「ピレモンへの手紙」講解説教(5)/メッセージ原稿/『神の赦し、人の赦し』/2016.01.31

ピレモン

『赦しに関する聖書の八つの根本的な教え!』

―聖書的な赦しまた赦さない事の聖書的な意味を問う― 《ピレモン 8-18/今回は 8-9/他》

【序 論】 ―岡田師の赦しのメッセージを振り返って―

●先週、日本聖書学院の学院長である岡田先生が、『躓きを避ける人』という主題で、ルカ 17:1-10 か ら赦しに関するメッセージを取り次いで下さいました。つまづきが起こる事は、罪人にとっては避けられな い現実であり、つまづきを与える者は「わざわい」(17:1)であり、殊に救いを妨げるためにつまずか せる者に対しては、死んだ方がましであるとさえイエス様は警告されました。そして、その解決に当り、つ まずきを与えられた側は、その相手を何度でも赦す覚悟を持ってその事実を告げ、その罪を認めて 悔い改めるのなら赦し、それによって互いの間にキリストにある一致を保つ事の大切さを学びまし た!本当に救われているクリスチャンであるなら、イエス様は、その信仰が「からし種」(17:6)のよ うに小さなものであっても赦す事ができ、赦しはクリスチャンにとって「なすべき」(17:10)当然な事 であるということを語られました!

―被害者が加害者へ出向いて告げる―

●教会内で罪を犯した者をどう取り扱うべきかについては、マタイ 18:15-18 に記されています。岡田師 のメッセージの中でも語られていましたが、被害者側から加害者側へその罪について確認をし、加害者 側からの悔い改めと謝罪を受けて、被害者側からはその罪を赦し、それによってキリストにある一 致を保つ事の大切さを学ばせられました!メッセージを聞き逃された方は、是非、そのメッセージを聞か れる事をお勧めします。赦しについて、必ずや目が開かれるに違いありません!

―教会内の人間関係の現状―

●このような聖書的な取り扱いが、果たしてどのくらいのキリスト教会で行われているでしょうか?私 の経験からしますと、被害者が怒鳴り散らして加害者との関わりを断って教会を離れたり、あるいは罪 が発覚した加害者が姿を消したり、あるいは被害者がその受けた傷をひたすら我慢して教会生活をし ていたりです。被害者が冷静に加害者と話し合い、悔い改め、謝罪、赦しという聖書的なステップを 踏んで問題を取り扱っているというケースはまれであったという事を報告せざるを得ません。

―日本国内の人間関係の現状―

●特に、人間関係における日本の慣習の中では、個人対個人の関係で、被害を受けた旨を率直に言 葉で伝え、その関係を修復するという事には前向きではありません。それ以上関係を持たないよう距 離を空けて行きます。一度の失敗や罪で関係を終わらせてしまいます。(続く)

―1―

赦さない、これ以上面倒くさい事になりたくない、これ以上ややっこしくなりたくない、うやむやのまま にしておきたい、もう終わりにしたいという傾向が強いのではないでしょうか。そのような日本人の慣習 は、キリスト教会の中にも見られ、キリストにある一致を大切にするという事よりも、互いの面子を 保って聖書に従わないという現実がある事を認めざるを得ません。元々そのような慣習の中に育っ てきた人々がキリストへ回心しても、そのような非聖書的な壁を克服できないままにいるキリスト教 会の現状を示しているのではないでしょうか!

●それゆえ、第一にキリストへ本当に回心する事、第二に聖書を学び続けて霊的に成長する事、第 三に日々自分に死んで聖書の教えに従い続ける事、そして第四に神の家族が互いに助け合って聖 書に従えるよう励まし合う事の大切を強くおぼえます!

●さて、今回のメッセージは、引き続きピレモンへの手紙から取り次ぎます。その主題は、『赦しに関する 聖書の八つの根本的な教え!』です。前回のメッセージで、第一番目と第二番目を取り扱いましたので、 今回はその二つの要点を振り返って後に、第三番目から第八番目の赦しに関する聖書の根本的な教え を紐解く事にします。その八つの教えとは、次の通りでした。

