ルカの福音書講解説教(6)/メッセージ原稿/『ザカリヤへの神の啓示』(その 3)/2016.05.01
『主は恵み深い!』
―贖いの歴史における大きな転換点ー
《ルカ 1:5-14、18-25/今回は 1:8-14》

【序 論】
●前回のメッセージで、二人の素朴で謙虚な夫婦を取り上げました。一人目の「ザカリヤ」という名前の
意味は、「神はあなたを覚えておられる」でした。長期の時間の経過は見られましたが、神は確かに
ザカリヤを覚えておられるという事が分かります!二人目の「エリサベツ」という名前の意味は、「神は誓
いである」でした。神が誓われた事は全て真実であり、神はその誓いを忠実に果たされる素晴らしい
お方なので、ほめたたえられるべきお方であるという意味が込められていました!
●さて、今回のメッセージでは、その夫婦から奇蹟的に誕生する息子であるバプテスマのヨハネについて
の約束に目を留めます。「ヨハネ」という名前は、本論で詳しく取り上げますが、「主は恵み深い」という意味
があります。救い主イエス・キリストの『最も偉大な生涯の物語』を始めるに当り、バプテスマのヨハネ
の果たす役割が、いかに贖いの歴史における重要な転換点であったのかを学ぶ事になります!解き
明かされる聖書の御言葉の真理の素晴らしさを味わう事になると確信します。また、今回のメッセー
ジでは、旧約の幕屋を源とする聖所や至聖所で務めを果たす祭司の働きについても画像を用いて解説
します。聖書はとても興味深いものです。
【全体のアウトライン】
『ザカリヤへの神の啓示』
◎序論/義の太陽が夜明け前に上る!/済
[1]最も偉大な生涯の物語の時代的背景(ルカ1:5a)/済
[2]ザカリヤ夫妻の義認と聖化そして苦悩と失意(ルカ1:5b-7)/済
[3]ザカリヤの祭司としての栄誉ある任務(ルカ1:8-10)/今回
[4]ザカリヤへの神の預言の啓示(ルカ1:11-14)/今回
[5]ザカリヤの不信仰に対する神の叱責(ルカ1:18-25)/次回
【今回のアウトライン】
[3]ザカリヤの祭司としての栄誉ある任務(ルカ1:8-10)
1)生涯で一度あるかないかの最も栄誉ある祭司の務め(1:8-9a)
2)人々を神に近づける祭司の務め(1:9b-10)
―1―
[4]ザカリヤへの神の預言の啓示(ルカ1:11-14)
1)五世紀ぶりの御使いの奇蹟的介入(1:11)
2)ザカリヤの不安と恐怖(1:12)
3)御使いの慰めと祝福(1:13-14)
ア)ザカリヤ夫妻へのヨハネ誕生の約束(1:13b-14a)
イ)多くの人のヨハネ誕生の喜び(1:14b)
【本 論】 それでは、今回のメッセージの本論に入りましょう。
[3]ザカリヤの祭司としての栄誉ある任務(ルカ1:8-10)
1)生涯で一度あるかないかの最も栄誉ある祭司の務め(1:8-9a)
●それでは、第三ポイントのザカリヤの祭司としての栄誉ある任務について御言葉を紐解いて行きまし
ょう。その一番目ですが、ザカリヤは、エルサレムの神殿で「神の御前に祭司の務めをしていた」のですが、そ
れはまさに祭司の務めの頂点を意味する時でした。5 節で既に触れましたが、この時、「ザカリヤは、自分」
が属する「アビヤ」の「組が当番」で、年に二回ある一週間ずつの務めのいずれかの「務め」を指している出
来事です。ルカは、9 節で、「祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことにな
った」と、事実をありのままに伝えていますが、実はその務めがどれくらいの緊張感を強いられるものなのかに
ついては、その背景を知らない現代の私たちには分からないところです。その点については後で触れる事にし
ます。この神殿での務めというのは、祭司にとっては、一生に一度あるかないかの神殿の聖所に於け
る一大事な出来事です!そういう意味で、祭司にとっては最も名誉ある務めであったと言えます!前回
のメッセージでも語りましたが、数千から一万人以上はいた祭司の中から、多くの祭司たちが、エルサレム神
殿に於ける聖なる儀式を執り行う特権にあずかるという事はそうある話ではありませんでした。
2)人々を神に近づける祭司の務め(1:9b-10)
―「香」を炊く儀式について―
●神殿に於ける祭司の務めは、その原形である出エジプト記の幕屋にさかのぼる必要があります。出エジ
プト記をはじめとして、他の旧約書巻は次のように語っています。
