『天国を満たす喜びとは!』②

―神の純粋な喜びは、ご自分の敵を友とされる―《ルカ15:1-10/今回は15:8-10》
【前 置】
●『失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び』というテーマのメッセージは今回で三回目を迎え、締めくくりとなります。前回は、人として誕生されたイエス様に受肉された神は羊飼いであられ、「失われた者を捜して救うために」この世に「来(られた)」お方でした(ルカ19:10)。神は失われた罪人を羊飼いのいない羊のような者にたとえられて、その人をあわれまれました!そして、失われた罪人を神の元へ回復させるために、ご自分の命を犠牲にする事によって、その人々の全ての重荷を負われたのでした!それとは裏腹に、悪い羊飼いである宗教指導者たちは、失われた罪人が滅びに至る事には関心がありませんでした。彼らは、その人々をあわれみ、思いやりやるという神の心を愛する点においては全くの無知であり、偽善者たちでした!
●今回取り上げる二つ目のたとえ話では、失われた一枚の銀貨を熱心にまた細心の注意を払って探す一人の女性が取り上げられています。この女性が何にたとえられているのか、また銀貨そのものがどういう性質で、何にたとえられているのかを把握する事が、このたとえ話の理解を与えてくれます。そして、このたとえ話に含まれている神学的な意味は、私たちへ、救い主イエス・キリストを鮮明に指し示してくれます!
●今回のメッセージの主題は『天国を満たす喜びとは!』で、副題が「神の純粋な喜びは、ご自分の敵を友とされる」です。紐解かれる御言葉の真理を待ち望み、その真理に感謝し、またその真理を宣べ伝える者となりましょう。
【全体のアウトライン】
◎序 論:神の喜び、ルカ15章の三つのたとえ話の背景と要点/済
◎本 論:失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び!/今回(2回目)
[1]失われた羊(ルカ15:3-7)/済
[2]失われた銀貨(ルカ15:8-10)/今回
【今回のアウトライン】
◎本 論:失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び!
[2]失われた銀貨(ルカ15:8-10)
1)銀貨の価値(15:8a)
2)銀貨を注意深く探す女の人(15:8b)
3)銀貨を見つけて喜び祝う女の人と友人や隣人(15:9)
4)たとえ話の要点/銀貨の価値を認めるも、銀貨が意味する罪人を探す神を否む矛盾(15:10)
5)たとえ話が告げる重要な神学であるキリスト論! ―1―
【本 論】
◎失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び!
[2]失われた銀貨(ルカ15:8-10)
―導 入―
●一番目のたとえ話と同じく、二番目もまた、ある村における出来事が取り上げられています。そしてまた、一番目のたとえ話と同じく、この二番目のたとえ話でも、社会的に身分の低く貧しい人が深刻な危機に直面したという状況を伝えています。その人は「女の人」で、価値の大きい「銀貨」を亡くしてしまいました。
●パリサイ人や律法学者たちに対して、羊飼いのようになって考えるよう、イエス様が求められた事によって、もし彼らが侮辱を受けたのでしたら、次にイエス様が、彼らを「女の人」の立場になって考えるよう求められるのであればどうなる事でしょうか?それは、彼らにとって、それは尚一層の事、侮辱になったに違いありません!(I see)当時のイスラエルでは、羊飼いが律法上汚れた者と見なされ、また男性優位の社会の中で、女性が重要でなく、尊敬に値するものでもないと見なされていました。ところが、パリサイ人や律法学者たちが羊飼いや女性になぞらえられた事に腹立たしく思っている一方で、神ご自身は全くそうではありませんでした!
