ルカの福音書講解説教(8)/メッセージ原稿/『バプテスマのヨハネの偉大さ』(その 1)/2016.05.15
『偉大な者とは?!』
―バプテスマのヨハネに見られる品性(1)ー
《ルカ 1:15-17/今回は 1:15》
【序 論】
●前回まで 4 回にわたって、『ザカリヤへの神の啓示』について学びました。本日から何回かにわたって、『バプテスマのヨハネの偉大さ』について新しく学びます。今回のメッセージの主題は、『偉大な者とは?!』です。
この世では、偉大な者あるいは偉大な物として称賛を受ける人々や品々が多く見受けられます。この世が語る偉大さと聖書が語る偉大さには違いが見られるのでしょうか?もし違いがあるのでしたら、どういう点が違うのでしょうか?
●聖書は、神の喜ばれる偉大さが、バプテスマのヨハネの中に見られると語っています!イエス様は、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」(マタ 11:11a)とまで称賛しておられます!その意味を、これからのメッセージを通して紐解いてみたいと願っています。新しいテーマのメッセージアウトラインは下記の通りです。順を追って、メッセージを取り次いで行きましょう。
【全体のアウトライン】
『バプテスマのヨハネの偉大さ』
◎序論/偉大な者とは/今回
[1]バプテスマのヨハネの品性(1:15)/今回途中まで
[2]バプテスマのヨハネの使命(1:17a)/次回
[3]バプテスマのヨハネの役割(1:16、17b)
【今回のアウトライン】
◎序論/偉大な者とは
1)偉大さについての世の基準
2)偉大さについての神の基準
3)偉大な者と呼ばれたバプテスマのヨハネ(ルカ 1:80/マタイ 11:11/他)
[1]バプテスマのヨハネの品性(1:15)
1)主の御前に偉大な者(1:15b、1:15a)
2)主の御前に正しい者
3)主の御前に偉大な者のしるし(1:15c、15d)
ア)外面や物的なしるし(1:15c)/今回途中まで
イ)内面や霊的なしるし(1:15d)/次回
―1―
【本 論】 それでは、今回のメッセージの本論に入りましょう。
◎序論/偉大な者とは
1)偉大さについての世の基準
―この世の定義&基準―
●「偉大」という言葉の意味を一般の辞書で調べますと、「並外れて優れており、功績や魅力が大きい事、威風堂々たる事」などという説明がなされています。社会の様々な分野で、例えば教育界において、科学分野において、医学分野において、芸術界において、スポーツ界において、人道面において、人々の記憶から消し去る事ができないほど多大な功績を遺した人々を偉大だと称します。また、前人未到の記録を打ち建てる事によって、人々はその人を偉大だと称賛します。日本で「偉大」という言葉を考える時に、一般によく知られている偉大な賞を取り上げてみたいと思います。それは、「国民栄誉賞」です。
―国民栄誉賞―
●39 年前(1977 年)に創設された「国民栄誉賞」は、これまで 23 名の方々が受賞して来ましたが、その中から何名かを取り上げてみる事にしましょう。一番目の受賞者は「王貞治」で、ホームランの新記録達成という功績に対してです。飛んで、10 番目の受賞者は「長谷川町子」で、「サザエさん」や「いじわるばあさん」に代表されるように、家庭漫画を通じて戦後の日本の社会に潤いと安らぎを与えたという功績に対してです。更に飛んで、19 番目は「FIFA女子ワールドカップドイツ2011日本女子代表チーム」(なでしこジャパン)で、東日本大震災の災難から立ち上がらんとする被災者と全ての国民に勇気と感動を与えたという功績に対してです。現時点で最後の受賞者と言えば、長嶋茂雄と松井秀樹の野球界で活躍した二人です。23 名の方々は勿論私たち日本人の誇りですし、国民を勇気付けた事には間違いありません。
文字通り、人々の記憶から消し去る事ができないほど多大な功績を遺しまた前人未到の記録を達成した人々です。
―徳川家のお宝―
