「ピレモンへの手紙」講解説教(4)/メッセージ原稿/『神の赦し、人の赦し』/2016.01.17

ピレモン

『愛による説得!』

―赦しに関する聖書の八つの根本的な教え― 《ピレモン 8-18/今回は 8-9》

【序 論】

●ピレモンへの手紙から『神の赦し、人の赦し』というテーマでメッセージを取り次いでいますが、今回で四回 目です。今回のメッセージ主題は、『愛による説得!』です。パウロのピレモンに対する愛に動機づけら れた願いがどのようなものなのかを学びます。また、ピレモンも既に熟知していた赦しに関する聖書の八 つの根本的な教えについても学びます。恐らく、この赦しの教えで、皆さんの心はえぐられる事でしょう。 私たちが、このような聖書の基準に従って信仰生涯を歩むなら、教会においてまたこの世において、 大きなインパクトと魅力を与える神の器になるに違いありません!

●メッセージの全体の流れと今回の流れは、下記のアウトラインに記された通りです。また、赦しに関する 聖書の根本的な教えの八つのポイントは、裏面に記しております。

【全体のアウトライン】

[1]初めのあいさつ(1-3)/済

[2]赦す者の品性(4-7)/済 【今回のアウトライン】 [3]赦す者の行動(8-18)

1)パウロのピレモンへの愛の説得(8-9)/今回

[3]赦す者の行動(8-18)/今回 [4]赦す者の動機(19-25)/次々回

(1)「こういうわけですから」(8) (2)「愛によって・・・お願いしたい」(9) (3)ピレモンが心得ていた赦しの原則とは(出エジプト 20:13/他)

2)パウロのオネシモについてのお願い(10-14)/次回

(1)受容(10-14) (2)回復(15-16) (3)賠償(17-18)

【本 論】 それでは、今回のメッセージの本論に入りましょう。 [3]赦す者の行動(8-18) 1)パウロのピレモンへの愛の説得(8-9) (1)「こういうわけですから」(8b)

―1―

●まずは、8 節の後半の御言葉に注目する事から始めましょう。なぜ、初めにその部分に目を留めるのかと 言いますと、ギリシャ語の原文では、その言葉が 8 節の初めに記されているからです。「こういうわけですか ら」というのは、どういうわけなのでしょうか?それは、1 節から 7 節までに記されていましたように、ピレモン が霊的に成熟したクリスチャンであり、信仰にも愛にもて富んでおり、「赦し」に関する聖書の教えにおいても 精通していましたので、「こういうわけですから」という意味の言葉です。ピレモンはコロサイの教会の教会員で したので、その教会の牧師によって「赦し」についての教えは受けていましたし、赦しを実践していた信仰者で した。それゆえ、彼の信仰者としての良い評判は、遠くローマにいるパウロの元にまで伝わっていたのでした。

●そういう訳でしたので、このピレモン書には、「赦し」に関する教えだとか、「赦し」の聖書の原則などと いう記述が一切見られないのです。ですから、パウロは、ピレモンに対して聖書の「赦し」の基準に訴え るのではなく、9 節に記されていますように、「愛によって・・・お願い」するという形を取ったのでした。

●ところが、ここで、皆さんへお伝えしなければならない事は、全てのクリスチャンが、「赦し」に導く聖書 的な原則を熟知している訳ではありません。全てのクリスチャンが、ピレモンのような信仰者ではあ りませんので、聖書が赦しについてどのように語っているのかを学ばなければなりません。それで、今 回のメッセージの大半を、聖書が教えている「赦し」に焦点を当てて学ぶ事にしているのです!それ が、後半の赦しに関する聖書の八つの根本的な教えというところでまとめています。その八つのポイントは、 前述しましたように、皆さんのお手元のレジュメの裏側のページに記しています。それは後で学ぶ事にします。

―使徒職の権威を用いない―

●8 節の前半に移りましょう。パウロは、次のように語っています。「私は、あなたのすべきことを、キリストにあ って少しもはばからず命じることができるのですが」とあります。パウロには、神から使徒という特別な権威 が与えられており、ピレモンに対して命じる事のできる立場にありました。パウロは、聖書がピレモンに 対して何を命じているのかという事を正確に示して、それに従うように命じる事ができる役職にありま した。しかし、パウロは、使徒としての権威を用いて命じる事はしなかったのです!そうではなくて、先 程語りましたように、9 節の「むしろ愛によって」、ピレモンがなすべき事を「お願い」という形で伝えたのでし た!

