ルカの福音書講解説教(21)/メッセージ原稿/『マリヤの讃歌』(その 2)/2017.01.15
『毎日の生活と一生が礼拝!』
―『マリヤの讃歌』が示唆していること―
《ルカ 1:46-55/今回は 1:46-47/序論②》
【序 論】
●『マリヤの讃歌』の四回のメッセージの半分の二回を、何と序論に費やしています。それだけ、礼拝
というテーマがいかに重要なものであるのかを物語っていると思います。日曜日は礼拝の日なのです
が、果たしてその理解だけに留めていていいのでしょうか。今回のメッセージを通して、聖書が私たちに教
えている礼拝について再考察する必要に迫られます。
●二回目の序論のメッセージの主題は、『毎日の生活と一生が礼拝!』です。また、副題は「『マリヤの
讃歌』が示唆していること」です。そして、今回のメッセージの流れは下記のアウトラインの示す通りですが、
これから解き明かされる聖書の御言葉に期待を寄せましょう。
【全体のアウトライン】
◎ 序論①/礼拝について/前回&今回
◎ 序論②/マリヤの讃歌が示唆していること/今回
[1]礼拝の態度(1:46-48a)
[2]礼拝の対象(1:46b、47b)
[3]礼拝の理由(1:48b-55)
【今回のアウトライン】
◎ 序論①/礼拝について/前回&今回
1)礼拝者として創造された人間(詩篇 95:6-7/他)/済
2)偶像礼拝に走る人間(士師 12:12-13/他)/済
3)礼拝を捧げる贖われた人間(ピリピ 3:3/他)/今回
ア)伝道の実は神への礼拝である(ローマ 15:16)
イ)敬虔と威厳と平安と静かな一生は神への礼拝である(1 テモテ 2:2-3)
ウ)讃美は神への礼拝の中心である(ヘブル 13:15)
エ)人の必要を満たす事は礼拝である(ヘブル 13:16/他)
4)真の礼拝者(ヨハネ 4:23-24/他)/今回
ア)霊によって礼拝する(使徒 5:32/他)
イ)まことによって礼拝する(ヨハネ 17:17/他)
◎ 序論②/マリヤの讃歌が伝えていること/今回
1)マリヤの心に旧約聖書の御言葉が染み渡っている(1 サムエル 1:11、2:1-10/他)
2)マリヤはイスラエルの歴史に精通している(ルカ 1:51-53)
3)マリヤはアブラハムの契約の真理を理解している(ルカ 1:54-55) ―1―
【本 論】
◎ 序論①/礼拝について/前回&今回
1)礼拝者として創造された人間(詩篇 95:6-7/他)/済
2)偶像礼拝に走る人間(士師 12:12-13/他)/済
3)礼拝を捧げる贖われた人間(ピリピ 3:3/他)
●人間は礼拝者として創造されたにもかかわらず、神への反逆によって罪が人類を支配し、その礼拝対象
が人間を造られた神ではなくなりました。人間は自ら神々を造り、その像に礼拝を捧げるという偶像礼拝の
罪が蔓延するようになりました。たとえ自分は無神論者だと豪語しても、自分の地位や名声や権力や健康
がその人の偶像に十分なり得るのだという事を学びました!人間の心の中にある「むさぼり」(コロ 3:5)は、そ
の全てが偶像だと聖書は警告しているという事を学びました。
●しかし、一方、神によって救いに導かれた者、その人の罪がキリストの身代わりの十字架によって償われ
者、贖われた者は、真の神に受け入れられる礼拝を捧げるようになります!神に受け入れられる礼拝に
は、クリスチャンが見逃してはならない多くの大切な要素がありますので、それらを取り上げて説明する
事にします。礼拝について語られている聖書の御言葉に驚く事でしょう。
ア)伝道の働きは神への礼拝である(ローマ 15:16)
●聖書が語っている礼拝の大切な要素の一番目ですが、ローマ人への手紙 15 章に目を留めましょう。使
徒パウロは、15 節で、「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをい
ただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」と語っています。パウロはここで、伝道によって救われた実は、神への「供え物」すなわち礼拝であると語っています。伝道の働きは神への礼拝に直結しているのだと告げているのです。もっと端的に言いますと、伝道は礼拝なのです。
イ)敬虔と威厳と平安と静かな一生は神への礼拝である(1 テモテ 2:2-3)
