『自由にされた女性リディア!』②

―リディアの回心の三つの際立った特徴―《使徒16:11-18/今回は16:14-15》
【復 習】
●前回は、『福音の浸透に伴う女性の価値の高まり!』という主題のもとに、メッセージを取り次ぎました。人が神に反逆して罪が入って以来、人類には、男尊女卑の強い傾向が夫婦の関りを支配するようになり(参/創3:16b)、神の前に男女は平等であるという創造時の関係が崩れ去りました!救い主が到来された時代、イスラエルの宗教指導者であるパリサイ人は、女性を神の御言葉を教える対象とはみなしませんでした。イスラエルの宗教指導者であるパリサイ人たちにとって、一般的に、女性は神の御言葉を教えられる対象とはみなされませんでした!そして、パリサイ人は、「神よ、私は異邦人でもなく、奴隷でもなく、また女性でもない事を感謝します」という祈りをささげていました。一方、その当時の異教の世界というものは、更に、パリサイ人とは比べものにならない程にひどいものでした!ギリシャやローマの女性たちは、奴隷のように扱われていました!極端な例を取り上げますと、もし夫が妻の作った食事が嫌なら、法的な手続きを経ないで、その女性を殺す権利さえも与えられていました!信仰の面では、妻が夫に相談なく別の宗教に乗り替えるなど、決して許されるものではありませんでした!
●そのような男尊女卑の世界で男性が女性にどう関わるべきか、その模範を示されたお方が、救い主イエス・キリストでした!使徒たちをはじめ、クリスチャン男性たちがイエス様の模範に倣い、女性にどう関わるべきかを学びました!また一方、福音が浸透する中で、クリスチャンの妻もまた増えて行きました。男尊女卑の悪しき価値観に染まっている未信者の夫に対して、クリスチャンの妻がどう関わり、また振舞うべきかを学んで行きました!妻のまことの「神を恐れる純粋な生き方」(1ペテ3:2)そして妻の「無言のふるまいによって」夫がまことの「神のものとされ(る)」という聖書の教えによって(1ペテ3:1)、横暴な夫に対応しました!キリスト教の歴史が証明していますように、キリストにあって自由にされた女性たちの愛と忍耐が、キリストにあって夫を勝ち取り、そうする事で、女性の地位や価値が高められて行きました!
【前 置】
●さて、このシリーズ二回目のメッセージでは、ヨーロッパにおける最初の回心者となった異邦人女性、すなわちキリストあって最初に解放にされた「リディア」という女性に焦点を当ててメッセージを取り次ぐ事にします。キリストにあって犠牲を払いそして忍耐した「リディア」とは、どのような人物なのでしょうか?そして、「リディア」の救いは、どういう意味で明確だったのでしょうか?これらの点を、共に学んで行きましょう。今回のメッセージの主題は『自由にされた女性リディア!』で、副題が「リディアの回心の三つの際立った特徴」です。それでは、紐解かれる聖書の真理へ、私たちの霊の耳を傾けて行く事にしましょう。
―1―
【今回のアウトライン】
◎本論:自由にされた女性リディア!
