メッセージ原稿/『神の赦し、人の赦し』シリーズ(9/最終回)/2016.03.06
『父よ。彼らをお赦しください。』
―復讐から被害者救済へ/真珠湾からゴルゴダへ― 《ルカ 23:34》
【序 論】
●『神の赦し、人の赦し』シリーズは、今回が第 9 回目で最終回です。ピレモンへの手紙自体は前回で終 了しましたが、最終回である今回は、前世紀に起こった事件と戦争を通して、「赦し」というテーマを取り 扱いたいと思います。
●日本人の歴史や文化の中には「敵討(かたきうち)」とか「仇討(あだうち)」という考え方が随所に刻まれていま す。古くは、日本書紀に記された紀元後 456 年の「眉輪王(まよわのおおきみ)の変」が、史料に残る最古の敵 討事件だとされています。また、民話の「さるかに合戦」にも、伝統芸能の「能」や「歌舞伎」にも、また時代 小説にも著されています。仇討ちは、江戸幕府によって合法化されました。敵討は決闘ですので、敵と される側にもこれを迎え撃つ正当防衛が認められており、殺害した場合は「返り討ち」と呼ばれました。 しかし、その法制度は、明治時代に入ってから禁止されました。
●仇討ちが禁止されてから約 150 年が経過しているのですが、その考え方はいまだに人々の心の 中に受け継がれています。というより、法律がどう変わろうが、人間の心の奥底には復讐心が罪の性 質としてしっかり根付いているという事が分かります。最終回のメッセージで取り扱う事件と戦争を通し て、人の復讐心と赦しそして赦しの源ついて探って行きたいと思います。
●下記のアウトラインの示す通り、最終回のメッセージは二人の人物の証しを通して取り次がれます。その 主題は、『父よ。彼らをお赦しください。』です。
【アウトライン】
[1]復讐から被害者救済へ/市瀬朝市氏
1)殺害された息子との仇討の約束
2)仇討から被害者救済への転換
[2]真珠湾からゴルゴタへ/淵田美津雄氏
1)マーガレット・ペキー・コベルとの出会い
2)ジェイコブ・デシーザーとの出会い
【本 論】 それでは、今回のメッセージの本論に入りましょう。
[1]復讐心から被害者救済へ/市瀬朝市氏
1)殺害された息子との仇討ちの約束
●一番目の人物である市瀬朝市氏を取り上げましょう。昨年 12 月 3 日の「奇蹟体験!アンビリーバボー」
というテレビ番組で、神奈川県横浜市鶴見区で起きた理由なき殺人事件が取り上げられていました。(続く)
―1―
どういう事件かと言いますと、1966 年(昭和 41)5 月 21 日、市瀬清さん(26 歳)が仕事を終えてから釣 堀へ行き、その帰りに包丁で刺されて間もなく死亡するという事件が起こりました。両親は、未明に警察 から連絡受けて病院に駆け付けました。父親に対して、「オレ死ぬのかな。親父。悔しい、かたきを討って くれ。」と清さんが訴えました。すると、父親は「お前のかたきはオレが取ってやる」と約束をしました。
●清さんが市瀬家に生まれたのは結婚から 7 年後で、子どもは彼だけでした。念願の子供で、その溺愛 振りは相当なものでした。父の教えには素直で、母に優しいという自慢の子だったそうです。高校卒業後に、 父親の経営する鉄工所を手伝うという跡取り息子でした。26 歳で婚約し、その年の秋には結婚式を挙 げる事にしていました。その家族の幸せが奪われたのは、それから 2 ヶ月後の事でした。
●後日逮捕された少年は、清さんとの面識のない 19 歳の少年でした。その驚くべき犯行の動機は、 次の言葉の通りでした。
会社の同僚に、お前は意気地なしだと言われたのですよ。日頃オレをコケにしていたんですよ。オレみた いな奴には虫も殺せないだろうって。だから、一層の事、人を殺して見返してやろうと思ったんですよ。只、 あいつは運が悪かっただけですよ。
●その犯行動機にはらわたが煮えくり返った父親の朝一さんは、第一回公判が開かれた法廷に向かう通 路で、隠し持っていた包丁を取り出し、両脇を法務官によって固められた犯人を目がけて突進し、文字通 り仇討を決行したのでした。妻が叫ぶ中、事件以来親しくしていた新聞記者が後ろから止めに入ったお蔭 で、仇討ち殺人事件になる事はありませんでした。
