『安息日に律法にかなっているのは!』
―規則を守る事に関心がある宗教指導者たちVS善を行う事に関心があるイエス様―
《ルカ6:1-11/今回は6:6-11》
【序 論】
●「安息日」というキーワードを元に、二回目のメッセージを取り次ぎます。前回は麦畑における安息日の出来事を取り上げましたが、今回は会堂における安息日の出来事を取り上げて、『安息日の主』というテーマのメッセージを締めくくる事にします。
●今回のメッセージの主題は『安息日に律法にかなっているのは!』で、副題が「規則を守る事に関心がある宗教指導者たちVS善を行う事に関心があるイエス様」です。今回のメッセージの流れは、下記のアウトラインの示す通りです。それでは、解き明かされる御言葉に期待を寄せましょう。
【全体のアウトライン】
[1]麦畑における安息日の出来事(ルカ6:1-5)/済
[2]会堂における安息日の出来事(ルカ6:6-11)/今回
【今回のアウトライン】
[2]会堂における安息日の出来事(ルカ6:6-11)
1)イエス様の働きと右手の萎えた人(ルカ6:6)
2)イエス様を訴える口実を探す宗教指導者たち(ルカ6:7)
3)宗教指導者たちのたくらみを見抜かれるイエス様(ルカ6:8-9)
4)ユダヤ教の安息日規定を故意に破られるイエス様(ルカ6:10)
5)イエス様に対して激怒し、殺害を企てる宗教指導者たち(ルカ6:11)
【本 論】
[2]会堂における安息日の出来事(ルカ6:6-11)
1)イエス様の働きと右手の萎えた人(ルカ6:6)
●それでは、6節からスタートしましょう。「別の安息日に」、イエス様は再びパリサイ人たちと「安息日」のあり方について対峙する事となりました。この出来事がいつどこの会堂で起こったかについては、はっきりと記されてはいません。でも、マタイやマルコそしてこのルカの福音書の全てにおいて、麦畑における安息日の出来事のすぐ後に記しているところから、恐らく早くてその翌週に、そんなに間を置かずに起こった出来事であろうと思われます。また、恐らく、カペナウムの会堂で起こった出来事であろうと考えられます。
●そして、これまでも学んで来ましたように、イエス様の働きにおける優先順位が、「教え」であったという事がここでも確認できます!(ルカ4:14-15、31、44、5:15、17)イエス様がその時どういう内容の「教え」をしておられたのかについては記録されていませんが、恐らく、これまでのように、自分が霊的に貧しい者であるという事を自覚する幸い、自分が罪とそれに伴う苦難に捕らえられている者であるという事を自覚する幸い、自分が霊的に盲目であるという事を知る幸いについて教えられたのであろうと思われます。そして、そのように自覚するよう導かれた者に対して、罪から解放される道がある事を教えられたに違いありません!そしてまた、偽りと破滅に満ちた律法主義宗教の重荷から解放される道を説かれたに違いありません!
●それからまた、この「安息日」の「会堂」には「右手の萎えた人」が出席していました。「右手」というところまで言及しているのはルカだけですが、医者である者に取ってふさわし描写だと思います。この世界で右利きが圧倒的に多い中、この男性がこれまで大きなハンデを背負い、仕事もできず、辛い思いをして生きて来たのであろうと推測できます。8節で、「その人は起き上がり」と記されている事から、恐らく彼は中風によって委縮した「右手」になったのであろうと考えられます。イエス様がこの「会堂」において一番注目したのは、この「右手の萎えた」男性でした!彼の癒しが、パリサイ人たちが後生大事にしていた安息日規定対する大きな挑戦となるからです!
2)イエス様を訴える口実を探す宗教指導者たち(ルカ6:7)
●麦畑の中までもずっと後を追い続け、自分たちの安息日規定に違反していないかを監視する「律法学者たちやパリサイ人たち」ですので、この日の「安息日」もまたいつものように、イエス様が訪れた会堂に出向いていました。そして、7節に記されていますように、この熱心な律法主義者たちは、イエス様の一挙手一投足を「じっと見つめて」いました。この「じっと見つめていた」という言葉は、「注意深く観察する」、「目を光らせる」、また「注意を払う」という意味があります。ここでもそうですが、この言葉は邪悪な響きを伴ったものです。ですから、「潜む」だとか「待ち伏せる」だとか「機会を狙う」だとかという風に訳さる言葉です(参 ルカ14:1、20:20/マコ3:2)。「律法学者たちやパリサイ人たちは」決して中立な立場で冷静に判断するというような者たちではなく、彼らはまさしくスパイでした。諜報員や工作員であり、ユダヤ当局からのまわし者たちでした。
●彼らの目的は只一つです。それはイエス様を「訴える口実を見つけるため」でした!しかし、彼らの行動には矛盾が見られます。彼らは自称安息日制度の守護者(守り人)たちなのですが、実際に彼らは、イエス様が安息日の規定を破る事を阻止しょうとはしませんでした。そうではなくむしろ逆に、イエス様が癒しを行って、自分たちが大切にしている安息日規定を破るよう望みました。そうさせる事によって、彼らはイエス様を「訴える口実を」得ようとしていました!イエス様が安息日に癒しの御業を行う事が、むしろ彼らのイエスに対する憎悪を満たす機会になるのです!彼らの主義主張と彼らの取っている行動との間には、全く矛盾がありました!
