ルカの福音書講解説教(246)/『永遠の視点を通して、この世の富を用いる!』(その2/最終編)/2022.09.18
『あなたがたは、神と富とに仕えることはできません!』
―他者と自分と神との関係において、信仰者はお金をどう捉えるか―
《ルカ16:1-13》
【前 置】
●『永遠の視点を通して、この世の富を用いる!』というテーマのもと、前回の序論では、旧新約聖書全体から御言葉を引用して、「お金について、聖書はどう教えているのか」という視点で学びました。今回は本論で、ルカ16:1-13を一回のメッセージで解説いたします。メッセージの前半は、「主人」の財産を着服した事が発覚して窮地に陥れられた「管理人」がどう「賢く行動したの」か、そしてそのたとえ話の衝撃的な結末を取り上げます。メッセージの後半においては、そのたとえ話を他者と自分と神との関係において、イエス様が聴衆である弟子たちに対してどう適用されたのかを学びます。私たちの日常に関わるお金を信仰者としてどう捉えるか、そのたとえ話の内容の重要さに圧倒されます!
●今回のメッセージの主題は『あなたがたは、神と富とに仕えることはできません!』で、副題が「他者と自分と神との関係において、信仰者はお金をどう捉えるか」です。
【今回のアウトライン】
◎前 置:キリスト教異端が教える「お金」と、聖書が教える「お金」の違いについて/済
◎序 論:旧新約聖書は、お金についてどう語っているか?!/済
◎本 論:「あなたがたは、神と富とに仕えることはできません!」/今回(2回目)
[1]たとえ話(ルカ16:1-8)
1)財産を着服した「管理人」へ会計報告を命じる「金持ち」の主人(16:1-2)
2)窮地に立たされた「管理人」の打開策そしてその実行(16:3-7)
3)「この世の子ら」の賢さ、「光の子ら」の遥かに勝る賢さ(16:8)
[2]たとえ話の適用(ルカ16:9-13)
1)信仰者は他者との関係において、お金をどう捉えるか(16:9)
2)信仰者は自分自身との関係において、お金をどう捉えるか(16:10-12)
3)信仰者は神との関係において、お金をどう捉えるか(16:13)
【本 論】
◎「あなたがたは、神と富とに仕えることはできません!」
[1]たとえ話(ルカ16:1-8)
―導 入―
●イエス様に匹敵するような物語の語り手は、歴史上、この世には存在しません!イエス様は、起こり得る人生の出来事から、また思いもよらないような人生の出来事からも、その両方から教えられるという、物語の話し手としては最も優れたお方です!(続く)
―1―
これから取り上げる物語は架空のもので、その主役は「不正な管理人」です(16:8)彼は自分のなすべき仕事をしないばかりか、自分の「主人の財産を」着服していているという不届き者でした。しかしながら、イエス様はこの人物に主役を演じさせて、そこから肯定的な霊的原則を教えられるのです!(Wow)
●この相容れない設定を見て、ある人はこの物語の行間を読んで、この「不正な管理人」に対して肯定的な光を当てて、その人物像を作り直そうと試みます。(I see)しかし、ありのままに述べられた物語には何の隠された部分もありませんし、またイエス様が語られた詳細な事以上に詳細な事は何もありません。そして、この物語は、まさにどんでん返しの結末を迎えます!なぜなら、主人が「不正な管理人」を罰するのではなくて、逆に、称賛したからです!そこが、このたとえ話のねらい所です!(Wow)
●想定外の反応を引き出されるというのは、イエス様がしばしば用いられた手法です。それは、ラビたち(律法の教師たち)の手法にも見られるもので、より小さな事からより大きな事へと論を進めて行くやり方です。主イエス様が言わんとしておられるポイントはこうです!もし、不正な人が利己的な利益のためにお金を使うに当たって、それを抜け目なくやり遂げるのであれば、ましてや、正しい信仰者が神の国のために自分の持てる全てを用いるべきではありませんか、という論点からの勧告です!
