「ピレモンへの手紙」講解説教(7)/メッセージ原稿/『神の赦し、人の赦し』/2016.02.21
『赦す者の動機!』
―赦しをもたらす六つの重要な動機(前半)―
《ピレモン19-25/今回は19-21》
【序 論】
―「コロンバイン高校銃乱射事件」―
●1999年4月20日、午前11時19分、アメリカコロラド州のジェファーソン郡のリトルトンいう人口4万人の小さな町にある郡立コロバイン高校で銃乱射事件が起こりました。45分間続いた銃の乱射で、生徒12名、教師1名が射殺され、負傷者24名、そして犯人の高校生2名が犯行後に自殺をしました。計15名の死者を出す惨劇となりました。17年前の事件ですが、昨年から4月から始まった『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』というNHK衛星放送で取り上げられた番組でした。
●私は以前にその事件については耳にしていましたが、昨年の5月12日の再放送を録画してその詳細を知る事ができました。事件から約17年の時が経過はしていますが、その精神的ショックの大きさから、いまだに多くの人々はその事件について口をつぐんだままです。その中から何名かの方々がその事件について口を開いてくれた中から、最初の犠牲者となった女子学生レイチェル・スコット(17歳)とその父親や遺族を通して発せられた貴重なメッセージを皆さんにお伝えしたいと願っています。まずは、プロジェクターで、5枚の写真を見る事にしましょう。
―女子学生レイチェル・スコットのメッセージとその家族の決断!―
●理不尽に奪われた娘の命。事件直後、犯人を憎む気持ちはスコット夫妻を心の闇に引きずりました。それから6週間後に、弾痕の残るレイチェルのカバンが遺品として両親の元へ届けられました。そのバックを見た父親のスコット氏は、はらわたが煮え返る程に彼らを憎いと思いました。心にあるのは怒りのみでした。「私は決して犯人の二人を赦す事ができないと思いました」と語っています。
●しかし、遺品のバックの中にレイチェルの日記がありました。その日記帳にも弾痕が残っていました。その日記には、人への優しさについての文章が綴られていました。「私はハッとさせられました」とスコット氏は語っています。そして、日記とは別に記されていたレイチェルの文章が、スコット氏の希望の灯となります!彼女は、その時17歳の高校生ですが、射殺される1ヶ月前に、「私の道徳律、私の人生の規範」(“My Ethics, My Codes of Life”)と題した文章を綴っています。その中の一文に次のような文言があります。「私の同情の定義は、他者を赦し、愛し、助け、導き、そして憐れみを示す事です。」(“My definition of compassion is forgiving, loving, helping, leading, and showing mercy for others.”)※1、と!スコット氏は、「レイチェルが赦す事を大切に思うなら、私も赦す努力をしなければならないと思うようになりました。私の家族はその道を選びました。」と語っています。そして、スコット氏は次のように語り続けます。「決して犯人を赦す事はできない。しかし、憎しみの連鎖を断ち切らなければ、亡くなったレイチェルの思いに応える事はできない。」、と。
―1―
―「レイチェル・チャレンジ」の始動!―
●そして、スコット氏は行動を始めました。事件から2年後、「レイチェル・チャレンジ」と銘打って、犯罪被害者などを支える活動を始めます。「『赦す』という感情の力は強いものです」と語り始めます!彼は次のような事も語っています。「子どもを殺され一生憎しみを抱えて生きる親にも会いました。それは辛い事です。私自身もそうでした。私は出会う人に、憎しみだけに囚われてはいけいない。子どもの人生を祝福してあげて下さい。」、と!スコット氏が家族と始めた「レイチェル・チャレンジ」は、今では毎年二千ヶ所を超える学校で講演するようになりました。その活動の輪は、アメリカに留まらず、世界15ヶ国に広がっているそうです。絶望の淵からスコット氏を救ったレイチェルの言葉は、今、国境を越えて多くの人々の心を動かし始めているのです!