●詩篇23篇の一節で、「【主】は私の羊飼い」、とダビデが自分と神との関係がどういうものかを告白しています!神ご自身が、羊飼いとして表現されています!そしてまた五節で、「あなたは私の前に食卓を整え」と記されており、神ご自身が「食卓を整え(る)」女性の務めに当っておられるという事が表現されております!(I see)それからまた、大多数のイスラエルの人々のご自分に対する不信仰を憂えて、イエス様が、「エルサレム、エルサレム」と嘆き悲しまれ、ご自分を「めんどり」(雌の鶏)の立場に置いて、その心境を吐露されております!(ルカ13:34)(I see)パリサイ人や律法学者たちに対し、その愚かなプライドに対してイエス様が挑戦なさったのは、実に、ご自分のあわれみから来るものでした!というのも、神の前にへりくだった者しか救われないからです!(マタ5:5:/ヤコ4:6、10)
1)銀貨の価値(15:8a)
●さて、ここから本文に入りましょう。一つ目は、銀貨の価値についてです。8節に記されていますように、「女の人」が「ドラクマ銀貨を十枚持っている」中から、「一枚」を「なくし(て)」しまいました。「ドラクマ銀貨」について、聖書の欄外には次のように注釈がつけられています。「ギリシャ銀貨の一ドラクマはローマ銀貨の一デナリに相当し、当時の一日分の労賃に相当」、と。それは一見、多額なお金には思えないかも知れませんが、現代社会のようにお金が頻繁に使われてやり取りされていない、物々交換で成り立っている当時の社会においては、「ドラクマ銀貨・・・一枚」の紛失というのは深刻な事態を招いている事を示していました!(I see)
●当時の社会的身分の低く貧しい人々にとってのお金、現金というものは、緊急事態に備えておくべきものだと考えられていました!お金というのは、極めて重要な目的や買い入れの時にのみ必要とされるものでした!(I see)そしてもっと高い可能性として考えられるのは、「ドラクマ銀貨」が、その父親からの結婚祝いとして持たされる女性の持参金で、将来、もしもの時の安全を保障する大切なものでした!(I see) ―2―
2)銀貨を注意深く探す女の人(15:8b)
●二つ目のポイントに進みましょう。8節後半に記されている、銀貨を注意深く探す女の人についてです。その「女の人」が、どのように「銀貨」をなくしたかについては言及されていません。しかし、それは、このたとえ話の中では重要なポイントではありません。一応、その点を踏まえた上で、次のように考えられると思います。その「女の人」は、それら「十枚」の「銀貨」を数珠つなぎにして、ネックレスのように首のまわりに付けていたところ、それをつないでいる紐が切れて、その内の「一枚」を「なくした」可能性があるであろうと考えられます。あるいは、「十枚」の「銀貨」を一緒にして布にくるみ、紐で縛って小銭入れのようにしていたところ、その縛っている紐が何らかの理由でほどけてしまって、その内の「一枚」を「なくした」と考えられもします。
●必死になって探すに当たり、昼間ですが、その「女の人」は「明かりをつけ(る)」必要がありました。というのも、当時の家屋には窓がなく、あるいはあっても、せいぜい小さな窓があるくらいでした。ざっと見て回った上で銀貨を見つけられませんでしたので、その「女の人」は、ほこりをかぶって踏み固められた「家」の土間「を掃いて」、銀貨を「見つけるまで注意深く」熱心に「捜さないでしょうか」、とイエス様は問い掛けられたのです。
3)銀貨を見つけて喜び祝う女の人と友人や隣人(15:9)
●そしてついに9節で、そのなくした「銀貨」を「見つけ(た)」事によって彼女はほっとし、大喜びしました!そして、その事をお祝いするために、彼女は「女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言う」のです。小さな村であればある程、人々はより互いに自分たちの悲しみや喜びを分かち合い、文字通り、緊密な絆で結ばれている者たちでした。ですので、なくしたものを見つけたこの「女の人」の喜びを共に祝う事は、その村人たちにとっては当然の事であり、そうする事は互いに全くもってふさわしい事でした。その銀貨が、永遠の魂を指しているとなるとどうでしょうか?永遠の魂は、銀貨よりも価値のないものですか・・・?
4)たとえ話の要点/銀貨の価値を認めるも、銀貨が意味する罪人を探す神を否む矛盾(15:10)
●道理面から考えてみますと、あの小さな村のあの状況下で、その「女の人」がした事は必要な事であったと、パリサイ人や律法学者たちの誰もが、羊飼いのたとえ話に続いて再び同意するに違いありません。かなりの金額のお金をなくしてしまった事については、誰もが同意した事でしょう。その「女の人」がやれる事は、見つけるまで熱心に探す以外に何もなかったのです。このたとえ話もまた、真っ向から、パリサイ人や律法学者たちに向けて語られているもので、10節に記されていますように、「あなたがたに言います」というイエス様のお言葉からそう理解する事ができます!
