『人の子は、安息日の主です!』―律法主義者のくびきと荷VSイエス様のくびきと荷― 《ルカ6:1-11/今回は6:1-5》
【序 論】
●今回の礼拝メッセージからルカの福音書6章がスタートします。6章の前半は、既に学びましたが5:27から始まった『人が達成する宗教VS神が達成される宗教』の流れを汲んでいます。いくら旧約聖書を使っていると言っても、ユダヤ教の実態は人が達成する宗教に他なりません。ユダヤ教の特徴はその律法主義にありますが、その特徴が最も表れるのが「安息日」です。ですから、イエス様とパリサイ人や律法学者との間の激しい衝突の中心は、「安息日」にあると言っても過言ではありません。今回と次回の二回にわたって『安息日の主』というテーマで御言葉を学んで行きます。
●今回のメッセージの主題は『人の子は、安息日の主です!』で、副題が「律法主義者のくびきと荷VSイエス様のくびきと荷」です。メッセージの全体的な流れは、下記のアウトラインの通りです。紐解かれる聖書の御言葉に期待を寄せましょう。
【全体のアウトライン】
[1]麦畑における安息日の出来事(ルカ6:1-5)/今回
[2]会堂における安息日の出来事(ルカ6:6-11)/次回
【今回のアウトライン】
[1]麦畑における安息日の出来事(ルカ6:1-5)
1)安息日とは(ルカ6:1a)
ア)安息日に関するユダヤ教の教え(タルムード)
イ)安息日の誤った規定に疲れ果てた人々へのイエス様のお言葉(マタイ11:28-30)
2)安息日の麦畑において穂を摘んで食べた弟子たち(ルカ6:1b-2)
ア)旧約聖書の律法による弟子たちの行為の判定(ルカ6:1b)
イ)ユダヤ教の規定による弟子たちの行為の判定(ルカ6:2)
3)安息日の規定違反だという非難に対するイエス様の弁明(ルカ6:3-5)
ア)空腹のダビデらへ提供された聖別のパンの実例(ルカ6:3-4/1サムエル21:1-6)
イ)イエス・キリストは、「安息日の主です」(ルカ6:5)
【本 論】
[1]麦畑における安息日の出来事(ルカ6:1-5)
1)安息日とは(ルカ6:1a)
●まずは1節の冒頭でが、「安息日」という言葉が記されています。出エジプト記20章の十戒の中の8節から11節で、「安息日」という言葉が記されています。「安息日」は休息の日、元気回復の日、そして神の民のための礼拝の日として神が定めたもので、モーセの律法に明記されています。「安息」と訳されたヘブル語は、創世記2:2の「神は第七日目に、なさっていたわざを完成し、第七日目(土曜日)に、なさっていたすべてのわざをやめられた(休まれた/第三版)」という言葉にさかのぼります。ですから、この「安息」という言葉は、「やめる」、「終わる」、「停止する」、そして「休む」という動詞から派生した言葉です。しかし、神によって「安息日」が定められてからイエス様が来られるまでの約1500年の間に、聖書以外の非常に多くの規定や制限がこの「安息日」に加えられて来たという歴史をユダヤ人はたどってきました!その加えられた様々な規則や規定によって、ユダヤ人にとっては、一週間の内で、この「安息日」が最も圧迫を感じまた最も重荷と感じる日になってしまいました!
ア)安息日に関するユダヤ教の教え(タルムード)
●口伝(くでん)によるユダヤ教の教えがまとめられたタルムードは、何と24章にわたって安息日規定について記されています!安息日にしていい事としていけない事が余りにも詳細に記され、実に馬鹿げた細則に溢れています!それによって、外面を繕う複雑なきまりをユダヤ人に押し付けるようになりました!ですから、一人の律法教師が安息日規定を学ぶのに、何と二年半もの期間を要するのです!