●これまでもお伝えして来ましたように、このたとえ話はパリサイ人や律法学者に向けて語られたものではありません(ルカ15:1-3)。けれども、ルカ16:14に記されていますように、彼らは全くイエス・キリストから離れていた訳ではなく、距離を取りながらも、イエス様の話に耳を傾けてはいました。しかしながら、イエス様の主要な聞き手は、1節に記されていますように「弟子たち」でした。イエス様はご自分を退ける者たちに対しては、既に、すぐ前の15章でお語りになられた三つの伝道的なたとえ話を話され、彼らを悔い改めと救いへと招こうとされました。しかし、今度はそこから、主に信仰者たちへと話をシフトされて行かれます。すなわち、救いの伝道メッセージから、今度はご自分の弟子となる者へのメッセージへと移行されたのです。(I see)
1)財産を着服した「管理人」へ会計報告を命じる「金持ち」の主人(16:1-2)
●それではここから、たとえ話の中身に進んで行きましょう。1節の二行目に記されている「ある金持ち」は、「一人の管理人」を雇える程の経済力をもち合わせていました。その「管理人」は、「金持ち」である「主人」の財産を管理・監督するという仕事に就いていました。彼は奴隷ではなくて自由の身であり、社会的には地位が高く、大きな責任を引き受けていました。この「金持ち」の「主人」に返さなければならない小作人たちの借金と言うのは、後で詳細を語りますが、負う事のできない程に大きなものでした。
●この「金持ち」の「主人」には、前述しましたように、自分の農場経営を監督する「管理人」がいましたので、「主人」自身は、恐らく不在地主であったであろうと思われます。それゆえ、1節の後半に記されていますように、「この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴え」が「主人」の元に寄せられるまでは、自分の農場に関わる事で、何が起こっているのかを把握していませんでした。この「訴えがあった」という“ディアバロ”というギリシャ語の動詞の言葉の名詞形は“ディアバロス”という言葉で、「中傷する人」とか「告発人」という意味があり、また「悪魔」とも訳されている言葉です。この“ディアバロ”という言葉は、日本語聖書で訳されていますように「訴える」をはじめ、「起訴する」あるいは「告発する」という意味があります。それはいずれも、敵意を伴って使われる言葉です。 ―2―
●「この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが」、最終的には「金持ち」の「主人」の元に届けられました。興味深い事に、この「無駄遣い」という言葉は、既に学びました15:13に記されている弟放蕩息子の取った行動を表している言葉と同じです。それは、「弟息子は放蕩して」父親の「財産を湯水のように使ってしまった」という言葉です。この「管理人」もまた同じように、自分の「主人の財産を」、「湯水のように使ってしまっ(て)」いたのです!(I see)
●この状況を知らされた「金持ち」の「主人」は、いち早く、自分の利益を守るために行動に出ました。2節で、「主人は」管理人の「彼を呼んで」、次のように「言(い)」ました。「おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくいわけにはいかない」、と。しかし、彼を解雇する前に、「主人」は、彼が「管理」して来た最終の「会計の報告」をまとめるまでは、彼をその職に留めておく事を許していました。そしてそれが、更なる損害を「主人」自身へ与える機会を彼に作らせてしまう結果を招く事となります。
2)窮地に立たされた「管理人」の打開策そしてその実行(16:3-7)
●それで、「主人」の財を使い込んだ「管理人」は窮地に追いやられ、3節で、次のような言葉を発しました。「どうしよう」、と(参/ルカ3:10-14、12:17/使2:37)。「主人」が彼「から管理の仕事を取り上げ(て)」後、どういう状況が待ち受けているのかと言いますと、彼は自分自身の言葉で次のように表現しています。自分には「土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい」、と。すなわち、「土を掘る」肉体労働はできないし、ましてや、「物乞いをする」なんて、彼のプライドが許すはずがなく、それはもっての外でした。彼は自分の未来に希望がもてない状況へと追い込まれて行きした。彼には、そのジレンマから抜け出す道が見えていませんでした。
