ルカの福音書講解説教19 メッセージ原稿 2016.12.11 『 マリヤとエリサベツ、御使いの預言の確認 』その 3 『 救い主の降誕を讃美する 』

―神の言葉は必ず実現すると信じきる者の幸い―
《ルカ 1 39 45/ 今回は ルカ 1 41b 43 、 45 》
【序 論】
●前回のメッセージで、ヨハネがエリサベツの胎の中で踊ったのは、ヨハネが「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ(て)」(1:15)いたからでした。胎児ヨハネの意識を越えて、踊るという無言の預言が発せられた事によって、マリヤは自分が未婚でありながら救い主を宿す事ができるという御使いの約束について確認を得ました。そこで今回は、未婚のマリヤがもう一つの方法によって同じ確認を持つようになる事について取り上げます。それが、エリサベツの有言の預言です。胎児とその母親の双方が聖霊に満たされる事によって無言と有言の預言がなされ、未婚のマリヤに神が聖霊によって奇蹟的な懐妊をもたらし、救い主の誕生を導かれるという確信へと導かれます!
●『マリヤとエリサベツ、御使いの預言の確認』の第三回目のメッセージの主題は、『救い主の降誕を讃美する!』です。そして、副題が「神の言葉は必ず実現すると信じきる者の幸い」です。マリヤとエリサベツの出会いは、マリヤに絶大な確認と確信をもたらしただけでなく、後に続く信仰者に対しても大きな確認と確信とを与えてくれます!それでは、解き明かされる御言葉に大きな期待を寄せましょう。全体並びに今回のアウトラインは下記の通りです。
【全体のアウトライン】
[1]マリヤとエリサベツの出会いによる確認(1:39-40)/済
[2]胎児ヨハネの無言の預言による確認(1:41a、44)/済
[3]エリサベツの有言の預言による確認(1:41b-43、45)/今回(最終)
【今回のアウトライン】
[3]エリサベツの有言の預言による確認(1:41b-43、45)
1)聖霊に満たされた者は神の言葉を語る(1:41b-42a/他)
2)救い主の誕生についての最初の讃美(1:42b-43/他)
3)神の言葉は必ず実現すると信じきる者の幸い(1:44)
【本 論】
[3]エリサベツの有言の預言による確認(1:41b-43、45)/今回
1)聖霊に満たされた者は神の言葉を語る(1:41b-42a/他)
―聖霊に満たされた神の器たちの数々の例―
●今回のメッセージは41節の後半から始まります。胎の中のヨハネのように、「エリサベツ」もまた「聖霊に満たされた」と記されています!そして、42節に記されていますように、彼女は「大声をあげて」、神からのメッセージを語り始めます!前回のメッセージで語りましたが、「聖霊に満たされ(る)」という事は、しばしば神からの神の言葉を語るという事とつながっていました!
―1―
●そこで、実際例として、聖書が記録に残している数人の信仰者を取り上げましょう。まずは、旧約聖書の人物で、まず初めにダビデを取り上げましょう。2サムエル23:2で、彼は次のように語っています。「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある」、と!神の言葉は、聖霊に満たされた人を通して語られるという事を示しています!一方、新約聖書では、やがてこのメッセージシリーズで取り扱いますが、ルカ1:67でヨハネの誕生後、「父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った」と記されています!文字通り、聖霊の満たしが預言につながっています!更にその後で、ルカ2:27-32で、シメオンについて次のように記されています。
2:27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。 2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。 2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。 2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、 2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」 2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
当事、律法学者や一般の民衆にとって、異邦人もイスラエル人と同様に救いに招かれ、神の啓示の光で照らされるという事を信じる人々はまずいませんでした。イスラエルの人々は、「自分が異邦人として生まれて来なかった」事を、神に対して感謝を捧げていたくらいです。異邦人の土地に入ってから、再び自分たちの土地に戻って来た時には、異邦人の地で付いた足の塵を払うというのがイスラエルの慣習でした。そんな中で、マリヤの胎の中に宿っている救い主は、「異邦人を照らす啓示の光」だと宣言するのは、聖霊に満たされて神からの預言を語る事以外にできない事です!その点を含めて、ヨセフとマリヤは、シメオンの預言の内容に驚かされました!
