『唯一無二の福音 』 ―ひとつしかない救いを、多様性を美徳とする世界の人々へ語る― 《 ルカ 5 33 39 今回は 序論& 5 3 3 》

【序 論】
●これまで三回にわたって、『正しい人ではなく罪人を』というテーマのもとに、取税人マタイの救いとキリストの弟子への召命について学びました。そして、今回と次回の二回のメッセージをもって、ルカの福音書5章を締めくくる事になります。すぐに、聖書のテキストそのものを解き明かす事をしてもいいのですが、まずはこの箇所で起こっている宗教指導者たちの非難の言葉の背景となっているユダヤ人社会の習慣を序論で取り上げる事から始めます。
●今回のメッセージの主題がテーマと同じ『唯一無二の福音!』で、副題が「ひとつしかない救いを、多様性を美徳とする世界の人々へ語る」です。あなたが信じているキリスト教の福音がどのような性質を持っているのか、この世が美徳と考える信仰や宗教のあり方と比較しつつ理解を深めて行く事にします。メッセージの流れは下記のアウトラインの通りです。それでは、紐解かれる御言葉に期待しつつメッセージに耳を傾けて行きましょう。
【全体のアウトライン】
◎ 序論/唯一無二の福音/今回
[1]ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちの非難(ルカ5:33)/今回
[2]イエス様の弁明(ルカ5:34-35)/次回
[3]イエス様のたとえ(ルカ5:36-39)/次回
【今回のアウトライン】
◎ 序論/唯一無二の福音
1)福音は人が作った宗教とは混ざり合わない
2)真理を愛さずに滅びるか、真理を受け入れて自由にされるか
3)唯一無二の福音を妥協せずに主張されたイエス様
[1]ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちの非難(ルカ5:33)
1)ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちがなぜ連帯するのか(5:33a)
2)ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちがなぜ非難したのか(5:33b)
【本 論】
◎ 序論/唯一無二の福音
1)福音は人が作った宗教とは混ざり合わない
―1―
●人はまことの神に創造されたがゆえにその本質は非常に宗教的で、人間を越えた神の存在を意識する事ができ、神と関わりを持つ事の出来る唯一の被造物だという事を三回前のメッセージ、『人が達成する宗教VS神が達成される宗教』で語らせていただきました。しかし、人は神の命じた一つの命令に背いて堕落して後は、まことの神ではなく、神が造られた被造物を拝んだり、人が自らの手で像を造ってそれらを拝むようになったという事もお伝えしました。それゆえ、何千万という宗教が生まれて来ました!神は全ての物に宿るという原始的な宗教から、高度に洗練された宗教制度にまでに及んで行きました!
●そこで、今回取り上げたい点は、人が達成する宗教は神が達成された宗教とどう関わる事ができるかです?別の言い方をしますと、人の努力による行いによって救いを達成する宗教は、神が恵みと信仰を通して達成された宗教と相いれる事ができるのかです?その答えは、「出来ません」です!救い主イエス・キリストの福音は、それのみで立ち続けるものです!ですから、救いにおいて他の宗教と相いれる事はできません!いや、むしろ人の行いによる救いに対して真っ向から立ち向かいます!そういう意味で、福音は人が作った宗教に対して排他的です!それを完全に退けます!
●その点について、イエス様ご自身とイエス様が遣わされた使徒たちが語った教えにはっきりと記されています!イエス様は次のように語られました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも.父のみもとに行くことはできません」(ヨハ14:6)、と!また使徒ペテロは、「この方」すなわちイエス・キリスト「以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使4:12)、と語りました!
●日本には、昔から次のような歌が詠まれています。「分け登る 麓(ふもと)の道は多けれど 同じ雲井(くもい)の月をこそ見れ」(「雲井」=大空、天上)。「宗派は別でも宗教の目的は同じなのだから、どの宗派でもよい」という事を歌っています。しかし、聖書ははっきりと、「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一..であり、それは人としてのキリスト・イエスです」(1テモ2:5)と示しています!また聖書は、「だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです」(1コリ3:11)とも伝えています!