30:7 アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびを整えるときに、煙を立ち上らせなけれ
ばならない。 30:8 アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これ
は、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である(出 30:7-8/参、レビ 16:
12-13/2 歴 29:11)。
●この出エジプト記の御言葉のように、祭司は、神殿の幕屋の中で、「香」を絶やす事無く永久に炊き続け
なければなりませんでした。「香」を炊き続ける場所はどこにあるのかと言いますと、至聖所と聖所を分けてい
る幕のすぐ手前でした(出 26:31-32)。(続く)
―2―
すなわち、「香」を炊く場所は至聖所以外にあるのですが、至聖所のすぐ近くに設置されているという事でし
た(ヘブ 9:1-5/出 30:1-10、40:5、22-27/レビ 16:12-13)。「百聞は一見にしかず」ですので、図に表した
ものをお見せしましょう(プロジェクター[8 枚]/ヘロデ神殿全体像[1]、ヘロデ神殿内部[1]、荒野の幕屋全体
像[1]&[2]、荒野の幕屋内部[1]&[2]、聖所と至聖所の間の仕切幕[1]、証しの箱&贖いの蓋&恵みの
座[1])。
●一人の祭司が毎朝毎夕「香をたく間」は、10 節に記されていますように、他の祭司たちと「大ぜいの民は
みな、外で祈って」いました。ルカは、ここで「大ぜいの民」と記していますので、ザカリヤが「香」を炊いている
のは、「大ぜいの民」が集まる夕方の儀式の時であったと考えられます。
―聖所で務めをなす祭司の恐れ―
●この聖所での「香をたく」務めは、全ての祭司にとって、なるべく早く速やかに成し遂げて終えるという事が
常識でした。なぜなら、何か誤った事をやってしまうのかも知れないという恐れを持っていました。何か取るに
足らない些細な事に対してもそう感じるのでした。その些細で取るに足りないと思われる事が神に対する無
礼につながるのかも知れないし、それが神への冒涜になるのではないかという恐れがあったからでした。現に、
大祭司アロンの子である「ナダブとアビフ」が、神が定められたものではなく「異なった火を主の前にささげた」
時に、「主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ」(レビ 10:1)という事例が過去にあ
ったからです。
―至聖所&贖罪の日&大祭司―
●聖所の奥にある至聖所に関する理解を深めましょう。新約聖書のヘブル書では、「第二の幕屋(至聖所)
には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません
。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」(ヘブ 9:7)と記されています。大祭司であっても罪人である自分のために、罪人である家族のために、また罪人である民のために、その罪の赦しのために年に一度至聖所に入って贖罪の儀式を神の前で執り行うのでした。また、
自分では「知らずに犯した罪」は認識する事ができませんので、その罪の分についても赦しを願うために贖
罪の儀式が必要でした。
●レビ記では、その日を「贖罪の日」(レビ 23:27-28、25:9)と記しており、ユダヤの暦の第7月の第 10日
と定められていました。現在私たちが用いている太陽暦では、9 月の後半から 10 月に掛けてという事になり
ます。その日、人々は聖なる会合を催し、一日断食をし、一切の仕事をやめて完全な安息を守りました
(レビ 23:28/民 29:7)。一方、大祭司は身をきよめ、聖なる装束をつけて、いけにえの血を携えて至聖
所に入り、そこで、自分と自分の家族そして民の罪の贖いのため、契約の箱の上にある贖いのふた(恵みの座)の上にその血を 7 回にわたって降り注ぎます。
●また、至聖所から出て来る大祭司には二頭の山羊が備えられています。一頭はいけにえとして主に捧
げられます。もう一頭に対しては、その頭に両手を置いて民の全ての咎と背きの罪を告白します。そし
て、その山羊は民の全ての咎を背負って荒野へ放たれます。そういう意味で、これは「贖罪の山羊」と言え
