ルカの福音書講解説教(16)/メッセージ原稿/『処女降誕、神の奇蹟!』(その 3/最終編)/2016.11.13
『神にとって不可能なことは一つもありません!』
―マリヤの従順、神の主権によるご計画に委ね安んじる信仰―
《ルカ 1:34-38/今回は 1:37-38》
【序 論】
●『処女降誕、神の奇蹟!』というテーマのメッセージは三回目で、今回が締めくくりとなります。ルカ 1:37-38 の2節のみを取り扱いますが、その中には凝縮された沢山の霊的教訓が詰まっています。今回のアウトラインに記されてはいますが、神の全能性について、マリヤの信仰と従順について、また聖書と異教とを混同する危険性について聖書を学びます。
●今回のメッセージ主題は、『神にとって不可能なことは一つもありません!』で、副題はマリヤの従順、神の主権によるご計画に委ね安んじる信仰です。解き明かされる聖書の御言葉に期待を寄せましょう。
【全体のアウトライン】
◎ 序論/処女降誕について/済
[1]マリヤの御使いに対する問い掛け(1:34)/済
[2]神の聖霊による創造の御業(1:35)/済
[3]神の励ましのしるし(1:36)/済
[4]神の全能性(1:37)/今回
[5]マリヤの信仰と従順(1:38)/今回
【今回のアウトライン】
[4]神の全能性(1:37)
1)人には全く不可能、神には全く可能(1:37/創世記 18:12-14)
2)自然の法則を作られた神はそれに縛られない(詩篇 115:3/他)
[5]マリヤの信仰と従順(1:38)
1)マリヤとハンナに見られる共通の霊的資質(1:38a)
2)マリヤの従順に伴う危険性(1:38b)
3)マリヤの謙遜を「天の女王」に仕立てるカトリック教会の誤り(エレミヤ 7:16-20/他)
4)マリヤから去って行く御使いガブリエル(1:38c)
【本 論】
[4]神の全能性(1:37)
1)人には全く不可能、神には全く可能(1:37/創世記 18:12-14)
●何かが起こるという事を言う事とそれを実現させるという事とは全く別の事です。(続く)
―1―
マリヤが御使いガブリエルから聞いた事は、人間的には全く不可能であるという事を悟っていました。それゆえ、37 節で、ガブリエルはマリヤに対して「神にとって不可能なことは一つもありません」
という事を伝える必要がありました!その確証として、前回のメッセージで取り扱いましたが、36節に記されていましたように、マリヤの親類で且つ不妊症によって長い間子どもがなく、既に老齢の身となって妊娠する事が不可能なエリサベツとザカリヤに対して、バプテスマのヨハネが誕生するという神の奇蹟について御使いが伝えたのでした。
●また一方、未婚の身である自分に対する御使いからの受胎告知の時、マリヤの頭にはもう一組のかなり老齢の夫婦の事がよぎったに違いありません。ユダヤ人なら誰でもよく知っている、彼らの祖先に当るアブラハムとサラの間に誕生した一人息子のイサクの物語です(創 18:1-15)。ザカリヤとエリサベツのように、アブラハムとサラも妊娠出産可能年齢を遥かに超えていました。イサク誕生にまつわる重要な聖書箇所が、創世記 18:9-14 に記されています。御使いが、次のようにアブラハムに語り掛けます。
18:9・・・「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。 18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。 18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた8:12
それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」 18:13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。 18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
14 節で、「主に不可能なことがあろうか」とアブラハムとサラに対する反語表現で記された質問がありますが、その答えがルカ 1:37 に記されているマリヤに対する御使いの語り掛けに見られます!その答えとは、「神にとって不可能なことは一つもありません」というものでした!
2)自然の法則を作られた神はそれに縛られない(詩篇 115:3/他)
●もし全能の神にとって不可能な事が何一つないのなら、その神にとっては全てが可能であると断言できます!全能なる神の力はいかなるものからも制限される事はありません!神の全能性について、いくつかの御言葉を取り上げましょう。詩篇 115:3 には、「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。」とあります!ダニエル 4:35 には、「地に住むものはみな、無きものとみなされる。
彼(=神)は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、『あなたは何をされるのか』と言う者もいない。」とあります!そしてまた、神の力には何の制限もないという事を、聖書は次のように示しています。申命記 3:24 には、「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。」と記されています!ヨブ 9:4 では、「神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。」と記されています!(続く)
―2―
そして最後に、詩篇 89:13 では、「あなたは力ある腕を持っておられます。あなたの御手は強く、あなたの右の手は高く上げられています。」と記されています!神が全能である事を断言する、何という力強い御言葉の数々でしょう!