(2)命令ではなくて愛によって(9)

●パウロが「むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います」とピレモンへ伝えたのには、それ相当の理 由がありました。それは、パウロとピレモンとの間には愛と信頼という関係が培われていたからでし た!ピレモンがパウロの宣教の働きを通して救われてからこの手紙を書くまでの間、パウロとピレ モンとの間には愛と信頼という揺らぐ事のない関係が保たれていました!「赦し」に関する聖書の原 則を熟知していたピレモンに対してなすべきお願いの方法は、「愛によって・・・お願い」する事でした。

●パウロは、ピレモンを愛していました。1 節で、「愛する同労者ピレモン」と記しています。また、7 節でパウロ は、「私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました」と記しています。(続く)

―2―

そのように、パウロとピレモンは「愛」の強い絆でつながれていましたので、パウロがピレモンに命じる 必要がありませんでした!パウロは、ピレモンが必ずやその愛に動機づけられて行動する人だと確 信していました!そのような愛は、神の「赦し」の教えを全うしますし(ロマ 13:10)、また「なすべき こと」(8a)を全うさせます!そういう意味で、パウロは自分に与えられた使徒職の権威を用いる必 要がなかったのです!

―しかし一方、人間的にはオネシモを赦す事は難しい・・・―

●ピレモンの霊的に高い成熟度とパウロに対する深い愛が確かにあるのですが、パウロは、ピレモン が逃亡奴隷のオネシモを目前にして赦す事は、人間面から考えると、感情的難しさをおぼえる事も 重々承知していました。「ええ、このパウロからの手紙をピレモンが読んだ時には、オネシモがピレモ ンの前に立っていたのですか?」という質問が飛んで来そうです。答えは、“イエス”です。オネシモはピレ モンの前に立っていたのです!それは事実です!なぜなら、テキコという人物が、オネシモを連れて コロサイ教会へ遣わされて、この和解の手紙をピレモンに渡したという事は、コロサイ 4:8-9 に明 確に記されているからです!

●どうでしょうか、過去、多大な迷惑を掛けた逃亡奴隷であるオネシモが自分の目前にいるのを見た 時、ピレモンはどのような思いに駆られる事でしょうか?自分の内から沸々と湧き上がる憎しみと怒りの 感情を抑える事は大変であっただろうと思われます。ピレモンがそのような感情に打ち勝つ事ができるようにと、 パウロは自分自身に関する二つの事実を述べています。それによって、パウロは、オネシモに関する自分の 切なる願いをピレモンに届けようとしているのです。

―「年老いて」―

●それが、9 節の後半に記されています。「年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウ ロが」、と!まず、一つ目の「年老いて」という言葉ですが、パウロは恐らく約 60 歳位であったと思われます。 その当時の寿命からしますと「年老い(た)」部類に当ります。成人した息子がいたピレモンよりも、そんなに 年上ではなかっただろうと思われます。しかし、ここで表されている「年老いて」という言葉は、パウロに とっては、彼の実年齢以上の意味がありました。パウロは、自分の生きた年数より「年老いて」いまし た。なぜなら、パウロが遭遇した数々の苦しみによって、彼の老化が進んで来たからです(2 コリ 11: 23-30)。

●何年にもわたる獄中生活、鞭打ち、貧しい食物、病気、困難な旅、迫害、そして数々の教会に対 する心遣いは、パウロの体を損なわせました!別の表現をするなら、「パウロは、五回の人生を 60 年 間に詰め込んだ」ようなものでした。これが、「年老いて」というパウロの表現の意味でした!いかがで しょう、ピレモンにとって、自分をキリストに導いた、今は年老いた尊い福音の戦士に対して、同情心 や愛情とが湧き起ってきませんでしょうか?!そうであるに違いないです!となると、使徒パウロの 勧めを大切にしたいという思いにならないでしょうか?!

―3―

―「キリスト・イエスの囚人」―

●パウロに関する二つ目の事実は、「キリスト・イエスの囚人」という表現に見られます。パウロは、ピレ モンに対して、自分が鎖につながれた「キリスト・イエスの囚人」である事を思い出させています。ピ レモンは、このような崇高な苦しみの中にある人物からの依頼を断る訳には行きませんでした!