●礼拝の大切な要素の二番目ですが、第一テモテの手紙 2 章に目を留めましょう。同じく使徒パウロは、
2 節と 3 節で、愛弟子テモテに対して、「2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静か
な一生を過ごすためです。 2:3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」と語っています!2 節の「敬虔」と「威厳」と「平安」と「静かな一生を過ごす」というのは、「神の御前において良いことであり、喜ばれること」であるので、それは礼拝行為であると言っているのです。
●日曜日の朝に礼拝を捧げる事だけが礼拝ではありません!日々どういう生活を送っているのか、キリストを信じる者にふさわしい生活をする事、自分の考えや感情ではなく聖書に従った生活をする事、小さなキリストとして毎日を過ごす事、実はそれが礼拝だと言っているのです。「敬虔」と「威厳」と「平安」と「静かな一生を過ごす」というのは、未信者に対してもまたクリスチャンに対しても実に大きな証しです!相手の徳を高めますし、それは礼拝行為だと聖書は語っています。―2―
ウ)讃美は神への礼拝の中心である(ヘブル 13:15)
●礼拝の大切な要素の三番目ですが、ヘブル人への手紙 13 章に目を留めましょう。15 節と 16 節の組み合わせが、礼拝を聖書的に理解する上でとても大切な箇所です。まずはで 15 節ですが、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」と奨励しています。「賛美のいけにえ」や「御名をたたえるくちびるの果実」というのは、神に対して直接讃美をもってほめたたえる事を指しています。讃美は、神への礼拝の中心に来るものです。
エ)人の必要を満たす事は礼拝である(ヘブル 13:16/他)
●そして 16 節ですが、礼拝の大切な要素の四番目です。「善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」とも記されています。「善を行うことと、持ち物を人に分けること」って、人にとって何を意味しているのでしょうか。それは、人が日常生活の中で、私たちが当たり前にすべき事ではないでしょうか。人の必要に気づいたら、満たして助けて上げるという事も実は神への大切な礼拝なのです。人を助けるのですが、実にその中心は神への礼拝なのです。私たちが人を助ける時、私たちは神から与えられているもので助ける事ができるのです。ですから、「善を行うことと、持ち物を人に分けること」が神への礼拝につながるのです。
●聖書の具体例として、パウロは自分の生活の必要(経済的必要)に対してピリピの教会がなしてくれた行為に対して次のように述べています。「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です」(ピリ 4:18)、と!私たちの身近な人々のごく普通な日常生活における物心両面の必要を満たす事が、実に神への礼拝行為なのです!日常で行う親切な行為は、神にとっては「香ばしいかおり」でありまた「供え物」なのです。
4)真の礼拝者(ヨハネ 4:23-24/他)
●贖われた人間が礼拝するのは当然な行為で、その礼拝行為というものは人々の日常の必要を満たす事も含んでいるという事を学びましたが、次に、イエス・キリストが礼拝についてどのように語っておられるのかという点に目を留める事は大切です。そこで、イエス様は、真の礼拝者には二つの重要な点があるという事を語っておられます。有名な聖書箇所ですが、ヨハネ 4:23-24 に目を留めましょう。4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
ア)霊によって礼拝する(使徒 5:32/他)
●イエス様が語られる真の礼拝者の一番目の要素は、「霊・・・によって礼拝」するです!「神は霊ですから」というのは、真の神のご性質を表す最高の定義です。「霊」について、復活されたイエス様ご自身が、
弟子たちに対して次のように語られました。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい」とまず語られ、ご自分が本当に死から甦られて復活の体をお持ちであるという事を示された。そして、次に「霊」とは何なのかを語られます。「霊ならこんな肉や骨はありません」(ルカ 24:39)、と。―3―