●また、使徒2:4ではペンテコステの日の出来事が記されており、使徒をはじめ百名余りの信徒たちが「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」(2:4)とあります。そして、その後4章で、
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。 4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、 4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。 4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
使徒ペテロが語ったメッセージは、イスラエルの人々にとっては物凄い挑戦的な言葉です!救い主を殺したのは、あなたがたですと語ったのですから!聖霊に満たされる事なしに、このように大胆に神からのメッセージを伝える事は出来ません!
―2―
●その後、更に4章の後半で、ペテロとヨハネがユダヤ最高議会によって脅されて後に解放されてから、信徒たちが「祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」(4:31)と記されています!聖霊に満たされた初代教会のクリスチャンたちは、大胆に神の言葉を語り出したのです!その要因は、聖霊の満たしです!
●聖霊に満たされた者は神の言葉を語るという項目のまとめとして、2ペテロ1:21で次のように記されています。「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」、と!新約聖書が完成して、神から直接お言葉を受けて預言する賜物はなくなりました!終末の大患難時代にイスラエルに二人の預言者が立てられるまでは、預言者が立つ事はありません。礼拝の時に語られるメッセージを、預言するという風に広く受け取る方々もありますが、神から直接御声を聞いて預言するという時代は終わりました。
●今は、新約聖書において聖霊に満たされるという定義がはっきりと示されるようになりました。それは、神の御旨と真理が記されている聖書の御言葉に満たされる事が、聖霊に満たされる事と等しい事だと告げています!ですから、教会では聖書の御言葉を礼拝メッセージやアッパールームのテキストを通して正しく説き明かされ、信徒の皆さんへ聖書の正しい理解が浸透して行く事が大切です!また一方、信徒の皆さんはディボーションを通して直接聖書に親しみ、聖霊に満たされる素地が日々作られる事が大切です!御言葉の真理に満たされた人が聖霊に満たされた人であり、その人は神の御言葉を分かち合い、また神の御言葉を大胆に語る事ができるのです!
―「大声をあげて」(1:42a)神の真理を語る・・・!―
●42節の前半に進みましょう。聖霊に満たされたエリサベツは、「大声をあげて言った」とあります。実は、この「大声をあげて言った」という事が、神からの真理を語る人々やイエス様ご自身の場合にも見られるという事が記されています。まず初めに、ヨハネ1:15では、バプテスマのヨハネがイエス様について次のように語っています。「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った」、と。何について叫んだかと言いますと、「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです」、と!ヨハネは、叫んでイエス様が最も偉大なお方で、しかもこのお方は人となられてマリヤから生まれては来たけれど、実際は永遠の昔から存在するお方なのだと、キリストに関する真理を語っています!御子に関する重要な真理ですので、「叫んで言った」のです!
●同じくヨハネの福音書ですが、7:28-29では、イエス様ご自身がどのように神の真理を語っておられたのでしょうか?次のように伝えられています。
7:28 イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。 7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」
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この聖書箇所の3節前の25節では、「エルサレム」から来た「ある人たち」(7:25)が救い主について論じています。彼らや当時のパリサイ人や律法学者たちの間では、27節に記されていますように「キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ」と結論付けています。どこからそのような結論を引き出して来たのでしょうか?それは、イザヤ53:8に記された「彼の時代の者」すなわち救い主が来られる時の人々の「だれが思ったことだろう」(新改訳)、「誰が思い巡らしたであろうか」(新共同訳)というように、救い主が来ても誰も「どこからか」来ているのか「知っている者はだれもいないのだ」と誤って聖書を理解しています。また、マラキ3:1の御言葉を取り上げて、「あなたがたが尋ね求めている主」は「突然、その神殿に来る」(マラ3:1)と記されていますので、救い主が「どこからか」来ているのか「知っている者はだれもいないのだ」と御言葉を誤って理解してそう結論付けているのです。しかし、この「突然、その神殿に来る」というマラキ書の預言は、部分的にはイエス様が来られた時に成就していますが、それは主に千年王国の神殿において成就します。救い主イエス様は三年半を掛けて、イスラエルの人々に向き合い、その姿を表されました。彼らが、私たちはキリストを知らないという言い訳は通りません!
●そこで、イエス様は「大声をあげて」神の真理について「言われ」、彼らが旧約聖書の御言葉を正しく理解していない事、否、彼らが語っている聖書の神そのものすら理解してもいない事を告げます!イエス様は、「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています」と語っていますが、実はそれは皮肉を込めて語られている言葉です!真実は、「あなたがたはわたしを知(らないし)・・・また、わたしがどこから来たかも知(らない)」と語っているのです!事実、ヨハネ8:19では、はっきりと、「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」と告げておられます!ですから、「大声をあげて」神の真理について語られたのです!
