ルカの福音書講解説教(9)/メッセージ原稿/『バプテスマのヨハネの偉大さ』(その 2)/2016.05.22
『救い主到来の前ぶれをする偉大な働き!』
―バプテスマのヨハネの偉大さ、そしてそれに勝る天の御国の子らの偉大さ・・・ー
《ルカ 1:15-17/今回は 1:15b-17》

【序 論】
●前回と今回の二回のメッセージで、『バプテスマのヨハネの偉大さ』というテーマは終了します。二回目のメッセージの主題は、『救い主到来の前ぶれをする偉大な働き!』です。たったの二節半の御言葉ですが、その中には、実に様々な霊的な真理が凝縮して隠されています。内外面の偉大さの関係、聖霊に満たされた胎児ヨハネの意味するもの、ヨハネの偉大さの根拠、ヨハネの偉大さの共有、そして更にヨハネの偉大さに勝る偉大さについて御言葉を学びます。多くの隠された霊的宝に溢れています。
メッセージの流れは、下記のアウトラインの通りです。
【今回のアウトライン】
[1]バプテスマのヨハネの内外面の品性(1:15)
1)主の御前に偉大な者(1:15b、1:15a)/済
2)主の御前に正しい者/済
3)主の御前に偉大な者のしるし(1:15c、15d)
ア)外面や物的なしるし(1:15c)/今回途中から
イ)内面や霊的なしるし(1:15d)
[2]バプテスマのヨハネの光栄ある使命(1:17a)
1)救い主到来の前ぶれという光栄な使命を果たすヨハネ
2)エリヤのように光栄な使命を果たすヨハネ
[3]バプテスマのヨハネの力強い役割(1:16、17b、17c)
1)多くの人々を救い主に立ち返らせる役割(1:16)
2)父たちの心を子どもに向けさせる役割(1:17b)
3)逆らう者を義人の心に立ち戻らせる役割(1:17c)
【本 論】 それでは、今回のメッセージの本論に入りましょう。
[1]バプテスマのヨハネの内外面の品性(1:15)
1)主の御前に偉大な者(1:15b、1:15a)/済
2)主の御前に正しい者/済
3)主の御前に偉大な者のしるし(1:15c、15d)
ア)外面や物的なしるし(1:15c)
―1―
―復 習―
●前回のメッセージでは、偉大な者と呼ばれたバプテスマのヨハネの外面のしるしや物的なしるしを見ました。彼は「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜で」(マタ 3:4)且つ「ぶどう酒」と「強い酒」を退けていました。ヨハネは当時のファッションセンスからはかなりずれた服装をし、また通常の料理からもかなりずれた食物を食べ、更に禁酒をしていました。それは、彼が、この世の楽しみであるファッションを退け、世の贅沢さを退け、またアルコールを断つ事で自分が誤った判断に陥らないように努めていました!それだけ、自分に託された重要な使命に集中できるようにという事でした!
