ルカの福音書講解説教18 メッセージ原稿 2016.11.27 『 マリヤとエリサベツ、御使いの預言の確認 』 その 2 『 名も 無い 二人の女性の奇蹟的懐妊と出会い! 』
―エリサベツの胎内で喜び踊るバプテスマのヨハネ―
《ルカ 1 39 45 今回は 、 1 39 40 、 41a 、 44 》
【序 論】
●クリスマスメッセージは、今回で8回目を迎えます。今回はどこに焦点が当てられているかと言いますと、一つ目が田舎出身の名も無い二人の女性の出会いとその深く長い対話です。二人になされた奇蹟的な懐妊について報告し合いますので、ぞくぞくして語り合っているという光景が目に浮かびます。それが、何と「あいさつ」(1:40、41)という言葉で表されているのです。二つ目は、エリサベツの胎内にいるバプテスマのヨハネの無言の預言です。ヨハネが救い主の到来の先駆者として働きをするに当って、その心に溢れていたものが何であったのかを学びます。そして、その無言の預言に続いて、エリサベツの有言の預言が記されています。三つ目は、その両方の預言によって、未婚のマリヤが御使いの約束の確かさを確認しまたその約束を確信します。心躍る救い主の物語が続いて行きます!
●今回のメッセージの主題は、『名も無い二人の女性の奇蹟的懐妊と出会い!』です。そして、副題が、「エリサベツの胎内で喜び踊るバプテスマのヨハネ」です。解き明かされる聖書の御言葉に期待して下さい。メッセージの要点については既に述べましたが、アウトラインは下記の通りです。
【全体のアウトライン】
[1]マリヤとエリサベツの出会いによる確認(1:39-40)/今回
[2]胎児ヨハネの無言の預言による確認(1:41a、44)/今回
[3]エリサベツの有言の預言による確認(1:41b-43、45)/次回
【今回のアウトライン】
[1]マリヤとエリサベツの出会いによる確認(1:39-40)
1)エリサベツに急いで会いに行くマリヤ(1:39a)
2)エリサベツが住んでいる町(1:39b)
3)エリサベツにあいさつするマリヤ(1:40/他)
[2]胎児ヨハネの無言の預言による確認(1:41a、44)
1)エリサベツの胎内で喜び踊る胎児ヨハネ(1:41a)
2)エリサベツの驚きの叫び(1:44/他)
【本 論】
[1]マリヤとエリサベツの出会いによる確認(1:39-40)
1)エリサベツに急いで会いに行くマリヤ(1:39a)
―1―
●神が約束されたしるしを見に行くという事を切望して、マリヤは親類の年老いたエリサベツの元へ出掛けるために、ナザレで無駄な時間を過ごす事はできませんでした。39節の初めに「そのころ」と記されていますが、それは、御使いガブリエルがマリヤの元を訪れた時を指しています。マリヤは「急いだ」とありますので、彼女は日常に関わる全てのものを横に置いて、エリサベツに会うために、一心にユダに向かって南下して行ったのでした。36節にありましたように、その頃、エリサベツは妊娠「六か月」になっていました。そして、56節にありますように、マリヤは「三か月ほど」エリサベツの家に滞在したという事が分かります。ですから、その時点になると、エリサベツが妊娠して9ヶ月になりますので、マリヤがユダを離れてナザレの自宅に帰った頃には、バプテスマのヨハネが生まれる頃となります(1:57)。
2)エリサベツが住んでいる町(1:39b)
―「山地にあるユダの町」/きわめて異例な少女マリヤの旅―
●39節の後半に、マリヤはエルサレムに近い「山地にあるユダの町」に旅した事が分かります。ザカリヤとエリサベツが住んでいる「山地にあるユダの町」は勿論南のユダにある事は間違いないのですが、正確な所在地は分かっていませんでした。しかし、6世紀の言い伝えにさかのぼりますと、それがエルサレムから8Kmの地点にあった事が分かっています。彼女の住んでいるナザレからは3、4日は掛かる道のりです。十代前半の少女がそのような旅路に出掛けるというのは、その当時の文化では極めてまれな事です。マリヤのような若い少女は、注意深く保護されるというのがその当時の習わしですし、勿論、今日の日本の多くの家庭でもそうでしょう。少女を取り囲む環境は極めて危険なのですから。
―マリヤの旅は妊娠を隠すため・・・?―
●それと、マリヤがいつ神の介入によって身ごもったのか、その確かな瞬間を聖書は記録していません。しかし、この旅に出る時にはきっと既に妊娠をしていたであろうと思われます。ある人は、マリヤが旅に出掛けたのは自分の妊娠を隠すためだと主張します。しかしそうでしょうか?そもそも妊娠というのが外面的に分かるのは、懐妊の直後に明らかになるのではありません。もし、マリヤがそのように意図したとしますと、「三か月」(1:56)後にユダの山地からガリラヤのナザレに帰った時に彼女のお腹の状態は少しずつふくらみ始める頃です。やがて、誰の目にもマリヤが妊娠していると分かるようになります。ですから、マリヤは自分の妊娠を隠すため旅に出たというのは誤りです。彼女は、御使いが伝えたしるしを確かめるために行動を起こしたのです。
3)エリサベツにあいさつするマリヤ(1:40/他)
―モーセとその義理の父イテロの例―
●40節に進みますと、マリヤが「山地にあるユダの町」に到着して後、「ザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつ」をしました。ここで記されている「あいさつ」というのは、今日、私たちが考えている短く、表面的で、軽々しいものではないという事を理解する事は、聖書を理解する上で大切です!古代の近東または中東と呼ばれるアジアの国々では、「あいさつ」というのは長い交流や長い対話を意味している言葉でした!