●何と、興味深い事に、イエス様の地上の生涯を通じて、「律法学者たちやパリサイ人たち」がイエス様の奇蹟を行う力を決して疑う事はありませんでした!ルカ5:17の中風をわずらった人の癒しの時に見られましたように、イエス様が人を癒す力をお持ちであるという事は、イエス様が罪をお赦しになる権威も持っておられるという事を証明していました!罪をお赦しになる権威を持っておられるという事は、イエス様が神ご自身であるという事もまた証明していました!そして、「パリサイ人たちと律法の教師たち」(5:17)もその光景を目の当たりにし、イエス様のそのお言葉をじかに聞いていた者たちでした。でも、彼らは、罪深く、傲慢で、強情な心の中で次のように邪推するのです!もしイエスが確かに癒すのなら、イエスを安息日規定を破る者として訴える事ができる、と!彼らは、どこまでも曲がっているとしか言いようがありません!
―安息日に認められる二つの例外―
●いかがでしょうか、安息日に病人の手当てをするという事は、旧約聖書の規則に反するものなのでしょうか?決してそういう事ではありません!むしろ、律法にかなっている良い業です!しかしながら、律法教師であるラビたちは、医者であっても、友人であっても、家族であっても、安息日には、誰も病人の手当てをする事はできないと規定しました!手当をして回復させる事は労働に当るので、安息日の規定に反するものであると教えました。しかし、二つのケースだけを例外としました。一つが、安息日が終わる前に死に掛けている場合の人です。二つ目が安息日に出産する場合の女性です。この二つの場合以外に、安息日に苦しんでいる人に愛とあわれみを示す事は、律法を破る冒涜者と見なされました!
3)宗教指導者たちのたくらみを見抜かれるイエス様(ルカ6:8-9)
●8節ですが、イエス様は既に5:22でまたこの後11:17でもなされるように、「律法学者たちやパリサイ人たち」の「考えを知っておられ」ました。イエス様は、彼らのご自分に対する悪意と憎しみに満ちた「考え」を見抜いておられました。彼らはイエスがなさる癒しの業を待っており、それによって安息日を犯していると訴える絶好なチャンスと考えていました。彼らの律法主義そして愛とあわれみが全く見られない彼らの規則や考えを無視して、その「手の萎えた人に」対して、「『立って、真ん中に出なさい。』と言われ」ました!
●いかがでしょうか、彼らの律法からすると、この「手の萎えた人」は安息日に手当てを受けてもいい部類の人ですか?死に瀕している人ではありませんし、勿論、男性ですから出産の場合でもあまりません。ですから、イエスがその人を癒すのは、宗教指導者たちからすると律法違反以外の何ものでもありません!イエス様はそれらの事を全てお見通しで、彼らの安息日に対する歪んだ考えに一撃を加える絶好な機会が、その「手の萎えた人」を通して与えられました!それを実行に移す上で、その人はパーフェクトな条件を備えていました!全て、神によって備えられたご計画であったのです!
●「手の萎えた人」がイエス様のお命じになられた事に従って「起き上がり」、会堂の会衆の前に「立(ち)」ました。それは、劇的な瞬間であったに違いありません。会堂の会衆は、これからイエス様がなされる事を見ようと待ち構えていました。他の聖書箇所に見られますように、宗教指導者たちは会堂の最前列に座っていました(ルカ11:43、20:46/マタ23:6/マコ12:39)。自称律法の専門家と豪語する彼らに対して、9節で、イエス様は彼らの急所を突いた質問を投げ掛けて彼らを問いただしました!「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか」、と!
