ルカの福音書講解説教(25)/メッセージ原稿/『バプテスマのヨハネの誕生における神の啓示』(その2/最終編)/2017.02.12

『神の恵み深さ、神の力強さ!』―「名をヨハネとつけなさい」&「私のことばは、その時が来れば実現します」―《ルカ1:56-66/今回は1:59-66》

【序 論】


●『バプテスマのヨハネの誕生における神の啓示』は二回シリーズで、今回はその締めくくりのメッセージです。メッセージの主題の通り、今回は、神の恵み深さと神の力強さを、バプテスマのヨハネの誕生を通して学びます。その中で、当初、御使いを通して語られた神の約束を疑った祭司ザカリヤが戒めの期間を経て、神の驚くべき御力を通して回復し、心の底から神をほめたたえて讃美を捧げる姿には圧巻されます。神の恵み深さと力強さとは何と素晴らしくまた深いものでしょうか。メッセージの流れは、下記のアウトラインの通りです。


【全体のアウトライン】


◎ 序論/バプテスマのヨハネの誕生における神の啓示(1:66)/済


[1]神の真実な約束(1:56-58)/済

[2]神の恵み深い目的(1:59-63)/今回

[3]神の驚くべき御力(1:64-66)/今回


【今回のアウトライン】


[2]神の恵み深い目的(1:59-63)


1)幼子への割礼と命名(1:59a)

2)幼子の命名における対立(1:59b-61)

3)幼子の命名の確定(1:62-63)


[3]神の驚くべき御力(1:64-66)


1)神の驚くべき御力と神への畏敬の念(1:64-65a)

2)神の証しの広がりと救い主への期待(1:65b-66a)

3)神の力強い臨在(1:66b)


【本 論】


[2]神の恵み深い目的(1:59-63)


―神の恵みとは・・・?!―


イザヤ30:18に、それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」と記され、その理由として、「主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」(30:18と記されています。「それゆえ」という言葉から始まっていますが、何ゆえなのでしょうか?どのような文脈で書かれているかと言いますと、主に頼ろうとしないユダに対して、主ご自身がこのような恵み深いお言葉を掛けて下さっておられるのです!聖書の神は恵みの神で、罪人に対して実に恵み深くあられるのです!                                        ―1―

●人間は神からの祝福を受けるに値しない者ですが、その祝福を神は喜んでお与えになるお方です!また、人間は神の懲らしめを受けるに値する者ですが、その懲らしめを神は留めておられるお方です!(ルカ15:7、10、20-27)エペソ1:9によりますと、神は選ばれた者たちに対して「みこころの奥義を・・・知らせてくださいました」!そして、その人々に対して情けをかけ(温情を施し)、「すぐれて豊かな御恵み」(エペ2:7)を永遠にわたって注がれるのです!


●神は「あらゆる恵みに満ちた神」(1ペテ5:10)であり、「恵みの御座」(ヘブ4:16)に座しておられ、そして恵みを施されます!(詩84:11/箴3:34/ヤコ4:6/1ペテ5:5)聖書は、神の恵みを次のような言葉で形容していますが、どれも圧倒される表現です!神の恵みとは「豊か」(ヤコ4:6)で、「絶大」(2コリ9:14)で、主権的(2テモ1:9)で、「すぐれて豊かな」(エペ2:7)もので、「さまざま」(1ペテ4:10)すなわち多種多様で、「十分」(2コリ12:9)で、「大き(く)」(使4:33)て、「満ちあふれる」(1テモ1:4)もので、「栄光」(エペ1:6)に満ちたものだと記されています!


―導 入―


●そして、私たちが今学んでいる聖書箇所において、神の恵みが驚くべき方法で表されています!どのようにでしょうか・・・?それは、エリサベツが生んだ子に名前を付けるに当ってもめた事そして不一致を通してでした。


1)幼子への割礼と命名(1:59a)


―「割礼」について―


●それでは、順を追って御言葉を解説しましょう。まずは、59節前半に目を留めましょう。エリサベツの出産後、八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来ました。旧約聖書によりますと、全てのユダヤ人の男の子には「割礼」を受ける事が定められていました。それは神によって制定されもので、それには三つの理由がありました。一番目が健康上の理由、二番目が契約上の理由、そして三番目が霊的な実物教育上の理由です。