―安息日規定の中身―
●それでは、ユダヤ教によるその安息日規定の中身とはどのようなものでしょうか?アルフレッド・エダシェイムという聖書学者の文献を参考にされたジョン・マッカーサー師の説明に私の説明を加えてお伝えしましょう。まずは、安息日に移動できる距離についての規則です。聖書には「安息日に歩くことが許される道のり」(使1:12)という表現が使われていますが、それはイスラエルの宿営地や神の箱と民との距離などに「二千キュビト」(民35:5/ヨシ3:4)という距離が定められていましたが、どうやらそこから約900mから1050mは歩く事が可能だという人間の解釈を施したようです。その解釈に聖書的根拠は一切ありません。
●アルフレッド・エダシェイムによりますと、自宅から915m以上移動する事が禁じられている事がタルムードに記されていると語っています。しかし、安息日の前に三千歩の地点に食料を置いていたのであれば、そこに食料があるという理由でその地点が自宅と見なされ、安息日にはそこから915mを移動する事が許可されていたと言うのです。また同じように、木片や綱(ロープ)を狭い通りや路地の先に横たえるように置いておくのなら、そこを自宅の玄関口と見なす事にできましたので、安息日にはそこから915mの移動が許可されました。
●次に、安息日に物を運ぶ事についての規則です。公共の場で持ち上げた物は、それを降ろすには私的な場所でなければなりませんでした。逆も同様です。私的な場所で持ち上げた物は、それを降ろすには公共な場でなければなりませんでした。私は個人的には、この規則の意味が分かりませんが・・・。また、空中に投げ上げた物は、同じ手でそれを受け取らねばなりませんでした。しかし、もしもう一方の手でそれを受け取るなら、それは安息日規定に反する事になります。金曜日の日没に安息日が始まりますが、丁度その時に誰かが手を伸ばして食べ物を取ったのなら、その食べ物はそのところに落とさねばなりませんでした。もしその食べ物を取ったままの手を元に戻すなら、それは安息日に荷物を運んだ事と見なされて違反と見なされます。それから、一個の干しイチジク(約50g~70g/砂糖大さじ5杯分~7杯分)よりも重い物を持つ事は、安息日の規定違反です。でも、もし一個の干しイチジクの半分の重さであれば、二回までは運ぶ事ができます。更に、服の仕立て人は針一本を持つ事はできません。物書きはペンを持つ事ができません。学生は書物を持つ事ができません。当時はペン先をインクに付けてから文字を書いていましたが、そのインクの量は二文字だけを書ける分しか持ち運ぶ事はできませんでした。何それ・・・?
●手紙を送る事はできません。ユダヤ人以外の人にさえも送る事はできません。衣服を着用する前に、その布地の状態がどうなのかを調べる事はできませんし、また衣服を着用する前に振る事もできませんでした。なぜなら、そうする事で衣服に付いている虫を殺す事になるかも知れないからです。虫を殺す事は労働に値します。それから、火を灯す事はできません。常温の水を暖かい水の中に注ぐ事はできますが、暖かい水を常温の水の中に注ぐ事はできません。卵を調理する事もできません。夏の期間中、熱した砂の中に卵を入れる事さえもできません。物の売り買いも禁止です。入浴は禁止ですし、床に水を流して洗う事も禁止です。腰掛を動かす事は禁止です。なぜなら、土間にその後が残り、それは畑を耕す労働と同じ事だと見なされるからです。女性が安息日に鏡を見る事は禁止です。なぜなら、髪の毛に混じっている白髪が鏡に映ればそれを抜こうという思いに駆られるからだそうです。
●その他の禁止事項をざっと挙げましょう。種を蒔く事、畑を耕す事、刈り取りをする事、刈り取ったものを束にする事、脱穀する事、もみ殻を吹き飛ばす事、麦をひいて粉にする事、粉を焼く事、羊の毛を刈る事、洗う事、打ち叩く事、染める事、羊毛を紡ぐ事、結び目を解く事、獲物を捉える事、殺す事、鹿の皮をはぐ事、その肉を塩漬けにする事、その皮で何かを作る事、等等・・・。
イ)安息日の誤った規定に疲れ果てた人々へのイエス様のお言葉(マタイ11:28-30)
●イエス様は、これら人が作った規則や規定を人々に強いる律法学者やパリサイ人たちを、次のように強烈に非難しました!「彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません」(マタ23:4)、と!また、「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない」(ルカ11:46)、と!そしてまた、使徒たちも同様に、異邦人回心者たちにユダヤ人の慣習を押し付けようとする人々に対して、「なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか」(使15:10)と強く反対の意を唱えました!
●ですから、そのような背景の中で苦しんでいた同胞のユダヤ人たちに対して、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタ11:28-30)と語られたのでした!
2)安息日の麦畑において穂を摘んで食べた弟子たち(ルカ6:1b-2)
●まだ1節に留まっていますが、「ある安息日に」、イエス様と弟子たちが「麦畑を通っておられたときのこと」が記されており、「弟子たちは穂を摘んで、手でもみながら食べていた」と伝えています。食べられる程に熟している「麦」ですので、その時、イスラエルでは春から夏という季節であったであろうと思われます。
ア)旧約聖書の律法による弟子たちの行為の判定(ルカ6:1b)
●宗教指導者たちからすると、イエス様の「弟子たち」が「安息日」に「穂を摘んで、手でもみながら食べていた」という事は、先程お伝えした規則や規定からしますと「アウト」でした。しかし、ここで私たちが確かめなければならない大切な点は、旧約聖書の律法は、イエス様の弟子たちが「麦畑」でした行為をどう判定しているかです!?神がモーセを通してお与えになった律法はその行為を律法違反としているのか、それとも合法としているかという事を確かめる必要があります。
●そもそもイエス様ご自身が許されている行為ですから、問題はないと推測されるのですが、実際はどうなのかを調べてみましょう。申命記23:25はその行為をどう判定しているでしょうか?「隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない」、と告げています。お腹が空いている時に、「穂を手で摘んで」食べる事は許される事が明記されています!但し、「鎌を使って」他人の畑から収穫をしてはいけないと命じています。この神の律法から判断しますと、イエス様の弟子たちの行為は咎められるものではなく、律法によって許されているものであるという事が理解できます!イエス様はその律法をよくご存じでしたので、弟子たちが空腹の時に、畑から自由に「穂を摘んで、手でもみながら食べ(る)」事を問題視する事はありませんでした!神の律法は、人の必要を大切にしています!
