ルカの福音書講解説教20/メッセージ原稿/『マリヤの讃歌』(その 1)/2017.01.08 『礼拝者されど偶像礼拝者』 ―「マリヤの讃歌」に見られる礼拝について考察する!― 《ルカ 1:46-55/今回は 1:46-47/序論①》
【序 論】
―正月にまつわる“縁起のいい初夢”―
●年頭の礼拝で、神社の賽銭にまつわる日本人の幸せ観が全て語呂合わせによって成り立っている という事を伝えました。ここでもう一つ、初夢に出ると縁起がいいと言われる日本人の言い伝えを紹介し ましょう。それが、「一富士・二鷹・三茄子・四扇・五煙草・六座頭」に見られます。その理由は下記の通り です。 1)一富士~無事、日本一高い山 2)二鷹~舞い上がる、飛躍、出世等 3)三茄子~成す、初値が高い 4)四扇~末広がり 5)五煙草~舞い上がる、飛躍、出世等 6)六座頭~琵琶法師の座に所属する剃髪した盲人の事を指し、毛が無い、怪我無い 語呂合わせや験担ぎや縁起物に見られますように、日本人の多くは、このようなこじつけをもとにし て新しい一年を迎えます。これらのこじつけには、人生の諸問題を乗り越えさせる力があるのでしょう か。
―年頭におけるクリスチャンの心構え―
●一方、クリスチャンの年頭における心構えにも触れておきましょう。クリスマス、年末、新年にわたっ て、ヘブル書から取り次いだ三回目の内の二番目は『御子と御父はあなたを恥としない!』という映像の メッセージでした。そのメッセージに対して、ある方から以下の応答が寄せられました。 イエス様が、私たちの救いの創始者として来られたということの意味と恵み!開拓者とも言えるイ エス様が、私たちの前に歩んで下さったこと。そして今も、私たちの歩むべき道に道しるべを付けて いて下さる!なんという平安と恵み。イエス様の苦難の救いの御業が、神の知恵と力と愛と聖さに 全く合致しているという学びは、改めて、天のなる神の義と愛が迫り、聖とされている者という恵み の深さを受け取らせて頂きました。いよいよ、天の父なる神に信頼し、イエス様に従って行こう。そう いう一年にしよう!と深く思わされることでした。 確かで、変わらず、永遠にわたって存在して導いて下さる真の救い主に全てを委ねて人生を送る事 からくる確信と平安と幸いとが記されています。クリスチャンの幸福感は、決して語呂合わせや験 担ぎや縁起物に見られるこじつけにもとづくものではありません!。―1―
●さて、今回からルカの福音書に戻り、再び「主の物語」を紐解いて行きます。何回かにわたって『マリヤの 讃歌』を取り扱いますが、特に礼拝に焦点を当てて御言葉を学びます。一回目のメッセージの主題は、 『礼拝者されど偶像礼拝者』です。副題が、「『マリヤの讃歌』に見られる礼拝について考察する!」で す。序論に二回分のメッセージの分量を費やすところをみても、礼拝というテーマの重要性に気付 かれると思います。このテーマの全体並びに今回のアウトラインは下記の通りです。高齢者
【全体のアウトライン】
◎ 序論①/礼拝について/今回&次回
◎ 序論②/マリヤの讃歌が示唆していること/次回
[1]礼拝の態度(1:46-48a)
[2]礼拝の対象(1:46b、47b)
[3]礼拝の理由(1:48b-55)
【今回のアウトライン】
◎ 序論①/礼拝について 1)礼拝者として創造された人間(詩篇 95:6-7/他)/今回 2)偶像礼拝に走る人間(出エジプト 20:3-5/他)/今回 3)礼拝を捧げる贖われた人間(ピリピ 3:3/他)/次回 4)真の礼拝者(ヨハネ 4:23-24/他)/次回
【本 論】
◎ 序論①/礼拝について ≪導入/「『マリヤの讃歌』の背後にあるもの!≫
●ルカ 1:46-55 は、前述しましたように、『マリヤの讃歌』としてよく知られている箇所で、少女マリヤの神 への豊かな讃歌が記されていています!この讃歌は、神学的にもまた旧約聖書を用いる事において も、実に優れた驚かされる内容です。マリヤはおそらく 13 歳くらいの少女で、その当時の全ての人々と 同じく、自分自身の個人的な聖書を持てる時代ではありませんでした。しかしながら、彼女が神の言葉 に精通していたのには、どのような理由からだと考えられるでしょうか?それは、毎週ユダヤ人会堂で 読まれる旧約聖書の御言葉を聞いて理解していたからです。ルカ 4:16 で、イエス様が郷里ナザレに 行かれた時の様子が次のように記されている事からも分かります。「いつものとおり安息日に会堂に入り、 朗読しようとして立たれた」、と。イスラエルの会堂では、毎週、旧約聖書が読まれていました。
●御言葉がマリヤの心の中に据えられていましたので、彼女が心から礼拝する思いを持って神をほ めたたえたるために口を開いた時、躊躇なく旧約聖書の御言葉に裏付けられた讃歌がほとばしり 出てきました。もし少年少女たちが聖書の知識に通じて信仰深く、このような讃歌がその口から ほとばしり出て来るのでしたら、それは今日の教会にとってどんなに素晴らしい事でしょうか。その ような事が起こる事を、私たちは期待したいですし、そのために私たちは御言葉を学びそして教え る事に力を入れる必要があります。 ―2―
―『マリヤの讃歌』に入る前に、それに関連した礼拝ついて学ぼう―