●すなわち、神は「見えない」(コロ 1:15/参照 1 テモ 1:17/ヘブ 11:27)お方で、「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です」(1 テモ/参出 33:20/ヨハ1:18、6:46)。ですから、もし神が聖書とイエス・キリストを通してご自分を表して下さらなかったのなら、人が神を理解する術は全くありません。神はご自分のあわれみによって、罪深い私たちに対してご自分をその二つの方法で現して下さったのです。
●そこで、最初に来る「霊・・・によって礼拝」するとはどういう意味なのかを探って行きましょう。「神は霊ですから・・・霊・・・によって礼拝しなければな(らない)」のです。別の表現で説明しますと、「霊・・・によって
礼拝」するとは、目に見える上辺だけの礼拝の儀式とは正反対なものだという事です。すなわち、「霊・・・によって礼拝」するとは、礼拝の中身が本物で、偽りがなく、誠実なもので、心からの礼拝であるという事を指しています。17 世紀のイギリスのピューリタンであったステファン・チャーノックという人物が、「霊・・・によって礼拝」するとはどういう意味なのか、次のように説明しています。なかなか強烈で、心に迫る説明です。心を抜きにして、礼拝はありません。[もし礼拝に心が伴わないのなら]それは舞台演技と同じです。(演技とは)その人物の存在無しにその役が演じられています。そのように、私たちも礼拝を演じ得るのです。(ギリシャ語では)偽善者という言葉の概念は演技者です。私たちは完全ではないけれど、神を礼拝するとは言えます。しかし、もし私たちが誠実でなければ、私たちは神を礼拝するとは言えません。※1
([ ]は筆者の加筆)
●誠実に礼拝を捧げた聖書人物たちの告白を聞いてみましょう。ダビデは、「わがたましいよ。主をほめたた
えよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」(詩 103:1/参 詩 51:15-17)、と語って礼拝を捧げました。ダビデの礼拝は、心からの嘘偽りのない誠実な礼拝でした!また、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩 51:17)、ともダビデは告白しています!へりくだり、心柔らかくされ、そして悔い改めた内面からの礼拝を指しています。一方、パウロは、ローマのクリスチャンに対して、「私が・・・霊をもって仕えている神」(ロマ 1:9)、と表現しています!パウロは自分が信じている神に対して、誠実に仕えさせて頂いていると語っています。そこには、礼拝している振りや礼拝している演技はありません。
―「霊・・・によって礼拝する」前提条件となるもの―
●「霊・・・によって礼拝」するに当り、その前提条件がありますが、その一番目は、真の礼拝者は聖霊のお働きによって初めて礼拝を捧げる者になれるという事を忘れてはなりません。(1 コリ 12:3)当然の事ですが、人は聖霊がその心の中に宿って初めて救われ、そして初めて礼拝を捧げる事ができます。(使 5:32/ロマ 8:5-9)逆に、救われる事無しに、人は礼拝を捧げる事はできません。このように、礼拝の前提条件の最初に、聖霊の働きが来る事を決して忘れてはなりません。―4―
●二番目の前提条件は、詩篇86篇に記されています。同じく、ダビデは主に向かって次のように告白しました。「主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように(詩 86:11)、と。「霊・・・によって礼拝」するとは、礼拝すべき主に向かって礼拝者の心と思いと考えが一つにされているという事が求められます!シングルで純粋な思いで主に向かう礼拝です!どうしたら、乱れた思いが主に向かって一つ思いにされるのでしょうか。それは、神の御言葉の真理に思いを寄せる事、神の御言葉の真理を黙想する事です。「主のおしえを
喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」(詩 1:2)人の心です。