―「ぶどう酒」と「強い酒」に関する新約聖書の教え―
●そこで今回は、その続きとして、ヨハネが断っていた「ぶどう酒」と「強い酒」についての新約聖書の教えについて取り上げて学ぶ事にします。私の予定ですと、今回のメッセージでは簡潔に取り扱いますが、次回から少しの間だけルカの福音書を離れて、何回かにわたって、「酒によってはいけません」(エペ 5:18)という聖書の御言葉をもっと深く学ぶかも知れません。「ええ・・・、『最も偉大な生涯の物語』の主人公であるイエス様がまだ出て来ないのに、ルカの福音書を一時離れるのですか?」という声が聞こえて来るかも知れませんが、よく祈って判断したいと思います。
●旧約聖書では、「31:4 レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。
『強い酒はどこだ』とは、君子の言うことではない。 31:5 酒を飲んで、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。」(箴31:4)とはっきり語られています。このように、特に指導者に対しては厳しく指摘されています。新約聖書でも、長老(牧師)に対しては「3:2監督はこういう人でなければなりません」(1 テモ 3:2)と記され、監督の条件の 8 番目に「酒飲みでなく」(1 テモ 3:3)とあります。また、執事に対しては「大酒飲みでなく」(1 テモ 3:8/テト 1:7)とあります。そして、「年をとった婦人たち」には「大酒のとりこにならず」(テト 2:3)と記されています。
●新約聖書全般では、酒に酔う事については、次のように語られています。
■「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか」(ロマ 13:13)。
■「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです」(1 コリ 5:11)。
■「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペ 5:18)
■「4:3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。 4:4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。」(1ペテ 4:3)。
―2―
●しかし反面、アルコールを健康管理のために用いる事については、新約聖書は次のように語っています。
「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」(1 テモ 5:23)、と。テモテが牧会していたエペソの地の水が良くありませんでしたので、大切な「胃」を守り、病気予防のためにも「少量のぶどう酒を用いなさい」と使徒パウロは勧めています。「少量」という言葉が敢えて使われているというところは、「ぶどう酒」で酔わないようにという意味が含まれているのは言うまでありません。前回語りましたように、水にぶどう酒を入れて薄めて健康のために用いていた事が分かります。
イ)内面や霊的なしるし(1:15d)
●それでは、次のポイントに移りましょう。バプテスマのヨハネの外面や物的な面における聖さというものは、実は、彼の内面にある霊的な力から流れているのだという事が、15 節の後半の御言葉によって理解する事ができます!どういう表現がなされているでしょうか?それは、ヨハネが、「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ(る)」という言葉によってです!
●母親であるエリサベツが受胎した時以来、ヨハネは、聖霊の影響のもと、制御のもと、そして力のもとにその生涯を生きて行きました!すなわち、聖霊のご意志によって支配された生涯でした!聖霊のご意志は、勿論の事ですが、神のお言葉である聖書の中に表されています!聖霊の満たしは、聖化において(1 コリ 6:11/2 テサ 2:13/1 ペテ 1:2)、有効な働き(使 1:8)において必要不可欠です!
●バプテスマのヨハネの場合は、彼の人生における聖霊の働きは、彼がまだ「まだ母の胎内にあるときから」始まっていました!その事については、救い主を宿したマリヤが、バプテスマのヨハネを身ごもっているエリサベツを訪問した時の出来事が如実に表しています!
1:39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。 1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。 1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。 1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。
あなたの胎の実も祝福されています。1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。 1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。 1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ 1:39-45)
●マリヤの胎に宿っておられる主イエス様ご自身がエリサベツの家に入って来られる事に対して、彼女は恐れ多い気持ちとへりくだりの思いとを持った事でしょう。それと同時に、エリサベツの胎に宿っているヨハネも、救い主の訪問に対して「胎内でおど(った)」のでした!そして、「エリサベツは聖霊に満たされた」のでした!聖霊に支配された胎児ヨハネの驚くべき反応です!物凄い出会いの光景です!
―命は受胎に始まり、胎児は人間である!―
●この聖書箇所でもう一つ教えられる点は、母親の胎の中で聖霊に満たされているヨハネから私たちが学ぶべき重要な点は、胎児は人間で、その命は受胎の時に始まっているという事です!(続く)
―3―
その明確な事実は、胎児の命の尊厳さを示しています!それゆえ、聖書は中絶に対して明確に反対の立場を取っています!
―ヨハネは、エレミヤやパウロの場合と共通している―
●ヨハネがまだ母親の胎の中にいる時から神によって分かたれているという事実は、エレミヤの場合と似通っているという事が分かります。エレミヤは、自分自身の召しについて次のように記しています。「1:4次のような主のことばが私にあった。 1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレ 1:4-5)、と!また、使徒パウロの場合とも似通っています。パウロは次のように証ししています。「1:1生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされた」(ガラ 1:15-16)、と!バプテスマのヨハネにしかり、預言者エレミヤにしかり、そして使徒パウロにしかり、神はご自分の主権によって、ご自分のしもべを救いに選ばれ、聖化へ導き、ご自分の任務に就かせられるのだという事をこれらの聖書箇所は強調して伝えています!