●この自然界は様々な法則に則って動いています。四季の移り変わり、天体の規則正しい運行、潮の満ち引き、引力、そしてマリヤの言葉から分かりますように、人間の命の誕生は男女が結婚する事によってもたらされる肉体の自然な法則によるものです。これら全ての自然法則を作られたのは神ご自身であり、
それゆえ神はそれに縛られずにご自分の聖なるご性質と目的に沿って、自然の法則を乗り越えられて何でも成し遂げられるお方です!神が過去になされた事を御使いガブリエルがマリヤに思いださせる事によって、神ご自身の全能の力が、マリヤに与えたお言葉を守って下さる事を確証させて下さいました!
[5]マリヤの信仰と従順(1:38)
1)マリヤとハンナに見られる共通の霊的資質(1:18a)
●とても良く知られていたアブラハムとサラの物語に加えて、もう一つの旧約聖書の奇蹟的な受胎の出来事がマリヤの脳裏をよぎったに違いありません。それが、第一サムエル 1:1-2:10 に記されているハンナを通して誕生したサムエルの物語です。1:2、5 にはハンナが不妊の女であった事が記されています。そのハンナが、1:10-11 で、息子の誕生を願って懸命に主にすがっていた姿が次のように記されています。
1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。 1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
最後に「私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません」というのは、
生まれて来る子をナジル人(民 6:5)として、生涯主に捧げますというハンナの祈りです。そして、その通りに、サムエルが捧げられ、後に偉大な預言者として主によって用いられて行きます(士 13:5、16:17)。
●ここで、注目したい点は、ハンナが自分自身を主に対してどのように表しているのか、その表現と全く同じ言葉をマリヤが用いて、自分を御使いに対して表しているという事です!(ルカ 1:38)。その表現とはどういうものでしょうか?それは、「はしため」という表現です!新約聖書に出て来るこの「はしため」という言葉は、常に「奴隷」という言葉に訳されてしかるべきべき言葉です!ハンナもまたマリヤも、自分たちを主の「奴隷」だと認識していて、そこには、常に主に対する従順な態度が示されているという事が分かります!
●マリヤにとっては、神が自分に明らかにされた目的に対しては、喜んで従って行くというへりくだった応答をしている態度に表れています!また、マリヤにとっては、自分が進んでへりくだった主の奴隷になったという事を示しています!そして、38 節の中盤に記されていますように、マリヤは、その思いを、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言って御使いに応答しています!
―3―
2)マリヤの従順に伴う危険性(1:18b)
●いかがでしょうか、マリヤはこれから自分が子どもを身ごもるという御使いの御告げについて、どうしたものか、あるいはどうすべきかについて婚約者のヨセフに尋ねているでしょうか?尋ねていません!ヨセフは、マリヤから生まれる子が明らかに自分の子ではないという事を知るようになります!という事は、どのような問題がヨセフとマリヤとの間に起こりますか?婚約期間中に、ヨセフの知らないところでマリヤが妊娠したという事で大問題になります!未婚の母親と言う汚名を浴びせられます!同時に、婚約期間中の事ですから、姦淫の罪を犯した者と断定されて石打の刑によって死刑に処せられる事となります!(申 22:13-21/レビ 20:10/ヨハ 8:3-5)
●しかし、マリヤはへりくだりそして従順な信仰を持ち、神が自分を擁護して下さるという事を堅く
信じていました!マリヤは、神の主権の計画の中に自らを委ね、その計画に安んじていました!その結果、神のどのような計らいがヨセフに与えられたでしょうか?それは、御使いをヨセフの夢の中に
現れるようにさせ、婚約者マリヤを「内密にさらせようと決め(ていた)」彼を、次のように正しく方向付けさせるのでした!
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救って
くださる方です。」 1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。 1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) 1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、 1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた(マタ 1:20-25)。
何と言う素晴らしい主の介入でしょう!主は、マリヤのへりくだった従順な信仰に対して、確かに応えて下さったのです!
