ルカの福音書講解説教(23)/メッセージ原稿/『マリヤの讃歌』(その4/最終編)/2017.01.29
『礼拝の対象、礼拝の理由!』―『マリヤの讃歌』の結論―《ルカ1:46-55/今回は1:48b-55》
【序 論】
●前回のメッセージで、礼拝の態度について学びました。それは、内面のものであり、湧き上がり溢れるものであり、生き方そのものであり、そしてへりくだって捧げるものであるという四つの点でした。今回は礼拝の対象と礼拝の理由について、『マリヤの讃歌』から学びます。前回と同様に、礼拝に関する奥深い霊的示唆に溢れる内容です。意味深い聖書の御言葉を共に学べる幸いをおぼえています。
●今回のメッセージの主題は『礼拝の対象、礼拝の理由!』そして副題が「『マリヤの讃歌』の結論」です。その流れは、下記のアウトラインに示された通りです。
【全体のアウトライン】
◎ 序論①/礼拝について/済
◎ 序論②/マリヤの讃歌が示唆していること/済
[1]礼拝の態度(1:46-48a)/済
[2]礼拝の対象(1:46b、47b)/今回
[3]礼拝の理由(1:48b-55)/今回
【今回のアウトライン】
[2]礼拝の対象(1:46b、47b)
1)救い主なる主を礼拝する(1:47b)
2)救い主の到来は贖いの歴史の頂点である(マタ1:21/他)
[3]礼拝の理由(1:48b-55)
1)罪人を救われ、偉大な御業をなされる神であるゆえ(1:48-49)
2)代々にわたる共通の救いをお与えになる神であるゆえ(1:50)
3)ご自分の民のために力強い御業をなされる神であるゆえ(1:51-54)
ア)神は高ぶる者を追い散らされた(1:51)
イ)神は権力者を降ろされ、低い者を高くされた(1:52)
ウ)神は飢えた者を満ちたらせ、富む者を追い返された(1:53)
エ)神はあわれみのゆえにイスラエルを助けられた(1:54)
オ)神はアブラハムの契約ゆえに救い主を送られる(1:55)
【本 論】
[2]礼拝の対象(1:46b、47b)
1)救い主なる主を礼拝する(1:46b、47b)
―1―
●『マリヤの讃歌』の冒頭の二節である46節と47節には、「1:46・・・わがたましいは主をあがめ、・・・1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と記されています。「主」また「救い主」という言葉に、マリヤの礼拝の対象がどなたなのかがはっきりと記されています!その礼拝対象である二つの言葉をまとめますと、マリヤの「主」への礼拝の中心点は、その重要な役割である「救い主」に置かれているという事です!全てのクリスチャンの礼拝の中心テーマは、神は罪を赦しそして罪の刑罰である永遠の滅びからの救い主であるという点になければならないという事です!もしそうでなければ、神を礼拝する事は不可能です!それは丁度、地獄で永遠の苦しみの中にいる全ての魂にとって礼拝が不可能であるという事と同じ事を指しています!もし神が救いの神でなく、贖いの神でなく、赦しの神でないのなら、人々は神を怖がり、神をなだめ、神と何とか和らごうと試みます!しかし、人々は、そのような神を礼拝する事をしません!
2)救い主の到来は贖いの歴史の頂点である(マタ1:21/他)
●マリヤは、救い主の到来が贖いの歴史の頂点である事を知っていました!彼女が身ごもりそして出産する御子キリストは「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(マタ1:21)で、その到来の目的は「失われた人を捜して救うため」(ルカ19:10)だという事を知っていました!この「卑しい」自分から救い主がこの世にお生まれになるという、身震いするほど素晴らしい現実がやってくるという事を思う時に、マリヤは自分を贖いそして人々を贖う救い主となる神をほめたたえ礼拝せざるを得ませんでした!
[3]礼拝の理由(1:48b-55)
1)罪人を救われ、偉大な御業をなされる神であるゆえ(1:48-49)
●本論の最後のポイントとなりました。礼拝の理由とは何なのかという点です!この讃歌から引き出されて来るマリヤの礼拝の理由や動機というものには三つあります。その一番目は、マリヤが49節で、「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」と語っています。どのくらい「大きなことをしてくださ(った)」のかと言いますと、48節の後半に記されている言葉から分かります。それは、「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」というように、神がマリヤになされる事は、驚くほどに素晴らしく超自然的な御業です!「これから後、どの時代の人々も」とありますが、その中に日本に住む私たちも含まれています!私たち日本人クリスチャンも、処女降誕の時から約二千年後に、神がマリヤになされた余りにも緻密で且つ完璧な驚くべき救いの計画とその御業を
知って感動し、神をほめたたえるのです!