1)赦さない罪は殺人罪と同じである(出エジプト 20:13/マタイ 5:21-22、22:39)/済 2)赦さない罪は神ご自身への罪である(詩篇 51:4/マタイ 18:21-35)/済 3)赦さないクリスチャンは神の赦しにあずかれない(マタイ 6:14-15) 4)赦さないクリスチャンは主の晩餐もまた聖徒の交わりも喜ぶことができない(マタイ 18:31) 5)赦さずに復讐を求める者は神の権威を奪うものである(ローマ 12:14、19) 6)赦さない心は神を礼拝するのにふさわしくない(マタイ 5:23-24) 7)赦さないことが誘惑となって罪を犯し、赦すことが試練となって益をもらす(マタイ 5:44-45) 8)赦しはそれが求められなくてもすべきことである(ルカ 23:34/使徒 7:60)

【本 論】 それでは、今回のメッセージの本論に入りましょう。/済
[3]赦す者の行動(8-18)
1)パウロのピレモンへの愛の説得(8-9)
(1)「こういうわけですから」(8)/済
(2)命令ではなくて愛によって(9)/済
(3)ピレモンが心得ていた赦しの原則(出エジプト 20:13/他)/今回(第三番目から第八番目) ―赦しに関する聖書の八つの根本的な教えー 1)赦さない罪は殺人罪と同じである(出エジプト 20:13/マタイ 5:21-22、22:39)/済/復習 ―「人を殺してはならない」という戒めと赦しの関係―

―2―

●それでは、赦し関する聖書の八つの根本的な教えの第一番目です。それは、赦さない罪は殺人罪と 同じであるという点です。この第一番目の教えは、多くのクリスチャンが気づいていない点だと思いま す。赦しについての重要な原則です!出エジプト記 20:13 の御言葉にまずは注目しましょう。「人を殺し てはならない」という十戒の第六番目の戒めで、多くのクリスチャンや未信者までもが知っている神の教えで す。しかし、その深い意味は多くの人々が理解していません。「人を殺してはならない」というのは言うまでも ない事ですが、多くの人々は「自分は殺人罪を犯してはいません」という反応が返ってきます。

●しかし、イエス様は山上の垂訓で、この十戒の六番目の戒めのより深い意味を次のように語られました。

5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われた のを、あなたがたは聞いています。 5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を 立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような 者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれ ます(マタイ 5:21-22)。

どういう深い意味なのでしょうか?神が、「人を殺してはならない」と命じられた時、それは単に肉体 を殺すという事に留めるものではなくて、憎む事、恨む事、怒る事、復讐する事、そして赦さない事 を含めて禁じている戒めなのです!

―悪事を働いた赦し難い人々にどう対応したらいいのでしょうか?(1)/「神のかたち」―

●さて、それでは、悪事を働いた赦し難い人々に対してどう対応したらいいのでしょうか?私たちは、次 の点を思い出さなければなりません。それは、赦しを必要としている人々は、全て神によって造られた者 たちだという事です!クリスチャンには神の命が宿っていますし、また未信者は少なくても神のかた ちに創造されました(そのかたちは大きく崩されてはいますが)。私たちは人々の中にある神のかたちの ゆえに、彼らを愛しそして彼らを赦す必要があります!そこに、神のかたちという畏敬の念があって 欲しいのです!人々を神のかたちに造られた者として見る事と、人々を赦さないという心とが取っ て変わってはならないのです!

●そして、もう一つ忘れてはならない事に、赦しを必要としている人の内には、同様に、赦す側の人と 同じ罪が宿っているという事です!という事は、赦す側の人にある同じ罪が、赦される側の人に悪を 行わせたのです!もっと端的に言いますと、赦す側の人の罪が、赦しを必要としている人に罪を犯さ せたのです!私たち人間には、相手の罪を赦す以外に最も良い方法はないのです!

―悪事を働いた赦し難い人々をどう取り扱うべきか?(2)/「あなたの隣人をあなた自身のように愛 せよ」―

●悪事を働いた赦し難い人々に対応するもう一つの方法があります。それは、イエス様が語られた「あな たの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタ 22:39)というお言葉を思い出すべきです!「あなた自身」とあり ますが、「私たち自身」の事ですね。どうでしょうか、私たちは、自分が失敗した時また悪事を働いた時、 いろいろな言い訳をして自分を素早く赦しませんか?!(続く)

―3―

自分にとって自分は赦しに値するものだと高く見ている証拠だと言えます!しかし、他の人々に対 してはそうたやすく赦せないのです!自分を赦す同じ赦しを他の人々にまで広げる事をしないので す!それを、聖書は自己中心と指摘しています!この自己中心は、自分へなされる無礼や侮辱を、 実際よりも大きく見せます!それほど、私たちは自己中心なのです!しかし、それとは反対に、へり くだって自己中心でない人々は、自分たちになされる無礼や侮辱を重大な事として見ないのです!