―2―
●その一つの例として、モーセが義理の父親であるイテロに出会った時、どのようなあいさつが交わされたのかを見てみましょう。イスラエルの民が出エジプトをして、シナイ半島を南下して行きシナイ山でモーセが神からの十戒を受け取るのですが、その前にレフィディムというところでアマレクの軍隊を破ります。モーセの手をアロンとフルが両方から支えて戦況を見守ったというあの戦いです。そしてその後、モーセの妻の父親であるイテロが、「先に送り返されていたモーセの妻チッポラとそのふたりの息子を連れて」(出18:2-3)モーセに会いに行った事が記されています。その当時の「あいさつ」がどのようなものであったのか、その記述が私たちの理解を助けます。
18:5 モーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻といっしょに、荒野のモーセのところに行った。彼はそこの神の山に宿営していた。 18:6 イテロはモーセに伝えた。「あなたのしゅうとである私イテロは、あなたの妻とそのふたりの息子といっしょに、あなたのところに来ています。」
18:7 モーセは、しゅうとを迎えに出て行き、身をかがめ、彼に口づけした。彼らは互いに安否を問い、天幕に入った。 18:8 モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、パロとエジプトとになさったすべてのこと、途中で彼らに降りかかったすべての困難、また主が彼らを救い出された次第を語った。 18:9 イテロは、主がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、エジプトの手から救い出してくださったことを喜んだ。
どうでしょうか、出エジプトの話を短い時間で語り尽くす事ができるでしょうか?勿論、無理ですし、ある程度の長い交流や長い対話を必要とします。そして、モーセの証しや報告を受けて、ミデヤンの祭司をしていた義理の父イテロが次のように語って応答します。
18:10 イテロは言った。「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトの手と、パロの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。 18:11 今こそ私は主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。実に彼らがこの民に対して不遜であったということにおいても。」 18:12 モーセのしゅうとイテロは、全焼のいけにえと神へのいけにえを持って来たので、アロンは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をするために、イスラエルのすべての長老たちといっしょにやって来た(出18:1-12)。
イスラエルの主なる神が「あらゆる神々にまさって偉大であること」を認め、またイスラエルの民に対して取ったエジプトの民の言動が「不遜であったということ」もはっきりと理解したのでした。そして、その後、神へのいけにえが捧げられ、それからアロンやイスラエルの長老たちが集って会食を共にします。このように、古代の「あいさつ」という言葉の中身というのは、長い交流や長い対話を意味していました。ですから、マリヤがザカリヤとエリサベツの家のドアをノックして、「まあマリヤ、ああエリサベツ」と言って、互いに「お久しぶり」と言った瞬間にエリサベツのお腹の子が踊ったという事ではないのです!
―マリヤのエリサベツへの「あいさつ」の意味するもの―
●モーセやイテロと同様に、マリヤとエリサベツも「あいさつ」を交わすのですが、その「あいさつ」とは、自分たちに起こった驚くべき出来事を互いに分かち合うために長い対話と交わりの時を持ったという事を意味していました!(続く)
―3―
エリサベツは、自分の夫ザカリヤが当番によって神殿で祭司の務めをしている時、天の御使いであるガブリエルが彼に現れて驚くべき御告げがあり、それはエリサベツ自身が懐妊するという事で頂点に達した事を告げたに違いありません!一方、マリヤもつい数日前に、自分にも同様に御使いガブリエルが現れたという関連した出来事を伝えたに違いありません!神の奇蹟的な介入を語り合うのですから、ワクワクゾクゾクしたに違いありません!
●前回のメッセージで触れましたが、この二つの出来事には九つにも及ぶ驚くべき共通点が見られました。ガブリエルという同じ御使いが現れているという事、それぞれが不安と恐れと戸惑いをおぼえた事、「こわがることはない」と言ってもらって安心した事、互いに妊娠出産する事においては不可能な状態であった事、息子が生まれるという約束で且つその名前までも神によって定められていたという事、そしてそれぞれにしるしが備えられて不可能を信じるに当って助けとなるという事などでした!
