ルカの福音書講解説教 17   2016.11.20 『マリヤとエリサベツ、御使いの預言の確認 』 その 1 『 おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも ・・・』

               ―神は励まし手、信仰を確かにし、強めるお方!―
                《ルカ 1 39 45 今回は序論、マタイ 11 2 6/ 他 》

【序 論】
●今回から、私たちは、クリスマスの三番目のテーマを取り扱います。そのテーマは、『マリヤとエリサベツ、御使いの預言の確認』です。今回はその序論で、旧新約聖書のそうそうたる信仰者を取り上げて、彼らを取り扱いそして導かれた神の偉大さについて学ぶ事にします。神がどのようなお方かを知る事が、信仰者の成長の基本です!大いに励ましを受けるメッセージとなる事でしょう。新しいテーマの序論の流れは、下記のアウトラインの示す通りです。
【今回のアウトライン】
◎ 序論/神は励まし手、信仰を確かにし、強めるお方!
1)信仰なしに信仰者の人生はあり得ない(ロマ3:28/他)
2)信仰の最も強い者であっても時に疑いと失望を抱き、神の励ましを必要とする
ア)モーセの例(出エジプト3:11-12/他)
イ)ギデオンの例(士師6:16-23/他)
ウ)ヒゼキヤ王の例(2列王20:2-3/他)
エ)バプテスマのヨハネの例(マタイ11:2-6)
オ)マリヤの例(ルカ1:36-38/他)
【本 論】
◎ 序論/神は励まし手、信仰を確かにし、強めるお方!
1)信仰なしに信仰者の人生はあり得ない(ロマ3:28/他)
●信仰なしに信仰者の生活も人生もあり得ません!当たり前の事ですが・・・。クリスチャンの初めのステップは、「人が義と認められる」事から始まりますが、「義と認められる」という事は、その人の良い「行いによるのではなく、信仰による」(ロマ3:28)ものと聖書は語っています!ですから、信仰なしに信仰者の生活も人生もあり得ません!人は、「キリスト・イエスに対する信仰によって」初めて「神の子ども」(ガラ3:26)とされるのです!
●イエス様ご自身はトマスに対して、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(ヨハ20:29)と語られました!一方、ヘブル人への手紙の著者は、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(11:1)と記しています!そしてその後で、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(ヘブ11:6)、と続けて記されています!―1―
●そういう訳ですから、当たり前の事ですが、信仰者から信仰を取り除くと信仰者とは言う事はできません!しかし、「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」(2コリ5:7)、と使徒パウロは信仰者の本質が何なのかを語っていますが、最も強い信仰を持っている人ではあっても、堕落した罪の性質によって不完全であるがゆえに疑いや失望を持ってしまうものです!それゆえ、贖いの歴史を通してずっと聖書が明らかにしている点は、神はそういう欠点や弱さのあるご自分の民に対して、常に励まし手であり、彼らの信仰を常に確かにし、そして彼らを強めて来られました!
2)信仰の最も強い者であっても時に疑いと失望を抱き、神の励ましを必要とする
ア)モーセの例(出エジプト3:11-12/他)
●信仰の最も強い者であっても時に疑いと失望を抱き、神の励ましを必要とするのですが、旧約聖書から三名そして新約聖書から二名を例として取り上げ、人がどのように疑いや失望を抱き、また逆に神がどのように励まし、確信付け、そして強めるのかを学んで行く事にしましょう。
●その一番目に取り上げる信仰者はモーセです。約百万人のイスラエルの人々をエジプトから脱出させるという途方もない使命を命じられたモーセはすっかり気落ちしてしまいました。そのモーセが神に対して、「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」(出3:11)と申し上げました。これは、モーセにとっては最もな質問です。なぜなら、その当時の大帝国エジプトの帝王に逆らい、その国から百万人余りの人々を脱出させ、砂漠の中を通り約束の地カナンに導くというのは、不可能中の不可能な事なのですから!不可能に圧倒されているモーセに対して、主は、「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない」(出3:12)と仰せられました!
●神はモーセと共にいると保証を与えたにもかかわらず、モーセの信仰はそれでも揺れていました。それゆえ、モーセは再び主に対して、「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現れなかった』と言うでしょうから」(出4:1)、と主に対して強く問い続けます。すると、主は、再び葛藤をおぼえる自分のしもべモーセに対して次のように確信付けます!