●そしてその後、彼には素晴らしいひらめきが来ました。4節で、「分かった、こうしよう」、と。「管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ」、と!ここで言う「人々」というのは、「主人」に借金を負っている小作人たちを指しており、その「金持ち」の「主人」に代わって、彼が仕事上の取引をして来た「人々」です。彼が思い付いた打開策とは、自分が解雇されて後に、自分が必要としているものを全て与えてくれるというものでした。すなわち、自分の住む場所、収入そして社会的地位が保証されるというものでした。
●ずさんな管理に加えて、その「管理人」は、「主人」に対する策略に取り掛かりました。彼は、5節に記されていますように、「主人の債務者たちを一人ひとり」次々に「呼んで」、彼らと「主人」との間で交わされていた契約の額を下げる交渉に入りました。「主人」はその「管理人」を直ちにクビにはしていませんでしたので、彼はまだ「主人」の契約者たちに近づく事ができました。不在の「主人」は、「管理人」が自分に代わって権威を行使する事をまだ取り消していなかったのです。あるいは、たとえ取り消していたにしても、「管理人」を解雇したという通知が「債務者」たちである小作人たちに届くには、まだ時間を要していたという状況でした。
●その借金というのは、収穫時に支払われるべき農産物の量を指していました。その「管理人」は、小作人たちが「主人」に支払わなければならい作物の量を、その額を減らす事によって、彼らが自分に対して恩義を感じるよう策略したのです。(続く) ―3―
ユダヤ人にとっては、また日本人にとってもそうであるように、恩義に対してはお返しをするというのが、ユダヤ社会における不可欠な要素でした。もし誰かがある人に恩を施したなら、その恩を受けた人は、その人に対して同じようにその恩をお返しするという社会慣習です。
●そこで5節と6節で、イエス様は、その「管理人」の二つのごまかしと、それに対する小作農たちの反応について次のように語られました。「主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言(い)」ました。すると、「その人は『油百バテ』と答え」ました。「すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言(い)」ました。「油百バテ」のオリーブ油の量というのは、新改訳聖書の欄外に記された「1バテは40リットル」の補足説明によって計算しますと、4,000リットルになります。何とそれは、182本分のオリーブの木から取れる量です。(I see)それは、一般の肉体労働で換算しますと、3年を優に上回る賃金に相当します。(Wow)この新しい契約の取り決めによって負債の半額が免除される事となり、それは「主人」にとってはかなりの損失となります。
●二人目の「債務者」が7節に記されていますが、彼は「主人」に対して、「小麦百コル」分の借金を負っていました。「管理人」はその農民の「『証文を受け取り、八十と書きなさい』と言(い)」ました。「管理人」はまたもや「主人」からかなりの額をだまし取っています。ちなみに、「小麦百コル」というのは、一般の肉体労働で換算しますと、8年から10年分の労働賃金に相当します。その20%ですので、「主人」にとっては、1年半から2年分の労働賃金の損失となります。通常、借金が免除されるのは次の場合に限られます。天候不順による不作やイナゴによる被害、あるいは価格変動によって損害を被った時です。(I see)「管理人」の一方的な都合によって、借金が緩和されるなんてあり得ないのです。何を意味しているのでしょうか?それは、この「管理人」が、これらの「債務者たち」を自分に対する主な「債務者たち」に仕立て上げ、恩義を感じさせる事によって、ひとえに自分自身に利益をもたらそうとする、実に巧みな策略なのです!(wow)
3)「この世の子ら」の賢さ、「光の子ら」の遥かに更なる賢さ(16:8)