●「霊・・・によって礼拝する」に当り、その三番目の前提条件は悔い改めです!なぜなら、主との親しい交わりを妨害するのは罪だからです!再度、ダビデですが、彼は次のように祈りました。「139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」(詩 139:23-24)、と。「傷のついた道」の原因となった罪を指摘して頂き、悔い改める事によって礼拝する心の乱れは解消されます。
●四番目の前提条件ですが、「霊・・・によって礼拝」するに当り、どのような状況下に置かれても、主の御心をへりくだって受け入れる事です。それが、アブラハムが最愛のひとり息子であるイサクを、進んでモリヤの山で神に捧げようとして神に従った礼拝行為に見られます。勿論、イサクが火で焼かれていけにえになって実際に死ぬという事が神のご計画ではありませんでした。アブラハムが試練の中で、第一に神を愛しまた神に礼拝を捧げる事を試されたのでした。成熟したアブラハムの信仰は、愛する自分の息子が自分のものではなく神のものである事をよくわきまえていました。自分の最愛の子が偶像になるのではなく、神への捧げ物となる方を選びました。神の御心を受け入れるという事は、「霊・・・によって礼拝」する事を意味します。
イ)まことによって礼拝する(ヨハネ 17:17/他)
●次に、「まことによって礼拝」するとはどういう意味なのかを探って行きましょう。
・御言葉と一致する礼拝のみが神に受け入れられる(ヨハネ 17:17/他)
●前回のメッセージで既に語りましたが、神は、自称礼拝者を退けます。なぜなら、それが、神御自身が表された真理に一致しないからです。その真理の源とは何でしょう?言うまでもなく、それは聖書の御言葉です!父なる神に対して、イエス様ご自身が「あなたのみことばは真理です」(ヨハ 17:17)と語られました!また、「みことばのすべてはまことです」(119:160)と詩篇作者は語りました。御言葉に一致する礼拝のみが神ご自身へ受け入れられる礼拝です!これが、「まことによって礼拝」するという意味です。
―前半のメッセージのまとめ―
●今回の前半のメッセージをまとめましょう。ヘブル 10:22 が真の礼拝者として神に近づく事について簡潔に記されていますので、その御言葉でまとめる事にしましょう。「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」、と記されています。真の礼拝者は「真心から神に近づ(く)」者であり、「全き信仰をもっ(た)」者であり、キリストの「血」によって「邪悪な良心をきよめられ(た)」者であり、そして「からだをきよい水で洗われた」者すなわちきよめられた純粋な者です。そのように神を礼拝するなら、どのような結果が得られるでしょうか。それは、神がまず栄光をお受けになり(詩 50:23)、きよめられた信仰者となり(詩 24:3-4)、そして失われた者に福音が伝えられます。使 2:47)真の礼拝は、神へそして信仰者へそしてこの世の人々へ良い結果をもたらします。―5―
◎ 序論②/マリヤの讃歌が示唆していること/今回
●序論①では二回にわたって真の礼拝者について学んで来ましたが、その事を踏まえて、序論②のマリヤの讃歌が示唆していることに進みましょう。序論②は『マリヤの讃歌』への導入部分になります。その一番目です。マリヤがエリサベツの家を訪問した時のメッセージで、マリヤが信仰において、またへりくだりにおいて、また神の御旨に対する従順において、全てのクリスチャンの模範者であるという事を学びました。そして、今回学んでいるこの聖書箇所からは、マリヤが神に受け入れられるまことの礼拝の模範者であるという事を学ぶ事ができます。
―
前回のテーマ(マリヤとエリサベツ、御使いの預言の確認)の振り返り―
●御使いガブリエルから、救い主の母親になるという驚くべき告知を受けたマリヤは、すぐさま親戚のエリサベツのもとを訪れます。なぜなら、年老いて妊娠不可能なエリサベツがバプテスマのヨハネを身ごもってからもう 6 ヶ月になるという知らせを受けたからでした(1:36)。そのようにして、マリヤは自分が処女であるにもかかわらず救い主を宿すという約束が神にとっては可能であるという確信を得る時となりました。処女降誕という彼女の疑問は全て解消され、その信仰は強められました。
1)マリヤの心に旧約聖書の御言葉が染み渡っている(1 サムエル 1:11、2:1-10/他)