[2]バプテスマのヨハネの光栄な使命(1:17a)
●第一のポイントのバプテスマのヨハネの内外面の品性を終え、第二のポイントに進みましょう。それは、バプテスマのヨハネの特権と使命です。
1)救い主到来の前ぶれという光栄な使命を果たすヨハネ
●17 節の前半に注目しましょう。「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」と記されています。この御言葉が、実に、ヨハネの偉大さをまとめて表しています!ヨハネの偉大さは、彼が他の誰よりもより聖いからなのではありません!彼の偉大さは、彼の召命が救い主の「前ぶれ」になるという、他の誰よりも気高い召命だからなのです!その召命は、人が受ける事のできる最も光栄な任務だからなのです!いくつかの御言葉で、ヨハネの召命とその任務とを追ってみましょう。
●ヨハネは「神から遣わされた人」(ヨハ 1:6)であり、彼は、イエス・キリストについて次のように「証言し、叫んで言(い)」ました。「私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである」(ヨハ1:15)、と!また、ヨハネは、「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です」(ヨハ 1:23)と自分自身を表しました。そしてまた、「ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て」、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハ 1:29)、と語りました!このように、そのヨハネの召命とは、救い主がついに到来した事を明らかにするという、他に類を見ない預言者になるという光栄に満ちたもの、特権に満ちたものであったのです!それが彼の偉大さを示していました!
2)エリヤのように光栄な使命を果たすヨハネ
●「前ぶれ」役として、ヨハネは「エリヤの霊と力で」イエス・キリストの前を行きます!この宣言は、ユダヤ人にとっては重要な意味を持っています!(続く)
―4―
なぜなら、彼らは、主の裁きの日が来る前に、神が彼らへ使いを送られ、そして救い主の到来によって神の王国が樹立されるという事を信じていたからです。旧約聖書の最後の締めくくりの約束は、次の御言葉のように、エリヤがその使いである事を告げているからです。
4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ(マラキ 4:5-6)。
●エリヤのように(1 王 18:17-18)、ヨハネは、忠実に、力強く、大胆に、妥協する事無く、神の真理を宣言するのです!(マタ 3:7-11)ですから、ある者は、ヨハネが本当のエリヤではないかと考えます。しかし、ヨハネはそのように推測して尋ねてくる人々に対して、私は「そうではありません」(ヨハ 1:21)と答えて否定しています。しかし、マタイ 11:13-14 では、イエス様が、「11:13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。 11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタ 11:13-14)と語っています。このイエス様のお言葉をどう理解したいいのでしょうか?それは、もしユダヤ人たちがバプテスマのヨハネを受け入れ、ヨハネが説いたイエス様を彼らが自分たちの救い主として喜んで受け入れていたのなら、主の日と神が樹立される王国がその時にやって来ていたのです。そして、バプテスマのヨハネがマラキの預言の成就となっていたのです。
●しかし、ヨハネは実際にはエリヤが受肉した人ではありません。マラキが預言した世の終わりに出現する最終的なエリヤのような預言者でもありません。そうではなくて、ヨハネは、旧約聖書の偉大な預言者である「エリヤ」のような「霊と力で」来るのです。ですから、ヨハネは、心頑なな反対者たちに対して、預言者エリヤのように恐れる事なく、忠実に神の真理を宣言して行くのです!(マタ 4:12、141-10/1 王17:1、21:17-29)
●ユダヤ人の多くは、イエス・キリストについてのバプテスマのヨハネのメッセージを拒みましたので、