●犯人を法廷へ送り届けて戻って来た法務官は、次のように朝一さんへ語りました。「そんな事をしたら、ど ういう事になるかお分かりですよね。私は何も見ていませんから。傍聴されるなら、早く中へ。」、と!刑務官 の好意で、朝一さんは、その後の公判を見届ける事ができました。そして、最終的に出た判決は、少年法 により、「被告を懲役 5 年から 10 年以下に処する」というものでした。現在の少年法では、10 年から 15 年以下あるいは 20 年以下になるものと思われます。
2)仇討から被害者救済への転換
●朝一さんと同じ境遇の人を新聞記者の方によって紹介されて話しを伺う内に、今までは犯人を憎む 事しかできなかった彼の心に大きな変化が起こります。被害者の遺族会を結成して、皆で手を取り合 って「殺人のない世の中を作ろう」、「世直しをしよう」という思いが生まれて来ました。そして、新聞に理由 なき殺人事件の記事が掲載される度にその家族を訪れ、会の結成を呼び掛けて行きました。しかし、その ような思いは、被害者遺族にはなかなか届きません。自分の最愛の人を失ったばかりの遺族に対して、被 害者遺族の会なんて考えるゆとりなんてありません。そこで、彼は、やみくもに訴えるのではなく、理由な き殺人に対してどのような法律が適用されているかを学ぼうと考えました。そして、六法全書をはじ め、法律の本を取り寄せて学んで行きました。と同時に、被害者家族を訪ねて気づかされた大切な 点は、加害者から賠償を受けられずに、悲惨な生活を送っているという現実でした。
―2―
●その当時、ひき逃げなどの交通事故、旅客機墜落事故、炭鉱の爆発などの労働災害、公共の場の
安全上の不具合による怪我など、当の責任者や国によって補償金が支払われる法律がありました。
しかし、殺人など犯罪による被害者補償は、殆ど考えられていませんでした。それで、残された遺族の
生活を守るため、遺族の人たちと手を取り合って、国に訴えて法律を作ってもらえるよう働き掛け
る事にしたのです。被害者補償に関する法律を作る事を、朝一さんは新たな仇討と決めたのでし た!そしてここまで来て、どう犯人を憎んでもどうしようもないという事を悟ったのでした!
●事件から一年後に、殺人事件の遺族会を発足させ、28,962 名の署名を集めて国に提出しました。 役人からの返事は、「ご意見は伺っておきましょう」と片付けられました。それでもめげずに、翌年から全国を 回り活動を続け、6 年間で一千の遺族を訪問しました。しかし、遺族の反応はというと、「あなたは金儲け のためにしているのでしょう」とか「あなたは選挙にでも打って出るつもりでしょう」と言われました。国か らは見捨てられ、遺族からは中傷され、また無理がたたって緑内障が悪化して視力を殆ど失ってしまい ました。それからは、奥さんが目となって、二人三脚で全国を回る事になりました。交通費は、息子との思 い出が詰まっている鉄工所を売却して工面しました。
●それから、日本でテロ事件が発生するようになり、過激派による三菱重工業ビル爆破事件で 8 名の死 者が出、犯罪被害者補償制度の確立を求める声が高まり、とうとう国を動かして行くようになりま す。時の稲葉法務大臣が、「犯罪による被害者補償制度を持たぬとは、文明国の恥である。急ぎ立 法化する。」と宣言するようになりました。それから、衆議院法務委員会へ朝一さんが招かれ、犯罪被害 者補償問題についての意見を求められ、それが国会の議事録に残されたのでした。何と、それは、息 子を失って 9 年後の事でした。
●それから一年後、疲労のために心臓病を患い、1997 年 1 月 16 日に亡くなります。享年 66 歳でし た。それから三日後に、国が律法化のため本格的に動き始めて予算を組んだのでした。そして、 1980 年に「犯罪被害者給付金支給制度」が律法化されたのでした!その時は、死亡遺族に対して 五百万円が支給される事になりました。過去にさかのぼって支給はされませんでしたので、亡き朝一さんに は感謝情だけが送られる事となり、奥さんがそれを受け取ったのでした。そして、現在、被害者死亡の場合 は遺族に三千万円、また被害者障害では、本人へ最高で四千万円が支給される事になりました。その 後 2007 年に、奥さんは 97 歳で亡くなられました。この番組は、次の言葉で締めくくられました。「市瀬家 の血は途絶えてしまいましたが、法として今も世の中を見守っている」、と!