ます。この山羊は、レビ記では「アザゼル」(レビ 16:8-10)と記されています。(続く) ―3―
この言葉は、「除去する」と言う強い意味の「アーザル」という言葉から来ていると考えられています。それが、
「全き除去」とか「罪の全き赦し」という意味につながって、この山羊の持つ役割を示していると理解されてい
ます。
●現代の私たちは「スケープゴート」という言葉を使いますが、それは元々ここから来ている言葉です。問題
の責任をその発端となった人間や物に問うのではなく、他の人や物に転嫁する事でその解決を図るという時
に使われる言葉です。例えば、民衆の不満や怒りの解決のために、代りに攻撃の標的とされてしまう者、集
団や国や民族などの事を言います。聖書を源とするこの言葉を、多くの人が意識せずに生活の中で使ってい
ます。大祭司がそのようにする事によって、民の1年間の罪が赦されて清められるのです(レビ 16章)。
―旧約の「贖罪の日」から新約の「贖いの日」への大転換―
●この「贖罪の日」の全ての儀式は、究極の大祭司であるイエス・キリストによる十字架上の罪の贖
いの業を前もって表したものです!その贖いが既に十字架で成し遂げられましたので、レビ記に記
された「贖罪の日」は必要でなくなりました!ですから、新約時代に住む私たちは、いけにえを捧げ
て罪の贖いをする必要はなくなったのです!特別な人が大祭司となり、その子孫が祭司となるとい
う制度は必要でなくなりました。その代りに、イエス・キリストを信じる全てのクリスチャンが祭司にな
って、直接神に近づく事ができる者となりました!その証拠が、ヘロデの神殿の聖所と至聖所を分
ける「幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マタ 27:51)事でした!大きな贖いの歴史の転換が、
イエス・キリストによってなされたのです!それゆえ、新約聖書では、ユダヤの暦の第 7 月の第 10 日
が「贖罪の日」ではなく、キリスト者の救いの完成の時すなわちキリスト者が栄化される日を「贖いの
日」(エペ 4:30)と呼ぶようになりました!
―現代でも行われているユダヤ教徒の「贖罪の日」の遵守―
●そのように贖いの歴史に大転換が行われたにもかかわらず、ユダヤ教徒は、今日でもレビ記に記
された「贖罪の日」を守り続けています。その日は、ユダヤ教における最大の休日の一つとして守られ
ています。ちなみに、その日は、ユダヤ教徒にとって、飲食、入浴、化粧などの一切の労働が禁じられ
ています。敬虔なユダヤ教徒は、唾液さえも飲み込むのではなく吐き出しているそうです。唾液を飲み
込む事も労働と理解されているからです。
―至聖所にいる大祭司の安全のしるし―
●さて、ザカリヤの聖所での務めの話に戻りましょう。聖所でも神への冒涜にならないようにとなるべく
早く祭司の務めを終えるようにするのですから、その奥にある至聖所の中に年に一度大祭司が入る
において、緊張感が増さない訳がありません。大祭司本人もそうですが、「外で祈って」いる「大ぜい
の民」もみな大祭司が年に一度の贖罪の儀式を無事終えるまでは、自分たちの罪が神によって赦さ
れたという確信が持てませんので緊張感を持ったままでいました。彼らは、大祭司の衣装の裾に取り
付けられている金の鈴の音が聞こえている限り、大祭司は生きているという事が分かりましたので安
心する事ができました(プロジェクター[1 枚]/大祭司&金の鈴のふさ)。そういう意味で、大祭司が年に一
度至聖所に入る時間帯というのは、肝を冷やすような時であったのです。 ―4―
―「香」の意味―
●9 節と 10 節で、祭司は聖所で「香をたく」務めが記されています。「香をたく」事によって、かおりのする煙
が神の御前に上に立ち上って行きます。それは、どういう霊的な意味があるのでしょうか?それは、人々
の悔い改めの祈りや告白や感謝の祈りを表しています。それから、救い主の到来やエルサレムの平
和、また国家や家族のための安全の祈りを指しています。そしてまたそれは、救いや御国の到来のた
めの祈りも指しています。ですから、「香をたく」という事は、人々の神への信頼(1 歴 29:12)、神への
従順(申 27:10/1 サム 15:22-23)、そして、自分たちに対する神の主権を認めるという事を意味していま
す(詩 103:19)。そういう意味で、祭司の役割は、神を人にもたらしまた人を神に近づけさせるという
重要なものでした!