―アメリカのキリスト教の現状―
●日本のキリスト教界に大きな影響を与えている国と言えばアメリカと韓国です。残念な事ですが、イエス・キリスト「以外には、だれによっても救いはありません」だとか、イエス・キリストが「神と人との間・・・唯一」の「仲介者」であるいう真理が、アメリカのキリスト教会内で揺れ始めているという現実があります!聖書の真理があまりにも曖昧になっているという現実が、アメリカの教会に広がって来ています!その波は、日本の教会にも既に押し寄せて来ていると思います。例えば、先日、アメリカの有名な伝道者で、世界的に有名なビリー・グラハム氏が亡くなられました。日本のクリスチャン新聞も、去る3月18日の一面の全面で、そのニュースを伝えています。その葬儀には、世界50ヶ国からキリスト教指導者たちが駆け付けました。アメリカのトランプ大統領も、グラハム氏の功績をたたえて、その葬儀に出席したくらいです。                                                 ―2―
40年程前にグラハム氏が日本に来られた時に、私は母を連れて野球場で行われていた伝道集会に出席した事をおぼえています。グラハム氏が晩年にある牧師との対話の中で、次のように語られました。「誰でも意識しようがしまいが、キリストを愛しあるいはキリストを知っているのであれば、それがイスラムの世界であろうが仏教の世界であろうがキリスト教の世界であろうが、信仰のない世界であろうが、彼らはキリストの体である教会に属している者である」※、と語られました。すなわち、それらの人々はキリストにあって救われた者だと語っていたのです。驚きです!只単にキリストを知る事が即救いにつながるでしょうか?キリストの十字架と復活による福音の理解や、キリストに従う事が見られないままに人は救われると聖書は説いているでしょうか?
●この10年くらいのアメリカの教会の悪い傾向と言えば、聖書の意味は曖昧で、不明瞭で、不確かなもので、究極的には分からないものだという受け止め方が、何と福音的な教会に広がっていると伝えています。ですから、救いにおける宗教の違いは問題無いものだと考えている人々が、聖書の救いの真理の絶対性を握っている人々を軽蔑して受け入れないという現実が広がっています!真理とは不確かなものであると考えは、キリスト教会をいよいよ無気力な状態に陥れます!これは日本の教会ではなく、アメリカの教会の実情ですが、その影響は確実に日本の教会を襲います!ですから、教会は聖書の真理に精通する必要があります!
2)真理を愛さずに滅びるか、真理を受け入れて自由にされるか
●聖書の真理に対する曖昧な態度は、当然、真の信仰に至る事はありません!たとえ上辺では宗教的に装っていても、救いに至りませんし、むしろ自分中心の生き方を愛しまた罪を愛する道を歩むものとなります!また、それは見せ掛けの謙遜です!しかし、聖書が何を教えているのかと言いますと、絶対的な真理は永遠に続く事を告げています!ですから、全ての人はその真理に対して責任を取らなければなりません!パウロは、2テサロニケ2:10で、人が「滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れな(い)」からだと語っています!という事は、真理を愛さないという事が不信仰者のしるしなのです!逆に、真理を受け入れて自由にされるのが信仰者のしるしです!(ヨハ8:32)
●ルカはその福音書の冒頭で、イエス・キリストの生涯について「綿密に調べて」(1:3)書き上げた事を記していますが、それは、その記した「教えが」、その真理が「確かであることをよく分かっていただきたい」(1:4)からだと受け取り手のテオフィロに伝えています!イエス様ご自身は、神に受け入れられる礼拝は真理に沿って行われるものだと教えられました!(ヨハ4:23-24)また、イエス様は、聖霊は真理の御霊であり(ヨハ14:17、15:26、16:13)、神の御言葉は真理であり(ヨハ17:17、19)、御自身は真理を証しするためにこの世に来られたのだと語られました!(ヨハ18:37)それからまた、使徒パウロは、真理に従う事を拒否する者はいずれ神の怒りに直面する事をと告げました!更に、パウロは、福音は「真理のことば」(エペ1:13)であり、その「真理はイエスにある」(エペ4:21)と教えています!そして、救いは「真理に対する信仰」(2テサ2:13/参 1テモ2:4)を通して与えられる事を明記しています!そしてまた、教会は「真理の柱また土台」(1テモ3:15)であると語っています!