「主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」というマラキの預言は未来の終末の時代に成就する事になります。イエス様の再臨後、ご自身の千年王国を樹立する前に、旧約の預言者であるエリヤ本人かもしくは別のエリヤのような預言者が自分が来る事を告げる事になります。
もしそれがエリヤ本人でないとすると、もしかしたら、黙示録 11 章に出て来る「二人の証人」(11:3)の内の一人なのかも知れません。
[3]バプテスマのヨハネの力強い役割(1:16、17b、17c)
●今回のメッセージの最後の第三ポイントです。16 節と 17 節の中盤から後半に掛けての御言葉です。バプテスマのヨハネのメッセージは三つの力強い役割を果たします!一番目に多くの人々を救い主に立ち返らせ、二番目に父たちの心を子どもに向けさせ、そして三番目に逆らう者を義人の心に立ち返らせます。
―5―
1)多くの人々を救い主に立ち返らせる役割(1:16)
●それでは、一番目です。16 節です。ヨハネの働きは、多くの人々を救い主に立ち返らせます!この「立ち返らせ」という言葉は、新約聖書では回心を指す言葉です!(マタ 13:15/マル 4:12/使 3:19、11:21、14:15、15:19、28:27/1 テサ 1:9/ヤコ 5:19-20)ヨハネの説教は、「イスラエルの多くの子らを」その不従順から、背教から、そして自分は正しい者だとする事から、「彼らの神である主に立ち返らせ(る)」のです!この御言葉からでも分かりますように、イエス・キリストご自身は「神である主」だと記しています!という事は、イエス・キリストは神ご自身であるという事を明記している事になります!
●後になってヨハネに割礼が施される時、その父親であるザカリヤは、息子について次のように預言をしています。「1:76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、 1:77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与える
ためである。」(ルカ 1:76-77)、と!ヨハネは、神の恵み(ロマ 3:24/エペ 2:5、8)、あわれみ(イザ 55:7/ヨエ 2:13/ルカ 1:50/テト 3:5)、そして罪の赦し(ロマ 4:6-8/エペ 1:7/ヘブ 9:22)という良き知らせ、福音が、到来される救い主を通して成し遂げられると宣言します!「これは、実にわれらの神の深いあわれみに」(ルカ 1:78)よるものです!
2)父たちの心を子どもに向けさせる役割(1:17b)
●二番目です。17節の中盤で、ヨハネのメッセージは「父たちの心を子どもたちに向けさせ(る)」と記しています!16 節で見ました「イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます」という福音は、人の悔い改めと密接に関わっています!(マタ 3:2/マコ 1:4)悔い改めの結果もたらされる一つが、「父たちの心を子どもたちに向けさせ(る)」という事です!(マラ 4:6)ヨハネのメッセージは悔い改めをもたらし、家族の回心をもたらすのです!例として、カペナウムの王室の役人とその家族に(ヨハ 4:46-53)、百人隊長コルネリオとその家族に(使 10:30-48)、またピリぴの看守とその家族に(使16:24-34)回心がもたらされました!両親も子どもたちも自分たちの罪を悔い改め、回心し、救い主を信じる信仰によって神に立ち返ります!そして、その結果、家族の中に和解がもたらされます!
そういう意味で、ヨハネの働きは父たちの心を子どもに向けさせるのです!
3)逆らう者を義人の心に立ち戻らせる役割(1:17c)
●三番目です。17 節の後半で、ヨハネのメッセージは「逆らう者を義人の心に立ち戻らせ(る)」と記しています!この「逆らう」と訳されている言葉は、新約聖書では決して説得されない者、また頑なに真理を信じる事を拒みまた真理に従う事を拒む者を指して使われています!(ヨハ 3:36/ロマ 2:8、11:30-31/1 ペテ 2:8、3:1、20)ヨハネの説教は、強情な罪人に対しまた冷酷な罪人に対峙します!そして、彼らの「心」を義なる者へと、正しい者へと変えて行きます!
●悔い改めて信じる心へと導かれた魂はどうなるでしょうか?その答えが、17 節の最後の御言葉に記されています。それは、霊的に「整えられた民」となって「主のために用意」されるのです!「こうして」、救い主を受け入れる心が人々に備えられて行くのです!