[4]ザカリヤへの神の預言の啓示(ルカ1:11-14)
1)五世紀ぶりの御使いの奇蹟的介入(1:11)
―御使いの実際の出現―
●それでは、次の第四ポイントのザカリヤへの神の預言の啓示について学びましょう。その一番目ですが、
この贖いの歴史の中で極めて重要な神の時が訪れましたので、神は再び、人々の営みの中に奇蹟
的に介入されたのです!ルカは、単純素朴な表現ですが、「主の使いが現れ(た)」と記して、驚く
べき真実を伝えています!これは、全く予期せぬ出来事でした。なぜなら、御使いが最後に現れた
のが、何と五世紀も前の預言者ゼカリヤに対してであったからです。ゼカリヤが見た御使いは一連の
幻の中でしたが(ゼカ 1:9、2:3、4:1/ダニ 7:15-16)、この祭司ザカリヤは実際に自分の肉眼で御使い
を直接見たのでした!この天の御使いは見える者として現れ、11 節に記されていますように「香壇の
右に立(ち)」、自分がそこにいる事を明確に示しました。その御使いは何かぼんやりとした姿をして
いるのではなく、またザカリヤの想像による作り話でも全くありませんでした!神が、五世紀ぶりに、
人間の現実に介入されたのです!
2)ザカリヤの不安と恐怖(1:12)
●この驚くべき光景に対するザカリヤのすぐの反応は、十分に理解できるものです。12 節で、彼はすぐに「不
安を覚え、恐怖に襲われ」ました。「不安」という言葉は、元々、“震える”だとか「かき回(す)」(ヨハ 5:7)とい
う意味があります。それが、「おびえる」(マタ 14:6)とか「恐れ惑った」(マタ 2:3)、そして新改訳がここで訳して
いるように「不安」というふうに訳されます。ザカリヤがただちに「不安」になって恐れ惑ったという反応は、
御使いの現れを経験した人々にとってはよく見られるものでした(士 6:22-23、13:15-22/ダニ 8:
15-18/黙 19:10、22:8-9)。完全に聖い存在が目の前に現れる時、それを体験した人々にとっては、
いやがおうにも自分自身が不完全で罪深いものであるという事に気づかされます。そしてまた、その
罪に対する神の裁きをいやがおうにも感じさせられます。旧約聖書に記されているそのような経験
をした人々の反応は皆そうでした(創 2:17、6:5-7、19:24/出 20:5/民 11:1、32:23/ダニ 29:20/詩
98:9/イザ 13:11/エレ 32:19/エゼ 18:4)。
―5―
3)御使いの慰めと祝福(1:13-14)
●明らかに震えおののいている中で、13 節の前半に記されていますが、御使いはザカリヤに対して、
「こわがることはない」と告げ、彼の「不安」を取り除いて慰めを与えるのでした!(ダニ 10:12、19/ルカ
1:30、2:10)御使いは、裁きの言葉を告げに来たのではありませんでした。それゆえ、ザカリヤも恐
れる必要はありませんでした。
ア)ザカリヤ夫妻へのヨハネ誕生の約束(1:13b-14a)
●そうではなく、逆に、御使いはザカリヤに対して祝福のメッセージを届けに来たのです!13 節の中盤
から、「ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。」と告
げました!この「願い」というのは、神が自分たちに子どもを授けて下さるという、ザカリヤとエリサ
ベツが結婚して以来ずっと願い求めて来た祈りの課題でした。そして、恐らく、過去のある時点から
諦めていた祈りの課題であったとも思われます。7 節で既に記されていましたように、彼らは「ふたりと
ももう年をとってい」ましたので、神が自分たちの祈りに答えて下さるという希望を持てなくなって
いたと思われます。
●しかし、ついに今、どういう「今」でしょうか?それは、人間的な全ての望みが失われてしまった今、神
がご自分の目的に従って、彼らの願いに対して恵み深く答えられるのでした!ザカリヤの妻エリサ
ベツは「男の子を産み」、彼らに対して、その子の「名をヨハネとつけ」なさいという命令を与えまし
た!「ヨハネ」というギリシャ語の名前は、ヘブル語の「ヨハナン」という名前から来ています。その言
葉には、「神は恵み深い」という意味がありました!
