『神の喜び、三つのたとえ話の背景と要点!』序論

―神の属性である喜び/失われた罪人/疎外された宗教指導者たちー《ルカ15:1-10/今回は序論&15:1-2》/
【前 置】
●ルカの福音書の講解説教は、今回から15章に入ります。ルカの福音書15章と言いますと、「放蕩息子のたとえ話」を思い浮かべるのではないかと思います。しかし、15章をよく読んでみますと、「放蕩息子のたとえ話」(15:11-32)の前に、「失われた羊」(15:3-7)と「失われた銀貨」(15:8-10)という二つのたとえ話が記されている事に気づかされます。後で詳しく説明しますが、この三つのたとえ話は、全く同じ意図をもってイエス様が語っておられるものです。冒頭の二つのたとえ話を三回シリーズで、その後の一つを五回以上のシリーズで取り上げる事になるものと思われます。
●今回を含め三回にわたるメッセージのテーマは、『失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び!』です。一回目である今回メッセージは、ルカ15章全体に見られる神の喜びと、三つのたとえ話の背景と要点を取り上げます。今回のメッセージの主題は『神の喜び、三つのたとえ話の背景と要点!』で、副題が「神の属性である喜び/失われた罪人/疎外された宗教指導者たち」です。それでは、紐解かれる御言葉の真理に耳を傾けて行きましょう。
【全体のアウトライン】
◎序 論:神の喜び、ルカ15章の三つのたとえ話の背景と要点/今回
◎本 論:失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び!/次回&次々回
[1]失われた羊(ルカ15:3-7)/次回
[2]失われた銀貨(ルカ15:8-10)/次々回
【今回のアウトライン】
◎序 論:神の喜び、ルカ15章の三つのたとえ話の背景と要点
1)神の属性で見落とされて来た喜び(1歴代誌16:27/他)
2)神が救い主としてご自分にもたらされる喜び(申命記30:9)
3)神の喜びが信仰者の喜びの源(マタイ25:21、23)
4)ルカ15章の三つのたとえ話を理解するに当たって
5)キリストと宗教指導者たちとの対立の中で語られた三つのたとえ話(ルカ15:1-2)
【序 論】
◎神の喜び、ルカ15章の三つのたとえ話の背景にあるもの
1)神の属性で見落とされて来た喜び(1歴代誌16:27/他)
●聖書は神の多くのご性質を、その属性を明らかにしています。神ご自身だけがおもちの属性としては、その全能性、全知性、偏在性、不変性、そして永遠性です!これらの属性は、他の何者ももつ事はできません!一方、神の属性が人間にも見られるものがあります。勿論の事ですが、これらの属性は神のものに比べますと遥かに劣ります。それらは、正義、聖さ、知恵、愛、あわれみ、思いやり、そして慈しみなどです。 ―1―
●しかし、神の属性の一つで、しばしば見落とされているものがあります!それが、喜びです!永遠に喜びの神という時、それは私たちの理解にすんなり入って来ないのかも知れませんが、第一歴代誌16:27は「威厳と威光は御前にあり、力と喜びは御住まいにある」と告げております!また一方、ネヘミヤ記8:10は「あなたがたの力を【主】が喜ばれるからだ」(新改訳第三版)と告げています!同じ箇所を、英語の新欽定訳(New King James Version)は、「主の喜びはあなたがの力です」と訳しています!既に学んだ箇所ですが、ルカ10:21は次のように伝えていました。「・・・イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした』」、と!
●同時にまたイエス様は、ご自分の喜びを次のように二回にわたって表しておられます。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました」、と!(ヨハ15:11)そして次に、「わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです」、とおっしゃいました!(ヨハ17:13)イエス様は「悲しみの人」として十字架を耐え忍ばれた時でさえも(イザ53:3)、それが喜びをもたらす事をご存知でした!父の御心を成し遂げる事によって与えられる喜びであり、また父からの称賛によって与えられる喜びです!(ヘブ12:2)
2)神が救い主としてご自分にもたらされる喜び(申命記30:9)
●元来、救い主であられる神は(マタ1:21/ヨハ3:16-18/1テモ2:3-4/テト1:3、2:10、13、3:4、6)、失われた者を回復させる事を通して、ご自分に永遠の喜びをもたらします!(I see)実に、この喜びを、これから取り上げるルカの福音書15章で、イエス様がお語りになられた三つのたとえ話のポイントとして取り上げられるのです!ルカ15:7、10、32が、その事を如実に告げています!(Open)失われた者を回復させるに当たって、そこに見られる神の喜びというものは、聖書において、決して曖昧なテーマではありません!
