『悪い羊飼い、良い羊飼い!』①

―いなくなった羊を探し歩き、見つけ出し、背負って家路に着く良い羊飼い―《ルカ15:1-10/今回は15:3-7》
【前 置】
●『失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び』というテーマのメッセージを前回から始め、ルカの福音書15章の三つのたとえ話の背景と要点を取り上げ、今回から始まる本論のメッセージの備えとしました。今回、一つ目のたとえ話である「失われた羊」について語られたイエス様のお言葉を学びます。わずか四節の御言葉に含まれた内容は深く、そこから真理を汲み上げて伝える事は、牧師に課せられた重要な務めです!
●今回のメッセージの主題は『悪い羊飼い、良い羊飼い!』で、副題が「いなくなった羊を探し歩き、見つけ出し、背負って家路に着く良い羊飼い」です。それでは、紐解かれる御言葉の真理に耳を傾けて行きましょう。
【全体のアウトライン】
◎序 論:神の喜び、ルカ15章の三つのたとえ話の背景と要点/済
◎本 論:失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び!/今回&次回
[1]失われた羊(ルカ15:3-7)/今回
[2]失われた銀貨(ルカ15:8-10)/次回
【今回のアウトライン】
◎本 論:失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び!
[1]失われた羊(ルカ15:3-7)
1)羊飼い(15:3-4a)
2)羊の性質(15:4b)
3)羊飼いの責任と義務(15:4c)
4)悪い羊飼い(15:4c-7)
5)良い羊飼い(15:4c-7)
【本 論】
◎失われた者の回復、神と天の御使いたちの喜び!
[1]失われた羊(ルカ15:3-7)
―導 入―
●イエス様は、最初の二つのたとえ話をお語りになるに当たって、例えばという想定上の質問を、パリサイ人や律法学者たちへ投げ掛けられました。主イエス様はそうなさる事によって、たとえ話の主人公が実践している事やその行動の元になっている考え方がどういうものなのか、それら大切な点の奥深くに、宗教指導者たちを引き込んで行かれるのです。(I see)(続く) ―1―
その質問が、彼らの考え方の中でその役割を果たして行くのです!たとえ話の中の主人公が取った行動が道徳的に正しいのだという事を認めさせ、彼らを追い込んで行かれるのです!価値ある羊や銀貨を取り戻す事は正しい事であるという主イエス様の紛れもない明らかな真理を、宗教指導者たちが自分たち自身へ適用するよう仕向けられるのです!すなわち、イエス様の語られるたとえ話を自分自身に適用する事から、彼らを逃れられないようにするのです!地獄の裁きから一人の魂を救う事こそ、重要なものは他にないのではと、イエス様は宗教指導者たちへの問い掛けられたのです!
1)羊飼い(15:4a)
●それでは、本論の一番目に、まずは、羊飼いについて解説する事から始めましょう。三つある中の一つ目のたとえ話は、ある貧しい田舎者にまつわる事です。4節に記されていますように、「その人」は「百匹」の「羊」の世話を任されているのですが、恐らく、その人一人で「百匹」の「羊」を所有しているのではありません。というのも、田舎で、村民の一人がそれ程の数の羊を所有するのは普通では考えられないからです。当時、村人たちはしばしば自分たちの羊を大きな群れの中に統合させ、村における底辺の階級にいる羊飼いたちを雇って羊の世話をさせていました。村人たちは、外部の人たちを雇って、自分たちの羊を世話させる事はしませんでした。なぜなら、そのように雇われた者たちは、ヨハネ10:12-13に記されていますように、個人的に利害関係のない羊の群れを親身になって世話をするという事がないからです。