●『マリヤの讃歌』の「讃歌」という言葉は、「ほめたたえる歌」すなわち「礼拝」を意味した言葉です!です から、『マリヤの讃歌』の中身に入る前に、まず礼拝について学ぶ事から始めるのがその筋というもの です。それで、これから礼拝に関する旧新約聖書の御言葉に目を留め、その理解を深める事にします。 序論の礼拝に関するアウトラインで示されていましたように、それは四つのポイントから成り立っています。一 番目の礼拝者として創造された人間と二番目の偶像礼拝に走る人間の両ポイントについては、今回 のメッセージで執り扱います。三番目の礼拝を捧げる贖われた人間と四番目の真の礼拝者、そしてそ れに序論②のマリヤの讃歌が示唆していることを加えたメッセージは、次回取り次ぐ事にします。 1)礼拝者として創造された人間(詩篇 95:6-7/他)
―旧約聖書―
●それでは、一番目の礼拝者として創造された人間という視点から礼拝に関する学びを始めましょう。ま ず初めに旧約聖書の詩篇では次のように語られています。「95:6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そ う。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう 。 95:7 主は、私たちの神。私たちは、その牧 場の民、その御手の羊である」(95:6-7)、と。イスラエルの民は、まず人間が神によって「造られた」 ものである事を知っていました。そして、自分たちの存在目的が神の御元に「来」て、神の御前に「伏 し拝み、ひれ伏(して)」礼拝する事であるということを知っていました!聖書は、勿論、イスラエル の民だけではなく、全ての人が元々神を礼拝するために造られた礼拝者であるという事を語ってい ます!。
―新約聖書―
●新約聖書も、何と言っても、礼拝を優先する事を強調しています!イエス様の公生涯の初めに、悪 魔がイエス様に対して、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを」すなわち「この世のすべての国々と栄華」 を「全部あなたに差し上げましょう」と言って、冒涜的な誘惑を仕掛けて来ました。すると、イエス様は、「引 き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」(マタ 4:10)と断言され、 その誘惑を毅然と退けられました。また、ヘブル 10:24-25 には、クリスチャンが共に集い、「互いに勧め合っ て、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」と勧められています。なぜなら、それによって、クリス チャンが「生ける石として、霊の家」である教会に「築き上げられ(て)・・・聖なる祭司として、イエス・キリスト を通して、神に喜ばれる霊のいけにえ」すなわち礼拝を「ささげ(る)」(1 ペテ 2:5)事だと語っています。
―まとめ/一番大切な戒め&天国での礼拝―
●旧新約聖書が共に強調している点が、イエス様が人々に対して語られた一番大切な戒めの中に 表れています。それは、イエス様が旧約聖書の申命記 6 章から引用された、「心を尽くし、思いを尽く し、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マコ 12:29-30)という御言葉に表れ ています。「あなたの神である主を愛せよ」という事は、当然、主を礼拝する事につながります!そし てまた新約聖書では、その最後の書である黙示録において、天国で永遠に礼拝が捧げられている事が 明記されています。「二十四人の長老は・・・永遠に生きておられる方を拝み .. 」(5:10)、すなわち父な る神を礼拝して次のように語りました。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です」(5:11)と!また、 天国おいてイエス・キリストに対しては、「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄 光と、賛美 .. を受けるにふさわしい方です」(5:12)と、無数の御使いたちが大声で礼拝しているのです!。マッカーサー師は「礼拝生活の喜び」という書籍の中で、「創世記の最初からヨハネの黙示録の終わりま で、礼拝という教えは聖書の縦糸、横糸となっているのです」※1 と語っておられますが、まさにその通り です! 2)偶像礼拝に走る人間(出 20:3-5/他)―3―
―旧約聖書―
●人は真の神を礼拝する者として創造されましたが、人の神への反逆によって罪が人類を支配し、そ の礼拝対象が真の神でなくなりました。真の神以外のいかなるものをも礼拝する事を偶像礼拝と言 います。神ご自身が、次のように明確に警告を発しています。「20:3 あなたには、わたしのほかに、ほか の神々があってはならない。 20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあ るものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならな い。 20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」(出 20:3-5)、と。ここで私たちが 忘れてはならない大切な事は、真の神について教えられ、神の御業について伝えられていたイスラエ ルの民の絶え間ない偶像礼拝が、結果的に自分たちの国の破滅と外国への捕囚につながりまし た。彼らの運命を決定付けたのは 、彼らが何を礼拝しているのかに あったのです 。この点を短くまと めるのでしたら、人は何を礼拝しているのかで 、その人の永遠の行き場所が定まります 。真の神を礼 拝して永遠の天国をあなたの終着駅とするのか、それとも偶像を礼拝して永遠の地獄をあなたの 終着駅とするのか、そのどちらかしかありません。