●救い主の母親であるという事は、後にも先にも、いかなる女性になされた神の御業よりも栄誉あるものです!これまでも述べて来ましたが、マリヤは自分自身が「卑しい」罪人だと認識し、神の恵みによって初めて救われる者となったばかりでなく、救い主である神の御子さえも身ごもらせて頂くという恵みが与えられたという事実は、彼女を神への礼拝へと駆り立てました!49節の後半に記されていますように、「聖」い「御名」をお持ちのお方がへりくだってこの世界に来られて、ひどい罪人を救われるというのが、信仰者の永遠に続く礼拝のテーマなのです!永遠の天国では、次のような礼拝が永遠に捧げられているという事が黙示録に記されています。 ―2―
5:9・・・あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、・・・5:12・・・ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。・・・5:13・・・御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。 5:14・・・四つの生き物[御使いたち]はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ(黙5:9-14)。([ ]内は筆者加筆)
2)代々にわたる共通の救いをお与えになる神であるゆえ(1:50)
●礼拝の理由の二番目のポイントは、マリヤ自身を超えるもので、神がこれから未来に向けてなされる全ての事を含みます!序論で既に語りましたが、マリヤは旧約聖書に精通していた事が50節の御言葉で分かります。彼女は詩篇103:17を引用して、「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます」と語りました。マリヤはここで、「主を恐れかしこむ」全ての「者」に対して与えられる共通の救いについて神を賛美しています!「私たちがともに受けている救い」(3)とユダの手紙の中では記されていますが、年代を越え、人種を越え、国境を越えて与えられる選ばれし者への共通の救いです!マリヤが受けた救いと同じ救いです。代々にわたって全世界で救われる人々は、神の崇高なご性質や御心に対する深い尊敬の思いを寄せて礼拝し、且つ日々の信仰生活で神の栄光を求めて歩みます!
3)ご自分の民のために力強い御業をなされる神であるゆえ(1:51-54)
●『マリヤの讃歌』の51節から54節の最後の部分では、神が過去にご自分の民であるイスラエルに対してなされた御業が列挙されています。過去の神の御業について記されていますので、7つの過去形の言葉が記されています。イスラエルの人々の礼拝に見られますように、マリヤも神のご性質を記すと共に、その「力強いわざ」(1:51)について書き並べています。『マリヤの讃歌』の最後の部分で、マリヤは神がイスラエルになされた御業のゆえに神をほめたたえているのです!
ア)神は高ぶる者を追い散らされた(1:51)
●さて、イスラエルの歴史の中で、どのような神の「力強いわざ」がなされたのでしょうか?まず初めに、51節で、「主は・・・心の思いの高ぶっている者を追い散らし」と記されています。ここでは恐らく、エジプトの王パロの高ぶった態度、傲慢な態度がマリヤの脳裏
に浮かんでいるのであろうと推測されます。パロは神の指示を伝えに来たモーセに対して、「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない」(出5:2)と語り、イスラエルの神に対して横柄な態度を取りました。その後、一貫してその頑なで横柄な態度は変わらず、とうとう十の災害がエジプトにもたらされる事となりました。そして、最後にどのような神の裁きがパロとエジプトに下されたでしょうか?それは、出エジプトをしたイスラエルを追って来たパロ自身とその軍勢とを紅海の海の只中で、神が滅ぼされました。そして、イスラエルに完全な解放をお与えになりました。
●エジプト軍に対する劇的な大勝利を目の当たりにしたモーセとイスラエルの民は、次のように「歌を歌っ(て)」(出15:1)主を礼拝しました。
―3―
15:2 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。・・・15:11 主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行うことができましょうか。・・・15:18 主はとこしえまでも統べ治められる(出15:1-18)。
●また、マリヤの脳裏には、バビロンのネブカデネザルとその後を継いだベルシャツァルの事もあったでしょう。預言者ダニエルは、ベルシャツァル王に対して、その父ネブカデネザルの傲慢さを思い起こさせて次のように警告しました。
5:18 王さま。いと高き神は、あなたの父上ネブカデネザルに、国と偉大さと光栄と権威とをお与えになりました。 5:19 神が彼に賜った偉大さによって、諸民、諸国、諸国語の者たちはことごとく、彼の前に震え、おののきました。彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。 5:20 こうして、彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまったので、彼はその王座から退けられ、栄光を奪われました。 5:21 そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました(ダニ5:20)。
●そして引き続き、ダニエルは、息子のベルシャツァル王の傲慢さに対しても次のように警告を与えました。
5:22 その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。 5:23 それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。 5:24 それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。 5:25 その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』 5:26 そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』
とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。 5:27 『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。 5:28 『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」 5:29 そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した。 5:30 その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、 5:31 メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ(5:22-31)。
イスラエルの神は、イスラエルだけの神ではありません。全世界の神であられ、マリヤがその讃歌で語ったように、「心の思いの高ぶっている者を追い散ら」(1:51)されるのです!
