ルカの福音書講解説教(22)/メッセージ原稿/『マリヤの讃歌』(その 3)/2017.01.22
『礼拝する態度!』
―「わがたましいは主をあがめ・・・わが救い主なる神を喜びたたえます。」―《ルカ 1:46-55/今回は 1:46-48a》
【序 論】
●『マリヤの讃歌』は三回目で、今回から二回にわたって『マリヤの讃歌』そのものを取り扱います。本論は下記のアウトラインに記されていますように、礼拝の態度、礼拝の対象、そして礼拝の理由について学びます。今回は礼拝の態度について学びますが、私たちの礼拝の態度が御言葉に照らし合わされてどうなのかを探られます。数々の霊的教訓を学ぶ事になると確信します。
●今回のメッセージの主題は、『礼拝する態度!』です。また、副題は、「わがたましいは主をあがめ・・・
わが救い主なる神を喜びたたえます」です。それでは、解き明かされる神の御言葉に期待を寄せましょう。
【全体のアウトライン】
◎ 序論①/礼拝について/済
◎ 序論②/マリヤの讃歌が示唆していること/済
[1]礼拝の態度(1:46-48a)/今回
[2]礼拝の対象(1:46b、47b)/次回
[3]礼拝の理由(1:48b-55)/次回
【今回のアウトライン】
[1]礼拝の態度(1:46-48a)
1)礼拝とは、内面のものである(1:46a、47a/他)
2)礼拝とは、湧き上がり溢れるものである(1:46b、47b/他)
3)礼拝とは、生き方そのものである(1:47a/他)
4)礼拝とは、へりくだって捧げるものである(1:48a/他)
【本 論】
[1]礼拝の態度(1:46-48a)
1)礼拝とは、内面のものである(1:46a、47a/他)
―内面から流れる礼拝―
●礼拝の態度の一番目のポイントですが、礼拝とは内面のものです!46 節と 47 節のそれぞれ前半に記されていますように、マリヤは「わがたましい」また「わが霊」という言葉を使っています。この二つの言葉というのは厳密に分かれているというのではなく、両方とも置き換える事のできるものです。双方とも「内なる人」(ロマ 7:22/2 コリ 4:16/エペ 3:16)を表し、礼拝はこの「内なる人」から流れてくるのです。イエス様が教えられた「霊・・・によって礼拝」(ヨハ 4:24)する事すなわち真の礼拝というのは、この「内なる人」全てに関係しているものです!。―1―
●「内なる人」は知・情・意を持っています。知・情・意とは、知性・感情・意志を表しています。礼拝とは、この知・情・意持った人間の内なる人から流れて来るのです。知・情・意を通して表現される事が礼拝として表れます!それは、オーケストラを構成する各種の楽器に例える事ができます。音楽を表現するのに、様々な楽器が用いられるのです。それと同じように、マリヤの知・情・意が一緒になって神をほめたたえ、その礼拝が高まって行くのを、この『マリヤの讃歌』に見る事ができます。
―外面ばかりの礼拝―
●しかし、イスラエルの歴史を見ますと、マリヤとは全く反対の礼拝が捧げられていた事が記録されて
います。イザヤ書には、「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない」(29:13)と記されています。この御言葉はイエス様によっても引用され、当時の偽善的な礼拝者たちへ適用されています(マタ 15:8-9/マコ 7:6-7)。「口先」、「くちびる」、「その心はわたしから遠く離れている」、「人間の命令を教え込まれてのことにすぎない」というのは、一言で言うとどういう礼拝を指しているのでしょうか?それは、心の全く伴わない上辺だけの薄っぺらな礼拝を指しています!そのような礼拝に対して、主は、「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。・・・これにわたしは耐えられない」(イザ 1:13b)とおっしゃっています。
●更に、イザヤは、「これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない」(48:1)と警告しています!一方、預言者エレミヤは、自分の同胞について、主に向かって次のようにつぶやいています。「あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます」(12:2)、と!更に、預言者エゼキエルは、イスラエルの人々の霊的な実態を鋭く突いて次のように告げています。33:31 彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。 33:32 あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない(33:31)。