●もう一面、偉大さについてのこの世の基準が物です。物品です。実は、昨年、2015年 10 月、200 年振りに「徳川の祭」が広島の東照宮で開催されました。この祭りは家康の 50 回忌毎に行う行事ですが、
なぜ、その祭りが 200 年振りに行われたのでしょうか?150 年前は広島が第二の長州征伐の拠点となったために取り止めとなり、100 年前は第一次世界大戦ために取り止め、50 年前は第二次世界大戦後の広島でしたので開催は不可能でした。そしてまた、今年、2016 年 5 月 29 日まで、「徳川家康没後400 年記念 天下太平 徳川名宝展」が広島県立美術館で開催されております。
●どういう物が展示されたかと言いますと、戦場に於ける本陣の場所を示す巨大な金の扇である「金扇馬印」(きんせんうまじるし)だとか、また家康が薬入れとして使っていたお椀で、金箔で菊と桐の文様を表現している「菊桐蒔絵蓋付椀」(きくきりまきえふたつきわん)とか、それらの中でもとっておきのお宝が茶器「初花」(はつはな)という重要文化財に指定されている貴重な品々です。その中でも特に、茶器「初花」は、室町幕府八代将軍足利義正から織田信長へ、豊臣秀吉へ、そして徳川家康に伝わって来たお宝です。天下人を次々に夢中にさせた高さ 8.8 センチの小さな茶器です。(続く) ―2―
この茶器を持つ事で、武将はその地位やカリスマ性を高めと言われています。重要文化財に指定されていますので売買は禁じられていますが、もし値を付ける事ができるとしたら 3 臆円から 4 臆円だと言われています。文字通り、「並外れて優れており、威風堂々たる品物」ですし、この世の偉大さの基準に合致したものです。
2)偉大さについての神の基準
●さて次に、神の偉大さについての基準について考えましょう。神の偉大な基準は、この世の基準を遥かに超えるものです!どういう意味で、神の偉大さの基準はこの世の基準を遥かに上回るのでしょうか?それは、永遠に続く天的なものなのかそれとも一時的なこの世のものなのかという意味で、神の偉大さの基準はこの世の基準を遥かに上回ります!具体的にどういう意味でしょうか?聖書の中で、神が「偉大な人」(ルカ 1:15/新共同訳)と呼ばれた人物を調べる事によって、神が示される「偉大(さ)」の基準が何なのかを学ぶことができます。さて、その人物とは誰でしょうか?それは、バプテスマのヨハネです!
3)偉大な者と呼ばれたバプテスマのヨハネ(ルカ 1:80/マタイ 11:11/他)
―ヨハネの出生地―
●バプテスマのヨハネには、この世が偉大だと考えている趣きやいろどりや雰囲気は何一つ見られません!ヨハネは、「山地にあるユダの町」(ルカ 1:39、65)の生まれで、首都エルサレムの上流階級の出ではありませんでした。彼が正規の教育を受けたという記録はどこにも記されていません。彼は首都エルサレムの金持ちや有名な人々と親しく関わるのではなく、「イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野に」(ルカ 1:80)いました。政治、文化、商業の中心からは程遠いところで生活していました。
―ヨハネの服装と食物―
●それと、ヨハネの服装や食物について、聖書は次のように伝えています。「ヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」(マタ 3:4)、と。「らくだの毛の着物」と「皮の帯」というヨハネの服装は、当時のファッションセンスに合っていたでしょうか?また、「食べ物」が「いなごと野蜜」だという事においても、その当事の主流な料理であったでしょうか?その当時のユダヤ人の服装や食物からすると、いずれもかなりはずれていたものです。実は、ヨハネの風貌は、大昔の旧約の預言者に見られる姿を示していました。
●それでいかがでしょうか、彼は事実当時の文化様式からは掛け離れていましたが、彼のメッセージやその影響力というものは、それによって制約されていましたでしょうか?マタイ 3:5-6 は、次のように伝えています。「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた」のでした!このように、ヨハネは当時の文化様式には沿わない生き方をしていたのですが、それとは裏腹に、彼の影響力は神の御心によって制限されないばかりか、多くの人々がヨハネの元に押し寄せて来たのでした!そして、救い主の到来に備えたのでした。