[1]自由にされた女性(使徒16:11-15)/前回&今回
1)リディアとの出会い、神の計画(使徒16:11-13)/済
2)リディアの救いと解放と変化(使徒16:14)/今回
ア)神を敬う人(使徒16:14b)
イ)神が福音を心に留めさせる人(使徒16:14a)
ウ)神が救いに伴う変化を導かれる人
[1]自由にされた女性(16:11-15)
2)リディアの救いと解放と変化(16:14)
―リディアという人物の背景―
●「祈り場」(16:13)に集った女性たちの中に、「リディアという女の人が」いたという事が、14節の冒頭で伝えられています。そして、彼女が「ティアテラィ市」の出身である事という事が伝えられています。この「ティアティラ市」が、「リディア」と呼ばれるローマの属州にありましたので、恐らく、「リディア」という名前は彼女の個人名ではなくて、彼女の出身地から取られた仕事上の呼び名であったと推測できます。
●「ティアティラ市」と言いますと、黙示録に記されている7つの教会の一つがそこにある事を示しています(黙2:18-29)。14節に記されていますように、その町は、布を紫に染めて仕上げる「紫布」と呼ばれる布の生産地で有名でした。そして、この「リディア」という女性が「紫布の商人」でした。この紫の染料の元は、「ホネ貝」と言って紫がかった赤い貝が出す分泌液から作るか、または「アカネ」という植物の根から取れる樹液で作られていました。その「紫布」という商品は、一般庶民には手の届かない高価なものでした。それゆえ、この「紫布」で作った衣服は、王族かまたは富裕層の人しか求めませんでした。富裕層の人たちを相手にするこの商売は、かなりの収益をもたらしていたようです。ですから、15節にありますように、「リディア」は、この宣教チームを自宅に泊めるだけの大きな邸宅の持ち主でした。これから「ピリピ」の地で、最初のキリスト教会が誕生しようとしているのですが、この「リディア」の経済的な貢献は、かなりなものであったと考えられます(16:40)。
―リディアの回心の三つの際立った特徴―
ア)神を敬う人(16:14b)
●「リディア」には、三つの際立った回心の特徴が見られます。その一番目が神を敬う人で、14節前半の「神を敬う」というところに見られます!この「敬う」(セバストス)という言葉には「あがめる」という意味もあり、多くの聖書が、「神をあがめる」または「神を礼拝する」と訳しています(新共同訳/NASB/AKJV/NIV/TEV)。「リディア」の出身地「ティアティラ市」にはユダヤ人会堂がありましたので、神は、そこに住んでいるユダヤ人たちを通して、彼女に真の神を知る機会が与えていられたという事が容易に推測できます。ですので、彼女には真の神を求める求道心があり、偶像崇拝者から真の神を信じる者へと変えられていた事が分かります!それは丁度、「リディア」が、使徒10章に記されているイスラエルのカイザリヤに住んでいたローマ人の百人隊長コルネリオと同じような人物だと言えます。ユダヤ教改宗者までは至っていませんが、イスラエルの真の神を信じる信仰者でした。 ―2―
●このリディアの求道心が、彼女が霊的に自由にされるための第一歩でした!ここで忘れてはならない大切な点は、彼女が神を求める前に、実に、神が彼女を求めていたという事です!罪人は完全に堕落していますから、自分から神を求める事をしません!(ロマ3:11)ですから、人が神を求める前に、神がその人を求める事によって、その人の求道心が芽生えるのです!(Amen!)主イエス様が、ヨハネ6:44で、「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」と語っておられる通りです!
●よく、次のような質問がなされます。「生涯にわたって福音を聞く機会がなかった人々の運命はどうなるのですか?」、と。このリディアやコルネリオやエチオピヤの宦官の回心というものは、救いや伝道に関する重要な原則を私たちへ伝えています!それは、この三名の救いが示していますように、神はご自分が選びそしてご自身を心の底から求めるようにされた魂に対して、福音の全てを示して下さるという事です!(Wow!)ヨハネ6:37は、その真理を的確に示しています!「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」、と!神は、ご自身を求める心に対して、決してご自身の顔をそむける事はないのです!神は、ご自身が救おうと定めた魂は、どの時代にあっても、どの国であっても、どの人種であっても、どの文化であっても、どの性別であっても、どの年齢であっても、必ず救いへと導かれるという事を、この三名の回心者を通して示しています!(Amen! & Amen!)