●この内容って凄いです!これが、成熟した信仰者の姿です!そのようなクリスチャン、教会員、そ してそのような成熟た信仰者が集まっている教会となる事が主の御心です!ですから、聖書の御言 葉で絶えず教えられながら、また訓練されながら、成熟へ向かう教会になって、来会される自己中 心的な生き方で人生を送って来た人々を導く魅力ある群れになりたいのです!これが、神の御心で あり、教会の課題でもあり、また願いです!

2)赦さない罪は神ご自身への罪である(詩篇 51:4/マタイ 18)/済/復習

●第二番目のポイントです。それは、赦さない罪は神ご自身への罪であるという事です!一番目のポイ ントに引き続き、赦しについての物凄い原則ですし、重要なポイントです!皆さん、全ての罪は、究極 的には神に対する罪だという事を理解していましたか?!ダビデ王が部下の兵士であるウリヤの妻バ テシェバとの姦淫の罪を犯した時に、それは、バテシェバ自身に対して、その夫に対して、デビで自身の 家族に対して、そしてイスラエル国家に対する罪でした。しかし、ダビデ王は詩篇 51:4 で、「私はあなた に、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」と告白しました!人々に対 して働いたダビデの悪事が何であろうが、ダビデ自身は、それを神に対するより大きな悪事だと理 解していました!

●さて、こころからが大切なポイントです。神は、私たちに悪事を働いた人々を赦しました!神にとっ ては、その悪事とは、私たちに対するいかなる悪事よりもより大きな悪事です!そこでいかがでしょう、 神が受けた悪事からくらべると、私たちに対するより小さな悪事に対して、私たちは赦す事ができ ないでいるのです!私たちは神よりも正し者ではなく、聖い者でもなく、またふさわしい者でもあり ません。それゆえ、私たちが下す判断が神よりも正しいものであるはずがありません!という事は、更 にどういう真理を私たちに突き付けているのでしょうか?それは、私たちが神を侮辱するように、誰も 私たちを侮辱する事ができる人はいないのです!私たち人間がそうではあっても、神は恵み深くま たあわれみ深く私たちを赦し続けているのです!

●他の人々を赦さない信仰者は、イエス様がマタイ 18 章で語られたたとえ話に出てくる邪悪なしも べに似ています。そのたとえの中に出てくる王は、膨大で到底支払う事のできない負債を帳消しにして 赦したのですが、その邪悪なしもべは、彼に対して少額の借金のある別のしもべを赦す事を拒みまし た。人々の私たちに対する無礼や侮辱と私たちの神に対する無礼や侮辱とは比べものになりませ ん!

―4―

●このたとえ話に出てくる負債額を、日当一万円として計算してみますと、私たちの神への罪の負 債額は六千億円(1 万タラント)となり、私たちの他者への罪の負債額は百万円(百デナリ)です。六 千億円と百万円とは比べる事のできる額でしょうか?!全く比べものになりません!私たちは六千 億円の罪の借金を赦されていながら、私たちに百万円の借金を負っている人を赦せないでいるので す!皆さん、この大きな違いを私たちはよく理解して、神に倣って赦す人生を歩まねばなりません!

3)赦さないクリスチャンは神の赦しにあずかれない(マタイ 6:14-15)

●第三ポイントです。赦さないクリスチャンは神の赦しにあずかれないという事です!このメッセージシリ ーズで既に上げた聖書箇所ですが、イエス様はマタイ 6:14-15 で、次のように言われました。「6:14 もし 人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 6:15 しかし、人を 赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」、と!人の罪を赦さない という事が、神との交わりを妨げるのです!神は信仰者を御自身の子として取り扱いますので、そ の赦さないクリスチャンを戒められます!これは、神の愛のゆえの懲らしめです!ですから、もし、ク リスチャンが悪意を持って赦さない事を喜んでいるのであれば、そのつけは必ず回ってきます!その 代償は高く付きます!私たちは、ご自分の子として戒めをなさる神を決して侮ってはいけません!