●そして、その直後の 46 節から 55 節の『マリヤの讃歌』の中に、神がこれからなされる恵みと愛の救いの御業に対するマリヤのほとばしる讃美と礼拝とが記されています。それでは、マリヤの讃歌が示唆しているの一番目のポイントですが、マリヤの讃歌は御言葉の言及で満ちています。という事は、マリヤの心や思いや考えとに旧約聖書の御言葉が染み渡っているという事を示しています。第一サムエル記に記されたハンナの祈り(1:11、2:1-10)やモーセ五書や詩篇や預言書に記された祈りが、『マリヤの讃歌』の中に反映されています。
―その具体例―
●その具体例を挙げましょう。46 節で、マリヤは「わがたましいは主をあがめ」という表現からその讃歌が始まっています。それは、詩篇 34:2 の「私のたましいは主を誇る」という表現を反映させています。また、47 節で、マリヤは「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と讃美し、神を救い主として言及していますが、それは、2 サムエル 22:3、イザヤ 43:11、45:21、49:26、60:16、そしてホセア 13:4 にも記されている表現です。そして、48 節で、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」とありますが、それは、1 サムエル 1:11 のハンナの祈りが反映しています(参 詩 136:23)。―6―
●また、48 節の後半で、マリヤは「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と驚きが記されていますが、それは、創世記 30:13 のヤコブの妻レアの「なんとしあわせなこと。女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう」という感嘆、感激の言葉が反映しています。そして、49 節の前半に「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」とマリヤは宣言していますが、それは詩篇126:3 の「主は私たちのために大いなることをなされ(た)」という旧約聖書の御言葉にさかのぼる事ができます。そして最後に、それに続く表現で、49 節の後半には「聖なる御名」という表現がなされていますが、それは詩篇 99:3 や 119:9の御言葉にさかのぼる事ができます。
―心に御言葉が染み渡る重要性!―
●これらの共通した表現を見ますと、マリヤがいかに旧約聖書に精通していたのかが分かります。マリヤの心や思いや考えに、旧約聖書の御言葉がまさに染み渡っているのです。マリヤは、安息日毎の会堂での旧約聖書の朗読やその解説に対して、いかに集中して聞いていたのかが分かります。新約のこの教会時代においても言える事ではないでしょうか。主日毎の礼拝での御言葉の解き明かしに集中して耳を傾ける事、アッパールームの聖書勉強に励む事、それらがそれぞれのディボーションで御言葉を読み取る力を高めてくれますし、そのようにしてマリヤのように心や思や考えに御言葉が染み渡って行きます。旧新約時代の信徒にとって共通して言える事は、御言葉で心が充満する事の大切さです!それは、クリスチャンを罪に勝たせますし、神の御心を行う力を与えてくれますし、神に喜ばれる礼拝者とします!非常に重要です。マリヤはその模範者です。
2)マリヤはイスラエルの歴史に精通している(ルカ 1:51-53)
●二番目のポイントですが、『マリヤの讃歌』はマリヤがイスラエルの歴史に精通しているという事を物語っています。イスラエルの歴史を振り返ってみますと、51 節の前半に記されていますように、「主は、御腕をもって力強いわざをなし(て)」来られました。続く 51 節の後半では、「主は・・・心の思いの高ぶっている者を追い散らし(て)」来られました。その次の 52 節の前半では、イスラエルの王制を振り返ってみましても、主は「権力ある者を王位から引き降ろされ」、続く 52 節の後半では、逆に、主は「低い者を高く引き上げ(られた)」お方でした。そして更に、53 節で、主がイスラエルの歴史の中でなされた事は、「飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返され・・・た」、という事でした。すなわち、主はイスラエルを主権を持って統治して来られたお方だという事をマリヤ確信していました!詳しくは、後半の二回