●イエス様の質問は、他の多くの場合にも見られるものですが、ご自分に反対する者たちの思いを鋭く突くものです!質問される彼らが、どちらを取っても不利な立場に置かれます!イエス様のこの質問に対して、安息日に「善を行うこと」は「律法にかなっている」事ですと答えるのなら、イエス様がその「手の萎えた人」を癒すのは正当な事ですと公に認める事となります。そうなると、彼らはイエスが安息日を破っていると訴える事ができなくなります。逆に、安息日に「善を行うこと」は「律法にかなっている」事ではないと答えるのなら、彼ら自身の邪悪な心やあわれみのない心を露呈する事となります。そうなれば、彼らは自分たちが上辺を繕って正しい者と見せ掛けている者また信心深い者だと見せ掛けている者となり、自分たちがいかに偽善者であるのかという事を露呈するものとなります!
―イザヤ書が示す安息日について―
●「律法学者たちやパリサイ人たち」は、イエス様の質問に対する正しい答えを知っていました。それは、旧約聖書のイザヤ書にはっきりと記されているからです。イザヤ書では、神は、イスラエルの人々の上辺だけの、薄っぺらな、偽りの宗教を非難されています。それは、イエス様が、まさに「律法学者たちやパリサイ人たち」に向けて語っている事でした!
1:11 「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」。─【主】は仰せられる。─わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。 1:12 あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。 1:13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の招集─わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。 1:14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。 1:15 あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。 1:16 洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪を行いを取り除け。悪事を働くのをやめよ。 1:17 善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ」(1:11-17)。
58:6 わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。 58:7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。 58:8 そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前に進み、【主】の栄光があなたのしんがりとなる。 58:9 そのとき、あなたが呼ぶと【主】は答え、あなたが叫び求めると、「わたしはここにいる」と主は言う。もし、あなたの間から、くびきを除き去り、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去り、58:10 飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。 58:11 【主】は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水の涸れない水源のようになる。 58:12 あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたるの礎を築き直し、「破れを繕う者、通りを住めるように回復する者」と呼ばれる。 58:13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず安息日を「喜びの日」と呼び、【主】の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、 58:14 そのとき、あなたは【主】をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。─【主】の御口がそう語られる(58:6-14)。
●これらのイザヤ書の御言葉は、神は、あわれみと慈しみと親切から離れたこれらの宗教儀式を受け入れる事はないとはっきりと語っておられます!神は、全ての日の中で、とりわけ安息日は人に対して優しさを表す日であり、必要を抱えている人に対してあわれみと親切を表す日だと語っておられます!しかし、ラビたちの安息日規定は、安息日を息ができなくなる程に窮屈にして圧迫を感じる日とし、イザヤ書に記されているような親切な行為を禁じたのでした!彼らの宗教は、神の御旨からすると全く的外れでした!
―真の問題点は何か?!―
●ところで、この安息日の会堂での出来事の重要な点というのは、実に、手に障害を抱えている人の癒しではありません!また、イエス様はご自分に対する宗教指導者たちの態度について大きく気をもんでおられるのでもありません!また、その「手の萎えた人」に対して親切にするのが正しい事ですという事でもありません!より深い問い掛けとは、誰が神をほめたたえているのかです!必要の中にある一個人に対してあわれみを示しているイエス様か、あるいは、イエス様を滅ぼす事のみを願っている「律法学者たちやパリサイ人たち」なのかです?!
●宗教指導者たちの非常に矛盾している点をクローズアップしましょう!宗教的に誤った事ばかりする人々が、自分たちの安息日の規定のどうでもいい細々した部分を周到に守ろうとしている一方、同時に、安息日の主であるイエス・キリストを殺害しようと企てているのです!この点について、デイビッド・グッデングという聖書注解者が次のようにコメントしています。
(パリサイ人たちや律法学者たちに見られる)宗教的な思いというものは不思議なものです。彼らは必ずしも一般的な道徳に関心があるのではありません。また、人間の苦しみや悩みを和らげたりする事でもありません。彼らの関心はルールを守る事です。特に、彼らは、これまで後生大事にして来た聖書の解釈や伝統の解釈から生まれて来たルーに関心があるのです。そして、彼らは、それらの解釈が神ご自身の確固たる権威に帰するものであると考えているのです。これらの解釈に反して、神ご自身が受肉され、人間の苦悩を和らげるために、神の良き業である奇蹟によって介入されました。すると、彼らは自分たちのこれまでの解釈を変更すのではなく、そのような奇蹟を食い止めようと策略を練ったのです[( )内は筆者挿入]。
当事の宗教指導者たちの実態と矛盾と誤りと不思議さを、ものの見事に解説しています!