●申命記30:9の後半で、神がイスラエルの民の不従順を罰せられ、そして彼らが悔い改めるのなら、「【主】は、あなたの父祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる」と約束されました!そして、詩篇の作者は、105:43で、「主は御民を喜びのうちに導き出された。その選ばれた民を喜びの叫びのうちに」、と宣言しました!また、イスラエルの未来の救いを見通されて、神は預言者たちを通して次のように告げておられます。イザヤは、「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」、と語られました!(62:5/参 65:19)エレミヤは、次のように宣言しました。
32:37 見よ。わたしは、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたすべての国々から、彼らを集めてこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。・・・32:41 わたしは彼らをわたしの喜びとし、彼らを幸せにする。わたしは、真実をもって、心と思いを込めて、彼らをこの地に植える(エレ32:37、41)。
●また一方、預言者ゼパニヤは、次のように告げました。
3:14 娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。3:15 【主】はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。
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イスラエルの王、【主】は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。3:16 その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。3:17 あなたの神、【主】は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(ゼパ3:14-17)。
3)神の喜びが信仰者の喜びの源(マタイ25:21、23)
●実に、神の喜びが信仰者の喜びの源です!喜びは神の国を構成している要素の一つで、聖霊によって贖われた者へ分け与えられるものです!(ロマ14:17/参 ロマ15:13/詩51:12、1テサ1:6)この世において、クリスチャンは豊かな喜びで祝福されている一方(ヨハ15:11、16:20、24、17:13/使13:52/ロマ15:13/ガラ5:22/ピリ4:4/1ペテ1:8/1ヨハ1:4/2ヨハ12)、「忠実なしもべ」として仕えて来たクリスチャンが、天で「主人」である神の「喜び」の中に入れられる時(マタ25:21、23)、クリスチャンをそこで待ち受けているのは、永遠で完全な全き喜びです!
●この世におけるクリスチャンの最大の喜びは、この世のささいで、取るに足りない、一時的なものから来るのではありません!そうではなく、この世におけるクリスチャンの最大の喜びというものは、霊的な生活の中にあり、そしてまた失われた罪人が探し出され、回復され、そしてキリストの真の教会で一つにされる事の中にこそあります!神の喜びが、信仰者の喜びです!その喜びは、神の救いの働きの偉大さと栄光の結果もたらされるものです!
4)ルカ15章の三つのたとえ話を理解するに当たって
●これから取り上げる三つのポイントが、このルカ15章のたとえ話を理解するに当たって、必要な予備知識となります。
ア)明瞭さ
●このたとえ話を理解するための予備知識の一番目は、明瞭さです!これら三つのたとえ話は、それぞれが他と関わりをもたないで理解できるものではないという事を理解する事は大切です!そしてまた、これらが語られているイスラエルの文化背景に照らし合わせる時にのみ、初めて理解できるものです!これらのたとえ話について、イエス様が来られた時代の人々に意味している事が、後世の全ての人に対してイエス様が意味しておられる事です!イエス様のたとえ話によるメッセージは、その当時同じ文化の中で共に生活していた理解ある鋭い聞き手に対しては明瞭なものでした!
イ)位置付け
●このたとえ話を理解するための予備知識の二番目は、この15章のルカの福音書における位置づけです!この15章は、ルカの福音書においては中央に位置しています!序章の部分が1:1~9:50で、イエス様の誕生を取り巻く出来事やガリラヤにおけるイエス様の宣教の働きが記されています。次の中間の部分が9:51~19:27で、ユダヤにおけるイエス様の宣教の働きが記されています。そして、最終部分が19:28~24:53で、イエス様の受難に焦点が当てられており、十字架や死や復活、そして復活後の現れについて記されています。
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先程の中間の部分(9:51~19:27)の10章の中には、二十以上に及ぶたとえ話が語られており、そこがイエス様の神の国の教えの重要な部分です!この中間の部分の10章の中に含まれている三つのたとえ話が、実に、イエス様の教えの山場、クライマックスとなっています!(I see)
