『悲劇的結末、救いの御業、救いへの招き!』「二人の反逆息子、愛と恵みの父親」の最終メッセージ③-7

――《ルカ16:1、14/マルコ14:1/黙示22:17》―

【前 置】

●『二人の反逆息子、愛と恵みの父親』というテーマで、ルカの福音書15章の三番目のたとえ話についてメッセージを取り次いできましたが、とうとう今回の7回目で最終回を迎えました。前回のメッセージで触れましたように、このたとえ話は突然とも思えるような、まるで締めくくりのない終え方のように見えます。しかしそれは、このたとえ話を読者の私たちがどう書き終えるのか、それによって私たちがどういう結果を見たいのか、それは私たち一人一人に委ねられているのだという事をお伝えしました。それが、イエス様が取られた優れた終え方でした。

●この7回シリーズの締めくくりとして、聖書は直接語ってはいませんが、兄息子はどういう終え方をするのかを考えます。そして、その終え方を宗教指導者たちに適用します。アウトラインに示されていますように、それは悲劇的な結末を示しています。しかし、このたとえ話はその悲劇で終わるのではありません。そこには希望が残されており、救いへの招きがあります!この貴重なたとえ話を通して、神が伝えておられる締めくくりの真理に期待を寄せつつ、御言葉の解き明かしに霊の耳を傾けて行きましょう。

●今回のメッセージの主題は『悲劇的結末、救いの御業、救いへの招き!』で、副題が「二人の反逆息子、愛と恵みの父親」の最終メッセージです。

【全体のアウトライン】

◎序 論:三つ目のたとえ話、その特徴と背景/済

◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)

[1]弟息子(ルカ15:11-19)/済

[2]父   親(ルカ15:20-24)/済

[3]兄息子(ルカ15:25-32)/済

[4]実際に起こった悲劇的な結末/今回

[5]続く栄光の救いの御業/今回

[6]救いの「祝宴」への招き/今回

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【今回のアウトライン】

◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)

[4]実際に起こった悲劇的な結末

1)宗教指導者たちが、実際、たとえ話の最後を書く事となる!

2)弟息子はへりくだって父親の善意を受け、たとえ話を喜びで書き終える!

3)兄息子は傲慢で、父親の善意は自分にはふさわしいとし、たとえ話を悲劇で書き終える!

4)兄息子は、正に、宗教指導者たちを描いている!

5)宗教指導者たちはイエス様を「あざ笑い」、「だまして捉える」事を企てた!

(ルカ16:1、14/マルコ14:1)

[5]続く栄光の救いの御業

1)宗教指導者たちがイエス様に対して最悪を為した時、彼らは神の最善を成し遂げた!

(使徒2:22-24/2コリント5:21/イザヤ53)

2)イエス様の死は、罪のための完全な贖いとなった!

[6]救いの「祝宴」への招き

救いの「祝宴」は、まだ、全ての人に開かれている!(黙示22:17)

【本 論】

[4]実際に起こった悲劇的な結末

1)宗教指導者たちが、実際、たとえ話の最後を書く事となる!

●まとまりのないように思えるこの終わり方も含めて、このたとえ話において忘れてはならない事は、イエス様は、パリサイ人や律法学者たちの益のために、このたとえ話を語られたという事です!これは、彼らのためのたとえ話でした!兄息子は彼らを象徴していました!差し迫った決断を、今度は、彼ら宗教指導者たちがしなければならないという事を明確に示していました!父親の最後の優しい訴えというものは、イエス様の彼ら自身への訴えを意味していました!彼らがもしその場で、たとえ話の最後を知る事を要求するのなら、イエス様は、次のようなお言葉を彼らに語られたに違いありません。「それは、あなたがたに掛かっています」、と!イエス様に対するパリサイ人の最後の応答というものは、実際には、福音書の終わりの部分に書かれる事になります!

●イエス様の地上生涯の全てを聖書によって知っている私たちは、そういう意味で、このたとえ話がどのように終わるのかを知っています!そうですよね!その終わりというものは、ハッピーなエンドではありません!そうではなく、むしろ、衝撃的な終わりを迎えます!事実、それは、最も衝撃的であり、また歴史始まって以来の残虐行為によって終わりを迎えます!救い主であり、神であられる御子イエス・キリストが踏みにじられるのです!蹂躙されるのです!彼らは、救い主イエス・キリストを殺したのです!

―2―

●たとえ話における父親像はキリストを象徴し、また兄息子というのが実際にイスラエルの宗教界のエリートたちを象徴しているのですから、このたとえ話の本当の終わり方というのは、パリサイ人や律法学者たちによって書かれるのです!そして、それは次のように書かれ得ます!「兄息子は、父親に対して激しく憤りました。彼はそこにあった一本の木材を取り上げて、全ての人の前で、父親を死ぬまで打ち叩きました」、と!(Wow)前述しましたように、実に、これは衝撃的な終わり方です!