イ)神が福音を心に留めさせる人(16:14c)
●「リディア」の三つの際立った回心の特徴の二番目が、神が福音を心に留めさせる人です!14節の前半と後半に記されていますように、「リディア・・・が聞いてい」ました!そして、「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」というところに見られます!彼女は、パウロが語る福音を本当に聞き分けていたのです!実は、多くの人々が、命を与える福音のメッセージを聞いてはいるのですが、実際は、メッセンジャーの声だけしか聞いていなくて、肝心なメッセージを聞き分けていないというのが、残念ですが私たちの現状です!(Right!)聖書の例を挙げて説明しましょう。ダマスコ途上の迫害者サウロとその同行者たちに対して、天から光が照らされそして天から御声が発せられました。その時のサウロとその同行者たちとの反応の違いを見てみましょう。サウロは、次のように証言しています。
22:7 私は地に倒れ、私に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。』22:8 私が答えて、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』22:9 一緒にいた人たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした(使22:7-9)。
サウロは神の御声を確かに聞いているのですが、彼の同行者たちは神の御声を聞き分ける事ができませんでした!神の御声を聞き分ける人と聞き分けられない人との結末の違いは、はなはだ大きいものです!命か滅びかのどちらかですから!(Wow!)どうしてそのような違いが起こるのでしょうか?なぜ、ある人は聞き分けまたある人は聞き分けないのでしょうか・・・?聖書の御言葉を探りながら、その答えを見つける事にしましょう。
―3―
●イエス様が、マタイ13章で、イザヤ書から引用して、民衆について次のように語られました。
13:14・・・『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように』。
しかし、弟子たちに対しては、「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです」、と語られました!(マタ13:16)。何を言わんとしているのでしょうか?神がある人々を霊的に盲目にされるのは、神が、彼らが滅びる事を望んでおられてそうされるのでしょうか?そんな事は決してありません!なぜなら、神は旧約聖書のエゼキル書で、「わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ」(33:11)、と語っておられるからです!そしてまた、神は、新約聖書のマタイの福音書では、「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった」と語っておられるからです!(マタ23:37)
●神は、最後まで、ご自分に反抗する民を愛され、悔い改めに導こうとされるお方です!しかし、なぜ神は、「なたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。・・・そして、わたしが癒やすこともないように」とお語りになられて、そのままその人々を不信仰の闇の中に置おかれるのでしょうか?聖書は、これはむしろ神のあわれみによる取り扱いであると告げておられます!というのも、仮に、一般民衆に対して、譬えでなくて弟子たち対してしたように真理そのものを教えたとしましょう。そしてその上で、一般民衆が真理を退けそして真理に従わずにいるなら、それこそより厳しい裁きを受ける事になるからです!
●逆に、本来、人は原罪のゆえに神の福音の真理を求めない、悟れない、受け入れないのが当然にもかかわらず、その福音の真理を信じ受け入れるとするならば、それは神の恵み深い賜物による以外の何ものでもありません!神がご自身の主権を持って救われる人を選ばれる以外に、人が福音の真理を悟る道はないのです!ですからイエス様は、弟子たちに対して、「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです」(マタ13:16)、と言われたのです!
●ヨハネ8:43-45では、その点に関連して、イエス様は更に厳しく次のように指摘されています。
8:43 あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。8:45 しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。8:46 あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
―4―
―ある求道者の例―
●皆さん、あなたが福音を語っていて、相手はあなたの声を聞いてはいるのですが、本当は聞いていないという経験をした事はありませんか?私たちの教会では、新しく来れた方々に対して、入門コース・基礎コース・バプテスマコースの学びを用意していますが、その中のお一人の受講生について分かち合いましょう。その方はひと通り入門コースを終了したのですが、イエス・キリストを救い主として信じる事はありませんでした。それで、次の基礎コースには進めませんでした。暫く休んで後に、再度学びたいという事でしたので、バプテスマコースから救いに関連した部分だけを学ぼうという事になり再スタートしました。しかし、やはりそれでもダメでした。そのようにして、教会に初めて来られてからもう四ヶ月すると、丸四年が経過する事になりました。ところが、二度目に脱落した時から半年が経過した秋を迎えてから、再び学びをスタートする事になったのでした。何と、三度目の挑戦です。しかし、この三度目の挑戦は、今までと変わっていました。この半年間に、何と、この方が学びの時に、その学びを担当している方から単に声を聞くのではなく、神が、本当に聞き分ける耳を備えてくださっておられたのです!