●旧約聖書に登場するラケルも(創29:9)、後にラケルの夫になるヤコブ自身も(創30:31、31:4)、イスラエルの12部族の族長たちも(創37:12-13、47:3)、ヨセフも(創37:2)、モーセも(出3:1)、ダビデも皆羊飼いでしたし(1サム16:19、17:15、20、34)、そして神ご自身でさえも羊飼いとして描かれています!(創48:15/詩23:1、80:1/イザ40:11/ヨハ10:11、14/ヘブ13:20/1ペテ2:25、5:4/黙7:17)そうなのですが、羊飼いというのは、社会的には底辺の地位にある者たちでした!ということは、羊の世話をするという事は、多くある職業の中では一番低いものでした。取税人やその他神を敬わない罪人たち、すなわち社会からのけ者にされた人たちのすぐ上に位置していたのが羊飼いたちでした。羊飼いは無学な者ですし、何かに熟練している者でもありませんでしたし、新約聖書時代以降は、不正直な者、信頼の置けない者、道徳的にもさげすまれる者という見方が広がり、証人として裁判の時に証言台に立つ事も許されない者たちでした。それにプラス、羊は一週間毎日見守られる必要があり、世話をされなければなりませんでしたので、パリサイ人が作った安息日規定に対して完全に従う事はできませんでした。
●イエス様がパリサイ人や律法学者たちに対して、彼ら自身を羊飼いという役割の中において考えてみるよう求めるのですが、それは、彼らにとっては侮辱以外の何ものでもありませんでした!(I see)羊飼いに身を落とすパリサイ人はいませんし、仮りに、自分を羊飼いとして考えるような事さえもしませんでした!そのようなパリサイ人たちに対して、イエス様は、彼らが自分たち自身を、仮にでも、羊飼いの立場に置いて考えるよう挑戦なさったのです!(I see)そうする事によって、再度イエス様は、彼らの傲慢なプライドに対して攻勢を掛けられるのです!(Wow)
―2―
2)羊の性質(15:4b)
●二番目に、羊の性質について取り上げましょう。「百匹」という「羊」の数には二人もしくは三人の羊飼いたちがついていたと考えられますが、その内の「一匹をなくし(て)」しまいました。これはとても危険で、命を脅かす状況に羊が直面している事を意味していました。というのも、羊は野生動物ではなく、家畜であり、捕食動物に対して何の防御ももっておらず、襲われた時に、自分をどうにかする事はできません。一例を挙げますと、羊が背中を下にして転がった場合、往々にして、自分自身を立たせる事ができません。野生において、それは、自分自身を危険にさらす事に他なりません。
●宣教師を両親に持つ写真家であり、且つまた農学者でもあるフィリップ・ケラー氏が、「羊飼いが見た詩篇23篇」という本を出版し、羊の事を詳しく紹介しております。邦訳もされており、当教会の図書棚にもあります。彼が、羊に関して次のように記しています。
・最も大きく、最も肥(ふと)った、最も強い、時には最も健康な羊でさえ、倒れ、死傷することがありうる、という事実ほど、管理者にいつも群れに注意を払い、怠りなく気をつけるようにさせることはほかにはないと思われる。現実としては、肥えた羊が一番倒れやすいということが多いのである。
・それはこのように起こる。重い、肥えた、長い毛の羊は地面のどこか小さな穴やくぼみで気持ちよく横になる。体を伸ばすか、くつろぐために、すこしばかり寝返りを打つ。突然からだの重心が移って、ひっくり返って、足が地面につかないまでになる。あわてふためいて、狂気のようにあがき始める。しばしばこれが事態を悪化させる。そしてもっとからだが回転してしまう。そうなると、もう一度足をつかうことがとてもできなくなる。
・横になって苦闘しているうちに、ガスがお腹にたまり始める。それが膨張すると、からだのすみずみに、特に足に血が通うのを遅らせ、止めてしまう。暑くて日光の強い日なら、倒れた羊は、二、三時間のうちに死ぬこともありうる。涼しい、曇りか雨の日なら、この姿勢で数日間は生き延びることもありうる。※
3)羊飼いの責任と義務(15:14c)
●ですので、「一匹」の「羊をなくし(て)」しまうという事は、深刻な状況が展開されているという事を意味していました。それゆえ羊飼いは、すぐさま行動しなければなりません。そこで三番目に、羊飼いの責任と義務について取り上げましょう。羊飼いたちは、自分たちの羊の群れに責任をもっています。そして、もし羊が群れから外れて迷い出るのなら、羊飼いたちはその羊を助ける責任を負っています(参/1サム17:34-35)。あるいは、もし捕食動物によって殺されたのなら、あるいは誰かによって盗まれたのなら、その証拠を提出しなければなりません(参/創31:39)。4節の最後に記されていますように、「九十九匹を野に残して」、それを他の羊飼いの監視の下に置き、そして「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かな」ければなりません!