●そして、何よりもイスラエルの長い歴史の中で、否、アダムとエバが禁断の実を取って食べて罪と死が入って以来、その罪と死に解決を与える救い主がこの世に来られるという神の約束がもうやがて実現するのだという歴史的瞬間を間近に控えて驚き、興奮して話し合っていたに違いありません!しかも、その驚くべき神の約束の実現のために、住む場所は離れていますが、田舎に住む名も無い二人の女性がそれぞれ息子を宿し、神の奇蹟をもたらす者たちとして選ばれた事に驚き圧倒されていたに違いないのです!そういう事を話すと、文字通り、ゾクゾクします!
―マリヤのエリサベツを通しての確認と確信―
●マリヤは自分にもたらされた素晴らしい知らせをエリサベツと分かち合いながら、自分に起こった出来事を信じれる唯一の人物がエリサベツである事に気付きます!他の人々がマリヤの言っている事を聞くと、婚約中の性的な不道徳の結果妊娠した事を覆い隠すためにこじつけた話であると考えるでしょう。マリヤの事をよく知っている婚約者のヨセフでさえ、実際、彼女との婚約を破棄しようとしました(マタ1:19)。秘密裏に二人の関係を解消しようと「思い巡らしていたとき」(マタ1:20)、御使いが現れてマリヤの妊娠の真実は何なのかを知る事になります。そして、ヨセフは、それが全能の神による奇蹟的な懐妊である事を信じ受け入れる事になります!
●もし、マリヤがヨセフに対して、自分の家族に対し、また自分の友人に対して自分に起こった事を語っていたのであれば、それがどういう内容であったのかについて聖書は何も記しておりません。只、記されている事は、マリヤは自分に起こった出来事をエリサベツにだけははっきり語ったという事です。なぜなら、エリサベツもまた神による奇蹟的な懐妊をしていたからです。老女であるエリサベツの妊娠した姿を見、その上で彼女の身に起こった話を聞きました!そうであるなら、マリヤ自身も、御使いが自分に語られた約束については、神が必ず実現に至らせるという事を確認し且つ確信したのでした!
[2]胎児ヨハネの無言の預言による確認(1:41a、44)
1)エリサベツの胎内で喜び踊る胎児ヨハネ(1:41a)
●マリヤがエリサベツと話している時に受け取った二番目の確認は、実に不思議な方法で与えられました!(続く) ―4―
41節の前半ですが、マリヤとエリサベツとの間の長い対話のある時点で、エリサベツの胎児であるバプテスマのヨハネがその「胎内でおど(った)」のです!子どもを身ごもった体験のあるお母親ならよくご存じのように、胎動に気付くのは、早い母親で16週から、そして平均では18週~22週くらいで最も多くの母親がそれを感じると報告されています。エリサベツの場合は前述しましたように、妊娠6ヶ月でしたので、我が子の胎動はよく感じていたに違いありません。しかし、マリヤと長く話し合っていた時に感じた胎動は今までのものとは遥かに違うものでした!通常の胎動ではなく、「おど(った)」という表現が使われています!42節ではエリサベツが「大声をあげて」と記されていますので、胎児ヨハネの動きは凄いものであったに違いありません!胎児が踊ったのです!
2)エリサベツの驚きの叫び(1:44/他)
―胎児ヨハネが喜び踊る理由!―
●そして、44節にも同じ表現が繰り返されています。「ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました」、とエリサベツが驚きの叫びを上げています!胎児が踊ったという事が二度にもわたって記されている事から、この胎動が、母親に見られる通常の動きではない事が分かります。この44節に記されている踊る程の胎動の理由が何だかご存じでしょうか?バプテスマのヨハネは何を喜びそして踊ったのでしょうか?その答えは、待ちに待った救い主がとうとう来られるという喜びでなくて何でしょうか?!救いに主の到来以外の理由で、これ程までに「喜んでおど(る)」胎児はいません!ヨハネの「僕はこのお方を宣べ伝えるんだ」という喜びの踊りなのです!
―バプテスマのヨハネの無言の預言!―
●エリサベツの胎内に宿った命であるバプテスマのヨハネは先駆者として生まれ(1:17)、救い主を宣べ伝えるのが彼の使命でした(3:4-6)。その使命の最初の宣言がエリサベツの胎内でなされたのです!体は踊ったのですが、しかし、発せられたのは無言の預言でした!
●ヨハネの意識を越えて、この超自然的な無言の預言を導いたのは、実に、彼が「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ(て)」(1:15)いたからでした!それを告げた御使いガブリエルの預言の通りに、彼は胎児の時から聖霊に満たされていたのです!後で見受けられるようになりますが、聖霊に満たされる事がしばしば預言する事とつながって記されています!聖霊の力が信仰者を支配する時、その器の言葉と行いを用いて、神への働きを有効なものにします!有益な働き人は、実に聖霊の力に満たされて用いられたゆえなのです!