●しかし、心の全く伴わない上辺だけの薄っぺらな礼拝についての警告はまだ終わりません。預言者アモスは、イスラエルに対して次のように鋭く宣言しています。5:21 わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。 5:22 たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。 5:23 あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。 5:24 公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ(5:21-24)。
―2―
2)礼拝とは、湧き上がり溢れるものである(1:46b、47b/他)
●真の礼拝の二番目のポイントですが、内面のものだけでなく、それは湧き上がり溢れるものです!46節後半の「わがたましいは主をあがめ」の「あがめ」いう言葉に注目しましょう。この言葉は、原語では“メガルーノー”という言葉が用いられています。私たちも“メガ”という言葉は使いますが、元々はギリシャ語の“メガス”で「大きい」という意味です。それの動詞が“メガルーノー”で、「大きくする」だとか「拡大する」だとか「拡張する」という意味があり、それが転じて、「ほめたたえる」、「絶賛する」、「祝って祭る」、「大いに尊敬する」、「讃美する」、そして「栄光を讃える」という風に訳されます。そういう意味で、「あがめ(る)」いう言葉は、心の中から湧き上がり溢れる礼拝を表しています。
●また、47 節の「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」の後半の「喜びたたえます」いう言葉にも注目しましょう。この言葉は、原語では究極の喜びを表現する時に用いられています。ですから、この言葉もまた、内から湧き上がり溢れる表現です!この「喜びたたえます」いう言葉は聖書では次のようにも訳されています。「喜びにあふれて」(ルカ 10:21)、「心から喜んだ」(使 16:34)、そして「大いに喜んでいます」(1 ペテ 1:6、8)という表現になっています。このように、礼拝とは湧き上がり溢れるものを指しています。
●真の礼拝とは自発的なもので、舞台で演じるようなものではありません。心から行うもので、上辺だけのものではありません。神中心なもので、自己中心なものではありません。理性的なもので、只感情的なものでもありません!真の礼拝は神の栄誉を求めるもので、神を操作するものではありません。マリヤは、神が自分の人生になされる事について只神をほめたたえるだけでなく、神が救い主の来られる事を通して成し遂げて下さる全ての事について神をほめたたえているのです。
3)礼拝とは、生き方そのものである(1:47a/他)
●真の礼拝の三番目のポイントに、真実な礼拝の特徴とは、その人が日常生活の中で絶えず行っている事であり、その人の生き方そのものだと言えます!47 節前半の「あがめ」という言葉が現在形で記されているという事は、次の事を示しています。それは、マリヤはその暮らしの中で、礼拝がごく自然にまた継続してなされていたという事を示しています。そのような礼拝者にとって、たとえ動揺を来たすような状況に置かれたとしても、それはその人の真の礼拝に影響を与えるものではありま
せん!なぜなら、神はどんな状況下でも変わる事のないお方ですから(マラ3:6)、また神のお言葉も変わらないからです。(マコ 13:31)更に、神の目的(イザ 43:13)も、神の約束(2 コリ 1:20)も、また神の救い(ヘブ 5:9、7:25)も変わらないからです!「すべての事について、感謝しなさい」(1 テサ5:18/エペ 5:20)と御言葉は命じていますが、それは、自分の生活環境に満足しているクリスチャンにそうしなさいと命じているのではありません!それは、根本的に神が変わらないからそうしなさいと命じているのです。そういう意味で、真の礼拝とは信仰者の生き方そのものなのです!
●ここで、二人の聖書人物の例を取り上げましょう。ダビデは自分の人生の中で、何が起ころうが、「私は
いつも、私の前に主を置いた」(詩 16:8)と告白していました!どんな状況に置かれても、継続した絶
え間ない礼拝という点で、使徒パウロが最も私たちの模範だと言えます!パウロは次のように語って
います。「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです」(ピリ 1:20)、と。
―3―
4)礼拝とは、へりくだって捧げるものである(1:48a/他)
―へりくだり VS 礼拝を妨げる無知と高慢―
●真の礼拝の四番目の最後のポイントです。真実な内面の礼拝は、へりくだって捧げられるという特徴がりあます!この点を説明するに当って、へりくだりとは逆の面から説明を始める事にしましょう。礼拝を妨げる二つの大きな問題点は、無知と高慢(プライド)です!無知は礼拝を弱くしますし、乏しいものとしますし、そして無力なものとします!神に対する浅く表面的な知識は、その人を本当に深い礼拝へと導く事ができないからです!神が偉大なお方だという事を把握しないで、どうして神を高らかに礼拝できるでしょうか!そういう意味で、神を深く知れば知る程、私たちの礼拝は深いものとなります。一方、高慢は、礼拝を偽善的なものとします。もっと端的に言うのでしたら、高慢な者は全く神を礼拝する事ができません。なぜなら、高慢な者が実際に礼拝しているのは自分自身だからです。