―新約聖書―
●一方、新約聖書は偶像礼拝についてどのように教えているでしょうか?それは、真の神を否定する 者の当然の反応だと告げています。(ロマ 1:18-23)しかし、偽りの神々を礼拝する事だけが、偶像 礼拝ではありません。と言うのは、最もかたくなな無神論者の心の中にさえも偶像があります 。どの ような偶像でしょうか?例えば、自分が人々から受け入れられるという事や有名であるという事、自分 の名声、自分の健康や自分の権力や自分の富など、その他ありとあらゆるものがその無神論者にとっ て偶像となり得ます。使徒パウロは、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そして・・・むさぼりが、そのまま 偶像礼拝なのです」(コロ 3:5)と警告しています。
―真の神に受け入れられない方法での礼拝の例―
●ここで、私たちが欺かれやすいもう一つの偶像礼拝の形 があります。それは、真の神を 神に受け入れ られない方法で礼拝するというものです 。これは、要注意です。旧約のイスラエルの民が犯した大 きな罪でしたし、また新約時代に生きる私たちにとっても実に陥り易い偶像礼拝の罪です。これから 後半のメッセージでは、その四つの例を旧約聖書から取り上げて説明する事にします。 ―4―
<例(1)/出エジプトしたイスラエルの民の偶像礼拝からの教訓(出 32:7-9)>
●第一の例です。モーセが十戒をシナイ山で受け取った時に、イスラエルの民が驚くべき偶像礼拝に 走っており、それゆえモーセはシナイ山を「すぐ降りて行(かねば)」(出 32:7)なりませんでした。聖書 は次のように告げています。 32:1・・・「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください・・・」・・・32:4 彼(アロン)がそれ(貴金属 類)を、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ 。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ 」と言った。32:6 そこで、翌日、朝早く彼ら は全焼のいけにえをささげ 、和解のいけにえを供えた 。・・・32:7 主はモーセに仰せられた。「さあ、 すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。 32:8 彼ら は早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏 し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ . 。これがあなたをエジプトの地から連れ上った あなたの神だ 』と言っている。」 32:9 主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、 実にうなじのこわい民だ(32:1b、4、6-9)。 イスラエルの民は異教の神を礼拝したのではありませんが、彼らは真の神をそのような偶像に引き下 げたのです!それは、神が厳しく禁止している礼拝行為です(申 4:14-19a)。彼らのそのような行為 に対して、神は彼らをどのように取り扱われたのでしょうか?神は、その偶像礼拝に関わった人々を 絶ち滅ぼされました(出 32:28-35)。まさに、人の永遠は、人が何を礼拝しているのかに掛かってい ます .. 。
<例(2)/「異なった火を主の前にささげた」(レビ10:1)ナダブとアビフの死を通した偶像礼拝からの警告>
●第二の例です。真の神を神ご自身に受け入れられない方法で礼拝したもう一つの例を、旧約聖書 から取り上げましょう。礼拝に関する定められた規定に従わないで、アロンの子であるナダブとアビフの二人 が「おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なっ た火を主の前にささげ」(レビ 10:1)ました。神は、彼ら独自の新しい礼拝の仕方を喜ばれませんでし た!そして、「主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ」(レビ 10:2)のでした。真の 神に受け入れられない方法で礼拝する事は偶像礼拝であり、恐らくこの場合は 10:9 にありますよ うに、酒によってその務めに当ったという事も含まれていると考えられます。そのような偶像礼拝の 方法や態度というものは、ゆくゆくは破滅に向かう事を、これらの旧約聖書の実例が物語っていま す。
<例(3)/祭司職を犯したサウル王の偶像礼拝からの教訓(1 サム 10:8、13:1-14)>
●第三の例です。イスラエルの初代王サウルが、預言者サムエルから王になる任職の油注ぎを受けて後、 サムエルから次のような指示を受けました。「あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえ と和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そ こで待たなければなりません。私がなすべきことを教えます」(1 サム 10:8)、と。この指示によって、実は、 サウロの神への従順が試される七日間となりました。 ―5―