4:2 主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」 4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。 4:4 主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。 4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」 4:6 主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。 4:7 また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。4:8 「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。(続く) ―2―
4:9 もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる」(出4:2-9)。
そのようにして、主はモーセを勇気付け、イスラエル民族のエジプト脱出に邁進して行くよう導かれます!
イ)ギデオンの例(士師6:16-23/他)
●二番目に取り上げる人物はギデオンです。ギデオンは「士師」あるいは「さばきつかさ」と呼ばれていた人物です。約束の地カナンの征服からイスラエル王国の設立に至るまでの約350年間に、14名の士師たちが起こされました。イスラエルの政治的また宗教的指導者で、今回は、その中からギデオンという人物を取り上げましょう。ギデオンはミデヤン人の圧迫と脅威からイスラエルを解放する士師でしたが、指導者としての使命を果たすまでの信仰の持ち主ではありませんでした。士師記6:11-23で、「主の使い」がギデオンに現れ、イスラエルをミデヤン人から解放するよう命じます。この「主の使い」とは、14節を見ると「主」ご自身を指していますので、受肉前のキリストだと理解できます。その聖書箇所に注目ましょう。
6:11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。 6:12 主の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」 6:13 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」 6:14 すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」 6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」 6:16 主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」 6:17 すると、ギデオンは言った。「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。 6:18 どうか、私が贈り物を持って来て、あなたのところに戻り、御前にそれを供えるまで、ここを離れないでください。」それで、主は、「あなたが戻って来るまで待とう」と仰せられた。 6:19 ギデオンはうちに入り、一匹のやぎの子を料理し、一エパの粉で種を入れないパンを作り、その肉をかごに入れ、また吸い物をなべに入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て、供えた。 6:20 すると、神の使いはギデオンに言った。「肉と種を入れないパンを取って、この岩の上に置き、その吸い物を注げ。」それで彼はそのようにした。 6:21 すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。 6:22 これで、この方が主の使いであったことがわかった。それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」 6:23 すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」 ―3―
●その後、ミデヤンの軍隊が近づいて来た時、ギデオンは、神は約束された通りになされるという更なる確証を求めます。ギデオンは自分の弱っている信仰が強められるために、神に対して次のようにしるしを求めます。
6:36 ギデオンは神に申し上げた。「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、 6:37 今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」 6:38 すると、そのようになった。ギデオンが翌日、朝早く、その羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞ると、鉢いっぱいになるほど水が出た。 6:39 ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」 6:40 それで、神はその夜、そのようにされた。すなわち、その羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていた。(士6:36-40)
●ギデオンは、真の神でしか成し得ないしるしを求めました。そのしるしを見てから信仰を強められたギデオンは32,300人の兵士を引連れて、「いなごのように」また「海辺の砂のように多くて数えきれな(い)」(士7:12)敵の陣営に立ち向かいます。しかし、神は、その兵士の数は多いと仰せられて何と三百人にまで減らされます。神の取られる戦法というのは、決して兵力ではありません!神の最も偉大な力は、人の最も少ない数を通して現されるのです!
●さて、神は何をなさるのでしょうか?まず、神は敵の陣営の一人に夢を見させて、自分たちがギデオンの剣によって滅ぼされるという恐怖心を抱かせます。そして更に、いざ戦いを交えるという時に、神は、敵の陣営で「同士討ちが起こるように」(士7:22)されました!全能の神の圧倒的な介入で、圧倒的な勝利がギデオンが率いる三百人の兵士にもたらされます!その後更に、ミデヤンの領地を制圧して行き、その後、40年間にわたって、イスラエルには「穏やか(な)」(士8:28)時代が訪れます!霊的にか弱いギデオンを強め、勇気を与え、「勇士」として立てられ、敵の圧迫と脅威から解放を導かれたのは、励まし手である神ご自身でした!