●もう少し具体的に、どう聞く耳を持つようになったのかをお伝えしましょう。バプテスマコースでは、「救いを確かめる聖書の11のチェックリスト」という項目の学びがあります。その方は、それまで何とか順調に学びを進めて来たのですが、11番目のチェックポイントを学んだ時に、「ああ、自分は嫌だ」と思って、その学びの場を去って行かれたのです。二度目の脱落です!その11番目のチェックポイントとは何だと思いますか?それは、「信仰のゆえに反対される人となる」というものでした(1ヨハ3:13)。この世の中で、本物のクリスチャンとして歩むなら、この世の悪い流れに逆らって生きますので、当然その生き方に反対する者が周りに出て来ます!もし、クリスチャンとして歩んでいて、何の反対も受けないで信仰生活をしているのなら、むしろその信仰が本物なのかどうかが疑われます!なぜなら、聖書は、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」、とはっきり語っているからです!(2テモ3:12)クリスチャンでありながら何の反対も受けなかった人とは、自分のキリスト教信仰を人々に対して全く表していないからだと言えます!すなわち、キリストの恵みを証しして来なかったからだと言えます!
●その方が三度目の学びに挑戦した時、再び、前回留まった箇所に戻って学びを始めた時の反応は、以前に比べてすっかり変わっていました!なぜクリスチャンが信仰の反対に遭うのか、なぜクリスチャンが迫害に遭うのか、その理由が、学びを休んでいた半年間に神によって教え悟されていたのです!自分が、キリストのゆえに反対される事や迫害を受ける覚悟や心の準備が出来上がっていたのです!それゆえ、その方は、福音を聞く耳が神によって整えられていたのです!只単に「声」を聞くという段階から、その「声を聞き分け(る)」と段階に引き上げられていたのです!私は、「ああ、神は働いていて下さっていたんだな」と思い、神に対して、心からの感謝をささげました!学びの場から二度も立ち去った人が、三度目の挑戦をするという事は、三度目の正直でもあり、神が選び、神の「声を聞き分け(る)」ように導いているとしか思えませんでした!入門コースに関する学びを三回目も挑戦する事は、通常はありません!神がお働きにならない限りできない事です!(Wow!)神が臨まれておられましたし、周りの兄姉が執り成しの祈りを捧げている事を私は強く感じました!私はそれゆえに、神へ深い感謝を献げました! ―5―
―神の主権と伝道―
●人の救いにおける神の主権が、私たちの伝道の基盤に据えられるべきです!救いは、賢い伝道方法に依存しているのではありません!また、説教者の巧みな手腕や技量に掛かっているのでもありません!魂の救いは、人の働きによるものでは全くありません!ひとえに神の働きによるものです!使徒パウロは、次のように語りました。
3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です(1コリ3:6-7)。
●そして、パウロが、コリント人伝道に携わった時、その伝道姿勢や取り組みについて次のように述べています。
2:1 兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。2:3 あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。2:4 そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした(1コリ2:1-4)。
使徒パウロは、実に優れた聖書学者であり、また御言葉を取り扱う事において実に熟達した人物でした!しかし、パウロは、人間の説得力によって魂が救われない事をよく知っていました!只、パウロが福音宣教において心掛けていた点は、そして私たちも心掛けるべき点は、語る福音の内容を明瞭にするという事でした!ですから、聖書の知識と正しい解釈は必須です!福音を明確に語る、そこに聖霊の力が働く、そしてその結果を神に委ねるという事なのです!