ウ)複雑さ
●このたとえ話を理解するための予備知識の最終の三番目は、複雑さです!イエス様が話された例話や比喩やたとえ話というのは、決して、神秘的で、隠された意味や秘密があるのではなく、様々な特徴や、いくつもの地層のような、積み重ねられた層のようなものから成り立っています!(I see)これら三つのたとえ話の一つ目の層、その特徴は、物語自体がまず初めに話されます。そして、その中身の構成は同じで、また同じ流れで、且つまた同じ要点で進められて行きます!それらがどのようなものかと言いますと、まずは羊、次に銀貨、そして次に息子に見られるように、価値あるものがなくなり、そしてそれが探し出され、そして見つけ出され、あるいは回復され、そして喜び祝われるという流れです!(I see)
●その二つ目の層、その特徴というのは、これら三つのたとえ話を聞いた人は誰でも、倫理的な意味や道徳的な意味が、それらの話に込められているという事を理解したに違いないという事です!99匹の羊を置いて、いなくなった一匹を探すという行動を取った羊飼いは正しい事をしたのか?女の人は、無くした銀貨を探すために全てを中断すべきであったのか?自分の財産を無駄にした息子を、父親が引き取るという事は正しい事なのか?などです。
●三つ目の層、その特徴というのは、神の国について教えているそれぞれのたとえ話の教訓の中にある神学的な意味です。これも本論のメッセージを進めて行く中で、具体的に見て行きます。そして、最後の四つ目の層、その特徴は、この三つのたとえ話はキリストについて教えています!それと同時に、これらのたとえ話は、失われた罪人がどういう者であるのかという事を教えています!それは、羊のように愚かで頼りない者であり、銀貨のように感覚がなく命のない者であり、そして反逆した息子のように邪悪で困窮した者です!(Wow)それぞれのたとえ話に描かれている探し出す者、すなわち羊飼い、女の人、そして父親というのは、神を表しています!そのお方は、失われた罪人を回復させて後に、天国で、これら全ての人々と共に喜び祝うお方です!
5)キリストと宗教指導者たちとの対立の中で語られた三つのたとえ話(ルカ15:1-2)
●そのような事を背景にして、1節で、「取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来」ました。「取税人たち」とは、自分たちの同胞であるユダヤ人から税金という名の元に金を巻き上げ、それによって、イスラエルを植民地支配しているローマの財源を潤していました。それで、彼らはユダヤ人社会では裏切り者として最も軽蔑されていたグループの人々でした。一方、「罪人たち」とは、律法学者やパリサイ人たちからすると、宗教心がなく、よこしまな者たちで、人間のくずだと見られ、宗教指導者たちにとっては付き合う対象の人々ではありませんでした。その結果、2節で、「パリサイ人たち、律法学者たちが、『この人は』すなわちキリストは、『罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った」のでした。
―4―
●聖書注解者のウィリアム・バークレーは、そのような人々に対するパリサイ人のさげすみについて、次のように詳しく解説しています。
パリサイ人は律法を守らない人々に一括した名称を与えた。彼らはそういう人々を「地の民」と呼んだ。パリサイ人と地の民との間には、越えがたい障壁があった。娘をそういう人々の誰かに嫁がせることは、手足を縛ってライオンの前にさらすも同然だった。パリサイ派の規約にはこう規定されていた。「地の民には金をあずけてはならず、なんの証言も取ってはならない。秘密をあかしてはならない。孤児の保護をたのんではならない。慈善資金の管理をさせてはならない。旅の道連れになってはならない。」
パリサイ人はそういう人々の客となること、あるいはその人々を客とすることを禁じられていた。取り引きすることや売買することさえ禁じられていた。地の民との接触をさけることは、パリサイ人にとって重要な目標だった。そういう人々は律法の枝葉末節(しようまっせつ)を守ろうとしなかったからである。明らかに彼らは、イエスが追放者や罪人と目される人々と交わっているさまを見ても心底から衝撃を受けた。けだし(まさしく)、彼らと交わることは自分を汚すことにほかならなかったからである。狭隘(きょうあい/心が狭い事)なユダヤ人は、「罪人がひとりでも悔い改めれば、天に喜びがある」という代わりに、「罪人がひとりでも神のみ前で抹消されるなら、天に喜びがある」とまで言ったのである。この事を理解するなら、この譬えはもっとよく理解されるのではなかろうか。[( )内は、筆者加筆]
●主イエス様がユダヤ人社会で軽蔑されそしてのけ者にされた人々と関わられる事が、宗教指導者たちに衝撃を与え、彼らをショックさせ、がくぜんとさせました!(参/ルカ5:29-32、7:34-39、19:7)しかし、イエス様は罪人たちと交わられました!なぜなら、イエス様の使命が「失われた者」すなわち前述しましたように、罪のためにめちゃくちゃにされて破壊された者「を捜して救うために来(られ)た」からです!(ルカ19:10)そして、それが結果的に神に喜びをもたらすからです!