●救い主の先駆者となる者の名前が「ヨハネ」と付けられたのはどうしてなのでしょうか?それは、「ヨ
ハネ」の誕生が、神の人類に対する贖いの歴史の重要な転換点となる
事を象徴していたからでした!神は、ご自分の御子主イエス・キリストを通して、今や、救いの恵みを豊かに注ごうとしておられる時が近づいていたのです!その点について、使徒ヨハネは次のように述べています。実に、麗しい表現です。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来
られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。1:17 というのは、
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである(ヨハ 1:
14、17)。
イ)多くの人のヨハネ誕生の喜び(1:14b)
●ザカリヤとエリサベツに息子が授けられるという嬉しい知らせは、二人にとっては、当然大きな「喜びとなり
楽しみ」をもたらすに違いありません。そしてまた、その喜びは、二人だけに留まりません!実際はそれ以
上に、他の「多くの人」が二人の「喜び」を分かち合い、「その誕生を喜(ぶ)」ようになるのです!どう
してでしょうか?(続く)
―6―
それは只単に出産して子どもが与えられるという喜びではなくて、生まれて来る「ヨハネ」が、16 節
に記されていますように、「イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせ」、救い主の差し迫った到来に備えるようになるからです!それゆえ、「多くの人もその誕生を喜(ぶ)」ようになる
のです!救い主イエス・キリストの『最も偉大な生涯の物語』のスタートに向けて、歴史の舞台が動
き始め、整え始められて行くのでした!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●『主は恵み深い!』という主題で、今回のメッセージを取り次ぎました。「主は恵み深い」というのは、ザ
カリヤとエリサベツ夫妻にこれから授けられる息子であるヨハネという名前の意味でした!バプテ
スマのヨハネの誕生は、「イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせ」、救い主の
差し迫った到来に備えさせるものとなりますので、その喜びは、文字通り大変大きなものでした!
神は、その選びの民であるイスラエルに対して、大変恵み深くあられました!神のこのご性質は、
永遠に変わるものではありません!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●あなたが信じている聖書の神が、実に恵み深いお方であるという事を、この度のメッセージを通し
て再確認されたと思います。私たちは、どれほど恵み深い神の恩恵にあずかっているでしょうか!?
私たちが救われて以来、どれ程の恵みを神は注ぎ続けて来られたでしょうか!?いくら感謝しても、
いくら主の御名をほめたたえても、それでは決して十分でない程の神のは計り知れない恵みです!
私たちは主に感謝して礼拝を捧げると同時に、主の恵み深さを兄姉に分かち合い、主をまだ知ら
ない人々へ伝えたいと願います!
●また、いかがでしょうか、現実の問題の中で、主の恵み深さに目を留める事を忘れ、主に感謝して礼
拝を捧げる事をおろそかにしていた方はおられませんか?あなたの目を、この主の恵み深さに向け
ようではないでしょうか!?
【締めの御言葉】
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は(詩篇34:8)。