[2]真珠湾からゴルゴダへ/淵田美津雄氏
―真珠湾攻撃と淵田美津雄氏―
●二番目の人物である淵田美津雄氏を取り上げましょう。日本が直接関わった前世紀の戦争を取り上 げましょう。1941 年 12 月 7 日、日曜日、午前 7 時 55 分、日本軍は(350 機の爆撃機を要して)、 ハワイの真珠湾のアメリカ合衆国海軍基地に奇襲攻撃を仕掛けました。二時間にも満たない間に、 2,403 名に及ぶアメリカ兵士、船員、そして市民が殺し、また 1,178 名が負傷しました。また、アメリカ軍 は、188 機の飛行機、また主要な艦船を失い、アメリカ合衆国太平洋艦隊は壊滅的な打撃を受けまし た。
―3―
●この真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けた日本軍の飛行連隊の総飛行隊長が、37 歳になる淵田美津雄と いう人物でした。奈良県出身の海軍大佐でした。彼は、ドイツの独裁者アドルフ・ヒットラーを心底尊敬 し、ヒットラーは、彼のアイドル(偶像)そのものでした。彼が操縦していた戦闘機は、アメリカ軍の地上砲 火によって被弾していたものの、彼はこの奇襲攻撃の中で生き延びました。皆さんもご存じのように、この真 珠湾攻撃によって、アメリカ合衆国は、太平洋戦争に突入する事になります。そして、究極的には、ア メリカのこれまでの爆弾と新しく開発された核爆弾によって日本本土を攻撃し、それまで世界が経験 した事のなかった壊滅的な打撃を与えたのでした。
●戦後、淵田美津雄は、自分が目撃したあらゆる戦死者の記憶によって悪夢にうなされるようにな ります。彼は安堵感を求めて、大阪近郊で農業を始めました。そして、彼は次第に平和問題について考 えるようになり、その結果、彼は本を書く事を決断します。本の題名は、「真珠湾はもうごめんだ」 (“No More Pearl Harbors”)というものでした。そして、彼は、その本を通して世界が平和を追い求 めるようと強く願いました。しかしながら、彼は平和の基盤となる原則を見つけ出すのに葛藤し始 めます。淵田美津雄の物語は、真珠湾奇襲攻撃を生き延びたアメリカ海軍の下士官であったドナルド・ロ ッセンバーガー※1 によって伝えられていますが、それに私が調べた内容を加えて皆さんへお伝えします。
1)マーガレット・ペギー・コベルとの出会い ―アメリカの日本人捕虜収容所での話/コベル宣教師夫妻のフィリピンでの話―
●淵田は、戦争捕虜たちからの証言やその収容所での証言に大きく心が動かされた事を伝えてい ます。これらの出来事は、彼が探し求めていた平和の基盤となる原則が何なのかを伝えていま す!
●最初の報告は、彼の友人の一人から聞く事になります。その友人は戦争捕虜として、アメリカの 捕虜収容所に収容されていました。軍人としての彼の位は中尉でした。淵田はその友人の名前を日 本の新聞で見つけました。戦争捕虜リストに記されており、収容所のアメリカから日本に帰国するとい う記事でした。淵田はその人と会う事を決め、帰国後に彼を訪ね、二人は多くの事を話し合いました。 淵田は、自分の思いの中で第一にあった事を彼に尋ねました。それは、「アメリカ人は、あなたを戦 争捕虜収容所でどのように取り扱いましたか?」、という問い掛けでした。すると、彼は、日本人捕虜 は精神的な苦痛の中を通されはしましたが、アメリカ人たちは自分たちを公平に取り扱ってくれたと 答えました。そして、彼は淵田に対して、自分自身も含め他の日本人捕虜全員がとても印象に残っ た話しをしてくれたのです。彼は、「私が“葬られた”収容所で、ある事が起こったのです」と言うので した。それは、「収容所にいる私たちが自分たちの持っている全ての恨みや憎しみを通り越して赦 す心に変えられて行く、前向で快活な心に変えられて行った」という経験でした!