●そして、物語の衝撃的で思いもよらない結末が訪れます!8節で、「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた」のです!(Wow)この物語に聞き入っている人々にとっては、この「金持ち」の「主人は」正気を失ったに違いないと思えた事でしょう!(Right)しかし、ここでよく考えましょう。この「主人」はこの「不正な管理人」を「ほめた」のではないのです!なぜなら、彼はお金を浪費する者であり、無責任であり、泥棒だからです。ほめられたものではありません!しかし、「主人」がその「不正な管理人」を「ほめた」のは、8節の後半に記されていますように、彼が「賢く行動した」のをほめたのです!この「賢く」(“フロニモース”)という言葉は、洞察力をもって知恵深く行動するという意味があります。この「管理人」は自分が追い込まれた機会を逆に巧みに利用して、自分の利益のために注意深く行動したのです!その債務者たちはその「管理人」に対しては有り難く思うので、その後、彼を助ける者たちとなります!それゆえ、彼の未来は安心できるものとなったのです!(Wow)
―4―
●このたとえ話のポイントは、シンプルです!8節後半で、イエス様は、「この世の子ら」と語られました。神の国の外にいる罪人たちを指しています。その人たちは、「自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである」、と告げられました。(「光の子ら」/参 ヨハ12:36、エペ5:8、1テサ5:5)「この世の」罪人たちは、この「時代」における一時的な未来を確保するに当たって、「光の子ら」すなわち天に国籍をもっていて来たる時代に永遠の報いを確保している人々「よりも賢いのである」と語られました!(I see)しかし逆に、「光の子ら」、キリスト信じ救われている人々は、永遠の未来に対して備えるに当たって、「この世の子らよりも」遥かに「賢い」者たちであると告げておられるのです!(Wow & Wow)ここが、ポイントです!
[2]たとえ話の適用(ルカ16:9-13)
●さて次に、このたとえ話の適用に進みましょう。このたとえ話から、信仰者のお金に対する態度について、主イエス様は三つの教訓を引き出しておられます!アウトラインで確認しましたが、一番目に、信仰者は他者との関係においてお金をどう捉えるか、二番目に、信仰者は自分自身との関係においてお金をどう捉えるか、そして最後の三番目に、信仰者は神との関係においてお金をどう捉えるか、です。
1)信仰者は他者との関係において、お金をどう捉えるか(16:9)
●それでは、一番目の信仰者は他者との関係においてお金をどう捉えるか、という点を取り上げましょう。イエス様は聴衆である弟子たちに対して、9節で、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と勧められました!一見、私たちは、イエス様のこの命令がどういうものかをいぶかります。ですので、その解説が求められるところです。この世の「富」が不正であるとイエス様が言われたのは、前回も触れましたが、「富」そのものは道徳的には中立なもので、正しいものでもなくまた悪いものでもありません。それを用いる人の罪深い心が、「富」を悪く用いさせるのだという事をお伝えしました。そしてここでもう少し付け加えて説明しますと、「富」とはこの過ぎ行く一時的な世に属するものであるので、「不正の富」とおっしゃっているのです!(I see)そして、この世の不信者は、しばしば、この「不正な管理人」のように、お金を使ってこの世の友を買うのです。
●一方、信仰者たちは、自分たちのお金や財を使って伝道し、そして天国の友を獲得します!(I see)「不正の富」、それは堕落した社会の中で用いられているものの一つで、この世を通り越して永遠に続く事はできないものです!(参/ルカ12:20)。その「富がなくなったとき」すなわちその「富」が役に立たなくなる時が来る時、それは信仰者がこの世で息を引き取る時か、あるいはキリストの携挙や再臨の時、それまで福音宣教にお金や財を投じた事によって得られた友が、その信仰者たちを天の「永遠の住まいに迎えてくれ(る)」と言うのです!これらの友は、その信仰者たちが栄光の内に天国に凱旋する時、その人たちを受け入れるために天国で待っている者たちなのです!なぜなら、その信仰者たちの金銭的な犠牲を通して、まだ回心していなかったその人々へ福音が届けられ、その福音を聞きそして信じて救われて、天国に召されて行ったからです!