―6―
【要 点】 バプテスマのヨハネよりも偉大な者とは・・・?
●今回のメッセージの本論はここまでですが、ここで再度、イエス様が「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」(マタ 11:11a)と語ってヨハネを称賛した御言葉に戻って考えてみましょう。実は、この御言葉の後半には、次の言葉が続いて記されています。「しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です」(マタ 11:11b)、と!どういう意味でしょうか?探って行きましょう。
●真の意味での霊的な偉大さというものは、私たちが行う地上の任務から来るのではなくて、それは神からの賜物として与えられて持つ事のできる命から来るという事です!ヨハネの地上における偉大さは、これまで人に与えられた任務の中でも、最も偉大な任務を割り当てられたという事実に基づいています!人に与えられた任務の中でも最も偉大な任務が、救い主を人々に明らかに示すという任務でした!
●ヨハネはその使命に召された事によって偉大であるのですが、「天の御国の一番小さい者でも」ヨハネよりも「偉大」であるというのです!どういう意味でしょうか?それは、霊的偉大さの本質というものは、人間が取り組む任務よりも遥かに勝るものなのだという事です!霊的な命は永遠です!全て贖われた者たちは、同じ栄光に富んだ永遠の命という栄誉にあずかるのです!実に、それが究極的に偉大なものなのです!ですから、バプテスマのヨハネもまた「天の御国」に属する者ですから、他の全ての信者たちと共にその偉大さを分かち合う事になります!(マタ 20:16)
【勧 め】 それでは、今回のメッセージの勧めをしましょう。
●キリストにある全ての人は同じ神の命を宿していますので、ヨハネと同じように、気高い品性を生み出す力が与えられていますし、また気高い霊的献身を表して行く事ができます!それから、キリストにある全ての者が聖霊に満たされて力が与えられますので、キリストを宣べ伝える事ができます!ヨハネのように、全てのクリスチャンが同じ任務を託されており、悔い改めを語り、和解の使者となって、主イエス・キリストにある救いの信仰と身代わりの死を通して神に立ち返るよう勧める事ができます!そうする事によって、クリスチャンはヨハネの偉大さを共有する事ができるのです!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●前回と今回の前半メッセージで、私たちは旧新約聖書が「ぶどう酒」や「強い酒」についてどう語っているのかという事を簡潔に扱いました。双方が語っている点は、酒を健康のために有益に用いる事は必要ですが、酒によってはならないという事でした!また、外面の偉大さのしるしは内面の御霊の満たしから流れて来るものだという事を学びました!そして、聖霊の満たしは御言葉の満たしであるという事でした!そしてまた、付属的な事でしたが重要なポイントがありました。それは、人の命は受胎の瞬間から始まるゆえに胎児は人間であり、人間としての命の尊厳があるゆえに、聖書は中絶に反対しているという事でした!
―7―
●今回のメッセージの後半では、ヨハネの偉大さの根拠が、救い主を明らかにして人々へ宣べ伝える点にありました!救い主の到来を告げるヨハネのメッセージは、多くの人々が福音を通して主に立ち返らせ、悔い改めによって多くの家族に和解がもたらせるという事でした!そしてまた、ヨハネが語る福音が、強情な罪人や冷酷な罪人たちの「心」を義なる者へと変えて行くという事でした!
●そして最後に、全てのクリスチャンがヨハネと同じ任務を託されており、悔い改めを語り、和解の使者となって、人々が神に立ち返るよう勧める事ができるという事でした!そうする事によって、クリスチャンはヨハネの偉大さを共有する事ができるということでした!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●皆さんは、聖霊の力によってキリストを宣べ伝え、ヨハネと同じような偉大さを共有する事ができると信じていますか?そして、やがて来る天の御国で、更に栄光に富んだ永遠の命という栄誉にあずかる偉大な者になる事を期待して、残された地上での人生を神のために尽くそうと願っていますか?
【締めの御言葉】
女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です(マタイ11:11)。
―8―