ウ)ヒゼキヤ王の例(2列王20:2-3/他)
●三番目に取り上げる人物はヒゼキヤ王です。病気の末期症状の中にあり、死が間近に迫った敬虔な信仰者であり王であるヒゼキヤ王は、第二列王記20:2-3で次のように祈った事が記されています。「20:2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。 20:3 『ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。』こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。」、と。ヒゼキヤ王の祈りに対して、神は、預言者イザヤを彼の元に送られ、彼の祈りが答えられた事を告げられます(20:4-6)。
●神が素早く彼の祈りに答えられたにもかかわらず、ヒゼキヤ王はその不信仰の中でイザヤに対して次のように求めます。「主が私をいやしてくださり、私が三日目に主の宮に上れるしるしは何ですか」(20:8)、と。モーセの時もまたギデオンの時もそうであったように、神は、ご自分の約束を実現させるに当って、2列王20:9-11で、次のようなしるしを彼に与えられます! ―4―
20:9 イザヤは言った。「これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」 20:10 ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」 20:11 預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。
●ヒゼキヤとしては、日が進むよりむしろそれよりも遥かに難しい逆の現象すなわち日が戻るよう求めました。すると、主はヒゼキヤの求めに応じて文字通りその奇蹟を行われました!主が、太陽と地球の自然の法則を乗り越えて介入されそしてそれらを逆操作されました!このように宇宙大の介入は、ヨシュア記にも一回記されており、その時は一日間すなわち24時間、「日は動かず、月はとどまった」(ヨシ10:13b)と記されています!神は、しるしを通して、ご自分の目的を達成しておられるという事が理解できます!ヨシュアの場合は、そのような主の介入によって、エモリ人に対して完全に勝利を遂げる事ができました!ヒゼキヤの場合は、そのしるしの後、病気の末期症状から解放されてもう15年の寿命が加えられました!(イザ38:5)そして更に、エルサレムが敵であるアッシリヤの手によって滅ぼされる事から救われました!何と、時が延されるという宇宙台のしるしを与えられたのでした!
エ)バプテスマのヨハネの例(マタイ11:2-6)
●四番目に取り上げる人物は、新約のバプテスマのヨハネです。既に、ルカの福音書一章で学びましたが、彼は救い主の来られる道備えをするという先駆者であり、彼以前の信仰者の中では最も偉大な人物だと記されています(マタ11:11)。しかし、そのヨハネが疑いのゆえに葛藤していたという事もまた事実でした。
11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、 11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」 11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。 11:5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。 11:6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」(マタ11:2-6)
●モーセやギデオンやヒゼキヤに対しては、直接、主がしるしを与えられ、彼らの弱った信仰を励まし、確信を与えそして強めましたが、バプテスマのヨハネの場合は、彼に直接しるしを与えるという事はありませんでした。なぜなら、ヨハネがイエス様こそ救い主であるという確信を得るためのしるしが既に数えられない程なされていたからです!どのようなしるしだと記されていますか?それは、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返(る)」という救い主でなければできない超自然的な奇蹟のおびただしい御業の数々でした!それに加えて、「貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」と言う現実を見聞きすれば、もはやイエス様が救い主である事に間違いないという事が余りにも明らかでした!
―5―
オ)マリヤの例(ルカ1:36-38/他)
●五番目に取り上げる人物は、今、私たちが学んでいるルカの福音書に記されたマリヤです。ルカ1:26から始まりましたクリスマスの物語のマリヤに関する記述で、彼女は御使いガブリエルを通して、人間がかつて聞いた事のない、最も驚くべき、最も想像しがたく、また最も理解しがたい告知を受けました!信じがたい事に、御使いの知らせは、十代前半のマリヤが、救い主であり、受肉された神の御子であり、また主イエス・キリストの母親になるという内容でした!マリヤはへりくだり、素直にそして従順な信仰をもってその御告げに応答し、神はご自身が言われた通りの事をなさると信頼しました!
●マリヤはこの理解しがたい御告げを受けた時に、神に対してしるしを求める事はしませんでした。しかし、神はその御告げがいかに人を驚かせまた動揺させるものであるのかをご存じでしたので、一つのしるしをお与えになりました!御使いを通してマリヤに伝えられたしるしは、もう一つの懐妊の奇蹟でした!マリヤの親類に当る年老いたエリサベツが、妊娠出産の時期をとっくに超えていたにもかかわらず、奇蹟的に懐妊しているという出来事を指していました!
―二つの懐妊の奇蹟―
●ルカの福音書に記された救い主の物語は、この二つの奇蹟の物語から始まっています。一つは、子どもを産む年齢をとっくに過ぎた不妊の老齢の婦人で、もう一つが十代前半の未婚で処女の若い女性でした。最初の老齢の女性の子どもは救い主の先駆者となるバプテスマのヨハネで、二番目の若い女性の子どもが救い主ご自身である主イエス・キリストです。
●前回のメッセージまでは、この二人の女性の物語は別々に展開していました。エリサベツは、南のユダのエルサレム近郊の山地に住んでおり、一方のマリヤは、北のガリラヤ地方の小さな田舎町ナザレに住んでいました。双方の町は直線距離で約百Kmは離れています。そして、今回から取り上げる聖書箇所からは、マリヤがエリサベツを訪問する事によって、この二つの物語が一つに結ばれて行きます。この二つの出来事は時と場所においてそれぞれ違いますが、多くの似通った点を示しています!