●パリサイ人や律法学者たちは、10節の中盤から後半に掛けて記されていますように、「神の御使いたちの前に」ある「喜び」を分かち合う事ができない者たちです!神の喜びを生み出すのは「一人の罪人が悔い改める」という贖いの御業ですので、神ご自身は、その贖いに対して熱烈な関心をもっておられます!(Wow)(参/マタ18:10、25:31、ルカ2:10-14、1ペテ1:12、黙3:5)
―3―
この10節に記された「喜び」は神の「喜び」で、天国を満たしている「喜び」を指しています!(Wow)そして、その天国で、御使いもそして天国に上げられた贖われた者たちもまた、その神の「喜び」を分かち合っているのです!(参/黙4:8-11、5:8-14)
―パリサイ人や律法学者たちに対する主イエス様の明瞭な告発―
●パリサイ人や律法学者たちに対する主イエス様の告発は明瞭であり、彼らにとっては、逃れる事のできないものでした!羊飼いがいなくなった「羊」を探し、「女の人」がなくした「銀貨」を探す事を道義的な責任であると認めていながら、どうして、失われた罪人を回復させてくださるイエス・キリストに対して「文句を言っ(て)」非難するのでしょうか?!村の身分の低い男の人たちそして女の人たちが、失ったものを取り戻すという事から来るつかの間の喜びを彼らが理解していながら、どうして、永遠の救いに対する天の神の喜びを理解するのに全く欠けるのでしょうか?!
5)たとえ話が告げる重要な神学であるキリスト論
―神の主権的な選び、キリストの到来、魂の追跡、福音の光の照射、救い、喜び―
●この短いたとえ話の中に見られる神学、すなわちキリスト論というのは明らかです!この「女の人」とは、罪に汚れた世界の中の割れ目やゴミやがれきの中にいる失われた罪人たちを探しておられるキリスト、すなわち神を表しています!神はご自分の主権による選びを通して、ご自分に属しておられるこれら罪人を探す事を始められました!神がそうしなければならない理由は、これらの罪人が救われるに当たってできる事が何一つないからです!なぜできないのでしょうか?それは、あの銀貨のように、罪ある人は霊的に死んでおり、霊の命が全く通っていないがゆえに、神に反応できないからです!自分自身では、神を求める事ができないからです!(エペ2:1-3)それゆえ、イエス様はご自分の失われた銀貨を探すために、はるばる天から地に下って来られました!全ての闇の角にいる罪人たちを追跡され、そして栄光の福音の光でその人々を照らされます!(2コリ4:5-6/1テモ1:11)失われた罪人を見つけ出された後には、神であるキリストは、その人を天の宝物として回復させるのです!(Wow)そして、その時、キリストは大いに「喜ばれ」、天国にいる聖なる者たちがその喜びを分かち合うのです!
―大きな犠牲を伴う恵み―
●しかし、ここでよく考えなければなりません!失われた者の回復に当っては、最大の犠牲を伴う恵みが要求されるという事です!罪の無い神の御子が人となり、罪人と共に住み、十字架上で、人の罪に対する神の怒りを背負わねばならなないのです!そして、勝利の内に墓から、すなわち死から復活されたのです!この世の偽り宗教の中に、神の恵みを受けるに値しない罪人を探し出し、そして救うという生けるまことの神のような神々を見出す事はできません!なぜなら、そのお方は、罪人たちを救うに当たって受け取られる純粋な喜びのゆえに、ご自分の敵を友とされるからです!なぜなら、その生ける真の神は、そのようにして、罪人たちをご自分の者として大切にしてくださるからです!そのような神を、この世界でまたこの歴史の中で、他に見出す事はできません!