4)赦さないクリスチャンは主の晩餐もまた聖徒の交わりも喜ぶ事ができない(マタイ 18:31)

●第四番目のポイントです。赦さないクリスチャンは主の晩餐もまた聖徒の交わりも喜ぶ事ができな いのです!主の晩餐(聖餐式)は、イエス様ご自身が定められたものです。それは、まさに主の身代わりの 十字架による罪の赦しと死からの復活とをおぼえる儀式です!私たちが人の過ちや罪を赦さずに いながら、自分の過ちや罪の赦しを象徴する主の晩餐の儀式を心から受け取る事ができるでしょうか?!

●また、同様に、自分が人の過ちや罪を赦さずにいながら、他のクリスチャンとの交わりを心から喜 び楽しむ事ができるでしょうか?!本来なら、できないはずです!その点に関する御言葉の根拠があ ります。第二番目のポイントで既に見ましたが、イエス様が語られたマタイ 18 章のたとえ話に再び戻りますが、 六千億円というとてつもない額の借金を免除して許してもらったにもかかわらず、自分に百万円の借りのある 人との間で次のようなやり取りがありました。

18:28・・・同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞 めて、「借金を返せ」と言った。 18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、「もう少し待ってくれ。そうしたら返すか ら」と言って頼んだ。 18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた(マタ 18:28-30)。

......

●それで、次の 31 節で、「彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始 終を主人に話した」とあります。主人は、間違いなくその自分が赦されたにもかかわらず他のしもべを赦さな いしもべを戒められます。それは、教会戒規(マタ 8:24-27)を示しています。また、それはもう一つの事も意 味しています。(続く)

―5―

それは、信仰者の赦さない態度というものは、他の信徒たちとの関係を損ないます!そこに悲しみ が生じている事が、両者の関係が崩されている証拠です!他の信徒たちは、教会戒規(マタ 8: 24-27)を通して、神が彼を戒められるよう祈ります。いや、祈るべきだというべきかも知れません。 しかし、外面上は関係を保っておこうとする日本人は、「和を以て貴しとなす」という観念を誤って適応するク セがあります。私たちは外面上の関わりではなく、罪を犯した人に対して聖書的に正しく接するべき です。そういう意味で、赦さないという事は、私たちと神との関係そして私たちの他のクリスチャンと の関係を妨げてしまうという事なのです!

5)赦さずに復讐を求める者は神の権威を奪うものである(ローマ 12:14、19)

●第五番目のポイントです。赦さずに復讐を求める者は神の権威を奪うものであるという事です!パウロは、ローマ 12:4、19 で次のように語っています。

12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。

12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからで す。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

不正、悪事、無礼、侮辱、それら罪の「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は 言われ」ました!それゆえ、「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」と言われました! ですから、信仰者が赦さない事によって、大胆にも神の御手から神の裁きの剣を取ってしまい、その 剣を振りかざす事になるのです!そのような態度は何を意味していると思いますか?それは、神は正 しい方ではなく、神は無関心な方なので裁きをなされないと言っている事と同じです!しかし、その ような神への非難は、全て神への冒涜と言わざるを得ません!

●でも、良く考えてみて下さい。実際は、私たち自身が私たちに対してなされる悪事を取り扱うよりも、 神が遥かにそれらの悪事を取り扱う力があります!神は、私たちがどのような状況に置かれて悪事 を働かれたかを全て理解しておられるお方です!その状況に対する私たちの理解というものには 限りがあります!私たちがこの出来事はこうであるに違いないと思っていても完全な分析をする事 はできません!なぜなら、私たちは全知の神のように全ての状況を全て正しく把握する事はできな い不完全な者だからです!

●また、神は最終の権威を持っておられますが、私たち人間は持っていません!神には偏りがありま せんし、正しい理性によって判断をされますが、私たちは自分の関心に偏っています!神は全知で、 永遠なるお方であり、物事がどのように展開して行くのかを前もって知っておられるお方です!神 は知恵に富み、良いお方で、それゆえ全てを正しい目的のために行われるお方です!しかし一方、 私たちはしばしば自分の怒りによって物事が見えなくなるものですし、また私たちの目的も邪悪な となり得ます!それゆえ、私たちは復讐を神に任せなければなりません!

―6―

6)赦さない心は神を礼拝するのにふさわしくない(マタイ 5:23-24)

●第六番目のポイントです。赦さない心は神を礼拝するのにふさわしくないという事です!山上の垂訓で、イエス様は次のように語られました。

5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思 い出したなら、 5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの 兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい(マタ 5:23-24)。

赦さないという事は、他の信徒との交わりに調和を持てなくなるというばかりではなく、神との交わ りにも調和を持てなくなります!他の人を赦さず、その関係を回復させないままにして私は神を礼拝しているというのは偽善者です!