●あなた自身は次のように言うのかも知れません。「いいえ、いいえ!このたとえ話は、そのような終わり方はしません。私は小さい頃、教会学校でこのたとえ話を聞きました。そのような悲劇的な終わり方にならないはずです」、と。

2)弟息子はへりくだって父親の善意を受け、たとえ話を喜びで書き終える!

●聖人ぶった偽善によって心が完全に曲げられていない、正気な人であれば誰でも、このようなたとえ話を聞く時、大きな喜びと深い感謝の念を持って聞き入るに違いありません!なぜなら、寛容で深い恵みが罪人を持ち上げ、再び、父親の思いやりと情け深さと親切の中へと受け入れさせてくださるからです!

●へりくだった心の持ち主であればいかなる人も、自分自身を放蕩息子の中に重ね合わせ、当然、父親の喜びと祝宴の中へ招き入れられます!そして、イエス様が、神の恵みをそのような形で生き生きと描いてくださっておられる事を喜びます!ルカの福音書15章を初めから見て来ましたが、この三番目のたとえ話のメッセージの内容もまたとても明確でした!それは、イエス様がどれくらい熱心に罪人を受け入れようとしているかでした!このたとえ話は喜びをもって終えるべきで、悲劇をもって終えるべきではありません!実に、全ての人が祝宴に加わるべきなのです!

3)兄息子は傲慢で、父親の善意は自分にはふさわしいとし、たとえ話を悲劇で書き終える!

●しかしながら一方、兄息子の心は、明らかに父親に対して頑(かたく)なになっていました!勿論、この出来事が起こるまでも、ずっと水面下では、父親に対しては心頑なでした!兄息子は長年にわたって、父親に対する恨みを、怒りを、そして自分の心に渦巻く貪欲を、そしてまた強情さを溜め込んでいました!その間、兄息子は、父親の思いやりと情け深さと親切を自分の正当性のしるしとして、まるでバッチように身に着けていたのです!(Wow)兄息子は、自分に対する父親のそのような心を決して理解する事はありませんでしたし、それゆえ、その心に対する感謝も決して生まれませんでした!しかし、彼はその父親の親切を喜んで受け入れ、それから得る事ができるものは何でも自分のものにして行ったのです!

●兄息子は父親の自分に対する親切を完全に誤って理解し、それを自分自身の価値の証明だと考えていました!ところが、それこそが、神が善良なるお方である事の表れであったのです!父親が、全く取るに足りない弟放蕩息子に対して惜しみない親切を示すや否や、兄息子の父親に対する腹立たしさが急に沸き立ちました!そして、兄息子の本当の性質が、この父親の弟への対応をきっかけに、もうこれ以上隠す事ができなくなってしまったのです!

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4)兄息子は、正に、宗教指導者たちを描いている!

●どうぞ、思い出してください。兄息子は、パリサイ人や律法学者たちを象徴していました!彼の態度は、まさに、彼らの態度を鏡のように写し出していました!たとえ、兄息子の態度が、あなたと私にとってひどくショックを与え、また理解しがたいものであると思われても、パリサイ人や律法学者たちからしてみると、それは、理解しがたいものでは全くありませんでした!と言うのも、彼らは、ユダヤ教という宗教制度にどっぷり漬かっている者たちでした!律法主義に代表されるその宗教制度は、彼らの独善を邁進させ、自己満足を邁進させ、そしてまた神の善良さと恵みに関する身勝手な理解を邁進させていました!(I see)そのような彼らでしたので、自分たちは神からの善意や親切にあずかっている者だと信じてしまっていました!

●ですので、いかなる善意も受けるにふわしくない取税人や、売春婦や、また町のごろつきたちに対して、彼らを悔い改めに導かれたイエス様は、ご自身の善意と親切を惜しみなく示されました!宗教指導者たちは、そのイエス様の親切に対して腹立たしさをおぼえていたのです。彼らは、社会の底辺にいる罪人たちへのイエス様の親切が、社会で優越的な立場にある自分たちの輝きを取り去っていると理解していました!(I see)それで彼らは、兄息子が父親に対して怒ったのと全く同じように、イエス様に対して怒ったのです!(I see)

●前回のメッセージでも触れた事ですが、イエス様は、たとえ話の最後の締めくくりの部分について語る事を止められたかのように見えます。突然、たとえ話を語る事を止めてその場を去って行かれたイエス様に見受けられますし、それは異例な行動のように思えます!?このたとえ話に対するパリサイ人や律法学者たちの反応がどういうものであったのか、その点に関して、ルカの記述は全く沈黙しています!