―旧約の例/ラケルの胎の中での出来事が遠大な預言であった!―
●妊娠中の女性の胎の中での動きが預言的に深い意図を持っていたのは、エリサベツのケースが初めてではありません。何世紀も前の出来事ですが、旧約聖書の中で、胎児の動きが深い意味を持っていたのは誰の妊娠中に見られた事であったでしょうか?それは、イサクの妻リベカの胎の中で起こった事でした。何とその出来事は、遠大な意味を含む内容の預言でした!創世記25:21-23は、次のようにその事を伝えています。
―5―
25:21 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。 25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして主のみこころを求めに行った。 25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
ヤコブとエサウの子どもたち、その子孫がイスラエル人とアラブ人であり、それは数千年にわたって続いている争いをこの預言は示しています!今日も、その争いは継続中です!中東のイスラエルとその周りを取り囲むアラブ諸国との間の争いにはっきりと見られるものです!女性の胎内で起こった出来事が、このように預言的なつながりとして今日まで続いているのです!神がなされる胎の中での不思議な御業という他ありません!
―バプテスマのヨハネの生涯とその務めそしてその方向性―
●母親の胎の中で、何と喜びが始まりました!それはバプテスマのヨハネの生涯とその働きの方向性を示すものでした!ヨハネ3:29で、バプテスマのヨハネは、自分を花婿であるイエス様の友人として次のように語っています。「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」、と!エリサベツの胎内のヨハネと、ヨハネが誕生して神の働き人となった時に共通している言葉は喜びです!大人になり、神の器として公での働きをするようになったヨハネが、救い主であるイエス様の「(お)声を聞いて大いに喜びます」と宣言しているのです!そして更に、その次の節で、「あの方」すなわちイエス様は「盛んになり私」すなわちバプテスマのヨハネは、「衰えなければなりません」とも語り、自分が救い主に仕える者であり、自分に与えられた務めが何なのかをよくわきまえて語った言葉でした!
―マリヤへの無言と有言の預言による大きな確認!―
●胎児が「喜んでおど(る)」という事が、御使いがマリヤへ約束された事を確認する時となりました!まだ生まれぬ胎児ヨハネのようにではなく、エリサベツは話す事ができますので、その無言の預言に付け足して彼女も言葉を発しました。その内容は、マリヤが確かに「主の母」(1:43)である事、そして神の約束を信じ切る者の幸いを高らかに宣言したのです!マリヤはヨハネの無言の預言とエリサベツの有言の預言とを聞いて、自分が未婚でありながら救い主を宿す事ができるという大きな確認と確信を得ました!その詳細は、次回のメッセージでお伝えする事になります。
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●『マリヤとエリサベツ、御使いの預言の確認』というクリスマスの三番目のテーマの二回目のメッセージの主題は、『名も無い二人の女性の奇蹟的懐妊と出会い!』でした。メッセージの前半では、「あいさつ」という一つの言葉を取り上げても、今日とは違う意味があり、マリヤとエリサベツの深く長い対話を指しており、互いになされた神の奇蹟的懐妊の報告をゾクゾクして語り合ったのでした!
―6―
●そして、メッセージの後半では、エリサベツの胎内で喜び踊るバプテスマのヨハネを通して貴重な教えを聖書から与えられました!胎児ヨハネの無言の預言とその母エリサベツの有言の預言を通して、未婚のマリヤが救い主を宿すという御使いの約束がいかに確かなものかを確認しました!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●一つ目の適用です。「あいさつ」という言葉一つを取り上げても大切な意味があり、聖書の記述を理解する上では、やはり御言葉の解き明かしの重要性を再確認させられます。それゆえ、あなたは主日毎の礼拝を大切にしてメッセージを通して解き明かされる御言葉に飢え渇いてそれを求めているでしょうか?ただ、機械的に礼拝に出席していませんか?礼拝を軽視していませんか?
●二つ目の適用です。マリヤは人間的に全く不可能な事を御使いから約束され、それを確認するたびにユダへ旅に出ました。そのマリヤに対して、神は無言の預言と有言の預言とを用いて、彼女に神の約束の確かさを確認させました!いかがでしょう、あなたは聖書の御言葉にあなたが必要としている確認と確信があるという事を強く信じていますか?聖書の約束は、あなたがこの地上の信仰生活を送って行く上で十分であるという事を確信していますか?主の御前で、それぞれが自分の霊的な状態を吟味する事にしましょう。
【締めの御言葉】
■ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました(ルカ1:44)。
■花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです(ヨハネ3:29)。
―