●第一サムエル記 10 章から 13 章に進みますと、サウルの置かれた状況が変わって行きます。13:5 で、「ペ リシテ人もイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であっ た。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた」とあります。その時のサウルをはじめイスラエ ル民は動揺し、サウルはある行動に出るのですが、それが次のように伝えられています。 13:6 イスラエルの人々は、民がひどく圧迫されて、自分たちが危険なのを見た。そこで、ほら穴や、奥ま った所、岩間、地下室、水ための中に隠れた。 13:7 またあるヘブル人はヨルダン川を渡って、ガドとギ ルアデの地へ行った。サウルはなおギルガルにとどまり、民はみな、震えながら彼に従っていた。 13:8 サ ウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それ で民は彼から離れて散って行こうとした。 13:9 そこでサウルは、「全焼のいけにえと和解のいけ にえを私のところに持って来なさい」と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた 。 13:10 ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさ つした。 13:11 サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が 私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミク マスに集まったのを見たからです。 13:12 今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来 ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささ げたのです」(13:6-12)
●サウルは王であって祭司ではありませんので、預言者サムエルからの祭司的な助けを待ち、サム エルによって全焼のいけにえが主の前に捧げられ、神への礼拝が捧げられるべきでした!しかし、サ ウルは信仰によってではなく、敵が押し寄せるし預言者サムエルは来ないという状況で、民が自分 から離れて行く様子を見て恐れに捕えられての誤った礼拝を捧げました。それに加え、サウルはイス ラエルの全ての権力を得て国を支配したかったので、それがこの誤った礼拝行為となりました。真 の神を神が受け入れない方法で礼拝を捧げたサウルに対して、預言者サムエルは続く 13 節と 14 節で 次のように語られました。 13:13 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命 令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。 13:14 今は、 あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主 に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」 偶像礼拝に関する神の取り扱いを繰り返しますが、真の神に受け入れられない方法で礼拝する事は偶 像礼拝であり、それはゆくゆく破滅に向かう事を、この旧約聖書の例が告げています。
<例(4)/ウザの死を通した偶像礼拝からの警告(2 サム 6:1-15/他)>
●第四の最後の例です。ペリシテ人が「主の箱」をイスラエルに返してから 20 年後(1 サム 7:2)に、ダビデは その箱をエルサレムに移す事を決断しました。その20年間というのは、イスラエルが神をおろそかにし、外国の 異教の神々を追い求めていた期間です。神に立ち返るまで 20 年の月日が経過していました。「主の箱」とは、「神の箱」、「主の契約の箱」、「神の契約の箱」、また「あかしの箱」とも呼ばれていました。 大きさが長さ約1m10cmで、幅と高さ約70センチの直方体の箱でした。箱は内側も外側も純金で覆われ、 箱のまわりには金の飾り縁があり、四隅には運搬用の棒を差し込むための黄金製の環(かん)が取りつけられ ていました(プロジェクター参照)。―6―
●箱のふたは純金で作られた板で「贖いのふた」と呼ばれていました。その両端に、翼を伸べて「贖いのふた」 を覆い、互いに向き合って顔が「贖いのふた」に向かうように 2 つの金のケルビムが作られていました(出 25: 10‐22)。ケルビムは神の臨在の象徴ですから、契約の箱の置かれた至聖所は、イスラエルの神である主 が御自身のしもべに御旨を啓示される会見の場でした。こうして、「契約の箱」は民を導く神の臨在の象 徴として用いられました。
●「契約の箱」と呼ばれたのは、その箱に納められた2枚の石の板に刻まれた十戒が、主とイスラエ ルとの契約の基礎をなす神の言葉であった事によります。ヘブル 9:4 では、契約の箱には契約の 2 つ の板のほか、マナの入った金のつぼと芽を出したアロンの杖も納められていました(プロジェクター参照)。