●このたとえ話を通したメッセージが、宗教指導者たちに向けて語られ、そしてそれが彼らの面目をつぶしている事について、彼らは重々承知していました!しかし、彼らはイエス様に対して何の質問も投げ掛けず、何の抵抗も見せず、何の批判もせず、そしてそれ以上何の解説も求める事もしませんでした!(I see)その理由は、彼らが兄息子の態度を理解していたからです!ですので、そのたとえ話は、彼らにとっては筋が通っていて意味をなすものでした!聞き手の大部分の人たちが締めくくりのないように感じていたたとえ話のように思えた点についてさえも、宗教指導者たちはそうは感じていなかったのです!(I see)と言うのも、彼らにとっては、兄息子の父親に対する不平不満というものは、完全に理に叶っていると受け止められていたのです!(I see)

●このたとえ話をどう終わらせて欲しいのか、どう決着させて欲しいのか、その点について、宗教指導者たちが願う事とは、どういうものであったと思いますか?それは、父親が悔い改める事でした!(Wow)彼らにとって理想的なシナリオというのは、次のようなものです。父親が兄息子の言わんとしている事を理解して、兄息子に対して公の場で謝罪する事です!(Wow)と同時に、放蕩三昧して愚かな振る舞いをした弟息子を公の場で恥じ入らせ、恐らく、弟放蕩息子を永久に追放する事であったでしょう!(I see)しかし、このたとえ話がそのようには決して展開しないという事を、イエス様が十分明確にしておられたという事については、彼らははっきりと知っていました!                     ―4―

●それゆえ、彼らは何も言わなかったのです!聖霊の導きによって、ルカは、重要な事を十分に書き記したと判断しましたので、書き残した感というのは何もありませんでした!恐らく、宗教指導者たちは、向きを変えそしてその場から離れて行た事でしょう。それどころか、イエス様ご自身が彼らから目を離された事でしょう。

5)宗教指導者はイエス様を「あざ笑い」、「だまして捉える」事を企てた!(ルカ16:1、14/マルコ14:1)

●ルカの福音書はこの時点で、この最後の32節で、実際に省略はなかったという事を前提にして、15章から16章の移行を考えて行きましょう。ルカ15章は、放蕩息子のたとえ話が終わっているところで終わったのです。しかし、次のルカ16章は、イエス様がまだ語っておられる事で続いて行っています。これは、一つの長い教えを記録しているように見えます。そしてルカ16:1で、イエス様は確かにパリサイ人や律法学者たちから目を離され、「弟子たちに対して」、もう一つのたとえ話によって彼ら弟子たちを教え始められました。ルカ16章前半のたとえ話の内容というのは、信仰をもっていない者たちの抜け目なさと、神とお金の両方に仕える事は不可能であるという事を教えています。ルカ16:14では、次のように記されています。「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた」、と!すなわち、パリサイ人や律法学者たちは、悪意をもって、イエス様を「あざ笑っていた」という事が分かります!

●何を意味しているのでしょうか?それは、パリサイ人や律法学者たちが、恐らく明らかにイエス様の周りをうろついていたのだという事です。放蕩息子のたとえ話が急に終わった後に、イエス様に対して反対の立場を取りながらも、イエス様の周りをうろつく事は阻止されていなかったようです。事実、彼らはどんな手段を使ってでも、これまで以上に、イエス様を黙らせよう決めていた連中です!(I see)そして、実にその態度こそが、史上、最も偉大なたとえ話の悲劇的な締めくくりというものを、彼ら自身に書かせるよう先導するのです!(I see)

●宗教指導者たちのイエス・キリストに対する憎悪は、イエス様がこのたとえ話を語られた日から殺害の計画を密かに立てるまでの間、いよいよ高まって行きます!「祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた」、とマルコ14:1が伝えている通りです。そしてしまいには、彼らは嫌々ながらも、自分たちを植民地支配しているローマの権威者たちと結託し、また自分たちを圧迫し、愚弄するヘロデ王とさえも結託して連帯を図り、イエス・キリストを十字架に架けようと協力して手を組んだのです!(Wow)

●キリストの十字架の死は、彼らの要請によって、このルカ15章の彼らとの関りから数ヶ月後に起こります。彼らは、イスラエルの名誉と自分たちが信じている宗教を確かに守り抜き、自分たちが愛して止まない伝統の中で一つにまとまるために取った行動のゆえに、彼ら自身は喜び満足する事となります!

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[5]続く栄光の救いの御業

1)宗教指導者たちがイエス様に対して最悪を為した時、彼らは神の最善を成し遂げた!