●主イエス様はクリスチャンに対して、天の報いをもたらす事となる永遠の救いの目的のために仕えるために、この世の「富」を用いなさいと呼び掛けておられるのです!よく知られている山上の説教の御言葉の中で、イエス様は次のように命じられました。 ―5―
6:19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです(マタ6:19-21)。
人々がお金や財を投じるところ、そこが、その人々の心がどこにあるのかを如実に示しています!(Yes)前回学びましたように、聖書はお金を得そしてそれを貯めて将来に備える事を勧めていますが、キリストを高く掲げず、福音宣教による魂の救いを無視して「天に宝を蓄え」ず、個人的に果てしなくお金をこの世で積み立てて行く事は罪深い事なのです!天の視点からしますと、それは無駄な事だと言っても決して過言ではありません!
2)信仰者は自分自身との関係において、お金をどう捉えるか(16:10-12)
●二番目に、信仰者は自分自身との関係においてお金をどう捉えるか、という点に進みましょう。イエス様は、信仰者に対して、永遠の投資をするに当たって忠実であるよう勧めたのです!イエス様は10節で、「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です」、と自明の理を述べられました!ある人は、次のように主張します。人がもし金持ちであれば、その人は多く献げます、と。しかし、真実はそうではありません!人の品性や人格が、忠実さを決めます!その人がどういう立場や状況にあるかによって、決められるものではありません!ルカ21:1-4には「貧しいやもめ」について記されていますが、その「やもめ」は何もない中で全てを献げました!他の人たちは全てをもっている中で、何もささげませんでした。大切な点は財政的な状況ではなく、霊的な誠実さや人格や品性です!
●「最も小さなことに忠実な人は」、その人がより多くを持った時にも忠実です!不正な人たち、すなわち自己中心で、傲慢で、好き勝手な事をしている人たちは、自分たちが持っている「小さなこと」を用いる事において「不忠実」であるように、「大きなこと」を用いる事においても「不忠実」です!決め手は、人々がどれくらい多くもっているのかではありません!そうではなく、救いの福音について、どれくらい深く関わっているのかに掛かっております!
●人々のお金に対する見方や考え方、そしてその結果生じる忠実さや不忠実さというのは、その人々の永遠の報いと密接な関係をもっています!「ですから」、11節で、「あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか」、とイエス様は語られました!この地上の人生で、「不正の富に忠実」となる機会を無駄にするのは罪深い事で、そういう人たちへ、神が報いてくださると推測するのは愚かな事なのです!自分たちの富を、罪を贖う働きのために費やす事を怠る人々は、天における報いという点で、自分たちを永遠に貧しくします!永遠の報いというものは、「不正の富」に対して「忠実」な者たちへ与えられるものです!
●「また」、12節で、イエス様が「他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか」と問い掛けられましたが、それは、管理の重要性を示しています!私たちの持てる全てのものが神に属している事を認め、それゆえ、神の栄光のために、私たちがそれらをよく管理する責任があるのだという事を伝えています!(参/マタ25:14-29) ―6―
3)信仰者は神との関係において、お金をどう捉えるか(16:13)
●最後の三番目のポイントです。イエス様は、信仰者が神との関係においてお金をどう捉えるか、信仰者のその態度について、もう一つの明瞭且つ常識的な例を用いられました。13節の冒頭で、「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません」と警告されました!なぜなら、「一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることにな(る)」からです!この「仕える」(“ドウレウオ-”)というのは、奴隷として仕えるという事に言及して用いられている言葉です!奴隷というのは、現代の労働者とは大きく異なります。奴隷には、二人目の雇い主もいて、もう一つ別の仕事に就く事もできるという選択肢はありませんでした!奴隷とは、自分に対して唯一絶対の支配権を持っている主人の所有物であって、他の誰の所有物でもないのです!このように限定されて仕えるというのは、奴隷が、二人の主人に同時に仕えるという事を許さないのです!
●人も同じように、神と物質的な富という両方の奴隷になる事はできないのだという事を告げています!神と富の両者が一人の心の中に共存して、その人に対して、共同で支配権を行使する事はできないという事です!その理由を、並行箇所であるマタイ6:24を注解しているジョン・カルバンが次のように語っています。「富が心を支配しているところでは、神の支配権は失われます」、と!(Wow)相反する要求は、明らかに、相反する感情と態度を生み出します!お金を愛する者たちは、お金に関して神がその人たちに命じている事を見下しますし、またその命令に対して腹を立てます!(Right)しかし、神を愛する人たちは、この世の富を自分たちの主人としない事によって、神をほめたたえる事を選びます!神を愛する者たちは、利己的な願望や欲望を満たすために富を用いる代わりに、神が自分たちに委ねておられるお金を、神の栄光となる魂の救いのために管理する事に心掛けます!