―3―
―ヨハネの教育また社会や宗教との関わりとは・・・?―
●また一方、ヨハネは、当時いかなる公的な機関とも関わりを持っていませんでした。彼は、いかなる社会運動や政治運動も始めていませんし、いかなる組織もまたいかなる宗派も設立していません。いや、それどころか、ヨハネは、イエス・キリストの道備えをする者としてキリストを宣べ伝える時に、
キリストに比べて自分がいかに値打ちのない者なのかを十分認識して語っています。「私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません」(マタ 3:11/ヨハ 1:30)、と!自分は奴隷以下だと語っています!また、自分の弟子たちに対してでさえ、キリストに従うよう仕向けたくらいでした(ヨハ 1:35-37)。
―宗教や政治の権威者との関わり―
●祭司の家系に生まれましたが、彼が祭司職に就く事はありませんでした。当時の宗教権威者たちは最初ヨハネに対して困惑しましたが(ヨハ 1:19-27)、ヨハネが彼らの偽善を厳しく非難しましたので、彼らは直ぐにヨハネを憎むようになりました(マタ 3:7-12)。また、彼は、当時の政界の権威者たちとうまくやって行くような事を考えませんでした。と言うのも、ガリラヤを統治していた国主ヘロデに対して、ヨハネは、ヘロデがヘロデ自身の兄弟ピリポの妻ヘロデヤとの罪深い関係を臆する事無く大胆に非難して彼に恥をかかせました!その結果、ヨハネは投獄されて処刑に至りました。この世の人々にとってヨハネの死とは、次のようなものです。ヘロデ王の誕生祝の席で挑発的なダンスを踊ったヘロデヤの娘とヘロデヤ自身に焚き付けられて首をはねられ、一風変わった説教家として死んで行ったくらいにしか思われていませんでした(マタ 14:1-12/マコ 6:14-29)。
―バプテスマのヨハネに対するイエス様の評価―
●しかし、この世のヨハネに対する評価は完全に的外れなものでした!究極の権威者であられる受肉された主イエス・キリストは、バプテスマのヨハネに対して次のような評価をしておられます。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」(マタ 11:11a)、と!
<導 入>
●今回から、何回かにわたってバプテスマのヨハネを取り上げて御言葉を学びます。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」とイエス様に言わしめるヨハネとは、いったいどういう神の器だったのでしょうか?これから解き明かされる御言葉に期待をして下さい!
[1]バプテスマのヨハネの品性(1:15)
●それでは、本論に入ります。その第一ポイントは、バプテスマのヨハネの品性です。その一番目が主の御前に偉大な者、二番目が主の御前に正しい者、そして三番目が主の御前に偉大な者の外面と内面のしるしです。今回は時間の制約上、外面のしるしの半分までを取り扱い、残りは次回に回します。
1)主の御前に偉大な者(1:15b、1:15a)
●さて、一番目ですが、主の御前に偉大な者という点です。15 節の前半部分で、「すぐれた者」という言葉があります。(続く)
―4―
私たちが用いている新改訳聖書では「すぐれた者」と翻訳されていますが、口語訳では「大いなる者」と翻訳され、新共同訳では「偉大な人」と翻訳されています。私は、この言葉に限っては新共同訳の「偉大な」という訳を、アウトラインやメッセージの中でより多く用いています。偉大さを測る物差しは、ある特定の文化や歴史の中で変化しますが、バプテスマのヨハネの偉大さは、時と文化を超越しています!前述しましたが、イエス様は、人類の歴史が始まって以降、バプテスマのヨハネの時代までに生存した人の中で、彼が一番偉大であると宣言しておられるのです!