―導 入―
●レイチェルの「私の道徳律、私の人生の規範」の中には、「福音の真理」という言葉が一ヶ所出てきます。また、レイチェルは三つのキリスト教会に通っており、その一つの「トゥリニティークリスチャンセンター」(“Trinity Christian Center”)で葬儀をしたと伝えています。※217歳のレイチェルの「私の道徳律、私の人生の規範」という文章の内容は「赦し」と「愛」で、聖書の教えに通じるものです。ちなみに、彼女の名前は旧約聖書に登場するヤコブの妻の名前ラケルです。父親のスコット氏は、当初、「決して犯人を赦す事はできない」とおっしゃっていましたが、「『赦す』という感情の力は強いものです」という思いに変わって行きました!スコット一家は、「赦しの道」を選んだのです!その聖書的なメッセージは、母国アメリカだけでなく、15ヶ国に及ぶ人々、特に赦せなくて葛藤して苦しんでいる人々を大いに励まし、彼らに希望の灯を与える運動に広がって行きました!
●私たちクリスチャンは、神の永遠に変わる事のない聖書の御言葉によって、明確に赦しについて学び知る事ができます!決して曖昧でなく、実に明確な赦しの指針を頂く事ができるのです!そして、最も力強い支えは、キリストの十字架による赦しという基盤がある事です!そして、赦しを実行に移す聖霊の力も与えられているという事です!自分が赦しを実践するだけでなく、信者・未信者を問わず、赦せなくて苦しんでいる人々を助ける神の器としてクリスチャンは召されています!
●私たちは、もう一度、ピレモンへの手紙の御言葉に心を向け、赦しの原則について学ぶ事にしましょう。今回は、特に『赦す者の動機!』に焦点を当てて、三回にわたって学ぶ予定にしています。メッセージの全体的な流れまた今回の流れは、次のアウトラインの通りです。
【全体のアウトライン】
[1]初めのあいさつ(1-3)/済
[2]赦す者の品性(4-7)/済
[3]赦す者の行動(8-18)/済
[4]赦す者の動機(19-25)/今回(3回)
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【赦の者の動機の全体アウトライン】
[4]赦す者の動機(19-25)
1)支払い不可能な負債を認識する(19)/今回
2)祝福となり得る事を認識する(20)/今回
3)従順の必要性を認識する(21)/今回
4)報告義務がある事を認識する(22)/次回
5)交わりを保つ重要性を認識する(23-24)/次回
6)恵みの必要性を認識する(25)/次回
【今回のアウトライン】
[4]赦す者の動機(19-25)
1)支払い不可能な負債を認識する(19)
ア)パウロによる自筆の手紙の意味(19a)
イ)ピレモンの支払い不能な負債の認識(19b)
2)祝福となり得る事を認識する(20)
ア)ピレモンが赦す事は喜びをもたらし益となる(20a)
イ)ピレモンが赦さない事は悲しみをもたらし益とならない(20b)
3)従順の必要性を認識する(21)
ア)ピレモンの主に対する従順を確信するパウロ(21a)
イ)ピレモンが言われた以上の事をすると確信するパウロ(21b)
【本 論】 それでは、今回のメッセージの本論に入りましょう。
[1]支払い不能な負債を認識する(19)
1)パウロによる自筆の手紙の意味(19a)
●パウロが筆記者にお願いして、自分の手紙を書いてもらうというは普通の事でした。当時でもまた今日でも見られますが、社長の代わりに筆記者が手紙を書いて、最後のサインもしくは追記は社長が「自筆」で書くというのは普通の事です。でも、パウロの場合は少し違います。パウロはサインだけをするのではなく、最後の挨拶を「自筆」で書くのでした。それは、コロサイ人への手紙や第二テサロニケ人への手紙にも見られます。もし、パウロがピレモンへの手紙の全部を書かなかったにしても、この19節から25節はパウロ自身の「自筆」という事になります。
●既に確認したところですが、18節で、パウロはオネシモのピレモンに対する負債を自分が弁償すると記しています。なぜなら、オネシモがピレモンの元から逃亡した時に、現金か金目の物を盗んでその逃亡費用にしたからでした。既に学びましたように、弁償(賠償)するという事は赦すプロセスにおいて重要な要素でした。(続く)
―3―