―3―
●逆に、不信仰者について、パウロは、彼らが「真理を失(って)」(1テモ6:5)いる者であり、「真理から外れてしま(って)」(2テモ2:18)いる者であり、「真理を知ることができ(ない)」(2テモ3:7)者であり、「真理に逆らって(いる)」(2テモ3:8)者であり、そして「真理に耳を傾け(ない)」(2テモ4:4/参 テト1:14)者たちだという事を明らかにしています!
●34年前になくなりましたが、フランシス・シェーファーという著名な神の器が次のように述べています。「クリスチャンとは、排他的なキリストを包括的な時代に述べ伝える者である」、と!分かり易く表現しますと、「クリスチャンは、決して譲る事のできない絶対的な救いを、何でも受け入れて一つにしようとするこの世に対して語るのである」と言うのです!ですから、もし教会内のある人々が、次のように言ったらどうなる事でしょう?「他の宗教を信じている人々が、自分たちの宗教から離れないでキリスト教と一体となる事は可能で、その状態でイエス・キリストに従う事ができる」と提案するのです。それは、『唯一無二の福音』の真理をよく捉えていないという証拠以外の何ものでもありません!
●多宗教そして多神教の土壌に育った日本人をどのように導いたらいいのでしょうか?彼らに聖書の真理を教え、彼らがその真理の前で、これまで自分たちが履いて来た宗教や哲学や世界観という靴を自らが脱げるように助けてあげる事です!そういう意味では、入門コースや基礎コースやバプテスマコースを通っていただき、聖書の真理に出会えるよう導きを与える事は重要です!
3)唯一無二の福音を妥協せずに主張されたイエス様
●他の宗教に対してオープンになって受け入れるという信仰の多様性、それが宗教の美徳だ考えるこの時代にあって、ルカの福音書第五章のこの締めくくりの部分は、まさにそのような風潮に対抗すにふさわしいテーマだと言わざるを得ません!「イエスよ、あなたの弟子たちは断食をしないじゃないですか」と非難され、ユダヤ人宗教指導者たちと対峙する中で、主イエス様は、福音が唯一無二なものであるゆえに、他の救いを寄せ付けないものであるという事を明らかにして行きます!イエス様は、只単に、その当時のユダヤ教という枠組みの中にいる一人のラビとして来られたのではありませんでした!また、その当時の宗教制度の一部を修正するために来られたのでもありません!
●そうではなく、旧約聖書を成就する福音を宣べ伝えるために来られたのです!そして、その福音は当時のユダヤ人の宗教とは相いれないものでした!ユダヤ教では自分は言い伝えを守っている正しい者だという事に重点を置きましたが(ルカ16:15、18:11-12)、福音は自分の無力さを悟って初めて神によって正しくされる事に重点を置きました!ユダヤ教は人が考える事に重点を置きましたが(マタ6:2、16、23:5)、福音は神がお考えになる事に重点を置きました!ユダヤ教は外に表れる態度に関心を寄せましたが(マタ23:25-28)、福音は内なる心の態度に関心を寄せました!