―高慢な者と礼拝について―
●真の神は、ご自分に対して肩を並べようとする者を寛大に取り扱う事をしません!なぜなら、十戒の第一の戒めに、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出 20:3)と明記されているからです!イザヤ書では、この点に関して次のように断言されています。「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない」(イザ 42:8)、と!それゆえ、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けに」(ヤコ 4:6)なるのです。「主はすべて心おごる者を忌みきらわれ」ます!(箴 16:5/参 15:25/詩 31:23/イザ 2:11-12、3:11/1 ペテ 5:5)
●高慢な人々にとって感謝する事は大変難しい事です!なぜなら、彼らは、いつも自分たちがより良いものを受ける価値があると考えているからです!ですから逆に、彼らは、自分たちにされた悪い事をずっとおぼえています。そして、復讐する事を求めます。彼らは自分たちに対する誤った取り扱いを何度もなんども思い返します。それが彼らを苦々しい思いへと駆り立てるのです。その苦々しい思いは、真の礼拝と両立する事はできません。
―へりくだった者と礼拝について―
●それではここで、へりくだった者へ焦点を当てましょう。へりくだった者は自分は何も受けるに値しない者だと認識しています。自分が霊的に破たんしている事を認めている者です!霊的に、自分は物乞いだと理解していて、神が自分に対して霊的に恵んで下さらないと自分は生きていけないと自覚しています!また、へりくだった者は自分の罪を悲しみ、神から与えられる義に飢え渇き、自分は何も所有していないという事を理解している人です。彼らは、神に対する深い感謝と神への深い愛を抱いています!へりくだりから生まれるそれらの要素は、彼らを真の礼拝へと導きます。
―4―
―マリヤのへりくだり!―
●マリヤはとてもへりくだった女性でした!彼女は、48 節の前半で、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」と感嘆の声を上げています。それは、神がそのような自分を選んで祝福して下さった事への驚き表している言葉です。マリヤは自分が罪人である事を知っていますし、神のあわれみと恵みとを必要としている者だと自覚しています!自分自身がほめたたえられ、神に準ずる天の女王というようなローマカトリック教会の見地からは遥かに掛け離れているものです。マリヤは、自分自身を「卑しいはしため」だという事をよく理解していました。
―映画「沈黙-サイレンス-」で描かれるマリヤ―
●昨日から、日本全国で、映画「沈黙-サイレンス-」が封切られました。カトリック教会で洗礼を受けた遠藤周作が 60 年前に出版した歴史小説「沈黙」が映画化されました。これまでも映画化はされましたし、ミュージカルになりましたが、今回はイタリア移民の家庭に生まれ、アメリカ国籍のアカデミー賞監督であり巨匠とまで呼ばれているマーティン・スコセッシが 28 年もの歳月を掛けて取り組んだという事で、様々なメディアで取り上げられて話題となっています。
●日本のキリスト教徒迫害の歴史を学ぶという点で、映画を観るその価値はあると思います。しかし、懸念される点もあります。その一つがやはりマリヤ信仰です。カトリック教徒はマリヤに祈りを捧げます。なぜなら、カトリックの教義では、マリヤが御子イエス・キリストを身ごもった時にマリヤの罪は取り去られ、生きたまま昇天し、今では先程述べましたように天の女王として神に準ずる立場が天で与えられています。また、聖霊の妻だともされています。ですから、映画では父なる神というよりは、母なる神の要素が描かれています。
●もう一つの問題点は、マーティン・スコセッシ監督が過去に作製したイエス・キリストに関する映画で
「最後の誘惑」(“The Last Temptation of Christ”)というものがありました。その映画で、スコセッシ監督が強調した点は悩める人間イエスでしたし、またユダの裏切りを神の使命として描いた点でした。具体的には、十字架に架けられたキリストがマグダラのマリヤとの結婚から多くの子どもをもうけ、最期は普通の人間として死ぬという誘惑があったという解釈をして映画作りをしたのです!ですから、私たちクリスチャンが映画「沈黙」を観る時に、その映画のある程度の背景を理解する必要はあると言えます。
●私が憂えるのが、そのような背景があるにもかかわらず、日本で一番大きいキリスト教出版社であるいのちのことば社が、大々的にこの映画を宣伝しているのです。背景を見分けた上で宣伝するのはいいのですが、それを読者に伝えないでやるのは、出版社としては甘い取り組みだと言えます。要注意です。
―聖書に記されたマリヤに戻りましょう―