●それはシナイで神がモーセに命じられた通りに作られてから(出 25:8 以下)、荒野の旅において(民 10: 33)、ヨルダンを渡る事において(ヨシ 3 章)、民の先頭に立って進みました。ヨシュアは契約の箱をギルガ ルに運び、シロに移しました。そして、サムエルの時代までシロに安置されていました。しかし、ペリシテ人と の戦いで契約の箱がエベン・エゼルの戦場に持ち出された時、イスラエルは打ち負かされて「契約の箱」をペ リシテ人に奪われてしまいました(1 サム 4 章)。ところが、ペリシテ人はこの箱のために主によって 7 か月も 災害に悩まされ、その箱を返還せざるを得なくなりました(1 サム 5‐6 章)。契約の箱は神の現臨を象徴す るものでしたから、不用意に中を見たり、手でふれたりするなら死をもって罰せられました。契約の 箱は再びイスラエルの手に戻ってキルヤテ・エアリムに運ばれ、そこに安置されました(1 サム 7:1‐2)。ダビデ は契約の箱をキルヤテ・エアリムからエルサレムの天幕の中に移して安置し(2サム6章)、ソロモンの治世に 契約の箱が新しく建設されたエルサレム神殿に安置されました(1 列 8 章)。 ※2
●長々と説明しましたが、それを踏まえて、第二サムエル記 6 章の御言葉に目を留めましょう。 6:1 ダビデは再びイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。 6:2 ダビデはユダのバアラから神の箱を運び 上ろうとして、自分につくすべての民とともに出かけた。神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万 軍の主の名で呼ばれている。 6:3 彼らは、神の箱を、新しい車 に載せて、丘の上にあるアビナダ ブの家から運び出した。アビナダブの子、ウザ とアフヨが新しい車 を御していた。 6:4 丘の上にあ るアビナダブの家からそれを神の箱とともに運び出したとき、アフヨは箱の前を歩いていた。 6:5 ダビデとイ スラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限 り喜び踊った。 6:6 こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして 、それ を押さえた 。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。 6:7 すると、主の怒りがウザに向かって 燃え上がり 、神は 、その不敬の罪のために 、彼をその場で打たれたので 、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ 。 6:8 ダビデの心は激した。ウザによる割りこみに主が怒りを発せられたからである。それで、その場所はペレツ・ウザと呼ばれた。 今日もそうである。 6:9 その日ダビデは主を恐れて言った。「主の箱を、私のところにお迎えする ことはできない。」 6:10 ダビデは主の箱を彼のところ、ダビデの町に移したくなかったので、ガテ人オベ デ・エドムの家にそれを回した。 6:11 こうして、主の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。 主はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。 6:12 主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属 するすべてのものを祝福された、ということがダビデ王に知らされた。そこでダビデは行って、喜びをもっ て神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。 6:13 主の箱をかつぐ者たち が六歩 進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。 6:14 ダビデは、主の前で、力の限り踊っ た。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。 6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴 らして、主の箱を運び上った(6:1-15)。 ―7―
●3 節で、ダビデとその配下にあるイスラエルの民は、「神の箱を、新しい車に載せて・・・運び出した」と記さ れています。「新しい車」とは 1 サムエル 6:7 に記されていますように、「くびきをつけたことのない・・・二頭の 雌牛」に引かせている荷車を指しています。「神の箱」をそのように運ぶのは、神に受け入れられない方 法でした!なぜなら、「神の箱」はレビ族の「ケハテ」(民 4:15)という氏族が、「神の箱」に「取り付け」られ ている「四つの金の環」に「刺し込(まれた)」金で覆われた「棒」(出 25:12-15)を「肩に」(民 7:9)担いで 運ぶべきであるという事が神によって定められていたからです。
●そして、次に 6 節から 8 節ですが、「神の箱」を「牛が・・・ひっくり返しそうになった」ので、ウザが「神の箱に 手を伸ばして、それを押さえた」事が「ウザによる割りこみ」となり、神が「その不敬の罪のために、彼をその場 で打たれ・・・彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ」と伝えています。ダビデをはじめイスラエルの民を恐れ させる神の裁きが下されました。ウザの視点からこの出来事を見ますと、ウザが取った行動は主に対する畏 敬の念から出ているように見えます。しかし、主の視点からこれを見ますと、「聖なるもの」である「神の箱」 に「触れて死なないためである」(民 4:15)という聖書に記された定めに反していたウザの行動が 偶像礼拝に等しい行動でした。