―三つのたとえ話が告発しているもう一面とは?!-
●律法学者やパリサイ人たちとの対立という文脈の中で、イエス様は三つのたとえ話をお作りになられ、それを人々に話された事がこのルカの福音書15章です。これらのたとえ話は、失われた者が見つけ出された時に神と天の御使いたちが喜ぶだけでなく、同時に、律法学者やパリサイ人たちを非難し告発している内容でもあるのです!なぜなら、彼らは、罪人たちを救うイエス様の使命と宣教に喜びを見出さなかった人々であるからです!
●彼らは、自分たちは神を知っていると主張するのですが、実のところ彼らは、失われた者に対する神の心に対しては、とてつもなく無知な者たちでした!預言者イザヤが表現していますように、彼らは「口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れている」という人々でした!(イザ29:13)これら三つのたとえ話は、実に、彼ら宗教指導者たちが、神と神の喜び、そして救いの使命から完全に疎外されている者たちだという事を暴露していたのです!(Wow)
―5―
【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。
●『失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び!』といテーマの一回目、序論のメッセージを取り次ぎました。前半で、神の属性である喜びとはどういうものなのか、そして後半で、ルカ15章の三つのたとえ話の背景にあるものそしてその要点について学びました。
●前半の神の属性について、振り返りましょう。属性の一つで、しばしば見落とされているものが神の喜びだという事を冒頭で語りました。神は喜びの神であられ、神の国の構成要素の一つが喜びでした!イエス様は「悲しみの人」として十字架を耐え忍ばれた時でさえも、その苦しみが喜びをもたらす事をご存知でした!なぜなら、父の御心を成し遂げる事によって与えられるのが喜びであり、また父からの称賛によって与えられるのも喜びであったからです!イエス様の十字架の救いの御業と復活のゆえに、イエス様を信じる者たちの内に喜びが満ち溢れます!そして特に、このルカの福音書15章で伝えている喜びが、罪によって破壊され、めちゃくちゃになった失われた者を回復させる事を通して、その人に永遠の喜びをもたらすと同時に、神ご自身に永遠の喜びをもたらす事を学びました!実に、この神の喜びが信仰者の喜びの源なのです!それゆえ、この世におけるクリスチャンの最大の喜びは、この世のささいで、取るに足りない、一時的なものから来るのではなく、神と共に歩む霊的な生活の中にあるという事、そしてまた失われた罪人が見つけ出され、回復され、そしてキリストの真の教会で一つにされる中にこそあるのだという事を学びました!
●後半のルカ15章の三つのたとえ話の要点について振り返りましょう。これらのたとえ話は、失われた罪人がどういう者であるのかという事を伝えていました!それは、羊のように愚かでまた頼りない者、銀貨のように感覚がなくまた命のない者、そして反逆した息子のように邪悪でまた困窮した者だという事でした!それぞれのたとえ話に描かれている探し出す者、羊飼い、女の人、そして父親というのは、全て神を表していました!そのお方は、失われた罪人を回復させて後に、天国で、これら全ての人々と共に喜び祝うお方だという事を学びました!
●これらのたとえ話は、失われた者が見つかった時に、神と天の御使いたちが喜ぶだけでなく、同時に、律法学者やパリサイ人たちを非難し告発しているものでした!なぜなら、彼らは、罪人たちを救うイエス様の使命と宣教に喜びを見出さなかった人々であるからです!これら三つのたとえ話は、実に、宗教指導者たちが、神と神の喜び、そして救いの使命から完全に疎外されている者たちだという事を暴いていました!
【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。
●神の属性(ご性質)の中に喜びがあり、神の国の構成要素の一つが喜びであるのですが、その神の喜びがあなたの喜びの源になっていますか?イエス様は「悲しみの人」として十字架を耐え忍ばれた時でさえも、その苦しみが喜びをもたらす事をご存知でした!あなたのキリストにある地上の苦しみが、神ご自身とあなた自身の喜びになっていますか?率直に質問させていただきますが、あなたの喜びの基準は、この世のささいで、取るに足りない、一時的なものですか?それとも、神と共に歩む霊的な生活がその基準ですか?
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それに引き続き、あなたの喜びの基準は、失われた罪人が見出され、回復され、そしてキリストの真の教会で一つにされる事にありますか?そして最後に、このルカ15章の三つのたとえ話をされたイエス様の意図が、実に宗教指導者たちが、ご自身の救いとそれから来る喜び、そしてその救いを伝える使命から完全に疎外されている事を暴露しているのだという警告を聞いて、あなたはどのような教訓を得ますか?
【結論の御言葉】
■「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです」(ルカ15:10b)。
■「パリサイ人たち、律法学者たちが、『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った」(ルカ15:2)。
[引用&参考文献]
※ ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 11-17、 The Moody Bible Institute of Chicago、 pp. 291-295.)
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