3)マリヤの謙遜を「天の女王」に仕立てるカトリック教会の誤り(エレミヤ 7:16-20/他)
●来年の 10 月 31 日は、丁度 500 年前に、マルチン・ルターが、救いを免罪符など金銭で売買するローマ教皇庁に公然と抗議し、95 箇条にわたって書き記した文章をドイツのヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に提示して宗教改革の火ぶたがきられた日です。そして、その日が宗教改革の記念日とされ、それ以降プロテスタント教会が誕生しました。私たちの教会もその一つです。来年の日本聖書学院主催のプロクレイムカンファレンスは、この宗教改革がテーマとなっています。プロテスタントの神学は、
「五つのソラ(ラテン語で“~のみ”)」で表現されています。「聖書のみ」(ソラ・スクリプトゥラ)、「信仰のみ」(ソラ・フィデ)、「恵みのみ」(ソラ・グラティア)、「キリストのみ」(ソロ・クリストゥス)、「神の栄光のみ」(ソリ・デオ・グロリア)という内容になっています!
―4―
●率直に言いまして、カトリック教会は今でも誤った教えを脈々と受け継いでいます。一向に変更しません!その中でも最もひどい誤りの一つは、今私たちが学んでいるマリヤについてです。四回前のメッセージでは、カトリック教徒が毎年 8 月 15 日を「聖母の被昇天」の日として祝っているという事をお伝えしました。
マリヤがキリストを宿して以来、マリヤから罪が消え、無原罪で、生きたまま天に昇られたという教えでした。今回は、マリヤ自身が「自分は神の奴隷です」と述べているにもかかわらず、カトリック教会はそ
のマリヤを永遠の「天の女王」に仕立ているという誤りについて取り上げる事にしましょう。
●このようなマリヤ礼拝はマリヤ自信をぞっとさせまた呆れさせるものです。天には女王と呼ばれる者は誰一人いません!おられるのは、真実で永遠の王である神のみです!(詩 29:10、47:8/ダニ 4:37/マタ 11:25/使17:24)マリヤを奉るカトリックの教義の正当性を示す聖書の言葉はどこにも見られません!「天の女王」という概念は確かに旧約聖書には記されていますが、それは古代の異教の神々を指して記されているものです。預言者エレミヤの時代において、南のユダ王国の人々の信仰が堕落し、「天の女王」に礼拝を捧げるという悪習慣が広く行き渡っていました。「天の女王」とはアッシリヤやバビロンの信仰から生まれた偶像です。彼らが礼拝を捧げていた偶像が、真の神に裁きを宣言させる事になるのです。預言者エレミヤを通して、神は次のように語られています。
7:16 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。
わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。 7:17 彼らがユダの町々や、エルサレムのちまたで何をしているのか、あなたは見ていないのか。 7:18 子どもたちはたきぎを集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて『天の女王』のための供えのパン菓子を作り、わたしの怒りを引き起こすために、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいる。 7:19 彼らはわたしの怒りを引き起こすのか。─主の御告げ─自分たちを怒らせ、自分たちの赤恥をさらすためではないか。」 7:20
それで、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしの怒りと憤りは、この場所と、人間と、家畜と、畑の木と、地の産物とに注がれ、それは燃えて、消えることがない。」(エレ 7:16-20)
18 節に記されている「天の女王」はアシュタロテと呼ばれていた異教の女神で、バアルやモレクという偶像の神々の妻です。これら偽りの神々は豊穣や多産の象徴です。そして、これらの神々を礼拝する者たちは売春にも関わっていました。
●後に、神は再び預言者エレミヤを用いて、ご自分の反逆の民に対して、この偶像礼拝の罪を再び指摘されます。すると、その民は、恐れる事なく次のように応答しました。
44:16 「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。 44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも、先祖たちも、私たちの王たちも、首長たちも、ユダの町々やエルサレムのちまたで行っていたように、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽き足り、しあわせでわざわいに会わなかったから。
44:18 私たちが天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめた時から、私たちは万事に不足し、剣とききんに滅ぼされた。」 44:19 「私たち女が、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、私たちの夫と相談せずにしたことでしょうか。」
―5―
●その大胆不敵な応答に対して、預言者は神の差し迫った裁きを次のように厳粛に告げます。
44:24 ついで、エレミヤは、すべての民、すべての女に言った。「エジプトの国にいるすべてのユダの人々よ。
主のことばを聞け。 44:25 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束したことをその手で果たせ。あなたがたは、私たちは天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ごうと誓った誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かに果たし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』 44:26 それゆえ、エジプトの国に住むすべてのユダの人々。主のことばを聞け。『見よ。わたしはわたしの偉大な名によって誓う。─主は仰せられる─エジプトの全土において、神である主は生きておられると言って、わたしの名がユダヤ人の
口にとなえられることはもうなくなる。 44:27 見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。 44:28 剣をのがれる少数の者だけが、エジプトの国からユダの国に帰る。こうして、エジプトの国に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのと彼らのと、どちらのことばが成就するかを知る(44:24-28)。
マリヤを天の女王のように礼拝する事は、異教の偶像の教えに聖書の真理を混ぜ合わせるようなものです!それは、天の真実な王である神ご自身を冒涜する事と等しい事です!マリヤをキリストの救いの恵みの共同の贖罪人また共同の仲介者として宣言するのなら、それは、マリヤに対する誤った混同した教えを説いている事となり、聖書からはなはだしく逸脱したものだと言わざるを得ません!