【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。
●メッセージの前半では、「この世の子ら」は一時的な未来を確保する点において、「光の子ら」よりも「よりも賢い」のですが、「光の子ら」であるクリスチャンは、永遠の未来に対して備えるに当たって、「この世の子ら・・・よりも」遥かに「賢い」者たちです!
●メッセージの後半は、信仰者は他者との関係において、自分自身との関係において、そして神との関係においてお金をどう捉えるか、という三つの点を学びました。一番目に、信仰者は、自分のお金や財を使って伝道しそして天国の友を獲得します!イエス様はクリスチャンに対して、天の報いをもたらす事となる永遠の目的のために、この世の財を用いなさいと呼び掛けられました!キリストを高く掲げず、福音宣教による魂の救いを無視して「天に宝を蓄え」ず、個人的に果てしなくお金を積み立てて行く事は罪深く、それは天の視点からすると、無駄な事だという事を学びました!二番目に、イエス様は、信仰者に対して、永遠の投資をするに当たって忠実であるよう勧めました!金持ちだから多く献げるのではなく、それは、救いの福音にどれくらい深く関わっているかに掛かっています!自分の富を、罪を贖う働きのために費やすのを怠る人は、永遠の報いという点で貧しいものとなります!永遠の報いは、「忠実」な者たちへ与えられます!私たちの持てる全てのものが神に属している事を認め、それゆえ、それらをよく管理する責任を私たちは積極的に担って行きます!
(続く)
―7―
三番目に、人が神と富の両方に仕える事、すなわちその両方に奴隷になる事はできないのだという事を学びました!富が心を支配しているところでは、神の支配権は失われます!神を愛する人は、利己的な願望や欲望を満たすために富を用いる代わりに、神が自分に委ねておられるお金を神の栄光となる魂の救いのために用いるため、富をよく管理する事を心掛けます!
【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。
●メッセージの前半に関する質問です。どうぞ自問自答してください。一時的な未来を確保するために、あなたの心と頭は、この世の富を得る事で一杯になっていませんか?それとは反対に、永遠の未来に対して備えるために、この世の富を用いる事に心を配っていますか?
●メッセージの後半に関する質問です。どうぞ自問自答してください。あなたは、自分のお金や財を使って伝道しそして天国の友を獲得するよう、この地上の人生を歩んでいますか?それとも、キリストを高く掲げず、福音宣教による魂の救いを考えずに「天に宝を蓄え」ず、この世において、個人的に果てしなくお金を積み立てていますか?あなたは、金持ちが多く献げると思っていませんか?神への献げものは救いの福音に深く関わっている事から来ますが、あなたは福音の救いの真理に震えるほど感動していますか?罪からの救い、永遠の地獄からの救いのために払われた、イエス・キリストの十字架の犠牲に震えるほど感動していますか?あなたはその永遠の救いの御業のために、あなたの財を忠実に投じていますか?あなたの持てる全てのものが神に属している事を認め、それをよく管理する責任を果たしていますか?そして最後に、あなたの心が富に支配される事によって、神の支配権が失われていませんか?あなたは富に仕える奴隷ですか、それとも神に仕える奴隷ですか? それでは、お祈りしましょう。
【締めの御言葉】
■「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」(ルカ16:13)。
[引用&参考文献]
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Luke 11-17, The Moody Bible Institute of Chicago, pp. 331-340.)
・ダレル・L.ボック、『ルカの福音書9:51-24:53』(ベイカー アカデミック、1996) (Darrel L. Bock, Luke 9:51-24:53, Published by Baker Academic, a division of Baker Publishing Group, pp. 1334-1335.)
―8―