●イエス様のたとえ話では、羊飼いはいなくなった羊を見つけ出しましたので、その捜索が成功した事を告げています。5節で、「見つけ(て)」後に、羊飼いは「喜んで羊を肩に担ぎ」ました。羊のお腹を自分の首の背の方に当て、前足と後ろ足をそれぞれ握って前の方に固定して背負います。(続く)
―3―
そして、その重い体重の羊を担いで、長く根気のいる道のりを引き返して家路に着きます。ちなみに、10カ月を経た成体(大人)の羊は45キロ以上もありますので、それは大変な労力を要します。更に6節の冒頭に記されていますように、彼は羊を探すために出発した元の場所に戻るのではなく、羊を村の自分の「家」に持ち帰るのです。それは、何を意味しているのでしょうか?それは日没後になっている事を示しており、彼は、暗がりの中で家路に着いたのです。5節に記されていましたように、彼はその事を嫌々ながらではなく、「喜んで」しました!いなくなって後に探され、見つけ出され、羊が安全に戻った事が祝われました!いなくなった羊を見つけ出した喜びの中で、羊飼いは、6節の中盤から後半に掛けて、「友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言う」のです!
4)悪い羊飼い(15:4c-7)
●そして次に、四番目の悪い羊飼いについてスポットを当てましょう。羊飼いになる事を嫌がるパリサイ人や律法学者たちなのですが、たとえこれがたとえ話であっても、彼らの考えの中では、羊の金銭上の価値、経済上の価値についてはよく理解していたに違いありません!(I see)というのも、彼らは、ルカ16:14に記されていますように、「金銭を好む」者たちであったからです!彼らは、いなくなった羊が羊飼いと共に戻って来た時、喜びに満ちたお祝いをするになるという事を理解していたに違いありません!(I see)そしてまた、いなくなった羊を絶え間なく追い求める事が羊飼いの義務であるという事も、倫理的には正しい事だと同意したに違いないのです!(I see)
●パリサイ人や律法学者たちをご自分のたとえ話に引き込んで後に、主イエス様は彼らに対して、7節で、衝撃的な適用を言い渡されます。「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです」、と!ここには、パリサイ人や律法学者たち、そして彼らと神との間に大きな対比がなされている事を見落としてはなりません!パリサイ人や律法学者たちは、失われた罪人が置かれている苦境については無関心であるのです!逆に、神は失われた罪人を探され、その人々を見つけ出した時には大いに喜びます!この両者の違いには、著しいものがあります!
●自分たちは公式に神を代表する者たちであると自負するパリサイ人や律法学者たちは、神の宣教の使命や失われた罪人が回復した時の喜びを分かち合う事をしません!それは、何を物語っているのでしょうか?それは、彼らの考えが神のお考えから遠くかけ離れて相容れないものである事を示しています!パリサイ人や律法学者たちは、上辺だけの宗教という、狭い領域の中に生きており、且つまた自分たちの回りにいる全ての魂が滅びる事については、取るに足りない事だと思う中に生きておりました!彼らはあわれみや思いやりや、神のお心を愛するという点において、何も知らない偽善者たちでした!彼らは、まさに偽りの羊飼いたちでした!彼らは、「九十九人の」独善的な者たちであり、自分たちは「悔い改める」必要のない者たちであり、それゆえ天に何の喜びももたらさない者たちであったのです!(Wow)
―4―
5)良い羊飼い(15:14c-7)
●五番目の最後のポイントです。このたとえ話は、キリスト論という大切な神学を包含しています!イエス・キリストに受肉された神は羊飼いであられ(ヨハ10:11,14)、「失われた者を捜して救うために」この世に「来(られた)」お方です!(ルカ19:10)神は失われた罪人を羊飼いのいない羊のような者たちに例えられて(マタ9:36/マコ6:34)、彼らを、彼女らをあわれまれました!失われた罪人を神へ回復させるために、ご自分の命を十字架で犠牲にする事によって、彼ら、彼女らの全ての重荷を負われたのです!迷って失われいる羊を探し歩かれ、見つけ出され、そしてその羊を羊飼いが背負われたようにです!(ヨハ10:11/参 イザ53:4-6、1ペテ2:24-25)
【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。
●イエス様がルカ15章でお語りになった三つのたとえ話のきっかけは、2節で、パリサイ人や律法学者たちがイエス様について、「『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った」というところにありました。そこでイエス様は、彼らが悪い羊飼いだと直接言及された訳ではありませんが、良い羊飼いについて語られる事によって、彼らの悪しき実態を浮き彫りにされて行かれました!