●実際、彼らが知っているのは、イエスがガリラヤの田舎のナザレというところから来ており、またイエスが「大工」ヨセフのせがれであり、「母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダでは(ないか)」、わたしたちはあなたの全てを知っているし、あなたは救い主ではないのだと語っているのです。更に、何回か前のメッセージで触れましたが、彼らはイエス様に対して、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません」(ヨハ8:41)と告げました。別の表現をしますと、あなたは私生児ではないですか、あなたの母マリヤは不道徳な母親でないですか、とまで語っています。彼らは処女降誕についての旧約聖書の約束を受け入れないのです!イエス様は、また旧約聖書ミカ5:2(マタ2:4-6)の約束に従って、ナザレではなく確かにベツレヘムで生まれています!彼らは、その事実を知ろうとしませんでした。それゆえ、イエス様はそれらの誤りを指摘するために、神の真理を「大声をあげて」語られたのです!
●続けてヨハネの福音書ですが、イエス様は7:37-38で次のように語られました。
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、次の39節で解説されていますように、霊の渇きを覚える者は、救い主である「わたしのもとに来て飲みなさい」と招いておられます。(続く) ―4―
イエス様が十字架の救いの御業を成し遂げられ、復活して父の御元に昇天なさった後に、主は信仰者には聖霊を注がれ、聖霊が信仰者の内に住まわれ、信仰者の「心の奥底から」他者を祝福する「生ける水の川が流れ出るようになる」と約束されました。この希望に溢れる真理を、イエス様は、「大声で言われた」のでした!
●最後に、ローマ9:27ですが、使徒パウロが預言者イザヤを通して語られた神の言葉を引用しています。その引用とは、「イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。『たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。』」という厳しい言葉です。実は、この神の言葉を伝えるイザヤの心の背景には、相当な悲しみと苦しみがある事を見落としてはなりません!引用元のイザヤ書には、このような言葉が続いて記されています。それは、「壊滅は定められており、義があふれようとしている」という言葉です!この預言は、南王国ユダが北王国イスラエルにように異教の大国によって征服され、捕囚としてバビロンへ連行されて行くという事が背景のもとで語られています!
●アブラハムの子孫が「海べの砂のよう(に)」おびただしくあっても、殆どの人々の行く末が滅びで、ほんのわずかな人々しか残されないと言うのです!その理由は、イスラエルの多くの人々が神を拒絶し、神に対して不信仰だからです!でも、使徒パウロは、イスラエルの北と南の王国の悲劇というものは、実は、これから起こる悲劇の前ぶれで、イスラエルの民はこれまでに比べようもない大きな悲劇に見舞われると語っているのです!どのような悲劇でしょうか?それは、イザヤの時代から約700年後に来られる救い主を真っ向から拒絶し、その結果、アッシリヤやバビロンによって征服された時よりもより大きな悲劇に見舞われからなのです!それが、実に、イエス様が昇天されてから約30年後のAD70年、ローマ帝国によってエルサレムが陥落した事よって現実のものとなり、100万人ものユダヤ人が殺され、彼らは自分たちの祖国を失いました!それは、実際に起こった神の裁きでした!ですから、イザヤも使徒パウロも「叫んで」語るのです!