●この「はしため」というギリシャ語は、「奴隷」という言葉の女性形です!新約聖書において、マリヤは自分自身が最初に主の奴隷であると表明した人物です!そして、その後、「奴隷」という表現は、キリストを信じた聖徒たちを表す当たり前の表現となりました!(2:29/1 コリ 7:22/エペ 6:6/黙 1:1)
●マリヤのへりくだりについて、更に聖書を探って行く事にしましょう。社会的に、彼女は、人々からはさげすまれたていたナザレという小さな田舎の村に住んでいました。そして、彼女は普通の一少女でした(ヨハ 1:46)。という事は、マリヤは、ユダヤやエルサレムという社会的に身分の高いエリート層が住んでいる首都からは遥か離れた所で暮らしていた事になります。 ―5―
●救い主の母親になって後でさえも、彼女は決して卓越した人物にはなりませんでした。イエス様はご自分の母親としてマリヤを尊敬しましたが、マリヤ自身はイエス様に対して何か特別な主張や要求をしてはいません。(ヨハ 2:4/マタ 12:46-50)また、初代教会はマリヤに対して何か特別な地位を与えていませんし、いかなる栄誉や称号も授けていません!十字架の場面でマリヤが登場して以降、新約聖書がマリヤを記しているのは、エルサレムの「屋上の間」(使 1:13)で集まった信徒の一人としてだけです!それ以外、新約聖書のどこにも記されてはいません。
●この普通の若い女性であるマリヤは、ごく普通の若い男性と婚約を交わしました。当時の女性の多くが、10 代前半で結婚していました。マリヤのようにヨセフもダビデの血筋でしたが、彼はごく普通の肉体労働者でした。それゆえ、人々はイエス様の家庭をごく普通の平凡な家族として見ていました。それゆえ、ナザレの村の一般の住民は、イエス・キリストの「教え」を聞き、その「知恵と不思議な力」を見聞きしたにもかかわらず、「この人は大工の息子で・・・母親はマリヤで・・・兄弟・・・妹たちも私たちといっしょにいるではありませんか。・・・そうして、彼らはイエスにつまづいた」(マタ 13:54-57)と記されています。そして、しまいには、彼らはイエス・キリストを「がけ・・・から投げ落とそうとした」(ルカ 4:29)くらいでした。マリヤのどこを見ても、彼女が社会的に身分の高い者だとは全く言えませんでした。
●しかしながら、マリヤの「卑しいはしため」としての自覚は、社会における自分の身分の低さを遥か
に超えるものでした!それは、彼女の霊的な品性に関わる事です!マリヤは、全ての人と同様に、自分が罪人であり、救い主を必要としている事を自覚していました!全ての真の礼拝者たちがそうであるように、マリヤも主なる神を最も気高く聖なるお方として理解しており、反対に、自分自身を卑しい罪人であると理解していました。
●エリサベツが言うように、マリヤが「女の中の祝福された方」(1:42)、すなわち最も高められた女性であるとしたら、マリヤはそれと同時に最もへりくだった女性でした!実に、そのへりくだりのゆえに、神は彼女を選ばれそして祝福されたのでした!神はヤコブを通して、次のように語られています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(ヤコ 4:6)、と!同じように、預言者イザヤは、次のように神のお言葉を取り次ぎました。いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザ 57:15)。
―まとめ―
●神は、マリヤを通して、礼拝にふさわしい態度が何たるのかをはっきり示されました。マリヤは、自分に対する神のあわれみのゆえに、喜びと感謝とに満ちていました!自分が全くふさわしい者ではないというへりくだったマリヤの自覚と、神の大いなる恵みとによって、マリヤの感謝に溢れる心か
らの讃美と礼拝とが生み出されて行ったのでした。
―6―
【まとめ】それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●今回は、『マリヤの讃歌』の最初の部分を通して、礼拝の態度について学びました!真の礼拝とは、一番目に内面のものであるという事、二番目に湧き上がり溢れるものであるという事、三番目に生き方そのものであるという事、そして四番目にへりくだって捧げるものであるという事でした。
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●いかがでしょうか、この四つのポイントの内で、あなたにとって一番何が問われたでしょうか?神があなたに最も問い掛けられた真の礼拝の態度は何だったでしょうか?主との交わりの中にそれらを確認し、更に真の礼拝者として成長して行けるよう祈って行きましょう。
【締めの御言葉】
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、 1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜び
たたえます。 1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです(ルカ1:46-48a)。
―7―