●悪い羊飼いである当時の宗教指導者たちは、失われた罪人が置かれている苦境について無関心でした!彼らにとって、その人々が滅びるのは取るに足りない事であり、その人々をあわれみ、思いやりやる神の心を愛するという点においては全くの無知であり、偽善者たちでした!宗教指導者たちとは、「九十九人の」独善的な者たちであり、自分たちは「悔い改める」必要のない者だと自負し、天に何の喜びももたらさない者たちでした!
●逆に、神は失われた罪人を探し歩かれ、その人々を見つけ出された時には大いに喜ばれるお方であり、また天でも大いに喜び祝われるのでした!人イエスに受肉された神は羊飼いであられ、「失われた者を捜して救うために」この世に「来(られた)」お方でした!神は失われた罪人を羊飼いのいない羊のような者たちに例えられて、その人々をあわれまれました!そして、失われた罪人を神へ回復させるために、ご自分の命を犠牲にする事によって、その人々の全ての重荷を負われたのです!悪い羊飼いである宗教指導者たちと、良い羊飼いで神が受肉されたイエス・キリストとの差は歴然としており、決定的な違いを示していました!
【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。
●イエス様がお語たりになった失われた羊のたとえ話の解説を聞いて、あなたはどのような感想をもちましたか?クリスチャンの皆さん、神の元から迷い出て離れていたあなたを探すために歩かれ、そしてあなたを見出され、そしてあなたを大いに喜ばれ、そしてあなたを担いで暗がりの中の原野をあるいて家路に着かれた良い羊飼いであるイエス・キリストを、あなたはどう思われますか?あなたはこの文字通り命の恩人であるイエス・キリストに対して、どう応答されますか?いかがでしょうか、あなたの周りに神の元から離れて、迷い出た羊はいませんか?良き羊飼いに仕えているあなたが、その迷い出ている羊にできる事はなんですか?
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●まだ、クリスチャンなっていない方はおられますか?神の元から生まれながらに、いや生まれる前から離れて、霊的な原野で人生の道に迷っている方はいませんか?キリストに探して出していただき、見つけ出していただき、そして喜んでいただき、背負っていただいて、安全な羊の囲いの中に連れて来られたくありませんか?あなたがすべき事は決して多くはありません。自分が神から離れて迷っている事を素直に認め、霊的捕食者に命を狙われている事を認め、救い主イエス・キリストに「助けてください」と言って信頼を寄せる事です!そうしたいと願われませんか? それでは、祈りの時をもちましょう。
【結論の御言葉】
■「15:4・・・いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。15:7・・・一人の罪人が悔い改めるなら・・・大きな喜びが天にあるのです」(ルカ15:4-7)。
[引用&参考文献]
※ W.フィリップ・ケラー、『羊飼いが見た詩篇23篇』、いのちのことば社、1988、pp.70-71。(W. Phillip Keller, A Shephard Looks At Psalm 23, Grand Rapids: Zondervan, 1971, pp.61-62.)
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 11-17、 The Moody Bible Institute of Chicago、 pp. 295-298.)
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