●このように、バプテスマのヨハネが、イエス様ご自身が、イザヤが、そしてパウロが叫ぶのは、神からの真理を語る者に伴うものであったのです!そういう訳ですから、エリサベツが「大声をあげて言った」内容が何であったのかに注目します。彼女は、文字通り、神から受けたメッセージを「叫んで」伝えました!その内容に、エリサベツ自身が高揚しましたし、またそれが権威に溢れた神の言葉として強調して語られている事が分かります!それが、次の2番目のポイントなのです。
2)キリスト降誕の最初の讃美(1:42b-43/他)
―キリスト誕生に関する讃歌!―
●42節の後半で、マリヤに向かって、まず、「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています」と叫んでいます!ルカの福音書には、キリストの誕生に関して神を讃える5つの讃美が記されています。1つ目がこの1:42-43のエリサベツの讃歌、2つ目が1:46-55のマリヤの讃歌、3つ目が1:67-79のザカリヤの讃歌、4つ目が2:14の天の軍勢の讃歌、そして最後の5つ目が2:25-32のシメオンの讃歌です!一つ目のエリサベツの讃歌は、マリヤとマリヤが生む子とまたエリサベツ自身の祝福を宣言しています!そして、究極的には、神のお言葉を信じる者全てに対して祝福を宣言しています! ―5―
―マリヤは「女の中の祝福された方」(1:42b)―
●それでは、一文いちぶんの御言葉を紐解いて行きましょう。まず初めに、「あなたは女の中の祝福された方」とエリサベツは叫びました。士師記にもこれと似た表現があり、「女の中で最も祝福されたのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている」(5:24)と記されています。これは、ヘブル人の女性にとっては最高の表現で、エリサベツはマリヤに対して、「あなたは全ての女性の内で最も祝された者だ」と語っています。
●ヘブル人(ユダヤ人)の文化の中で、女性の地位というのは、多くの場合その子どもたちに基づいていました。女性の重要性は、その女性の子どもたちに直結していました。ですから、ある女性がマリヤを称賛した時に、イエス様に対して「声を張り上げて」次のように語りました。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」(ルカ11:27)、と。すなわち、イエス・キリストを産んだマリヤは幸いな者ですと、群衆の中からある女性が語ったのです。そのような女性に対する見方がユダヤ人文化の中にありましたが、勿論それが全て聖書的ではありません。現に、イエス様はその言葉に対して、「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」(ルカ11:28)と応答されています。イエス様は、男女問わず、幸いなのは「神のことばを聞いてそれを守る人たち」なのだという事を意味しています!そういう背景を元に、エリサベツが叫んで語っているのです。
●エリサベツがここで何を言わんとしているのかいいますと、マリヤは全ての女性の中で最も祝された女性であると宣言するのですが、それは彼女が最も偉大な子どもを産むからなのだと言うのです。一方、御使いガブリエルはザカリヤに対して、彼とエリサベツに生まれるバプテスマのヨハネは「すぐれた者」すなわち偉大な者になると伝えました。しかし、エリサベツはへりくだって、マリヤから生まれる子がより優れて偉大な者であると認めています!エリサベツの子どもは救い主の先駆者になるのですが、マリヤの子は救い主になるのです!それゆえ、エリサベツは、マリヤがより大きな特権とより大きな栄誉を受け取る事を理解していました!エリサベツは、ルカ1:6で、「神の御前に正し(い)」女性だと記されており、自分が救い主の先駆者となるバプテスマのヨハネを産む特権にあずかっている事に感動し、感激しているだけでなく、それよりも尚救い主が来られるという事に対してより感動しまた感激している事をここで表しているのです!
―マリヤの「胎の実も祝福されています」(1:42c)―
●そして引き続き42節の後半の一文では、エリサベツは、「あなたの胎の実も祝福されています」とも叫びました。「胎の実」という表現は、旧約聖書では何箇所かに出て来ます[創30:2(言語では「胎の実」)/申7:13/詩127:3/イザ13:18]。この表現は、新約聖書ではここにしか記されておりません。マリヤがこれから聖なる御子を産む事を示しています!その御子はメシアであり(4:25-26)、世の救い主であり(ヨハ4:42/1ヨハ4:14)、天国で讃美を受けるお方であり(ヘブ1:6)、「きよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司」(ヘブ7:26)であり、「神」が「高く上げ」られ「すべての名にまさる名をお与えにな(られた)」(ピリ2:9)お方であり、父なる神の全てのものを受け継がれるお方であり(ヨハ16:15、17:10)、そして栄光の主だと聖書ははっきりと宣言しています(1コリ2:8)。
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―「私の主の母」マリヤが「私のところに来られるとは、何ということでしょう」(1:43)―
●43節で、エリサベツは驚嘆と畏怖の念を持って感嘆の声を上げます!「私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう」、と!これは、エリサベツ自身への祝福の宣告でもあります!エリサベツは、本当にへりくだって、自分自身が救い主の母親の訪問を受けるふさわしくない者であると感じて語っています!(ルカ5:8)エリサベツはなおも御霊にコントロールされて語っており、マリヤが身ごもっている子を「私の主...」呼んでいます!それは、身ごもっている子が神ご自身である事を証ししています!「主」というのは神の称号であり、ルカの福音書の最初の二章には25回記されていますが、全て神を表す言葉です!ですから、イエス様を主と呼ぶのは、イエス様を神と認識している事と同じです!(ヨハ20:28)そして後々になると、イエス・キリストを「主」と呼ぶ事が、当然キリストの主権に対して全面的に従うものである事を意味しています!ルカ6:46で、イエス様ご自身が、「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか」、と言われている言葉がまさにその事を示しています!