●一番目の健康上の理由です。約四千年以上も前にさかのぼる事ですので、その当時、目に見えない細菌の存在による感染の危険について知る由がありません。顕微鏡の発明が1590年で、細菌の発見が1800年代ですので、古代のユダヤ人たちにとって最近の存在は全く未知

な分野です。それゆえ、健康衛生上の注意点を知る由がありません。それで、男性の性器の包皮の下に細菌がいて繁殖するなん事なんて考える術がありません。それゆえ、結婚した男女の性的な接触を通して、細菌が移されて行きました。


●その事をご存じの神は、男性性器の包皮を切り取る事によって男性から女性へ細菌が移されるのをより少なくする事ができました!その証拠として、民族的に、ユダヤ人女性の子宮頸癌やその他の病気になる罹患率が他の国々に比べて低いという数字が報告されています。言うまでもなく、その理由はユダヤ人の夫が「割礼」を受けていたからです!神はこのようにしてユダヤ民族を絶やさないようにしました!いかがでしょうか、旧約時代のカナン地の民族であったシドン人、ヘテ人、エブス人、エモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人が創世記10:15-18に記されていますが、今そのように呼ばれる民族は残っているでしょうか?残っていません。(続く)          ―2―

その中で、ユダヤ人は残っています。神は、ご自分の選びの民として残しておられるのです。「割礼」という健康上の理由からもそうなのです!


―欧米の割礼の現状&新垣家の息子への助言―


●この割礼の健康衛生上の理由を聖書から見出した欧米の国々では、宗教上の理由からではなく、健康衛生上の理由から、男の赤ん坊に割礼を施しているというのが現状です。以前も語りましたが、私たちの息子がアメリカで生まれ、その時、ドクターから「割礼を施しますか?」と質問されました。私たちはいずれ日本に帰国しますので、息子の日本での生活を考えて割礼を遠慮しました。その代り、垢をためないように清潔に保ち、それがもとで細菌が繁殖しないよう、衛生面でアドバイスをするという事にしました。


●二番目の契約上の理由です。「割礼」はイスラエル民族にとっては重要な意味がありました。なぜなら、創世記17:10に記されていますように、それがイスラエルの国民としてのしるしであり、アブラハムの契約のしるしであったからです!そして、三番目の霊的な実物教育上の理由です。何を教えているかと言いますと、人には罪の腐敗があり、その腐敗は生殖作用を通して後に続く世代に受け継がれて行くという事を示唆しています!それゆえ、人は、その罪の腐敗から清められる必要があるという事、そのために、人は救い主を必要としているという事を指し示しています!「割礼」だけでも奥は深いものです!


―「八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て」―


●「割礼」の手術は、通常、父親か別に指名された人物によって執行されました。聖書で唯一の例外は、モーセの妻チッポラによってその子どもたちに割礼が施されています(出4:25)。ユダヤ人の後の世代の伝統や習慣によりますと、「割礼」を施す場には少なくても10名の証人たちが同席しなければなりませんでした。なぜなら、後にもし必要になった時に、「割礼」が確かに施された事を証明する事ができたからです!「割礼」はアブラハムの契約によるユダヤ人のしるしですから、「割礼」が施されたという証明は重要でした!


―命 名―


●「割礼」を施す「八日目」に子どもの名前を付けるというのは旧約聖書に規定されてはいませんが、一世紀の初頭までには、一般に行われるようになっていました。なぜそのようになったのかを推測する時、恐らく、モーセの誕生後、八日目に命名されて且つ「割礼」を施されたから事から来ているのであろうと考えられます(出4:25)。それに加え、アブラハムがアブラムという古い名前からアブラハムという新しい名前を神から受けた同じ日に、彼が自分を含め家の人々に割礼を施している事にも由来しているものと考えられます(創17:5、23)。


●そのような歴的的背景のもと、エリサベツの子の「割礼」の証人として集まった人々が、その子の命名に加わったのです。グループで命名に関わるという事は、普通ではないという事ではありませんでした。ルツ記417で、「近所の女たちは、ナオミに男の子が生まれたと言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である」と記されている通りです。           ―3―

●エリサベツの子どもの「割礼」に立ち合った証人たちは、子どもができない事によって長期間にわたって多くの苦しみと悲しみを味わい、辛抱して来た忠実な祭司であるザカリヤの事をよく理解していました。それゆえ、彼らはザカリヤに敬意を表して、「幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようと」していたのです。最初の息子に対して祖父の名前を付けるというのはより一般的でしたが、父親の名前を付けるという事もなくはありませんでした。