―三番目のポイントへの移行&導入―

●以上が、ピレモンへの手紙の 8 節と 9 節の内容です。たったの二節ですが、物凄い深い内容がそこに 込められている事が理解頂けたと思います。さて、ここからは、ピレモンへの手紙には記されてはいませんで したが、ピレモンが心得ていた赦しの原則というものがありました。その赦しに関する聖書の八つの根本的 な教えについて、一つひとつ紐解いて行きたいと思います。非常に重要な赦しについての聖書の教えで あり、私たちの心をえぐるような内容だと思います!

(3)ピレモンが心得ていた赦しの原則(出エジプト 20:13/他) ―赦しに関する聖書の八つの根本的な教えー 1)赦さない罪は殺人罪と同じである(出エジプト 20:13/マタイ 5:21-22、22:39) ―「人を殺してはならない」という戒めと赦しの関係―

●それでは、赦し関する聖書の八つの根本的な教えの第一番目です。それは、赦さない罪は殺人罪と 同じであるという点です。この第一番目の教えは、多くのクリスチャンが気づいていない点だと思いま す。赦しについての重要な原則です!出エジプト記 20:13 の御言葉にまずは注目しましょう。「人を殺し てはならない」という十戒の第六番目の戒めで、多くのクリスチャンや未信者までもが知っている神の教えで す。しかし、その深い意味は多くの人々が理解していません。「人を殺してはならない」というのは言うまでも ない事ですが、多くの人々は「自分は殺人罪を犯してはいません」という反応が返ってきます。

●しかし、イエス様は山上の垂訓で、この十戒の六番目の戒めのより深い意味を次のように語られました。

5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われた のを、あなたがたは聞いています。 5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を 立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような 者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれ ます(マタイ 5:21-22)。

どういう深い意味なのでしょうか?神が、「人を殺してはならない」と命じられた時、それは単に肉体 を殺すという事に留めるものではなくて、憎む事、恨む事、怒る事、復讐する事、そして赦さない事 を含めて禁じている戒めなのです!

―4―

―悪事を働いた赦し難い人々にどう対応したらいいのでしょうか?(1)/「神のかたち」―

●さて、それでは、悪事を働いた赦し難い人々に対してどう対応したらいいのでしょうか?私たちは、次 の点を思い出さなければなりません。それは、赦しを必要としている人々は、全て神によって造られた者 たちだという事です!クリスチャンには神の命が宿っていますし、また未信者は少なくても神のかた ちに創造されました(そのかたちは大きく崩されてはいますが)。私たちは人々の中にある神のかたちの ゆえに、彼らを愛しそして彼らを赦す必要があります!そこに、神のかたちという畏敬の念があって 欲しいのです!人々を神のかたちに造られた者として見る事と、人々を赦さないという心とが取っ て変わってはならないのです!

●そして、もう一つ忘れてはならない事に、赦しを必要としている人の内には、同様に、赦す側の人と 同じ罪が宿っているという事です!という事は、赦す側の人にある同じ罪が、赦される側の人に悪を 行わせたのです!もっと端的に言いますと、赦す側の人の罪が、赦しを必要としている人に罪を犯さ せたのです!私たち人間には、相手の罪を赦す以外に最も良い方法はないのです!

―悪事を働いた赦し難い人々をどう取り扱うべきか?(2)/「あなたの隣人をあなた自身のように愛 せよ」―

●悪事を働いた赦し難い人々に対応するもう一つの方法があります。それは、イエス様が語られた「あな たの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタ 22:39)というお言葉を思い出すべきです!「あなた自身」とあり ますが、「私たち自身」の事ですね。どうでしょうか、私たちは、自分が失敗した時また悪事を働いた時、 いろいろな言い訳をして自分を素早く赦しませんか?!自分にとって自分は赦しに値するものだと 高く見ている証拠だと言えます!しかし、他の人々に対してはそうたやすく赦せないのです!自分 を赦す同じ赦しを他の人々にまで広げる事をしないのです!それを、聖書は自己中心と指摘して います!この自己中心は、自分へなされる無礼や侮辱を、実際よりも大きく見せます!それほど、 私たちは自己中心なのです!しかし、それとは反対に、へりくだって自己中心でない人々は、自分た ちになされる無礼や侮辱を重大な事として見ないのです!