●ついでですので、そのすぐ前の24節にも目を留めてみましょう。何と記されているでしょうか?「ぶどう畑」について記されています。「隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない」、と!何ですって?「少しくらいなら無断で食べていいよ」と書いていますか?どのくらい無断で食べていいのですか?ぶどうを「かごに入れて」収穫しない限り、「思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよい」と神の律法は許可しています!このような事を日本でするとどうなりますか?それは窃盗罪で、罰せられます。という事は、神の律法とはいいものですか?それとも、悪いものですか?絶対に良いものです!なぜ良いのですか?神が人の幸せのために作られたものだからです!別の表現をしますと、旧約聖書の律法には、神のご性質や品性が表れ出ているのです!神の律法は聖いものであり、正しいものであり、良いものです!そういう意味で、旧約聖書の律法がユダヤ教を指しているのではないというのがお分かりだと思います!
イ)ユダヤ教の規定による弟子たちの行為の判定(ルカ6:2)
●さて、一方、ユダヤ教の規定によりますと、イエス様の弟子たちの行為はどう判定されるのでしょうか?2節に彼らの見解が記されています。「なぜあなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか」と、「パリサイ人のうちの何人かが言(い)」ました。弟子たちの行為は、ユダヤ教宗教指導者たちから言わせると違反でした!彼らからすると、「穂を摘(む)」とい事は刈り入れるという労働を意味し、「手でも(む)」という事は穀物を殻から分けるという脱穀の労働に当り、もみ殻を投げ捨てるという事も分けるという労働に当り、その結果食事を作るという労働となり、それら全ての行為が安息日の規定をやぶる違反行為でした!
●自称、安息日の守護者であると豪語する彼らは、先祖たちから伝わって来た馬鹿げた規定なのですが、それに対する目に余る違反行為だと断定して、「なぜあなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか」と言って問い正しに来たのでした!この弟子たちの行為は、安息日を中心とした彼らの宗教制度に対する著しい違反行為であった訳です。パリサイ人たちは麦畑の中にさえ目を光らせて付け回していたという事は、彼らはずっとイエス様と弟子たちを監視下に置き続けていたという事が分かります。そのように付け回す理由とは、イエスを罪に定める口実を探していたからです!
3)安息日の規定違反だという非難に対するイエス様の弁明(ルカ6:3-5)
ア)空腹のダビデらへ提供された聖別のパンの実例(ルカ6:3-4/1サムエル21:1-6)
●弟子たちの行為に対して責任を持っておられるイエス様は、パリサイ人の無知に対して、少し皮肉交じりな叱責を持って答えられます。これからイエス様が語られる旧約聖書の出来事については、彼らは勿論の事知っていたに違いありませんが、その出来事が伝えている大切な意味については注意を払っていなかったという事が分かります。イエス様は他の箇所でもがよく言われる方法が、「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」(ルカ10:26)と言って、旧約聖書の御言葉を取り上げて人々の質問や非難に答えておられます。ここでイエス様は、3節と4節で、次のように彼らに「答えられ」ました。「6:3・・・『ダビデと供の者たち空腹になったとき、ダビデが何をしたか、 6:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外はだれも食べてはならない臨在のパンを取って食べ、供の者たちにも与えたか、読んだことがないのですか』」、と!