―ユダヤ人の命名の方法―


●日本では「名は体を表す」という諺があります。「体」というのは本質という意味で使われています。どういう意味かと言いますと、「人や物の名前というものが、それが持つ本質を上手に言い表している場合が多い」という事です。一方、ユダヤ人の文化の中で見られる名前もいくつかの点で共通する点があります。その一番目に、ユダヤ人の命名は描写的でした。赤ちゃんの体の特徴をそのまま名前に付けた場合があります。その例として、エサウが生まれた時、「赤くて、全身毛衣のようでしたので、「毛深い」という意味の「エサウ」という名前を付けました。一方、エサウの双子の弟のヤコブには、その手はエサウのかかとをつかんでいましたので、「つかむ」「蹴落とす」という意味の「ヤコブ」という名前を付けました(創25:25-26)。


●二番目に、親が自分の子どもの誕生を求めそれが叶えられた喜びを表して「サウル」や「サムエル」と名付けています。それは、両方の名前とも「願い求めた」という意味があります。また、三番目に、両親の信仰を表した名前もあります。「エリヤ」という名前は「ヤーウェーは神である」という意味で、それは両親の信仰を反映した名前でした。

2)幼子の命名における対立(1:59b-61)


―エリサベツの強い拒否反応―


ルカの福音書に戻りますが、エリサベツの子どもの「割礼」の証人となった人々は、善意を持ってその子に父親と同じザカリヤという名前にしようとしました。しかし、「母」であるエリサベツからは、強い否定を意味する“オウチ”という言葉で返答しました。日本語では「いいえ、そうではなく」とか「決してダメです」とか「絶対だめです」とか「とんでもあ

りません」という意味の言葉です。強い拒否反応の言葉です!父親にちなんだ名前にするのではなく、エリサベツは断固として、御使いガブリエルが命じた通りに(1:13)、「ヨハネという名にしなければなりません」と主張しました!


●ヨハネの命名については論じる余地はありませんし、グループで議論して決めるものではありません!なぜなら、神ご自身が選んで決められた名前ですので、人間の交渉によって決めるものではないからです!旧約聖書を見ますと、アブラハムの子イサクの時も(創17:19)、イザヤの時も(イザ8:3)、ホセアの子どもたちの時も(ホセ1:4、6、9)、また新約聖書ではイエス様ご自身の時も(マタ1:12)、皆、神ご自身が選んで決められた名前でしたので、交渉の余地はありませんでした!


―「ヨハネ」の意味―


●「ヨハネ」という名前はギリシャ語による表記で、それは元々ヘブル語の「イェホハナンあるいは「ヨハナン」という名前から来ており、「神は恵み深い」という意味から来ている言葉です!ですから、この「ヨハネ」というのは神の恵み深い救いを反映した名前であるのです!これこそ、まさに「名は体を表す」で、バプテスマのヨハネは救い主の前ぶれを伝える者として、それを表すのみに最もふさわしい名前でした!                                                       ―4―

―「ザカリヤ」&「エリサベツ」の意味―


●付け加えますと、ヨハネの両親であるザカリヤとエリサベツの名前も、実に贖いの計画と関わるような意味を持っています!「ザカリヤ」という名前は、「神はおぼえておられる」また「神はご自分の約束に忠実であられる」という意味です。また、「エリサベツ」という名前は、「私の神は誓われた」「私の神は誓いである」そして「神は絶対的に頼れるお方」という意味があります。これらエリサベツとザカリヤの名前は、神が彼らに約束されたヨハネの誕生、そしてそれに続く救い主の誕生の確かさを物語っています!


―エリサベツの境界越え・・・、頭である夫へ―


●ザカリヤの元に割礼と命名のために来られた人々は、自分たちの提案がエリサベツの猛烈な拒否反応に会い、それだけでなく全く想像だにしない「ヨハネ」という名前を付けるという主張に対して、あっ気にとられてしまいました。それで、彼らはエリサベツに対して61節で、あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と返答しました。ザカリヤとエリサベツの親戚には誰一人いない名前を付けるという主張に対して、回りの人々は、エリサベツがユダヤ人の習慣に反していると受け取りました。また、エリサベツが女性や妻としての限度を超えてしまったものと判断しましたし、もうここまで来た以上は、彼女の頭(かしら)である夫のザカリヤに聞くべきであると考えました。