●ウザの不従順に対する神の取り扱いは、いったい何を私たちに教えているのでしょうか?それは、 神は、礼拝に関してご自身が定められた命令に対するいかなる勝手な変更も受け入れる事はなさ れないという事を教えています!神はイザヤ 1:11-20 を通して、神への礼拝に関して次のように警告を 発しておられますが、私たちはこれらの御言葉に心を傾けるべきです(参/アモ 5:21-27、ホセ 6:4-7、マラ 1: 6-14、マタ 15:1-9、23:23-28、マコ 7:6-7)。 1:11 「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼 のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。 1:12 あなたがた は、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。 1:13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙─それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭 りと安息日─会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。 1:14 あなた がたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに 疲れ果てた。 1:15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈り を増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。 1:16 洗え。身をきよめよ。わ たしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。 1:17 善をなすことを習い、公 正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」 1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のよう に白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。 1:19 もし喜んで聞こうとするなら、あ なたがたは、この国の良い物を食べることができる。 1:20 しかし、もし拒み、そむくなら、あな たがたは剣にのまれる」と、主の御口が語られたからである。 ―8―
●第二サムエル記に戻りましょう。ウザへの裁きから「三か月」(6:11)後の状況の変化が記されています。 12 節の後半で、「神の箱」が「ダビデの町」であるエルサレムへ無事に「運び上った」と伝えられています。な ぜ、この時は無事に「神の箱」が主とエルサレムへ「運び上(る)」事ができたのでしょうか。その答え が、13 節の前半に記されています。「主の箱をかつぐ者たち」という言葉がその答えです!ダビデ以下 イスラエルの民は、「神の箱」を運ぶ聖書の規定に従ったのです!すなわち、自分たちが考え出した 方法ではなく、聖書に定められた真の神に受け入れられる「かつぐ」という方法を取るという重要な 原点に立ち返ったのです。 【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●『マリヤの讃歌』の一回目は、『礼拝者されど偶像礼拝者』というメッセージの主題でした。人は本来真 の神を礼拝するものとして造られましたが、それとは裏腹に自分から罪を犯して偶像礼拝に走るも のとなりました。特にその中でも、真の神をその神に受け入れられない方法で礼拝するという偶像 礼拝について聖書の例を取り上げて学びました。結局、人に問われるのは、神が聖書に定めた方法 であなたは礼拝を捧げていますか、というものでした。問題は、あなたは聖書に従っていますか、と いう事が一番問われているのです。アロンでさえまたダビデでさえ、その偶像礼拝に陥り多くの犠 牲者を出してしまいました!。【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●いかがでしょうか、あなたの礼拝の動機はどのようなものでしょうか。あなたの心の焦点は神に当て られているでしょうか?あなたが真の神を礼拝していると思っていても、それは本当に神に受け入れ られる礼拝なのでしょうか。あなたの礼拝は、聖書の御言葉に沿ったものでしょうか?それとも、自分 本位の方法で礼拝していませんでしょうか。あなたの礼拝は、あなたが編み出した新しい礼拝の方 法ですか?また、あなたの礼拝は他のクリスチャンと同じように見えますが、いかがでしょう、それは 上辺だけの礼拝に陥っていませんか?それぞれで、自分自身の礼拝について吟味する時を持ちましょう。
【締めの御言葉】
■もう、むなしいささげ物を携えて来るな(イザヤ1:13)。
■わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます(ルカ1:46-47)
―9―