●ここで、触れておかなければならない大切な点があります。人間関係における和解や赦しや回復は、 双方どちらからでも始める事ができますし、また双方どちらからでも始めるべきです!例えば、ある 人があなたに害を与えたとしましょう。それにもかかわらず、その人があなたに赦しを求めず、且つ敵対する思 いの中で楽しんで生活していたとしましょう。どうぞ、その人のところに行って赦しを与えて下さい!和 解を求めて下さい!あるいは、もしかしたら、あなたがその人に無礼を働き、決して赦しを求めてい なかったのかも知れません。どうぞ、行って赦しを求めて下さい!

7)赦さない事が誘惑となって罪を犯し、赦す事が試練となって益をもらす(マタイ 5:44-45)

●第七番目のポイントです。赦さない事が誘惑となって罪を犯し、赦す事が試練となって益をもたらします!イエス様は、山上の垂訓で次のように語れました。

5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人 にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです(マタ 5:44-45)。

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」というのは、イエス・キリストの命令です!もし、 私たちがその命令に従って私たちに悪事を働いた人々を赦すのならば、彼らの悪意ある行動は私 たちにとっては試練とはなりますが、信仰者にとっての試練は、その人生に必ず成長と強さを与えて くれます!逆に、もし、私たちがその命令に従わずにその人々を赦さないのなら、それは私たちに とって誘惑となり、結果的に罪をもたらします!私たちは、人々が私たちに敵対する言動について 心を囚われるべきではありません!そうではなくて、逆に、私たちの反応がそれらを誘惑ではなく 試練に変えるという点に心すべきです!

8)赦しはそれが求められなくても与えるべきである(ルカ 23:34/使徒 7:60)

●最後の第八番目のポイントです。赦しはそれが求められなくても与えるべきであるという点です!そ のようにされた、お二人の例を取り上げましょう。その一番目はイエス様です。イエス様が罪を犯す事はあり ませんでしたが、当時の宗教指導者たちは自分たちの地位を守るため、また妬みに駆られて、イエス・キリス トを十字架に架けました。(続く)

―7―

しかし、イエス様は、十字架上で次のような究極的な祈りをされました。「父よ。彼らをお赦しください。 彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ 23:24)、と!イエス様は、ご自分を十字 架に付けた人々に対する神の赦しを祈ったのでした!イエス・キリストを十字架に掛けた人々は、勿 論、キリストに対して赦しを求めたのでは全くありませんでしたが、イエス・キリストの方から赦しを 求めたのでした!

●二番目の例はステパノです。ステパノもイエス様と同様に、無実の自分が人々の石打の刑によって殺さ れる時に、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(使 7:60)、と神に彼らの罪の赦しを祈 りました!これも、イエス様の場合と同様に、人々が自分たちが行った邪悪な行為に対してステパノに 赦しを求めた訳では一切ありませんでした。ステパノの方から、率先して赦しを神に求めたのでし た!

●悪事を働いた側が赦しを願うまでは、人間関係は決して回復するものではありませんが、それで も私たちはそれを根に持つ事をしないのです!そうするのではなくて、私たちはその人を心から赦 して、いかなる苦々しい思いからも自由にされる事は大切なのです!愛とあわれみのみを、その人 に示すのです!

【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。

●『神の赦し、人の赦し』というテーマの五回目のメッセージの主題は、『赦しに関する聖書の八つの根本 的な教え!』でした。それらのポイントは、私たちの心をえぐるようなチャレンジになったと思いますが、 いかがでしょうか?これらの八つの点が、神が私たちに願っておられる赦しの原則です!この原則 に向かって、私たちは日々成長させてもらうのです!聖書は、不可能な事をクリスチャンに要求して いるのでは決してありません。「からし種」のような小さな信仰と御言葉と聖霊の力によって赦しは 可能なのです!

【適 用】 それでは、今回のメッセージを適用しましょう。

●今回のメッセージで、あなたの心を揺さぶったものは何でしたか?それぞれで、自分の信仰をまた心を吟味する時を持ちましょう。それでは、神に祈りを捧げましょう。

【結論の御言葉】

■人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである(箴言19:11)。

■お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったよ うに、互いに赦し合いなさい(エペソ4:32)。

―8―