3)幼子の命名の確定(1:62-63)


―ザカリヤへの質問とザカリヤの応答―


62節に進みますが、ザカリヤは9か月以上も前に御使いによって告げられた事について疑

いましたので(1:20)、その事で彼は神の懲らしめの下に置かれていました。その懲らしめとは、ものが言えず、話せなくな(る)」(1:20)というものでした。この62節からでも分かるように、「身振りで・・・合図」しないとザカリヤには伝わらないという事は、ザカリヤは耳が聞こえない状態にあるという事も物語っています。このものが言えず、話せ(ない)という言葉は、聖書の別の箇所では「耳」聞こえない」(ルカ7:22/マタ11:5マコ7:32、37、9:25)とも訳されています。そこへ集っている人々は、ザカリヤに向かって身振りで・・・合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた」のでした。


●彼らの質問に答えるために、ザカリヤは63節で、「書き板を持って来させ(る)ように指示しました。何と、彼はこれまで数か月にわたって、この「書き板」を用いて意志の疎通を図っていたのです。ザカリヤは、この時、「『彼の名はヨハネ』と書(き)」ました。ザカリヤの答えはそのものズバリでした!簡潔で、その名前以外にはないという程に強調される形で伝えられました!妻のエリサベツは60節で、この子は「ヨハネという名にしなければなりません」と語っていますが、ザカリヤはこの63節後半で、「彼の名はヨハネ」ですと「書いたのです!ザカリヤにとっては、「ヨハネ」がその子の名前であるという事については一切揺るぎませんでした!なぜなら、その確固たる理由が御使いを通して神が彼に告げた名前であったからです!それゆえ、それがザカリヤの最終決断でした!その返答に対して、そこにいた「人々」は「驚(き)」を隠せませんでした!子どもの名前が「ヨハネ」に決定したという事がそこに集った「人々」を「驚(かせ)」のであれば、次に起こる事は、彼らを更なる驚愕に陥れるのでした!







―5―

[3]神の驚くべき御力(1:64-66)


1)神の驚くべき御力と神への畏敬の念(1:64-65a)


―神の驚くべき御力!―


●「名をヨハネとつけなさい」(1:13)という御使いの命令にザカリヤが従った後に、エッ・・・と驚かざる得ない神の御力が現されます!前述しましたように、9か月以上にわたって耳が聞こえずまた口もきけない状態にあったそのザカリヤが、64節にありますように、「たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた」のでした!


●聖書は、最初から最後まで、神の力を称賛している書物です!聖書の最初の書巻である創世記は、何もないところから、神が天地宇宙を創造されている事を伝えています!(創1-2/エレ10:12、27:5、32:17、51:15/黙4:11)一方、聖書の最後の書巻である黙示録は、現在の天地宇宙を滅ぼし、新しい天と新しい地とを創造すると伝えています!(黙21-22/参2ペテ3:7-12)また、神であられる主イエス・キリストは、「その力あるみことばによって万物を保っておられ」ます!(ヘブ1:3)詩篇62:11は、「力は、神のものである」と宣言し

ています!聖書の神は「全能の神」です!ヘブル語では「エル・シャダイ」と言います(創28:3、35:1/出6:3/エゼ10:5)。神の力に限界がありません(「主の手は短いのだろうか」[民11:23])、それゆえ、既に学びましたように「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37/参 創18:14!神の力は大いなるものであり(出14:31/ナホ1:3)、威光に満ちたものであり(出15:6)、すぐれたものであり(ヨブ37:23)、そして強いものです(イザ8:11)。


―「たちどころに」―


64節前半「たちどころに」という表現がありますが、「すぐに」という言葉と共に福音書では用いられています。この表現は、ルカの福音書では神の奇蹟と関連して使われている言葉です(4:39、5:25、8:44、47、55、13:13、18:43)。今日、癒しの賜物を持っていると称する人々の奇蹟とは全く異なるものです。新約聖書に記されている癒しは全て「たちどころに」です!全て「すぐに」です!詳しくは、このルカの福音書4:38-44で取り扱う事にします。「たちどころに」、ザカリヤの「口が開け、舌は解け、ものが言えるようにな(り)」ました。1:20で、御使いガブリエルがザカリヤに預言した通りです!過去9か月余りにわたって溜りに溜っていた感情がせきを切ってザカリヤの口から流れ出し、彼は「神をほめたたえた」のです!次回から学ぶ67節から79節に記されているザカリヤの言葉が、その内容に相当します。