●その収容所に、二十歳くらいの若いアメリカの女性が定期的に訪れ、彼女が私たちにできるいろ いろな事をしてくれたというのです。その女性は、マーガレット・“ペギー”・コベルという名前でした。彼女 は、雑誌や新聞などという、日本人捕虜が楽しめるものを定期的に持って来ました。(続く)
―4―
囚人の病気を介抱してあげたり、いろいろな面で行き届いた、途切れない援助をずっとしてくれ たというのです。ところで、彼女がなぜこんなにも日本人捕虜に対して思いやりを持ってお世話し てくれるのかと彼女に問うた時、その答えに対して、捕虜たち全員が物凄いショックを受けたの でした。彼女は、私たちに対して次のように答えました。「なぜなら、私の両親は日本兵によって殺さ れたからです」、と!
●このような内容の発言というのは、どのような国や社会や文化の中に育った人にとってもショッ クを与えるものです。それは、勿論、日本人にとってもその通りです。日本では、敵討や仇討を法的 に容認していた国の背景があるからです。日本の社会でも、自分の両親が殺されるほどひどい事 件はないと考えています。ペギーは、自分がここに来ている動機を説明しようと試みました。彼女 が言うには、自分の両親は、1919 年から 20 年間にわたって日本で宣教して後に、太平洋戦争が 忍び寄る中で国外追放されました。アメリカ本国へはペギーと妹の二人を帰国させ、自分たちはフ ィリピンでの宣教師を続けました。日本軍がアメリカの植民地であったフィリピンに侵攻して来た時、 彼女の両親は他の 9 人の宣教師たちと共に、身の安全のためにルソン島の北に逃れました。
●ところが、ふもとの村で、地元のフィリピンの女性と子どもたちが日本軍に捕らわれ、首をはねられて 処刑されるという噂が入ってきましたので、コベル夫妻は、何のためらいもなく日本軍の前に出て行 きました。そして、流暢な日本語を使い、日本軍に対して、女性と子どもを処刑すべきではないと 必死で訴えました。ところが、コベル宣教師のカバンの中に携帯型のラジオが入っていましたので、 アメリカのスパイであるという疑いが掛けられ、どんなに説明をしても受け入れられる事はありませんで した。そして、ついに、11 人のフィリピン人の女性と子どもたちと一緒に、コベル夫妻も首をはねられ 処刑される事になってしまいました。※2
●日本兵から、「お前たちはこれから処刑されるが、30 分だけ猶予を与えるから、最後にこの世の 別れを惜しむがよい」と言われ、コベル宣教師夫妻は、聖書を取り出し、新約聖書のマタイの福音書 5-7 章に記されている山上の垂訓の箇所を 1 節ずつ交読しました。それから、二人で一心に祈りました。 ※3 山上の垂訓には、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(5:44)とありますので、コ ベル夫妻は、日本兵の赦しと日本人の救いとを祈ったに違いありません!
●娘のペギーに対しては、両親の運命がどうなったのかについては、戦争が終わるまで伝えられる事はあ りませんでした。両親の死がペギーに伝えられた時、彼女の最初の反応は物凄い怒りと憎悪に溢 れました。彼女は、悲しみと憤りとで怒り狂いました。死刑に臨んだ時の両親に思い寄せた時に、 大きな悲しみで包まれてしまいました。ペギーは、捕らえられた時の両親を想像してみました。全く 日本軍のなすがままにされて、逃げ場がありません。ペギーには、兵士たちの情け容赦のない残忍な姿 が見えました。彼女には、日本軍の死刑執行人たちを目の前にした両親が見えました。そして、遠くフィ リピンの山中で息絶える両親の姿が見えたのでした。
―5―
●それから、ペギーは、両親の日本人に対する真実の愛について考え始めました!そして次第に、 神が両親に愛し仕えるよう召された日本人を、両親が赦した事を確信したのでした!それで、 ペギーは、もし自分の両親が死刑執行人たちに対する苦々しい思いや憎しみを持たずに死んで 行ったのなら、自分の態度が両親の態度と違ったままでいるべきなのか、と問われたというので す!両親が愛と赦しに満たされていたのに、自分は憎しみと復讐心とに満たされているべきな のか、と問われたというのです!彼女にとって、「そうであって全くいけない」という以外の答えは ありませんでした!それゆえ、彼女は愛と赦しの道を選んだのでした!彼女は戦争捕虜収容所 のすぐ側で日本人の捕虜たちに仕える事を決心し、それが彼女の真心だという事を証ししたの でした!