(使徒2:22-24/2コリント5:21/イザヤ53)

●実はここに、神の逆転の御業があります!宗教指導者たちが自分たちの最悪を為した時に、実に、彼らは神の最善を成し遂げたのです!(使2:22-24/2コリ5:21/イザ53)更に、イエス様の死が、このたとえ話の終わりではありません!墓も、イエス様をその支配下に留めておく事はできませんでした!イエス様は墓からよみがえられ、それは、イエス様が罪と死とに一度限りで勝利された事を示すものでした!イエス様の身代わりの十字架の死は、遂に、キリストを救い主と信じる全ての世代を覆う贖いの血を生み出しました!そして、イエス様の十字架の死からの復活は、父なる神がその贖いの救いの御業を受け入れてくださったという証明となりました!

2)イエス様の死は、罪のための完全な贖いとなった!

●それゆえ、イエス様の死は、雄牛や山羊という動物の血が決して成し得なかった事を成し遂げたのです!それは何でしょぅか?それは、罪に対する完全な贖いを実現しました!そして、罪の贖いのために必要としているイエス・キリストの完全な義が、まさしく信じる者に提供されるのです!完全な義による完璧な覆いが与えられるようになりました!その覆いは、神ご自身の聖なる完全さに全く等しいものでした!それは、神に対する畏敬の念を起こさせます!私たちクリスチャンを覆っている義というものは、何と、神の聖なる完全さに全く等しいのです!(Wow)神は、私たちをご自分の義に等しい者と見ていてくださっておられるのです!(Wow)これは、神への畏敬の念以外の何ものでもありません!

●ですから究極のところ、真に祝福された解決が、このたとえ話を通して語られたイエス様の物語にはあるのです!

[6]救いの「祝宴」への招き

救いの「祝宴」は、まだ、全ての人に開かれている!(黙示22:17)

●さて最後のポイントとなりました!盛大な「祝宴」に加わるための招きは、すなわち救いの盛大な「祝宴」への招きは、まだ全ての人に開かれています!その招きは、まさに、あなたに対しても差し伸べられております!あなたが弟放蕩息子のように罪を見える形で表わしている罪人であろうが、罪を内に秘めて隠している兄息子のようであろうが、あるいは双方の間にあってその両面の面をもっていようが、救いの「祝宴」へ招かれるに当たっては何の障壁ともなりません!もしあなたが聖書のまことの神とまだ関りをもっていないのならば、あなたが霊的に貧困状態にある事を認め、あなたの天の父なる神を受け入れ、そしてそのお方と和解してください!そして、黙示録の一番最後の章に記されている招きのお言葉に応える者となってください!

・・・「来てください。」・・・「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい(黙22:17)。

●あなたが、救いの「祝宴」の喜びを味わう者となるよう切に願います!

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【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。

●兄息子の取った行動は、パリサイ人や律法学者たち、当時の宗教指導者たちが取った行動と非常に似通っています!兄息子は、全く取るに足りない弟放蕩息子に対して惜しみない親切を示した父親に対して激しく憤り、父親を全ての人の前で死ぬまで打ち叩きました!宗教指導者たちもまた、社会の底辺にいる罪人たちへ親切を示されたイエス様に対して激しく憤り、イエス様を人々の前で十字架刑に追いやりました!双方の致命的な共通点は、良い行いをしている自分は神の善意と親切を受けるにふさわしい者だと錯覚している事でした!双方とも、恵みと信仰による義ではなく、行いによる義を求めた事にありました!

●罪を見える形で表わしている弟放蕩息子のようであろうが、罪を内に秘めて隠している兄息子のようであろうが、あるいは双方の間にあってその両面をもっていようが、それらは、救いの「祝宴」へ招かれるに当たっては何の障壁ともなりません!イエス様は熱心に罪人を受け入れようとしておられる方です!このたとえ話は喜びをもって終えるべきであって、悲劇をもって終えるべきではありません!全ての罪人が、神の救いの「祝宴」に加わるべき事を告げていました!神は罪人に対して、「『来てください。』・・・『来てください』と言いなさい」と言われ、「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい」、と罪人を救いに招かれるお方です!(黙22:17)。

【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。

●率直に、尋ねる事にしましょう。あなたは「二人の反逆息子、愛と恵みの父親」のたとえ話を、喜びをもって書き終える者ですか?それとも、悲劇的に書き終える者ですか?あなたは、良い行いをしている自分は神の善意と親切を受けるにふさわしい者だと錯覚していませんか?逆に、あなたは恵みと信仰によって救われた者ですか?そして更に、恵みと信仰によって救われているあなたには、神が備えてくださっておられる良い行いに導かれていますか?あなたは、自分の救いが聖書的な救いだと確信していますか?「ただで受け(た)」救いの恵みに対して、あなたの心は感謝に満ち溢れていますか?その感謝の心は、まだキリストの救いにあずかっていない人々に対する証しに表れていますか? それでは、祈りの時をもちましょう。

【締めの御言葉】

「2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」(エペソ2:8-10)

[引用&参考文献]

・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 11-17、 The Moody Bible Institute of Chicago、 pp. 326-329.)

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