●この内容って凄いです!これが、成熟した信仰者の姿です!そのようなクリスチャン、教会員、そ してそのような成熟た信仰者が集まっている教会となる事が主の御心です!ですから、聖書の御言 葉で絶えず教えられながら、また訓練されながら、成熟へ向かう教会になって、来会される自己中 心的な生き方で人生を送って来た人々を導く魅力ある群れになりたいのです!これが、神の御心で あり、教会の課題でもあり、また願いです!

2)赦さない罪は神ご自身への罪である(詩篇 51:4/マタイ 18)

●第二番目のポイントです。それは、赦さない罪は神ご自身への罪であるという事です!一番目のポイ ントに引き続き、赦しについての物凄い原則ですし、重要なポイントです!皆さん、全ての罪は、究極 的には神に対する罪だという事を理解していましたか?!(続く)

―5―

ダビデ王が部下の兵士であるウリヤの妻バテシェバとの姦淫の罪を犯した時に、それは、バテシェバ自身 に対して、その夫に対して、デビで自身の家族に対して、そしてイスラエル国家に対する罪でした。しか し、ダビデ王は詩篇 51:4 で、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であること を行いました」と告白しました!人々に対して働いたダビデの悪事が何であろうが、ダビデ自身は、 それを神に対するより大きな悪事だと理解していました!

●さて、こころからが大切なポイントです。神は、私たちに悪事を働いた人々を赦しました!神にとっ ては、その悪事とは、私たちに対するいかなる悪事よりもより大きな悪事です!そこでいかがでしょう、 神が受けた悪事からくらべると、私たちに対するより小さな悪事に対して、私たちは赦す事ができ ないでいるのです!私たちは神よりも正し者ではなく、聖い者でもなく、またふさわしい者でもあり ません。それゆえ、私たちが下す判断が神よりも正しいものであるはずがありません!という事は、更 にどういう真理を私たちに突き付けているのでしょうか?それは、私たちが神を侮辱するように、誰も 私たちを侮辱する事ができる人はいないのです!私たち人間がそうではあっても、神は恵み深くま たあわれみ深く私たちを赦し続けているのです!

●他の人々を赦さない信仰者は、イエス様がマタイ 18 章で語られたたとえ話に出てくる邪悪なしも べに似ています。そのたとえの中に出てくる王は、膨大で到底支払う事のできない負債を帳消しにして 赦したのですが、その邪悪なしもべは、彼に対して少額の借金のある別のしもべを赦す事を拒みまし た。人々の私たちに対する無礼や侮辱と私たちの神に対する無礼や侮辱とは比べものになりませ ん!

●このたとえ話に出てくる負債額を、日当一万円として計算してみますと、私たちの神への罪の負 債額は六千億円(1 万タラント)となり、私たちの他者への罪の負債額は百万円(百デナリ)です。六 千億円と百万円とは比べる事のできる額でしょうか?!全く比べものになりません!私たちは六千 億円の罪の借金を赦されていながら、私たちに百万円の借金を負っている人を赦せないでいるので す!皆さん、この大きな違いを私たちはよく理解して、神に倣って赦す人生を歩まねばなりません!

3)赦さないクリスチャンは神の赦しにあずかれない(マタイ 6:14-15)

●第三ポイントです。赦さないクリスチャンは神の赦しにあずかれないという事です!このメッセージシリ ーズで既に上げた聖書箇所ですが、イエス様はマタイ 6:14-15 で、次のように言われました。「6:14 もし 人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 6:15 しかし、人を 赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」、と!人の罪を赦さない という事が、神との交わりを妨げるのです!神は信仰者を御自身の子として取り扱いますので、そ の赦さないクリスチャンを戒められます!これは、神の愛のゆえの懲らしめです!ですから、もし、ク リスチャンが悪意を持って赦さない事を喜んでいるのであれば、そのつけは必ず回ってきます!その 代償は高く付きます!私たちは、戒めをなさる神を決して侮ってはいけません!