―4―
―最初の二つのたとえ話から三つ目のたとえ話への橋渡し―
●しかし、もう一つ、大切な点を見落としてはいけません!神が失われた罪人たちを探し出されそして救われるのには、その人たちの悔い改めは欠かせないものです!その悔い改めという部分は、失われた羊やなくした銀貨のたとえ話の中では言及されてはますが、羊や銀貨が悔い改める事はできません。なぜなら、羊も銀貨も人ではないからです!(I see)しかしながら、このルカの福音書15章の三つ内の最後に語られた最も長いたとえ話、二人の息子と愛情深いたとえ話のテーマが、実に、その点すなわち悔い改めについて取り上げているのです!そのメッセージが、次回から五回以上にはなるかと思われますが、シリーズで取り次がれる事となります。どうぞ、次週以降もまた、紐解かれる聖書の真理に期待を寄せて行きましょう!そして、私たちも、その真理を実践する者となりましょう!
【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。
●今回の二つ目のたとえ話の四番目の要点を振り返る事にしましょう。「一人の罪人が悔い改める」事によって、神の「喜び」が生み出されます!その「喜び」が御使いたちと既に天に上げられた贖われた者たちによって分かち合われるゆえに、天国はこの「喜び」が満ちているところです!次に、「あなたがたに言います」というイエス様のお言葉に表されていましたように、宗教指導者たちは、「羊」や「銀貨」の価値を認め、それを探し出そうとする羊飼いや「女の人」の道義的な責任を認めてはいました。しかし、失われた罪人を探して見つけ出し、それを純粋に喜ばれ、回復をお与えになられるイエス・キリストを認めず非難していました!彼らは、永遠の救いに対する天の神の喜びを理解する事に全く欠ける者たちでした!
●五番目のたとえ話が告げる重要な神学であるキリスト論を振り返りましょう。イエス・キリストに表された神は、ご自分に属しておられる罪人を探すために、この世に来られました!命の通っていない銀貨が示していましたように、霊的に死んでいる罪人は自分では神を求める事ができがないゆえに、救い主イエス・キリストがはるばる天から地に下って来られました!そして、罪人たちを追跡され、栄光の福音の光でその人々を照らされて救いに導かれ、天の宝物として回復させるのでした!しかしそうするためには、人の罪の身代わりとしてご自分が十字架で死ななければならないという、最大の恵みによる犠牲を払わねばなりませんでした!
―次回のメッセージへの橋渡し―
●そして、人が救われるためには、自らの罪を認めて神の御前に悔い改め、キリストを唯一の神そして主として受け入れなければなりません!この大切な悔い改めに関しては、次回から取り次がれる、二人の息子と愛情深い父親のたとえ話をイエス様が備えられておられるのでした。
【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。
●「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです」、とイエス様は告げられました!いかがでしょうか、天国が罪人の救いの喜びで満ちているところだと知って、率直に、あなたはどう思われましたか?
―5―
あなたがイエス・キリストを信じた時、神ご自身が、また天の御使いと先に天に召された聖徒たちが、あなたの救いを共に喜び、天が喜びに満ち溢れたところであるという事実を知り、あなたは改めて自分の救いに関して、どう神に応答したいですか?他方、失われた罪人の回復を喜びとされる神のお心を全く理解せず、聖書の神を非難する人々をどう思われますか?あなたがそのような人々にできる事は何ですか?率直に言いまして、あなたも私もかつては一枚のドラクマ銀貨でした。霊の命が通っていなく、霊的に死んでいた者でした。それゆえ、生まれながら神に反応せず、神を全く求めない者であったあなたが探され、見出され、福音の光に照らされ、救いに導かれた事に対して、あなたは改めてどう神に対して、どう応答しますか?
●まだ、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れていない皆さんへもおたずねしましょう。あなたは自分を一枚のドラクマ銀貨、あるいは迷い出た一匹の羊に例える事はできますか?神によって探され、見出され、聖書の福音によって自分の心の闇が照らされ、自らの罪深さを示され、その罪の赦しのために最大の犠牲をお払いになったキリストを信じ受けれ、永遠の地獄の裁きから救われたいと願われませんか? それでは、主の恵みとあわれみをお祈りします。
【結論の御言葉】
■「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです」(ルカ15:10)。
[引用&参考文献]
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 11-17、 The Moody Bible Institute of Chicago、 pp. 299-301..)
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