ウ)神が救いに伴う変化を導かれる人(使徒16:15)
●そして、最後のポイントです。「リディア」の三つの際立った回心の特徴の三番目が、神が救いに伴う変化を導かれる人です!15節に記されているように、「私の家に来てお泊まりください」というところに見られます!しかしその前に、「彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けた」という報告がありますので、まずはその点から見る事にしましょう。リディアとその家族は、信じた者が当然従うべき次のステップである「バプテスマ」を受けました!そこに、その家族の信仰の従順が見られます!「バプテスマ」が救いをもたらすものではありませんが、「バプテスマ」という儀式が象徴している重要な点とは、それを受けた人がキリストと一つにされるという事を意味している事にあります!それは、どういう意味でしょうか?それは、キリストと共に古い自分を十字架に付けて死に、そしてキリストの復活と共に死から甦り、そしてクリスチャンとして新しい歩みをするという事を指し示しています!(Yes!)
●ここで、私たちが着目したいポイントは、リディアの救いに伴う変化です!リディアは、率直に、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と言って、神の器たちに対して「懇願し、無理やり」お願いをしました!リディアの行為を一言で表すなら、もてなしです!もてなしは、全てのクリスチャンに求められている行為だと聖書は告げています!(ロマ12:13/ヘブ13:2/1ペテ4:9)。そして、その中でも、特に、女性(1テモ5:10)と教会指導者(テト1:8)に対して求められていました。
―6―
●聖書時代のクリスチャンにとっては、この「もてなし」というのは極めて重要な行為でした!なぜなら、その当時の宿屋というのが、多くの場合、クリスチャンが宿泊するにはふさわしくない所であったからです。衛生面で悪く、また危険で、しかも料金が高く、しばしば売春宿と殆ど変わらない所であったからです。ですから、クリスチャンホームに旅人が宿泊するという事は、旅人がクリスチャンの愛や家庭生活や交わりに触れる事ができますので、クリスチャン女性にとって、クリスチャンホームを築くという事は大きな優先順位でした!(1テモ5:9-10)リディアが自ら進んで「もてなし」を申し出たという事は、彼女がキリストにあって本当に救われて罪から解放され、そして自由にされた女性である事を証明するものでした!(参/ヨハ13:35)
【まとめ】 それでは、メッセージのまとめをしましょう。
●今回は、『自由にされた女性リディア!』と題して、リディアの回心の三つの際立った特徴を取り上げました。それは、第一に神を敬う人、第二に神が福音を耳と心とを留めさせる人、そして第三に神が救いに伴う変化を導かれる人でした!
●人が真に自由にされる第一歩は、その人の内に神を求める心が与えられているかでした。その求道心は神から与えられるもので、神はその人を決して退ける事はありません!次に、人が真に自由にされる第二歩は、福音を真に聞き分ける耳とそれを受け留める心が与えられるという事でした!そして最後の第三歩は、真に自由にされた人は、良い行いという実を結ぶものであるという事でした!
【適 用】 それでは次に、メッセージの適用をしましょう。
(1)まずは、求道中の皆さんへお尋ねしましょう。いかがでしょう、あなたが神を求めるというその求道心は、神から来ていると感じていますか?また、あなたに聖書の教えを聞き分ける耳とその教えを留める心が神から与えられていると感じていますか?それとも、自分の努力によって理解できると、と考えていますか?私の聖書理解は神から来ていると感じているのであれば、それは本物の求道心です!
(2)次に、信徒の皆さんへお尋ねしましょう。いかがでしょう、あなたの救いを振り返る時、神があなたに対して、聖書の真理を心に留めさせたと確信していますか?あなたの心には、神を敬う思いで溢れていますか?あなたには、新来者や求道者や信徒の方々をもてなしたいという心はありますか?必要なら、自宅を開放してもてなしたいという心はありますか?また、いかがでしょう、あなたはキリストを信じて、あなたの言動に変化が現れて来ましたか?良い行いをするよう、導かれて来ましたか?もしそうであるならば、あなたは自分の救いを確信する事ができます!もしそうでない人は、どうぞよく自分を吟味して、悔い改め、正しい信仰生活の軌道に乗るようにしましょう。
【結 論】
あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです(マタイ13:16)。
[引用&参考文献]
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き13-23』(ムーディー出版、2014) (John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Luke 18-24, The Moody Bible Institute of Chicago, 1996, pp. 92-96.)
―7―