―6―

4)赦さないクリスチャンは主の晩餐もまた聖徒の交わりも喜ぶ事ができない(マタイ 18:31)

●第四番目のポイントです。赦さないクリスチャンは主の晩餐もまた聖徒の交わりも喜ぶ事ができな いのです!主の晩餐(聖餐式)は、イエス様ご自身が定められたものです。それは、まさに主の身代わりの 十字架による罪の赦しと死からの復活とをおぼえる儀式です!私たちが人の過ちや罪を赦さずに いながら、自分の過ちや罪の赦しを象徴する主の晩餐の儀式を心から受け取る事ができるでしょう か?!

●また、同様に、自分が人の過ちや罪を赦さずにいながら、他のクリスチャンとの交わりを心から喜 び楽しむ事ができるでしょうか?!できないはずです!その点に関する御言葉の根拠があります。再 び、イエス様が語られたマタイ 18 章のたとえ話に戻りますが、六千億円というとてつもない額の借金を免除し て許してもらったにもかかわらず、自分に百万円の借りのある人との間で次のようなやり取りがありました。

18:28・・・同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞 めて、「借金を返せ」と言った。 18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、「もう少し待ってくれ。そうしたら返すか ら」と言って頼んだ。 18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた(マタ 18:28-30)。

●それで、次の 31 節で、「彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を 主人に話した」とあります。何を私たちに伝えているのでしょうか?それは、信仰者の赦さない態度とい うものは、他の信徒たちとの関係を破壊してしまうという事です!他の信徒たちは、教会戒規を通 して、神が彼を戒められるように祈ります。ですから、赦さないという事は、私たちと神との関係そし て私たちの他のクリスチャンとの関係を妨げてしまうという事なのです!

5)赦さずに復讐を求める者は神の権威を奪うものである(ローマ 12:14、19) ●第五番目のポイントです。赦さずに復讐を求める者は神の権威を奪うものであるという事です!パ

ウロは、ローマ 12:4、19 で次のように語っています。

12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。・・・12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからで す。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

不正、悪事、無礼、侮辱、それら罪の「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は 言われ」ました!それゆえ、「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」と言われました! ですから、信仰者が赦さない事によって、人自らが、大胆にも神の御手から神の裁きの剣を取ってし まう事になり、その剣を振りかざす事になるのです!そのような態度は何を意味していると思います か?それは、神は正しい方ではなく、神は無関心な方なので裁きをなされないと言っている事と同じ です!しかし、それらの神への非難は、全て神への冒涜と言わざるを得ません!

―7―

●でも、実際は、私たちが私たちに対してなされる悪事を取り扱うよりも、神がそれらの悪事を遥か に取り扱う力があります!神は、私たちがどのような状況に置かれて悪事を働かれたかを全て理解 しておられるお方です!その状況に対する私たちの理解というものには限りがあります!私たちが この出来事はこうであるに違いないと思っていても完全な分析をする事はできません!なぜなら、 私たちは全知の神のように全ての状況を全て正しく把握する事はできない不完全な者だからで す!

●また、神は最終の権威を持っておられますが、私たち人間は持っていません!神には偏りがありま せんし、正しい理性によって判断をされますが、私たちは自分の関心に偏っています!神は全知で、 永遠なるお方であり、物事がどのように展開して行くのかを前もって知っておられるお方です!神 は知恵に富み、良いお方で、それゆえ全てを正しい目的のために行われるお方です!しかし一方、 私たちはしばしば自分の怒りによって物事が見えなくなる者ですし、また私たちの目的も邪悪なも のであり得ます!それゆえ、私たちは復讐を神に任せなければなりません!

6)赦さない心は神を礼拝するのにふさわしくない(マタイ 5:23-24)

●第六番目です。赦さない心は神を礼拝するのにふさわしくないという事です!山上の垂訓で、イエス様は次のように語られました。

5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思 い出したなら、 5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの 兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい(マタ 5:23-24)。

赦さないという事は、他の信徒の方々との交わりに調和できなくなるというばかりではなく、神との 交わりにも調和できなくなります!他の人を赦さず、その関係を回復させないままにして私は神を 礼拝しているというのは偽善者です!