―旧約の偉大な神の器たち―
●いったいどういう意味なのでしょうか?それは、旧約聖書に記されている全ての優れた偉大な神の器たちよりも、ヨハネがより偉大な人物だと言っているのです!イエス様は、物凄い称賛の言葉をヨハネに対して語っているのです!旧約聖書には、どのような優れた神の器たちが登場していましたでしょうか?ざっと二十名近くの優れた器たちを挙げてみましょう。
●一人目がエノクで、彼は神と共に歩み、死ぬ事無く天国へ引き上げられた人物でした(創 5:24/ヘブ11:5)。信仰者として、どのくらい素晴らしい生き方をしていたからでしょうか!?二人目がノアで、神は大洪水から彼の命を保ち、後の人類を彼の家族から再スタートさせました(創 7:1-7/ヘブ 11:7)。三人目はメルキゼデクで、彼はシャレム(後のエルサレム)の王であり且ついと高き神の祭司で、アブラハムが彼に十分の一の捧げ物をした程の神の器でした(創 14:18-20/ヘブ 7:1-10)。四人目はアブラハム自身で、イスラエル国家の先祖に当る人物です(創 12:1-7/ヘブ 11:8-10)。五人目のイサク(創 17:19、21/出 3:15)、六人目のヤコブ(創 28:10-15/レビ 26:42)、七人目のヨセフ(創 37:3、39:2-4、41:38-45)も、それぞれイスラエル民族の先祖たちになります。八人目がモーセで、出エジプトの指導者であり且つ彼を通して律法がイスラエルに与えられました(エレ 15:1/マタ 23:2/ヘブ 11:23-29)。彼は、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民 12:3)と記されています。
●九人目のダビデ並びに十人目のソロモンはイスラエルの最も偉大な王たちです(1 王 3:10-13/2 サム 7:1-17/1 歴 29:25/詩 78:70-71、89:35/マコ 11:10/ルカ 1:32/使 13:22-23)。十一人目と十二人目は奇蹟を行った預言者であるエリヤ(1 王 17:17-24)とエリシャ(2 王2:14、4:1-7、18-37、5:1-19)です。
十三人目から十六人目が、大預言書を書いたイザヤ(イザ 6:6-10)、エレミヤ(エレ 1:4-19)、エゼキエル(エゼ 2:1-3:9)、そしてダニエル(ダニ 1:8-16、2:46-49、6:1-4、9:1-23)です。そして、他の旧約時代の信仰の英雄と呼ばれる者たちがヘブル書の 11章に記されています。これら全てに勝って、バプテスマのヨハネは偉大だというのです。さて、ここで注目したい言葉があります。それが次のポイントです。
―ヨハネの「主の御前にすぐれた者」とイエス様の「すぐれた者」との違い!?―
●15 節の最初に、「主の御前に」という言葉がありますが、これはヨハネが偉大な者であるという意味を理解する上でとても大切な言葉です。ヨハネが偉大であるというゆえんは、「主の御前に」あってのみそう言える言葉なのです!ルカ 1:32にも同じように「すぐれ者」という表現がなされています。これはイエス様に対して使われている言葉です。マリヤから救い主がお生まれになるのですが、そのお方は「すぐれた者」すなわち偉大な者になると、御使いガブリエルがマリヤに語っている場面です。(続く)
―5―
どうでしょうか、イエス様は「すぐれた者」で、ヨハネもイエス様と同じように等しく「すぐれた者」だと語っているのでしょうか?両者は等しく偉大な者なのでしょうか?イエス様は人となられた神で、ヨハネは元々人ですから、両者が等しいと言う事では決してあり得ません。その差をどう理解したらいいのでしょうか?イエス様は元々既に「すぐれ者」であり且つ絶対的にそうなのですが、ヨハネは元々「すぐれ者」ではなく、神によってそのようにされた者なのです!その点に関しては、次のポイントに続きます。
2)主の御前に正しい者
―神による義認―
●すなわち、「主の御前にすぐれ者」すなわち「主の御前に偉大な者」になると神によって承認されるという事は、ヨハネが神の御前に正しく義とされる者になるという事がその言葉の背後にあるのだという事を理解する必要があります!言外の意味がそこにあります!行間を読む必要があります!すなわち、ヨハネの罪が神よって赦される事によって彼は神から承認され、そして「主の御前に偉大な者」になる事ができるのです!神は、御子イエス・キリストの十字架の贖いの業がなされる事を知っておられますので、ヨハネへイエス・キリストの義を授けるのです!(イザ 61:10/ロマ 3:22/2 コリ5:21)でも、ちょっと待って下さい。ヨハネはまだ生まれていませんので、イエス・キリストを知りませんし、信じる事もできません。第一、身ごもってさえもいません。ですから、誕生も考えられません。ヨハネの救いをどう理解したらいいのでしょうか?