しかし、オネシモには自分の主人であるピレモンに返済する手段を持ち合わせていませんでした。そういう状況下で、19節の前半で、パウロが「自筆」で「私がそれを支払います」と書いているのは、パウロが金銭借用書に署名をしている事と実質的には同じ事を意味していました。このピレモンへの手紙が手渡された時に、パウロはローマの牢獄にいましたが、恐らくオネシモの負債を返済できる程のお金は工面できる状況にあったと思われます。なぜなら、ピリピ人への手紙を見ますと、パウロは、「4:16・・・あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。・・・4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。」(4:16、18a)と語っている事からも分かります。
2)ピレモンの支払い不可能な負債の認識(19b)
●19節の後半の御言葉に注目しましょう。棒線で挟まれているところです。「あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません」とあります。パウロは、実はピレモンに対して、とても重要な真理を思い出させようとているのです!どういう真理か推測できるでしょうか?それは、パウロはオネシモのピレモンへの負債を自分、パウロの勘定書(かんじょうがき)に入れ、そしてその負債を取り消すという意味で語っているのです!ええ、どういう意味でしょうか?なぜそのようにして、オネシモのピレモンへの負債が取り消され得るのでしょうか?ええ、なぜそれでピレモンが受けた損害が帳消しになるのでしょうか?そのような疑問が出てきて当然です。なぜそうなり得るかと言いますと、ピレモンがパウロに対してより大きな負債を持っているからなのです!
●つまり、こういう事です。ピレモンが「今のようになれたの」は、すなわち豊かな神の恵みと祝福を受けたのは使徒パウロのお蔭です!オネシモはピレモンに対して物質的な負債を負っていますが、ピレモンは使徒パウロに対して霊的な負債を負っている事を示唆しています!(パウロを通して与えられた恩義は、お貸しする事のできない負債と同じ事を指しています。)オネシモはピレモンに対して一時的な負債を負っているのですが、ピレモンはパウロに対して永遠の負債を負っているのです!パウロはピレモンに福音を分かち合い、彼をイエス・キリストの救いの知識に導きました!その霊的負債は、ピレモンが決して返済する事のできないものであるという事を示しています!
●この霊的原則は、私たちクリスチャンへ適用する事ができます!誰かが私たちに害を与え、それによって負い目(負債)を抱えた時、私たちは自分たちが他の人々に対して負債を抱えているという事を思い出すべきです!クリスチャンである全ての人は、その人生において、自分たちに対して霊的に益を与えた多くの人々を持っています!その人々に対する霊的な負債を、私たちは決して返済する事はできません!私たちは彼らに対して、負債を抱えたままでいるのです!
●私の尊敬するジョン・マッカーサー牧師は、この霊的原則を自分に適用して次のように述べています。
私は多くの方々に対して負債を負っています。私は、私をキリストに導き、私に御言葉を教え、そして私を神学校へ行く事を励ましてくれた私の敬虔な両親に対して負債を負っています。私は、私を支えてくれ、私の必要を満たし、私を教育してくれた両親に負債を負っています。また、私を成長の過程で躾け、訓練し、そして私の行動や態度に対して霊的に責任を取って見守ってくれました。
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私は、自分の人生において、妻が与えてくれた友情、愛、支え、知恵、様々な意見に対して負債を負っています。私は、自分に対して親切にし、思いやり、気を遣ってくれ、また私がお願いした事に対して応えてくれた私の子どもたちに負債を負っています。
私は、私に働き掛けてくれた多くの友人たちに対して負債を抱えています。私は、大学や神学校時代の教授たちに対して、また私を教えてくれた書籍を書いてくれた多くの著者たちに対して負債を負っています。私は、私と共に働きを進めている方々や同僚の牧師たちに対して負債を負っています。私は、私を支え、励まし、そして交わってくれる教会の信徒の皆さんへ負債を負っています。※3
●多くの人々に対して多くの負債を負っている私たちは、私たちに対して負債を負っている他の人々を素早く赦すべきなのです!到底支払う事のできない霊的に豊かな富を私たちに与えて下さった人々は、その見返りを私たちに対して求めているでしょうか?何一つ求めていません!であるならば、私たちに一時的な負債を与えた人々に対して、私たちは赦す事ができないのでしょうか!?クリスチャンは互いに支払う事のできない負債を負い合っているという事を、決して忘れてはならないのです!
