聖い歩みが増して行っているかどうかが重要です!別の表現をするのでしたら、キリストに似て行く信仰者に成長して行っているかどうかです!考え方において、品性において、キリストが現された生き方に変えられて行っているかどうかです!これらが、聖書を学ぶ全ての人の目標であるべきです!
●最後の四番目に、真理を学ぶ最上の方法は、その学んだ真理を他の人々へ分かち合ったり、教えたりする事です!(2テモ2:2)単に、自分の益のために学ぶ事よりも、他の人々を強め励ますために学び備える事によって、遥かに多くの良いものがその人の心の中に留まって行きます!旧約聖書に登場するエズラは、全てのクリスチャンが見習うべき模範です!エズラ7:10は、次のように伝えています。「エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた」、と!
【適用】 それでは最後に、今回のメッセージを適用しましょう。
●初めに、テサロニケでのパウロの模範に倣う事にしましょう。あなたがイエス様について語る時、それは聖書の御言葉に基づいたイエス様を語っていますか?聖書に基づいたイエス様を語るに当たって、あなたは、聖書を日々学んでいる者ですか?また、ペレアでのパウロの模範にも倣う事にしましょう。あなたは、あなたに伝えられる聖書の教えを聞いた時、それが本当にそうなのかどうかを、聖書によって調べていますか? ―7―
只、習慣的に、礼拝のメッセージを聞き、アッパールームのテキストをしているという事はありませんか?あなたの聖書への取り組みは、只単に、習慣に過ぎないという事はありませんか?そこに、生ける神との交わりはありますか?
●次に、神の御言葉を学び、それを効果的に用いる事に関して四つの点を学びました。あなたは、聖書を学ぶ前に、自分の罪を告白し、それから聖書に向かっていますか?また、ディボーションをする中で示された罪をすぐに告白して悔い改めていますか?また、あなたは勤勉にコツコツと聖書に向かっていますか?そして、あなたは、御言葉を聞くだけそして読むだけでなく、その御言葉の真理を生活に適用して実践していますか?更に、あなたは、学んだ御言葉を他の方々へ分かち合っていますか?読みっぱなしで、誰とも分かち合っていないという事はありませんか?
●最後に、勇気と正しい福音との関係について理解しましたか?信仰から来る勇気をもって、正しい聖書理解から来る福音を伝える者になりたいと願われませんか?そのように、あなたは、神に用いられる者になりたいと願われませんか? それでは、祈りの時をもちましょう。
【結論】
■「パウロは・・・、聖書に基づいて彼らと論じ合った。そして、『キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです』と説明し、また論証した」(使徒17:2b-3)。
■「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(使徒17:11)。
[引用&参考文献]
・ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き13-28』(ムーディー出版、1996)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Acts 13-28, The Moody Bible Institute of Chicago, 1994, p.119-122.)
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