―神の選び―
●まだ母の胎の中に身ごもっていない者に対する救いの約束というものは(エレ 1:5/ガラ 1:
15-16)、神の選びの教えを理解する上で、とても重要な意味を持っています!(エペ 1:4)ヨハネと同じような例を取り上げましょう。エレミヤの選びと誕生と使命について、聖書は次のように語っています。
「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレ 1:5)、と!このヨハネに対する神の選びも、神が、信じる者をどのようにご自身の主権によって選ばれるのかを示す重要な例だと言えます!(ヨハ1:12-13、6:37、44、15:16/ロマ 8:29/1 テサ 1:4/1 ペテ 1:1-2)そして、神によって選ばれたこれらの名前が、この世界の基が据えられる前から、既に小羊のいのちの書に記されていたのです!(2 テサ 2:13-14/ルカ 10:20/使 13:48/ロマ 8:29/黙 13:8、17:8)という事で、ヨハネが偉大な者とされる前に、神の彼への選び、神の彼への救い、神の彼への聖化、そして神が彼へ使命をお与えになり、彼がその使命に生きるという事によって初めて、彼が偉大な者と呼ばれるようになるのです!
3)主の御前に偉大な者のしるし(1:15c、15d)
●15 節の中盤から後半に移りますが、御使いガブリエルは、ヨハネの偉大さの二つのしるしについて伝えています。一つ目が外面や物的なしるし、そして二つ目が内面や霊的なしるしです。
ア)外面や物的なしるし(1:15c)
―アルコール飲料&この世のファッションと食事―
―6―
●それでは、一つ目の外面や物的なしるしについて見てみましょう。ヨハネは、15 節の中盤にありますように、
「ぶどう酒も強い酒も飲ま(ない)」と記されています。外から見える彼の姿と言えば、禁酒、節度、自制するという生き方でした!彼が選んだ服装と言えば、「らくだの毛の着物」(マタ 3:4a)を着て、「腰には皮の帯を締め(る)」(マタ 3:4b)というスタイルでした。また、彼が食べていた食物と言えば、「いなごと野蜜」(マタ 3:4c)でした。
―ぶどう酒と酒断つ事の意味―
●ヨハネの服装や食物は、いったい何を示しているのでしょうか?それは、彼が世の楽しみに対して関心を持っていないという事を示しています!世の人々が楽しんでいる楽しみを重要と思っていないのです!「ぶどう酒」や「酒」を遠ざけて「飲ま(ない)」という事は、ヨハネがこの世と距離を保つに当って、更に踏み込んだ先駆者としての姿勢を取っている事を示しています!ヨハネは、神が彼に託した重要な使命を全うする事に思いを集中させていますので、これらの世の楽しみに関わる事から自分自身を引き離したのです!