[2]祝福となり得る事を認識する(20)
●第一ポイントの支払い不能な負債を認識するという点に引き続き、20節の第二ポイントに進みましょう。祝福となり得る事を認識するです。
1)ピレモンが赦す事は喜びをもたらし益となる(20a)
●ピレモンは多くの人々にとって祝福となっていたという事が、7節に記されていました。「聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです」という言葉に表れていました。この20節で、パウロは、「兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです」と伝えて、ピレモンを通して祝福を求めています。この「益を受けたいのです」の「益」(“オニネーミー”)という言葉ですが、その言葉から「オネシモ」という名前が派生しています。ですから11節でも見られましたように、パウロはここでも、「オネシモ」と「益」という二つの言葉の語呂合わせをして語っていると思われます。オネシモを赦す事によって、実は、ピレモンはパウロに対して「主にあって・・・益」を与える事ができるのです、と伝えています!なぜなら、ピレモンがオネシモを赦すという事は、コロサイ教会に対して従順と愛の良いお手本となり、それがパウロに喜びをもたらすからです!
●パウロはピリピの教会に対して、「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」(ピリ2:2)と強く願いましたが、このパウロの心はピレモンやピレモンが属するコロサイ教会に対しても同じく強く願っている事です!ピレモンがオネシモを赦す事によって、コロサイ教会の一致が保たれますし、それはパウロに大きな喜びをもたらします!そのようにして、ピレモンは、使徒パウロの「心をキリストにあって、元気づけ(る)」事ができるのです!
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2)ピレモンが赦さない事は悲しみをもたらし益とならない(20b)
●それでは逆に、オネシモを赦さないとなるとどういう影響をもたらすでしょうか?当然、それは、使徒パウロの心を悲しませる事になります。なぜなら、パウロはこの二人を心の底から愛しているからです。また、ピレモンがオネシモを赦さないという事は、この世に対するコロサイ教会の証しを台無しにしてしまいます。クリスチャンと言えども、人を赦す事ができないと非難されます。赦しが喜びと祝福とを他のクリスチャンへもたらすという事を、私たちクリスチャンはよく認識すべきです!そして、それは、クリスチャンに赦す事を動機付けます!