●淵田美津雄はこの話に心を打たれました!そして特に、この話しを通して、自分が求めていた平 和の基盤となり得る十分な可能性を秘めている原則がそこにあるのだという強い思いに駆られ ました!もしかしたら、この原則が、自分が求めていたものなのかも知れないという手応えを感じ ました!それは、赦しの愛、神から人に流れそして人から人に流れて行く愛です!もしかしたら、 今手掛けている「真珠湾はもうごめんだ」(“No More Pearl Harbors”)という本の原則とすべき ものではないのかという感触を得たのでした!
2)ジェイコブ・デシーザーとの出会い
―デシーザー、B-25 爆撃手から日本の宣教師へ、淵田氏との出会いから―
●その後間もなく、淵田美津雄は、太平洋戦争で連合国軍最高司令官を務めたダグラス・マッカー サー陸軍元帥に召喚されて東京へ赴きます。彼が澁谷駅に降りた時に、「私は日本の捕虜でした」 というトラクトを手渡されます。その中に、アメリカ軍の軍曹であったジェイコブ・デシーザーという人 物が、日本の刑務所の独房の中で 40 ヶ月間も過ごしていたという事実を知りました。戦後になって、 彼は、日本の人々がイエス・キリストを知る事ができるようにという願いのもとに、日本人を愛し また日本人に仕えるために日本に戻って来たのでした!
●淵田は興味深くそのトラクトに目を通しました。デシーザーは、1942 年 4 月 18 日、アメリカ海軍の 航空母艦から東京を爆撃するために飛び立った 16 機の B-25 の爆撃手の一人でした。一機たりとも 撃ち落とされる事はありませんでしたが、全てが着陸する前に燃料切れとなり、飛行機を手放して落下 傘で脱出するしかありませんでした。デシーザーを含む乗組員五人が、当時日本軍に占領されていた 中国の地に降り立ちました。翌朝、彼らは捕らえられ、戦争の間収監されたのです。
●デシーザーは、全ての捕虜がひどい扱いを受けていましたと語っています。デシーザーは、ある日の 事ですが、日本人の守衛に向かって猛烈な憎しみが湧いてきて、自分は気が狂うのではないかと 思う程でした。それで、数日後、守衛が捕虜たちに一冊の聖書を持って来たそうです。その収容所 は独房での監禁ですので、捕虜たちは聖書を回し読みしました。デシーザーの番が回って来た時に、彼 は聖書を三週間自分の手元に置く事ができました。彼は、旧新約聖書を、むさぼるようにして猛烈
に読みました。そしてとうとう、彼にとって、1944 年 7 月 8 日、救いの奇蹟が起こりました! ―6―
●デシーザーは、次のような決断をしました!もし、戦争が終わるまで自分が生きていたら、そして もし自分がこの収容所から解放さるたのなら、自分はアメリカ合衆国へ戻り、ある一定期間を 聖書の学びに費やし、そして日本に戻ってからイエス・キリストのメッセージを日本人と分かち合 うんだと!神はその事を許され、彼は、文字通りそのように実行しました!何と、爆撃手から宣 教師に変えられたのです!多くの日本人が彼の話を聞きに集まって来ました。そして、多くの 人々が、イエス・キリストを信じ受け入れる招きに応えたのでした!
―淵田氏、デシーザーと彼の信仰の全てを学ぶ決心をする!―
●淵田はこの話に深く印象付けられました!この話を通しても、再度、愛は憎しみに打ち勝つ のだという事を学びました!彼は、赦しの力が実際に人々の心と人生を変えるのだという事を 感じました!これがまさに、自分が今取り掛かっている本の原則となり得るには十分であるとい う手応えを感じたのでした!淵田は、デシーザー宣教師と彼の信仰に関する全てを学ぶ事を決 心しました!