●イエス様が引き合いに出された旧約聖書の箇所は、下記の通り、第一サムエル記21:1-6でした。
21:1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」 21:2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。 21:3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を私に下さい。」 21:4 祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女から身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」 21:5 ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」 21:6 祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日【主】の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。
●サウル王の絶え間ない追撃から逃れながら、ダビデは、エルサレムの北約1.6kmに位置する「ノブ」という地にやって来ました。ダビデは「空腹」で、その「伴の者たち」も同じでした。食べ物を求めて、ダビデが幕屋である「神の家に入り」、そしてそこで「祭司アヒメレク」に「パン五つ」をいただけないかと申し出ました。幕屋は勿論パン屋ではありませんが、「臨在のパン」というのがありました。第三版では、「供えのパン」と訳されています。それは12個のパンで、幕屋の聖所の純金製の「きよい机」(レビ24:6)の上に、安息日毎に取り換えられて置かれていました。
●一週間経った古いパンが新しいものと取り替えられた後は、それを祭司だけが食べる事ができるというように神の律法で規定されていました(レビ24:9)。祭司アヒメレクは、この聖別された「臨在のパン」を空腹を忍んでいる「ダビデとその伴の者たち」に、次の条件下で喜んで与えようと考えていました。それは、先程1サムエル21:4で読みましたように、「もし若い者たちが女から身を遠ざけているなら」というものでした。結婚している男女が「身を遠ざけ(る)」必要はないのですが、ここでは「儀式上聖い状態であればよい」という事を指していました。ダビデは「若い者たち」がそうであるという事を祭司アヒメレクに申し上げたので、祭司はパンを与え、彼らはそれを食べたのでした!
―この出来事が意味している事!―
●さて、この出来事が何を意味しているのかという事を理解する事は重要です!それは、パリサイ人たちが見失っているものです!彼らは何を見失っているのでしょうか?それは、あわれみの心であり、真実な愛です!人間の必要が、聖書的な儀式や式典よりもより重要であるという事を告げています!イエス様は、並行箇所のマルコ2:27で、次のように語られました。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」、と!ユダヤ教の安息日理解は、全て「人が安息日のために造られた」という視点からのものでした!ですから、本末転倒な聖書理解をしていたという事が分かります!平行箇所のマタイの福音書で、イエス様は、「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たち(イエス様の弟子たち)を不義に定めはしなかったでしょう」(12:7)と語られました!
●このサムエル記21章の出来事は、恐らく安息日に起こったのであろうという事が考えられます。なぜなら、古いパンは安息日毎に取り替えられ、しかもまだ祭司たちが食べていなかったのですから。ですから、もし人である祭司が、「安息日」に神の儀式の規定のある部分をやぶる事を許可したのなら、尚更、神の御子であるイエス・キリストが、「安息日」に、聖書的でない人間の伝統を破る事ができるのは当然ではないでしょうか!?
イ)イエス・キリストは、「安息日の主です」(ルカ6:5)
●そして、この出来事の最後に、イエス様は次の5節のお言葉を宣言する事によって、パリサイ人たちに衝撃を与え且つ彼らを激怒させました!それは、「人の子は、安息日の主です」という宣言のお言葉でした!という事は、イエス様お一人が、安息日におけるふさわしい振る舞いとは何なのかを決める権威を持っておられるお方だという事です!イエス・キリストこそが、神の御心を、神の律法を、そして神の御言葉の正しい解釈者であるという事です!
●安息日はそもそも神が定めそして確立された日ですので(出20:8-11)、神の御子であるイエス・キリストがその日に対する権限を持っておられます!それゆえ、神によって制定された安息日に対してご自分の権限を宣言される事によって、イエス・キリストが神ご自身と等しいお方だという事を示されました!
●並行箇所ではありませんが、ヨハネの福音書で、安息日に、イエス様が「三十八年も病気にかかっている人」(ヨハ9:5)を癒された事が記録されています。パリサイ人たちは、病気を癒す事は労働と見なしていましたので、イスラエルに伝わって来た伝統である安息日規定に違反するとしてイエス・キリストを咎めました。イエス様はその出来事を通して、何と語られたでしょうか?「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」(ヨハ9:17)、と!ここでも同様に、イエス様はご自分が神と等しい方だという事を明確に宣言されました!イエス様は、ご自分が安息日に対する主権を持っておられるという事を明らかにされたのです!
【まとめ&適用】 それでは、今回のメッセージのまとめと適用をしましょう。
●「人の子は、安息日の主です」というイエス様のお言葉を受け入れる人とそうでない人との間には、安息日の理解が著しく異なって来ます!イエス・キリストを神とする人とそうでない人とでは、安息日をはじめとして、聖書全体の理解が著しく異なるものとなります!律法主義者から来るくびきと重荷を負って疲れた人生を歩むか、それとも「わたしがあなたを休ませてあげます」と語られたイエス様の休息と平安と解放の人生を歩むのかに別れます!律法主義者が負わすくびきは負いにくくまたその荷も重いのですが、イエス様の「くびきは負いやすく」またその「荷は軽い」のです!人は、人間の作った宗教ではなく、神が作られた宗教を選ぶべきです!
【締めの御言葉】
イエスは彼らに言われた。「人の子は安息日の主です」(ルカ6:5)。
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書6-10』(ムーディー出版、2011)(John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 6-10、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2011、 pp.1-6.)