4)マリヤから去って行く御使いガブリエル(1:18c)
●最後のポイントですが、マリヤの御使いガブリエルとの劇的出会いは、とてもシンプルな言葉で締めくくられています。それは、18 節後半の言葉で、「こうして御使いは彼女から去って行った」、と。御使いとして使命を果たし、ガブリエルは神の御元に帰って行きました。これから、神であり人であるお方がお生まれになり、ご自分の民を罪から救う独り子としての神の御子イエス様、神である贖い主、聖なる御子、そして神である王として御国を永遠に支配されるというメッセージを残して去って行きました!
―教 訓―
●マリヤを取り巻くこの出来事を通して、神の約束は確かに成就するものだという事が、これから後のマリヤの生涯で明らかにされて行きます!また、神の目的は、マリヤに対してなされましたように、ご自分の自発的な従順なしもべ(奴隷)を通して成し遂げられて行くという事も示しています!更に、自分に降りかかるであろう圧力や危険を顧みずに、マリヤは心から自分の救い主であり神であるお方の主権的な目的に自分を委ねて安んじたのでした!
●神は今日も変わらずにご自身の働きをなしておられます!それは、神が、何か見えるような奇蹟を通してでなく、ご自分を信頼し(イザ 26:3/箴 29:25)、ご自分の御言葉に従い(詩 119:17、67、101/マタ 7:24/ルカ 11:28/ヤコ 1:25)、そしてご自分の御旨に従順なしもべ(奴隷)としてへりくだって従うクリスチャンを通して(ヨシ 24:24/詩 119:35/伝 12:13/ピリ 2:12-13)、霊的にご自分の働きを進めておられるのです! ―6―
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●まず、私たちが教えられた大切な点は神の全能性でした!自然の法則を作られた神はそれに縛られずに、ご自分の聖なるご性質と目的に沿って、自然の法則を乗り越えられて何でも成し遂げられるお方であるという事でした!次に、マリヤの信仰と従順からも多くの大切な点を学びました。
神の目的は、ご自分の自発的な従順なしもべ(奴隷)を通して成し遂げられて行くという事でした!更に、自分に降りかかるであろう圧力や危険を顧みずに、心から自分の救い主の主権的な目的に自分を委ねて安んじる事でした!そして、最後に、マリヤ自身が「自分は神の奴隷です」述べているにもかかわらず、カトリック教会はそのマリヤを永遠の「天の女王」に仕立ててしまっているという誤りを犯していました。私たちは、聖書の教えと異教の教えとを決して混同してはならないという事を学ばせられました!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●神は、あなたをご自分の聖なるご性質と目的に沿って、ご自分の摂理を絶妙に働かせてあなたを日々霊的に導いておられる事を確信していますか?そして、あなたは、その神の主権的な目的に信頼して、あなたの人生を委ねて安んじていますか?それによって、あなたに降りかかるかもしれない危険に思い煩う事無く、主の真理の道を歩んでいますか?最後に、あなたはカトリック教会の信徒の方との出会いで、その逸脱した聖書の捉え方を理解して、愛と忍耐を持って真理を解く準備は出来ていますか?それでは、祈りましょう。
【締めの御言葉】
神にとって不可能なことは一つもありません。・・・ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように(ルカ1:37-38)。
―7―