―「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ 23:34)が真に迫る!―
●淵田美津雄がマッカーサー司令官の召喚を終えて東京を離れる時、電車の駅で、彼は日本語の新 約聖書を手に入れました。二、三ヶ月後、彼は聖書を一日に二章から三章を読み始めました。そして、 1949 年 9 月、淵田がルカ 23 章に差し掛かりました。彼にとっては初めての十字架刑の話でした。
●カルバリの十字架の光景は、淵田美津雄の霊を突き刺しました!このルカの只々麗しくまっ すぐな言葉が真に迫って来ました!死が迫る真っ只中で、キリストは、「父よ。彼らをお赦しくだ さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られました!涙が淵田美津雄 の目に溢れて来ました!彼は、「長い、長い求道の人生」の終着駅に到達していたのでした!
●確かに、これらの言葉が、デシーザーやペギー・コベルが示した愛の源でした!イエス様が十 字架に磔(はりつ)にされた時、イエス様はご自分を迫害する者のためだけに祈られたのではなく、 全ての人々のために祈られたのでした!イエス様は、淵田美津雄のために祈られそして死にま した!同様に、現在の日本人全てのために祈られそして身代わりの死を遂げられたのです!
―「真珠湾からゴルゴタへ」―
●淵田美津雄がルカの福音書を読み終えるまでに、彼は主イエス・キリストを受け入れました!そし て、彼は取りかかっていた本を書き終え、その本の表題を「真珠湾からゴルゴタへ」と付けたのでし た!「ゴルゴタ」とはイエス・キリストが十字架に磔にされた「どくろの地」という意味のヘブル語です(ヨハ 19: 17)。ラテン語や英語で「カルバリ」と言います。彼が手紙などにサインをする時にはいつもその下に、彼の生 涯の聖書の節であるルカ 23:34 の御言葉を記します。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしている のか自分でわからないのです。」、と!
●その後のストーリーですが、淵田は米国籍を取得します。今、淵田の子ども家族がサンフランシスコに住 んでいます。かつて多大な損害を与えた敵国の国籍を取得したのです!その国籍を被害国の米国 が与えたのです!よっぽど淵田を信用したからに他なりません!淵田美津雄は、キリストにあって全 く変えられたのでした!ここにキリストにある救いの希望があります! ―7 ―
―小結論―
●赦しは、世界に影響を与える物凄い力をもっています!神はそれをご存じで、使徒パウロも知っ ておられ、またピレモンも知る必要がありました!聖霊なる神は、全ての人がその真理を知る必要 があるという事を知っておられましたので、この素晴らしい小さなピレモンへの手紙を新約聖書の 中に加えられたのでした!この手紙のメッセージを、私たち一人ひとりが心に受け入れる事ができ るよう祈ります!また、私たち一人ひとりがこの手紙のメッセージを必要としている他の人々に届け られるようにも祈るものです!※4
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●『神の赦し、人の赦し』の最終メッセージでは、二人の人物を取り上げました。一人目が市瀬朝市氏 で、復讐から被害者救済へ生き方を変えました。それによって国が動いて法律ができ、多くの被害者が 救済されるようになりました。二人目は淵田美津雄氏で、大多数の人間の命を奪った真珠湾攻撃の総飛 行隊長でしたが、キリストの赦しの愛によって動かされた二人のクリスチャンの証しを通して、神の赦 しを宣言する伝道者に変えられました!赦しの愛、それは神から人に流れそして人から人に流れ て行く愛を意味していました!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを適用しましょう。
●あなたは平和の基盤である赦しの原則をしっかりと心に刻みつける事ができましたか?赦しの愛 の原則とは、神から人に流れそして人から人に流れて行く愛だという事をしっかりと受け止めました か?そして、あなたもペギー・コベルやジェイコブ・デシーザーのように赦しの器として神と人とに仕え る事を心から願いますか?
【結論の御言葉】
父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです(ルカ23:34)。
[参考文献]
※1 ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/コロサイ人への手紙&ピレモンへの手紙』(ムーディー出版、 1992)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Colossians & Philemon, The Moody Bible Institute of Chicago, 1992, pp.232-235)
※2http://blogs.yahoo.co.jp/spoon_434/7775526.html
※3http://ameblo.jp/praise-the-lord/entry-11779709069.html
※4 ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/コロサイ人への手紙&ピレモンへの手紙』(ムーディー出版、 1992)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Colossians & Philemon, The Moody Bible Institute of Chicago, 1992, p.235)
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