●イエス様が妥協される事のない唯一無二の福音の排他性が、実に、ユダヤ人宗教指導者たちとの尽きる事のない対立の原因でした!彼らの敵意は、これまで学んで来ましたように、二つの出来事の中に表れていました。その一つが、5:17-26の中風をわずらう人のところで、「神への冒涜を口にする子の人はいったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」(5:21)という非難の言葉に表れていました。

―4―
二つ目が、5:30-32の取税人マタイが開いた宴会で、「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか」(5:30)という非難の言葉に表れていました。そして、今回から二回にわたって取り上げる5章最後の箇所である33節から39節の出来事の中で、彼らのイエス様に対する敵意は更にエスカレートして行きます。この出来事は、取税人マタイの出来事から間もなくして起こった事でした。
●メッセージの冒頭の全体のアウトラインで語りましたが、この聖書箇所は、第一にヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちの非難(ルカ5:33)の言葉に端を発し、第二にその非難に対するイエス様の弁明(ルカ5:34-35)がなされ、そして第三にイエス様のたとえ(ルカ5:36-39)で完結します。
[1]ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちの非難(ルカ5:33)
1)ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちがなぜ連帯したのか(5:33a)
●さて、ここから本論に入ります。33節の冒頭の部分ですが、「また彼らはイエスに言った」というところから、「彼ら」というのが前の出来事に関わる人々と関連している事を示しています。並行箇所のマタイの福音書によりますと、実際にはバプテスマのヨハネの弟子たちがイエス様に質問している事がわかります(マタ9:14)。これは、ルカの福音書とマタイの福音書が互いに矛盾する事を書いているという事ではありません。なぜなら、同じく並行箇所のマルコの福音書では、パリサイ人たちとバプテスマのヨハネの弟子たちの双方がイエス様に取り入っているという事を記しているからです(マコ2:18)。すなわち、両方のグループの人々が、この非難混じりの質問をイエス様に浴びせたという事を示しています。
●となると、当然、次の疑問が出て来ます。なぜバプテスマの「ヨハネの弟子たち」が、パリサイ人たちや律法学者たちと共に行動していたのかという事です。というのも、バプテスマのヨハネは救い主イエス様の到来の道備えをした神の器であり、イエス様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29)であると語って、自分の弟子たちに指し示していたからです。それにもかかわらず、イエス様の敵であり常にイエス様を攻撃しているイスラエルの宗教指導者たちとつるむのはなぜなのかです?
●いくつかの理由がありますが、ヨハネの弟子たちの全てがイエス様のバプテスマの光景を見たのではありませんし、またこれらの弟子たちはバプテスマのヨハネがイエス様を「神の小羊」と指し示した時にそこに居合わせていたのでもありません。バプテスマのヨハネ自身も一時的な疑いを持ちましたように(ルカ7:19)、ヨハネの全ての弟子たちがイエス様が救い主であるという事を確信していた訳ではありませんでした。使徒たちの時代になってから、パウロがエペソの地を訪れた時に、そこでバプテスマのヨハネの弟子たちに出会いましたが、そこまで時は経過していても、彼らはイエス様が救い主であるという事を知りませんでした(使19:1-7)。
●それから、ヨハネの弟子たちがイエス様を非難をした時は、ヨハネが投獄されたままの状態でしたので(ルカ3:20)、このイエス・キリストこそ自分がその前ぶれを伝えたお方だという事を、ヨハネが自分の弟子たちに確証させる機会を持つ事もできませんでした。
―5―
このように、確かにヨハネの弟子たちの多くがイエス様を救い主として信じてはいませんでしたが、彼らがヨハネからバプテスマを受けた時には真面目に信仰の告白をしていたに違いありません。彼らは自分たちの罪を認めそしてその赦しを求めました。そして、救い主の王国の到来に対して自分たちを備えるため努力していました。彼らはそういう意味で霊的に献身していましたので、宗教指導者層のエリートであるパリサイ人たちや律法学者たちと関わり合ったのは、彼らにとっては当然な流れであっただろうと考えられます。
2)ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちがなぜ非難したのか(5:33b)
●33節の鉤括弧の部分ですが、ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちの批判の内容が記されています。それは、イエス様の弟子たちが「断食」と儀式上の「祈り」を怠る事によって、ユダヤ人の宗教的な習慣にそむいているというのでした。ユダヤ人には自分たちの信心深さを表す三つの具体的な行為がありました。それが、「断食」であり「祈り」でありまた施しというものでした。当時の宗教指導者層のエリートたちは、自分たちが人前で信心深い敬虔な者たちだとされている事を具体的に見せるために、それら三つの行いを公の場でしかも仰々しく行っていたのです。山上の垂訓の中で、イエス様は彼らの偽善的な行為について次のように警告を与えました。