―4―
イ)神は権力者を降ろされ、低い者を高くされた(1:52)
●二番目に、ご自分の民のために力強い御業をなされる神は、52節で、「権力ある者を王位から引き降ろされます」そして「低い者を高く引き上げ(られた)」と記されています!すなわち、神は権力者を降ろされ、逆に、低い者を高くされたのでした!この御言葉の真理は、ヨシュアを筆頭にイスラエルの民が約束の地カナンに入った時、神がイスラエルを通してカナンの王たちをその「王位から引き降ろされ(た)」中にも見られると推測されます(ヨシ10:23-26/参 ヨブ34:24/詩107:40/エゼ21:25-26)。
●しかし反対に、神はあわれみと恵みとによって、「低い者を高く引き上げ(られる)」のです!同じルカの福音書14:11と18:14では「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」と記されています。これが、聖書の大原則です!イエス様ご自身がその最たる模範ですが、その点について聖書が次のように勝っています!
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました(ピリ2:6-9)。
ウ)神は飢えた者を満ちたらせ、富む者を追い返された(1:53)
●三番目に、ご自分の民のために力強い御業をなされる神は、53節で、「飢えた者を良いも
ので満ち足らせ」ます!この点に関して、旧約聖書の詩篇は、実に励ましに満ちた御言葉で満ちています。
■若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない(詩34:10)。
■107:8 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。 107:9 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた(詩107:8-9)。
■しいたげられる者のためにさばきを行い、飢えた者にパンを与える方。主は捕らわれ人を解放される(詩146:7)。
●そしてまた、逆に、「富む者を何も持たせないで追い返されました」と記されています!この点について、同じルカの福音書の御言葉は次のように伝えています。
■あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから(ルカ6:24)。
■18:24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。 18:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(ルカ18:24-25)。
エ)神はあわれみのゆえにイスラエルを助けられた(1:54)
●四番目に、ご自分の民のために力強い御業をなされる神は、54節で、「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました」と記されています。イスラエルの歴史を通して、主は「そのしもべイスラエルをお助けに」なって来られたというのです!「主は」確かに「憎む者の手から彼らを救い、敵の手から彼らを贖われ」(詩106:10)ました!(続く) ―5―
なぜなら、「主はそのあわれみをいつまでも忘れない」お方だからです!旧約聖書の中から「あわれみ」という言葉を調べてみますと、実にしびれてしまう程の御言葉に出会います!
■彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた(イザ63:9)。
■エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない─主の御告げ─(エレ31:20)。
私たちが信じている神のあわれみは、真の神でしかない実に気高いご性質です!マリヤが言っているように、イスラエルの民がいかに神によって守られ、支えられ、愛されて来たのかがひしひしと伝わってくる御言葉です!