―ヨハネがぶどう酒や酒を遠ざける決断に導いたと旧約聖書の教え―
<「新しいぶどう酒」/ぶどうジュース>
●ヨハネが、特にこの「ぶどう酒」や「酒」を遠ざけるという決断に至った理由はどこから来ているのでしょうか?実は、旧約聖書が「ぶどう酒」や「酒」について多くの事を語っていますので、ヨハネの決断に影響を与えたその教えに目を留め、そこから学んで行きましょう。二つのヘブル語が「ぶどう酒」と訳されていますので、まずはそこから紐解いて行きましょう。一つ目は、“ティロッシュ”という言葉です。通常は「新しいぶどう酒」と訳されています(創 27:28、37/申 7:13、11:14、12:17、14:23、18:4、28:51、33:28/2 王 18:32/詩 4:7/箴 3:10)。そしてそれは、搾り機から流れ出るぶどうジュースに関連しています。そのぶどうジュースをぶどうの皮袋に入れて熟成させ、そして発酵させます(ルカ 5:37-38)。それによって、アルコール成分ができます。そのアルコールが脳の機能を麻痺させる事で人は酔うのです。旧約聖書のホセア書では、「ぶどう酒は思慮を失わせる」(4:11)と記している通りです。
<酔わせる「ぶどう酒」>
●二つ目に“ヤアイン”という言葉がありますが、それは発酵してアルコール成分ができ、人を酔わせる事のできるぶどう酒を指して使われています(創 9:21、24、19:32-35/レビ 10:9/民 6:3/1 サム 1:14、25:36-37/エス 1)10/詩 78:65/箴 20:1、23:29-35/伝 2:3/イザ 28:1、7/エレ 23:9/ゼカ 9:15、10:7)。 現代のような冷却装置のなかった古い時代は、ぶどうジュースを保存しておくと短時間ででも発酵は進みました。それゆえ、律法の教師たちは、発酵したぶどう酒に含まれる人を酔わす作用を心配しました。それで、彼らは、ぶどう酒を水でかなり薄めて飲むよう人々に要求したのです。そのようなぶどう酒を、聖書は次のように語っています。「混ぜ合わせたぶどう酒」(箴 9:25)、と。そのようにして、水で薄めたぶどう酒と水で薄めていない酒とを分けて理解しました。ぶどう酒を水で薄めるという事には、もう一つの利点がありました。それは、飲み水にぶどう酒を混ぜる事で、水の中に含まれている可能性のある悪い微生物を殺すという役目もあったのです。
―7―
<「ぶどう酒」の有効な用い方>
●旧約聖書は、ユダヤ人が普通にぶどう酒を飲んでいた事を伝えています。がしかし、聖書は、節度を保つ事を命じていますし、また酒に酔う事を禁止しています!箴言 20:1 では、次のような警告がなされています。「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。」、と!勿論、旧約聖書はぶどう酒を神の民の祝福と結び合せて伝えているのも事実です。しかしまた、預言者アモスが、ぶどう酒の乱用について神の裁きを宣告しているのも事実です!(アモ 2:8,6:6-7)
そしてまた、アモス書の後の章になりますと、ぶどう酒のふさわしい用い方に祝福が伴っている事が記されているのも事実です!(アモ 9:13-14)
―次回の予告―
●次回のメッセージでこの続きをします。新約聖書が「ぶどう酒」や「酒」についてどう語っているのかを、メッセージの最初の部分で取り上げる事にします。そして、その次に、バプテスマのヨハネの内面や霊的な偉大さについて学び、その偉大さの意味を深めます。そして、次のポイントに学びを進めます。
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●この度は、『バプテスマのヨハネの偉大さ』の第一回目のメッセージを取り次ぎました。主題は、『偉大な者とは?!』でした。この世の偉大さの基準はつかの間のものですが、神が語る偉大さの基準は永遠に続くものを指しています!その神が語る偉大さが、バプテスマのヨハネの中に見られるのです!まず、バプテスマのヨハネも私たちクリスチャンと同じように、産まれる前から神によって選ばれた者であり、罪赦されて義とされる必要があり、そして神の重要な使命に立つために外面と物的面での世の楽しみの基準に自分を合わせる事をしませんでした!特に、救い主の道備えをする旧約最後の預言者としての務めを全うするに当って、判断を鈍らせてしまうアルコールを避けたのでした!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●次週のメッセージで、偉大さについてのメッセージは完了するのですが、あなたの偉大さの基準は聖書的に整え始められましたと感じますか?あなたが物事を判断する時に、つかの間の一時的なものが基準ですか?それとも、永遠に続くものを常にあなたの判断基準としていますか?そして、あなたは、アルコールをはじめ、自分の判断を鈍らせるありとあらゆるこの世の楽しみについてどう整理していますか?聖書はぶどう酒や酒を飲むなと命じてはいませんが、酔ってはならないと命じています!
旧新約聖書は、あなたがアルコールを飲む時に、あなたの健康を維持するために酔わずに有効に用いる事を勧めています!もしあなたがアルコールを飲むならば、そのようなアルコールの用い方をしていますか?次週、新約聖書が語るアルコールについて学びますが、その時点でアルコールについての総まとめをします。それでは、祈りましょう。
【締めの御言葉】
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです(2コリント4:18)。 ―8―