―マリヤは神の母・・・?―
●ローマカトリック教会の教えや礼拝の儀式では、マリヤは「神の母」という称号で呼ばれています。真の神とは、永遠の昔から永遠の未来にわたって存在しておられるお方です!真の神は、時間という枠の中におられるお方ではありません!(創21:33/申33:27/詩90:2/イザ40:48/ハバ1:12/ロマ16:26)真の神が懐妊によって生まれるという事は決してありません!真の神は常に存在しておられるお方だからです!そういう訳ですから、マリヤは人イエスの母親であって、永遠に神のご性質を持っておられる神イエスの母親では決してないのです!この点の理解は重要です!
3)神の言葉は必ず実現すると信じきる者の幸い(1:45)
●今回のメッセージの最後のポイントです。45節に目を留めましょう。エリサベツは先に述べたマリヤの祝福に加え、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と語って神からの宣言を締めくくりました!マリヤは、救い主の母親になるという特権が与えられた事によって祝福されたのみならず、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった」という信仰によって祝福された事を私たちは見落としてはなりません!
●このお言葉で、もう一つ見逃してはならない点が実はあります。それが、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人.」という言葉で語られているところです!「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった」のは、マリヤだけに限られた事ではないということを示しています!三人称の代名詞が使われているという点を見逃してはなりません!一人称の私や二人称のあなたではなく、三人称の彼や彼女という代名詞が使われているのです!何を意味しているのでしょうか?それは、「主によって語られたことは必ず実現すると信じき(る)」人は誰でも祝福されるという事を意味しています!この「幸い」や祝福というものは、マリヤを越えて、神の言葉を信じる者全てに対して、ご自分の約束を実現して下さるという事を意味しています!
―7―
―マリヤについての見解―
●マリヤは神の母ではありません!また、天の女王でもありません!罪人を贖うという役割はマリヤには全くありません!人々のために執り成しまた人々の祈りを聞くという役割も全くありません!しかし、マリヤは信仰の模範者です!また、へりくだって神の御心に従ったという意味で模範者です!神のお言葉に対して従う思いで応答し、喜んで応答し、礼拝する心で応答しました!そこに、彼女の真の偉大さがあるのです!マリヤに対して、このような理解を持つのはとても大切です!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●今回は、前回の胎児ヨハネの無言の預言による確認に引き続き、その母エリサベツの有言の預言による確認という点から聖書を学びました。その無言と有言の預言によって、未婚のマリヤが、自分に対する奇蹟的な懐妊という御使いの約束が必ず成就するという確認と確信へと導かれた事について学びました!
●今回は、三つのポイントで学びました。一番目が、聖霊に満たされた者は神の言葉を語るという点です。御言葉の真理に満たされた人が聖霊に満たされた人であり、その人は神の御言葉を分かち合い、また神の御言葉を大胆に語る者にされるという点について学びました!二番目に、救い主の誕生についての最初の讃美がエリサベツの口を通して語られました。エリサベツは、胎児イエス様をはっきり神であると宣言しました!三番目に、神の言葉は必ず実現すると信じきる者の幸いを宣言しました。その幸いはマリヤだけでなく、誰でもそのように神を信じきるのなら、神の約束がその人に成就するのだという事も合わせて学びました!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●一番目です。クリスチャン生活の鍵は、言うまでもなく聖霊に満たされる事です!これがクリスチャン生活を最も充実したものにします!これが、クリスチャン生活の秘訣です!聖霊に満たされる源は、聖書の真理を正しく知り、その御言葉にあなたの心が満たされる事です!いかがでしょう、あなたは聖書の真理を正しく知りたい、その御言葉で心が満たされたいという飢え渇きがありますか?
●二番目です。あなたにとってイエス・キリストは神であり主ですか?イエス・キリストを信じる事が、イエス・キリストに従う事とつながっていますか?あなたは日常生活で、キリストとその御言葉に従っていますか?
●三番目です。あなたはマリヤのように、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきっ(って)」いますか?そして、幸いな生活と人生を送っていますか?あなたは聖書に記された神の約束を信じ切るという熱い信仰ですか、それとも中途半端な生ぬるい信仰ですか?それぞれで、自分の心を神の御前に吟味する時を持ちましょう。
【締めの御言葉】
■私の主(ルカ1:43)。
■主によって語られた事は必ず実現すると信じきった人は、何と幸いな事でしょう(ルカ1:45)。
―8―