オ)神はアブラハムの契約ゆえに救い主を送られる(1:55)
●55節の最後のポイントです。『マリヤの讃歌』の結論部分ですが、「私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです」と記されています。「父祖たち」とはイスラエル民族の祖先で、アブラハム・イサク・ヤコブに代表される器たちです。この「私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られた」事は、「アブラハムの契約」と呼ばれているものです!マリヤは何を言わんとしているのかというと、贖いの歴史の全てはアブラハムの契約が成し遂げられる事だと言っているのです!旧新約聖書では、7箇所にわたってアブラハムの契約が記されていますが(創12:1-3/出2:24/レビ26:42/2王13:23/1歴16:14-16/詩105:9/使3:25)、その代表的な聖書箇所が創世記12章で、神が初めてアブラハムに語られた契約の内容が次のように記されています。
12:1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(12:1-3)。
●「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という事は、アブラハムの子孫であるユダヤ人のみならず、異邦人をも含まれて祝福されるというのです!どのようにでしょうか?それは、アブラハムの子孫の一人としてマリヤからお生まれなる救い主イエス・キリストを通して祝福されるのです!イエス・キリストはユダヤ人としてお生まれになり、その働きを使徒たちが受け継いで福音を異邦人に宣べ伝え、その結果、この日本にもキリスト教会が誕生して今日を迎えているのです!文字通り、アブラハムの契約の効力は今も全世界へ浸透しているのです!
●アブラハムの契約にある救いの約束は、エレミヤ31:31-34に記されている新しい契約の中でその永遠に続く全貌が明らかにされています。そして、今マリヤの胎の中で身ごもっている御子の死を通してその契約が確定されて行くのです!なぜなら、主イエス・キリストの十字架の犠牲の死を通してのみ、信じる全ての人の過去と現在と未来の全ての罪が赦され、罪の刑罰である永遠の地獄の死からも救われ、永遠の天国で永遠に神を礼拝して永遠に生きる事になるからです!(続く)―6―
(マタ20:28/ヨハ10:15/ロマ3:24-26/ガラ3:13/エペ1:7、5:2/1テモ2:6/テト2:14/ヘブ7:27、9:26、28、10:12/1ペテ1:18-19、2:24、3:18/黙1:5)このアブラハムの契約の真実が、実に、『マリヤの讃歌』にとって最もふさわしい結論なのです!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●今回は『マリヤの讃歌』の四回目で、締めくくりのメッセージとなりました。前半の礼拝の対象では、全てのクリスチャンの礼拝の中心テーマは、神は救い主であるという点にありました!もし、神が私たちの罪を赦しそして罪の刑罰である永遠の滅びから救って下さるお方でなければ、決してそこに礼拝が生まれる事はありません!もし神が救い主でないなら、人は神を怖がり、神をなだめ、神と何とか和らごうと試みます。しかし、そこに礼拝が生まれる事はりません!
●後半の礼拝の理由では、聖い神がへりくだってこの世界に来られ、ひどい罪人を救われるというのが、信仰者の永遠に続く礼拝のテーマだという事を学びました!また、神は代々にわたって共通の救いを人々にお与えになり、そしてご自分の民のために力強い御業をもって守られるお方であるという事を学びました!それらは、全て人を礼拝へと導きます!
●結論として、神がアブラハムに与えられた契約またその後に与えられる新しい契約は、全て救い主イエス・キリストの十字架の救いによって確定されて行く事を学びました!そして、永遠の天国で永遠に神を礼拝して永遠に生きる事につながるという事が、『マリヤの讃歌』の結論である事を学びました!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●日本の諸宗教そして日本人と八百万の神々との関係は、願掛けと厄払いに代表されます!そこに礼拝するという観念は見られません!日本人は神々を自分の目的のために操作するか、あるいは神々からの罰(ばち)に対する恐れから、「触らぬ神に祟りなし」と考えて神々との関係を断ちます!
●それに比べて、聖書の真の神とその神を信じる者との関係はどのようなものでしょうか?その関係の中に、操作とか祟りなどという観念があるでしょうか?真の神との関係は、人が聖書を通して正しく神を知って信じ受け入れるなら、神へ礼拝を捧げるという素晴らしい関係へと導かれます!偶像の神々や偽の神々には決して見られない関係です!いかがでしょうか、あなたは、真の神と礼拝とがどういう関係あるのかを理解できたでしょうか?そして、あなた自身がこの神を礼拝する関係に導かれた事について、心からの感謝と喜びが湧き上がって来たでしょうか? それでは、祈りましょう。
【締めの御言葉】
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(12:3b)。
[参考文献]
・ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Luke 1-5, The Moody Bible Institute of Chicago, 2009, p.81-83)
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