2)神の証しの広がりと救い主への期待(1:65b-66a)


65節で、ザカリヤの奇蹟的な癒しの中に示された神の御力の衝撃的な現れの結果、「近所の人々はみな恐れ」ました!畏敬の念にかられました!そして、「近所の人々」だけでなく、「さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った」のでした!「一部始終」とは、ヨハネの誕生の驚くべき物語の詳細の全てを指しています!御使いが神殿で仕えていた祭司ザカリヤに現れた事、ザカリヤの不信仰ゆえに耳が聞こえなくまたものも言えなくなった事、老齢になったにもかかわらずエリサベツが救い主の前ぶれを伝える子どもを身ごもった事、ザカリヤの突然の奇蹟的な癒しの事、それら詳細の話が「ユダヤの山地全体」の人々にとって持ち切りでした!     ―6―

66節では、ヨハネの誕生に立ち合えた人々だけでなく、その驚くべき出来事を「聞いた人々はみな、それを心にとどめて、『いったいこの子は何になるのでしょう』と言った」のです!ヨハネの将来に関する憶測が広がって行くのは当然でした。その憶測の中で、人々の頭の中に真っ先に浮かんでくるのが、もしヨハネが救い主の前ぶれを告げる者であるのなら、救い主ご自身の到来が間近に迫っているという事でした!


3)神の力強い臨在(1:66b)


●これら全ての出来事の中において、否定する事のできない重要な点は、「主の御手が」初めから「彼」すなわちヨハネ「とともにあった」という事でした!「主の御手が彼とともにあった」という事を別の表現では、主の力強い臨在がヨハネと共にあったという事です!(出9:3/申2:15/ヨシ4:23-24/1サム5:5、9、7:13/1王18:46/エズ7:28/エズ7:28/イザ19:16)


≪小結論&次回への導入≫


●バプテスマのヨハネの誕生の物語から引き出す事のできる結論で且つ決して避ける事のできない結論とは、神が人間の歴史の中で、実に恵み深くまた救いへの招きの思いを持って関わっておられたという事です!この聖書箇所に記されている出来事を通して、実に、神の真実が、神の恵みが、そして神の御力が鮮明に輝いています!神のこれらの属性、神のご性質というものがザカリヤを駆り立て、豊かで教訓的な讃美となって溢れ出て表されているのです!それが次回学ぶ内容です!引き続き、御言葉に期待を寄せて下さい!


【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。


●『バプテスマのヨハネの誕生における神の啓示』は二回シリーズで、今回はその締めくくりのメッセージでした。今回は、神の恵み深い目的と神の驚くべき御力という二点について学びました。前半は、何と言いましても「神は恵み深い」というヨハネの名前に焦点が当てられていました!エリサベツとザカリヤは、御使いを通して語られた神の命令を忠実に守り抜き「ヨハネ」と命名したのでした!人々をあわれんで救い主を送られる神の恵み深さを再度教えられました!


●後半は神の真実を疑って戒められたザカリヤでしたが、神のあわれみによって癒され、神の驚くべき御力が拝され、人々はそれを目の当たりにして驚愕し、神への畏敬の念を抱きました!ヨハネの誕生に表された神の臨在は確かなものでした!ザカリヤ自身も神の御力に圧倒され、心の底から神への賛美がその口からほとばしり出ました!人々は、やがて救い主が到来する事を強く意識しました!


【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。


●ヨハネという名前を通して、神はご自分の恵み深さを示されましたが、いかがでしょうか、あなたは神の恵み深さを日々感じていますか?そして、その恵み深さのゆえに、神を日々ほめたたえていますか?また、あなたは神がこの天地宇宙を日々保たれ、神の力には限界がなく、不可能は一つもないという圧倒的な力を信じて安んじていますか?あなたにとって神の力は絶対的ですか?それとも、自分の力で何とかやろうとしてるのですか? それぞれで、祈りの時を持って吟味しましょう。

―7―

【締めの御言葉】


「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。・・・聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう」と言った。主の御手が彼とともにあったからである(ルカ1:63、1:66)。





























































































































































[参考文献]


・ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Luke 1-5, The Moody Bible Institute of Chicago, 2009, p.88-92)