4)ユダヤ教の安息日規定を故意に破られるイエス様(ルカ6:10)
●イエス様の質問に対して、宗教指導者たちが答えないでいる間が暫く続いたのであろうと思われます。彼らはイエス様の急所を突かれた質問に対して驚き、黙り込んだのであろうと思われます。それで、イエス様は10節で、「彼ら全員を見回してから」とあります。どのように見回したのかについては、並行箇所であるマルコの福音書がその詳細を次のように伝えています。「イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら」(3:5)、とあります!そして、イエス様はその「手の萎えた人」に対して、「『手を伸ばしなさい』と言われ」ました。「そのとおりにすると、手は元どおりにな(り)」ました!イエス様は、故意に「律法学者たちやパリサイ人たち」の安息日規定を破られたのです!
5)イエス様に対して激怒し、殺害を企てる宗教指導者たち(ルカ6:11)
●このような創造的な驚くべき奇蹟を目の当たりにすると、次のような反応が聖書に記録されるであろうと推測されます。「それで、律法学者たちやパリサイ人たちはイエスを信じた」、と。しかし、現実はそうではありませんでした。11節で、それどころか、「彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた」と伝えています。並行箇所のマタイの福音書では、「パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた」(12:14)、と!
●「彼らは怒りに満ち」とありますが、この「怒り」という言葉は、「愚か」また「愚劣」を意味する言葉から来ています。この文脈からは、分別のきかない「怒り」であると受け止める事ができます。彼らは、イエス様が自分たちの偽善の宗教に対して直接挑戦して来られた事に対して激怒し、それはまるで発狂した姿を表していました!彼らの反応は、偽りの宗教に深く関わっている者の盲目そして頑なさを表していました!驚く事に、パリサイ人たちは、自分たちの憎き敵であるヘロデ党の者たちとさえも手を組み、彼らの助けを取り付けようとしました!そして、共にイエスを殺害する道を模索して行きます!(マコ3:6)これ程までに敵対している者同士が同盟を組む事は、普通では全く考えられない事です!どうしてそういう考えられない事を実行に移したのでしょうか?この二つのグループにとってたった一つの共通点ができたからです!その共通点が、イエス様に対する憎しみでした!それは、まさに人の罪深さを表しています!どんなに憎み合っている者同士でも、共通の敵ができる事によって急速に仲間になれるのです!そして、邪悪な目的を達成しようと動き出すのです! ―6―
●パリサイ人たちのイエス様に対する分別のきかない憎しみや怒りは、何に動機づけられていたのでしょうか?それは自己防衛です!宗教指導者である自分たちの存在が脅かされているという恐れからくる自己防衛の表れです!イエス様は、彼らの腐敗した宗教制度の急所に向けて決定的な一撃を加えられたのです!イエス様の受難週はまだまだ先の事ですが、早、宗教指導者たちはイエス様の殺害を企て始めました!彼らの憎しみは、イエス様が捕縛されそして十字架刑に処せられるに至るまで、その敵対意識をずっと持続させました!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●前回と今回の二回にわたって、安息日に、イエス様とユダヤ宗教指導者たちとの鮮明な対比が見られた出来事を取り扱いました。それは神の真理の代表者であるイエス様と偽りの宗教の代表者であるパリサイ人たちや律法学者たちとの対比でした。そしてまた、神の真理と人の伝統との対比であり、深い知識と狂気の沙汰との対比であり、親切と邪悪さとの対比であり、あわれみと冷酷との対比であり、正直さと欺きとの対比であり、神の力と人間の無力との対比であり、神の国とサタンの国との対比でした!
【適 用】 それでは、今回のメッセージの適用をしましょう。
●しかし最後に、忘れてはならない事があります!神の恵みは、最も頑なな心でさえも刺し貫く事ができます!パリサイ人の全てが主イエス様を永久に退けたのはありませんでした!使徒15:5で、「パリサイ派の者で信者になった人たち」がいた事を記録しています!パリサイ人で信者になった一人がタルソ人サウロでした。彼は偉大な使徒であるパウロとなりました!パウロは自分自身を「罪人のかしら」(1テモ1:15)と呼び、ローマ世界へ福音を宣教するよう復活の主によって召された神の器となりました!
●私たち日本人クリスチャンは、「古いものが良い」と言ってキリスト教を受け入れない頑なな霊的土壌に住んでいます。しかし、私たちは望みを失いません!イエス・キリストの福音を受け入れる神の器が、いつの時代にも備えられています!その宣教の業にあなたも召されているのです! それでは祈りましょう。
【締めの御言葉】
「人の子は安息日の主です」(ルカ6:5)。
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書6-10』(ムーディー出版、2011)(John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 6-10、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2011、 pp.6-11.)