のメッセージでお伝えします。
3)マリヤはアブラハムの契約の真理を理解している(ルカ 1:54-55)
●最後の三番目のポイントは、マリヤがアブラハムの契約の豊かな真理を理解していたという事です。54 節に記されていますように、マリヤは、「主」が「そのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けにな(られた)」という事をよく知っていました。それは、神がマリヤの「父祖たち」すなわち「アブラハムとその子孫」たちに対して 1500 年以上も前に「語られた」約束を守り続けて来られたという事です!その約束は、アブラハムの契約と呼ばれています。アブラハムの子孫であるイスラエルがどのような状態に陥ろうが、神がその先祖であるアブラハムと交わされた契約はいつまでも変わらないという事をマリヤは理解していました。 その契約の中にあって、自分が、「アブラハム」の子「孫」のお一人としてお生まれになる救い主イエス・キリストを身ごもるという神の「あわれみ」と恵みと特権とをおぼえて主に讃美を捧げたのでした。―7―
●イエス様は、「心に満ちていることを口が話すのです」(マタ 12:34b)と教えられましたが、『マリヤの讃歌』に見られるこれらのマリヤの言葉というのは、神の御言葉によって浸されたマリヤの心から豊かに流れ出たのでした。
―後半のメッセージのまとめ―
●『マリヤの讃歌』は、マリヤの御言葉に対する深い理解、歴史に関わる神への感謝、そして変わらない神のご性質への信頼を伝えています!その讃歌は、アウトラインに記されていましたように、三つの部分から構成されていました。礼拝の態度、礼拝の対象、そして礼拝の理由です。『マリヤの讃歌』を通して、全てのクリスチャンが熱意を持って礼拝の模範者であるマリヤを見習う必要があります。
【
まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●『マリヤの讃歌』の本論に入る前に、何と二回の序論のメッセージを要しました!それだけ、キリストを信じる者にとって礼拝がいかに大切なもので、それは生活そのものであるという事を教えられました。毎週の教会堂での礼拝だけでなく、伝道も、敬虔と威厳と平安と静かな一生も、日常生活で他者の物的・精神的・霊的必要を満たすのも礼拝であるという事を聖書は教えていました。そして、霊とまことによって礼拝するというイエス様ご自身の教えでは、私たちの礼拝が演技にならないよう注意するという事、また聖書と一致する礼拝のみが神に受け入れられるものであるという事を教えられました。
●そして、メッセージの後半では、マリヤの心にいかに御言葉が染み渡っていたのかという事、聖書に精通してマリヤの信仰を教えられました!そして、人がたとえ契約を破っても、契約を交わされた神は決してその契約を破られないという事、すなわち神の絶対に変わらないご性質とその約束に目を留める事の大切さを、マリヤを通して改めて教えられました!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●序論でしたが、礼拝について実に多くの事が含まれていました。いかがでしょう、あなたにとっての礼拝は、この教会堂内だけの行為ですか。それとも、生活そのものが礼拝ですか?あなたの伝道、あなたの親切、あなたの敬虔な生活やあなたの一生が礼拝という意識で毎日を送っていますか。また、あなたの礼拝は神の前にではなく、人の前の演技となっていませんか?あなたの礼拝は、聖書の教えと一致していますか?様々なチャレンジです。
●あなたの心に、神の御言葉が染み渡っていますか?あなたの言動は、あなたの心にある聖書の思いから流れ出ていますか?あなたの神は決して変わらず、たとえあなたが神の御旨に沿わない時もあなたへの約束と愛を変えられないお方だと信じていますか?そして、この素晴らしいお方と共に歩み、そして心から礼拝したいと願いませんか。それでは、祈りましょう。
【締めの御言葉】
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません(ヨハ4:24)。
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