[3]従順の必要性を認識する(21)
●これまで、第一に支払い不能な負債を認識するという事、第二に祝福となり得る事を認識するという事、そして今回の最後のポイントですが、第三に、21節にありますように、従順の必要性を認識するという事について学びましょう。
1)ピレモンの主に対する従順を確信するパウロ(21a)
●パウロは、21節で、「私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました」と記しています。パウロはピレモンの二つの従順を確信していました。一つは救い主であるキリストに対する従順であり、もう一つは霊的指導者であるパウロ自身に対する従順です(8)。ここでパウロは、キリストに従う必要性について再度ピレモンへ確認をしています。キリストに従う事がどのようなものなのかについてパウロが記してはいないのは、4節から7節の間に見られましたように、ピレモンがとても敬虔な信仰者でしたので、間違いなく彼は前向きな応答をするに違いないと「確信」していたからでした。
●しかし、メッセージを聞いておられる会衆の皆さんの益のために、赦しに関してピレモンがどういう点でキリストに対する「従順」を「確信」していたのかについて、ここで簡単に復習しておきましょう。ピレモンは、自分が属している教会の牧師によって聖書的な赦しの教理についてはよく教えられていました。マタイ6章のイエス様の赦しの教えに記されている通りに、信仰者への神の赦しは、信仰者が他者を進んで赦す事によって与えられるものであるということでした!そしてまた、ピレモンは、赦しには制限を付けてはならないという主の教えを知っていました。「七を七十倍するまで」赦しなさいというお言葉に表されていました(マタ18:21-22/ルカ17:3-4)。更に、ピレモンは、使徒パウロによる赦しの教えについてもよく知っていました。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」という言葉に表れていました(2コリ2:7/エペ4:32/コロ3:13)。このように、ピレモンは主の赦しなさいという命令をよく知っていましたので、パウロはそれらをここで繰り返し教える必要はなかったのでした。
2)ピレモンが言われた以上の事をすると確信するパウロ(21b)
●21節の後半で、パウロは、「私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです」と記されています。ある人は、このパウロの言葉を次のように解釈します。「オネシモが奴隷から解放される事だ」、と。しかし、そのように決めて掛かる正当な理由はどこにもありません(16)。ここで言うパウロの「言う以上のことをしてくださる」事とはどのような事なのでしょうか?(続く)
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それはまず、ピレモンがしぶしぶオネシモを迎えるのではなくて、ルカ15章に記された放蕩息子のお父さんのように両手を広げて迎えるというという事を指していると考えられます(ルカ15:22-24)。また、ピレモンがクリスチャンとなったオネシモを自分の傍らで共に主の働きをする事であり、また依然と同様に奴隷のする仕事にも変わりなく就いてもらうという事です。そして更に、パウロは、オネシモ以外の人々がもしピレモンに悪い事をしていたなら、その人々をも含めて赦すように願った事だとも考えられます。
●すなわち、ピレモンは「強制されてではなく、自発的に」(14)赦すという事、また律法だから赦すという事ではなく、また恐れから赦すという事でもなく、むしろ愛によって赦しを命じておられる神に従うという動機を持ってオネシモを迎えて欲しいという事を、パウロは言わんとしていました!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●今回は、『赦す者の動機!』の前半の三つの点ついて学びました。一番目は、全ての人が支払い不可能な負債を互いに負っているのだという事を認識し、自分たちに危害を加えた人を赦す必要があるという事でした。二番目に赦しは人々に喜びをもたらす祝福となりまた益とるという事でした。三番目にキリストに対する従順、聖書に対する従順、そして指導者に対する従順は、自ずと赦しの道を選ばせるという事でした。赦しは、強制でもなく、律法だからでもなく、恐れからでもなく、愛によって赦しを命じておられるキリストに従うという動機が大切であるという事を学びました。
【適 用】 それでは、今回のメッセージを適用しましょう。
●皆さん、いかがでしょう、あなたは全ての人が支払い不可能な負債を互いに抱えているという事実を認識できましたか?その認識は、あなたを赦す事を動機付けるという事を理解できましたか?また、赦しは人々に喜びという益をもたらす祝福なのだという事を認識する事は、赦す動機付けになるという事を理解できましたか?そして最後に、赦しの動機は、愛を持って赦しを命じておられるキリストに従う事からくるのだという事を理解できましたか?それでは、この三点を振り返りながら、自分自身を吟味する祈りの時を持ちましょう。
【結論の御言葉】
3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい(コロサイ3:12-13)。
[参考文献]
1http://www.nisdtx.org/cms/lib/TX21000351/Centricity/Domain/2761/Rachel%27s%20Challenge%20Essay%20and%20Assignment.pdf
※2https://en.wikipedia.org/wiki/Rachel_Scott
※3ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/コロサイ人への手紙&ピレモンへの手紙』(ムーディー出版、1992)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Colossians & Philemon, The Moody Bible Institute of Chicago, 1992, p.227)
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