●ここで、触れておかなければならない大切な点があります。人間関係における和解や赦しや回復は、 双方どちらからでも始める事ができますし、また双方からどちらからでも始めるべきです!例えば、 ある人があなたに対抗して何かをし、にもかかわらずにその人があなたに赦しを求めず、且つ敵対する思いの 中で楽しんで生活していたとしましょう。どうぞ、その人のところに行って赦しを与えて下さい!和解を 求めて下さい!あるいは、もしかしたら、あなたがその人に無礼を働き、決して赦しを求めていなかったのか もしれません。どうぞ、行って赦しを求めて下さい!

7)赦さない事が誘惑となって罪を犯し、赦す事が試練となって益をもらす(マタイ 5:44-45)

●第七番目です。赦さない事が誘惑となって罪を犯し、赦す事が試練となって益をもたらします!イエス様は、山上の垂訓で次のように語れました。

5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです(マタ 5:44-45)。

―8―

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」というのは、イエス・キリストの命令です!もし、 私たちがその命令に従いそして私たちに悪事を働いた人々を赦すのならば、彼らの悪意ある行動は 私たちにとっては試練となります。信仰者にとっての主にある試練は、私たちの人生に必ず成長と強 さを作り出します!一方、もし、私たちがその命令に従わずそして彼らを赦さないのなら、それは私 たちにとって誘惑となり、結果的に罪をもたらします!私たちは、人々が私たちに対抗してくる言動 について心を囚われるべきではありません!そうではなくて、逆に、私たちの反応がそれらを誘惑 ではなく試練に変えるという点に心すべきなのです!

8)赦しはそれが求められなくても与えるべきである(ルカ 23:34/使徒 7:60)

●最後の第八番目のポイントです。赦しはそれが求められなくても与えるべきであるという点です!そ のようにされた、お二人の例を取り上げましょう。その一番目はイエス様です。イエス様が罪を犯す事はあり ませんでしたが、人々は自分たちの地位を守るために、また妬みに駆られて、イエス・キリストを十字架で処 刑しました。しかし、イエス様は、十字架上で次のような究極的な祈りを父なる神に捧げました。「父よ。 彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ 23:24)、と!イエ ス様は、ご自分を十字架に付けた人々に対する神の赦しを祈ったのでした!イエス・キリストを十字 架に掛けた人々は、勿論、キリストに対して赦しを求めたのでは全くありませんでしたが、イエス・キ リストの方から赦しを求められたのでした!

●二番目の例はステパノです。ステパノもイエス様と同じように、無実の自分が人々の石打の刑によって殺 される時に、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(使 7:60)、と神に彼らの罪の赦しを 祈りました!これも、イエス様の場合と同様に、人々が自分たちが行った邪悪な行為に対してステパノ に赦しを求めた訳では一切ありませんでした。ステパノの方から、率先して赦しを神に求めたのでし た!

●悪事を働いた側が赦しを願うまでは、人間関係は決して回復するものではありませんが、それで も私たちはそれを根に持つ事をしないのです!そうするのではなくて、私たちはその人を心から赦 して、いかなる苦々しい思いからも自由にされる事は大切です!愛とあわれみのみを、その人に示 すのです!

―まとめ―

●以上が、赦しに関する聖書の八つの根本的な教えです!いかがでしたでしょうか、これらの八つの点 が、神が私たちに願っておられる赦しの原則です!この霊的レベルに向かって、私たちは日々成長 させてもらうのです!聖書は、不可能な事をクリスチャンに要求している訳ではありません。聖書の 御言葉で心が満たされ、聖霊の力によって支えられるなら、神が私たちに願っておられる赦しは可 能なのです!

―9―

【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。

●『神の赦し、人の赦し』というテーマの四回目のメッセージ主題は、『愛による説得!』でした。パウロの ピレモンに対する愛に動機づけられたお願いは、私たちの模範とするところです!また、それに加え て、赦しに関する聖書の八つの根本的な教えについても学びましたが、それは私たちの心をえぐるようなチ ャレンジとなりました!

【適 用】 それでは、今回のメッセージを適用しましょう。

●今回のメッセージで、あなたの心を揺さぶったものは何でしたか?愛による説得の無さですか、そ れとも赦さない事がいかに神の御心から離れているものなのかですか?それぞれで、自分の信仰をま た心を吟味する時を持ちましょう。そして、神に祈りを捧げましょう。

【結論の御言葉】

■人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである(箴言19:11)。

■お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったよ うに、互いに赦し合いなさい(エペソ4:32)。

―10―