6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。 6:2 ですから、施しをするとき、偽善者が人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 6:3 あなたが施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 6:4 あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 6:5 また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 6:6 あなたが祈るときには、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。・・・6:16 あなたがたが断食するときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食していることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 6:17 断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 6:18 それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます(マタ6:1-6、16-18)。
●ルカの18章を見ますと、パリサイ人たちは週に二回の断食をしていました(18:12)。当時の「断食」の習慣は、月曜日と木曜日に行われていたようです。しかし、旧約聖書をよく調べてみますと、断食が神によって命じられているのは、年に一回の「宥(なだ)めの日」/「贖罪の日(第三版)」(レビ16:29、31、23:26-32)だけでした。イスラエルの民と家畜に至るまで全ての人が断食し、彼らの全ての罪の赦しときよめがなされた日でした。年に1度この日に、大祭司はいけにえの血を携えて至聖所に入り、「アザゼルのやぎ」と呼ばれていたやぎにイスラエルの人々の罪を負わせて荒野に放ったのでした。
―6―
後に、この「宥(なだ)めの日」は大祭司であるイエス・キリストの救いの御業を予型している事が、ヘブル人への手紙に記されています。
●律法の教師であるラビたちの伝統はというと、「宥(なだ)めの日」には食べる事もまた飲むことも禁じました。その日は、自分たちの罪を悲しみそして悔い改める日として取っておかれ、その日に食べるのはふさわしくない事だと考えていました。またその他に、旧約聖書には命じられてはいない断食があり、悲しみの時、喪に服する時、そしてまたへりくだって神を求める時などに自発的になされるものでした(参/士20:26/1サム7:6、31:31/2サム1:12、12:16/1王21:27/2歴20:3/エズ8:21、23/ネヘ1:4、9:1/エス4:1-3/詩69:10/ダニ9:3/ヨエ1:13-14、2:12、15)。
●イエス様の弟子たちに対する律法学者たちやパリサイ人たちやバプテスマのヨハネの弟子たちの憤慨というのは、何が彼らにそうさせたのでしょうか?それは、イエス様の弟子たちがイスラエルの伝統であり習慣となっている断食を無視し「食べたり飲んだりし(続けて)」いたからでした!それゆえ、彼らはイエス様に詰め寄り、ユダヤ人の習慣を破るあるまじき違反行為に対して問いただしたのでした。その結果、どうなったのかについては、次回のメッセージで語ります。「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に」(5:38)というくだりの部分です。
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●『唯一無二の福音』というテーマの一回目のメッセージを取り次ぎました。ルカの福音書5章を締めくくるに当って、改めてイエス・キリストの福音がどういう性質を持っているものかを学びました。それは、人が作った宗教とは決して混ざり合わないもので、宗教の多様性を美徳とする社会に対して大変排他的であるという事でした!クリスチャンは、決して譲る事のできない絶対的な救いのメッセージを、何でも受け入れて一つにしようとするこの世に対して語る者だという事を学びました!
【適 用】 それでは、今回のメッセージの適用をしましょう。
●いかがでしょうか、あなたの信じているキリスト教の福音は、『唯一無二の福音』ですか?あなたはこの『唯一無二の福音』に誇りを持っていますか?この『唯一無二の福音』を信じ受け入れる者とされた事を大いに感謝をしていますか?人に福音を語る前に、その人と信頼関係を築くのは大切ですが、最終的にはこの『唯一無二の福音』を伝えなければなりません!いかがでしょう、あなたにはその心構えができていますか? それでは、祈りましょう。
【締めの御言葉】
■「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハ14:6)
■「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使4:12)
■「だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです」(1コリ3:11)
―7―