―マリヤとエリサベツの出来事の目立った類似点―
●一番目に、この二つの妊娠出産物語は親を紹介するところから始まっています。エリサベツの場合は自分とザカリヤの二人、そしてマリヤの場合は未婚ですので母親となるマリヤだけでした(1:5-6、26-27)。二番目ですが、二つの物語は妊娠出産するに当って問題点がある事を伝えています。エリサベツの場合は重度の不妊症(1:7)、マリヤ場合は処女であるという点でした(1:34)。三番目に、二つの物語には御使いガブリエルが現れているという事です(1:11、26)。そして、ガブリエルが現れた相手は不安をおぼえ、恐れ、ひどくとまどったという事です(1:13、30)。四番目に、御使いは、自分が現れた相手に対して「こわがることはない」と言って安心を与えているという事です(1:13、30)。五番目に、御使いは双方に対して一人の男の子が生まれると約束しました(1:13、31)。六番目に、御使いは双方の息子に付けられるべき名前をも告げました(1:15-17、32-33)。七番目に、双方に難しい点が見られる事を告げています。ザカリヤの場合は不信仰(1:18)、マリヤの場合は神秘的な奇蹟に対する理解の欠如でした(1:34)。そして最後の九番目に、御使いは、自分が語った事が実現するためのしるしを与えました。ザカリヤの場合はその不信仰のゆえに「ものが言えず、話せなくなるという」というしるしであり(1:19-20)、マリヤの場合は親類で不妊の老女エリサベツの懐妊というしるしでした(1:35-36)。 ―6―
―導 入―
●今回から始まりましたクリスマス物語の三番目のテーマは、『マリヤとエリサベツ、御使いの預言の確認』です!1:39-45という7節の短い記述ですが、マリヤがエリサベツと出会う事を通して、未婚のマリヤが救い主である御子イエス・キリストを身ごもるという神の約束が確かなものであるという事が、三つの確認によってなされます!その三つの確認とは下記の通りですが、それがそのままこの聖書箇所のアウトラインとなっています!
[1]マリヤとエリサベツの出会いによる確認(1:39-40)/次回
[2]胎児ヨハネの無言の預言による確認(1:41a、44)/次回
[3]エリサベツの預言による確認(1:41b-43、45)/次々回
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●今回のメッセージで取り上げた5人中の最初の4人は、そうそうたる信仰者として知られているように思いますが、私たちと本質的には同じだという事が分かります。信仰的に最も強い者として記されているバプテスマのヨハネでさえ、イエス様が本当の救い主なのかどうかを疑ったくらいです。ですから、私たちも自分の信仰を見て、「ああ、自分はダメだな」と片付けるのではなく、神は、時に疑いと失望を抱く私たちの信仰を励まし、確かなものとし、そして強めてくれるお方なのです!あるいは、マリヤのように頭で理解できない場合にも、神の側からしるしを示して、その信仰をより確かなものにしようとされる、実に恵み深いお方であるのです!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用しましょう。
●さて、ここで適用ですが、聖書が完成していない時代の信仰者たちに対して、神はしるしを持って彼らを励まし、その信仰を確かなものとし、そして強めて神の目的のために用いられました。しかし、二千年前に新約聖書が完成し、旧新約の全巻から神の御心を知る事ができる時代となりました。それ以降、神はしるしという方法ではなく、目に見えない御手によって摂理を働かせ、ご自分の目的である聖定へと私たちを導いておられます!ただ聖書の真理に沿って歩もうとした私たちに対して、私たちがその歩みを振り返った時に、「ああ、神はそのように私たちを導かれていたのですね」と神の見えない御手の働きに対して心から感謝する時代に生きているのです!ですから、新約聖書は、「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハ20:29)だとか、「見るところによってではなく、信仰によって歩(み)」(2コリ5:7)なさいとクリスチャンに勧めているのです!神は、あわれみ深い御手によってあなたの人生を日々導いておられる事に感謝を捧げたいのです!今回のメッセージを聞いて教えられた点を振り返り、自分の信仰を吟味する事を持つ事にしましょう。
【締めの御言葉】
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです(ヘブ11:6)。
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