『 夜通 しの 不漁 、 真 っ 昼間 の 一瞬の 大漁 』 ―真理の源であられ、全知であられるイエス・キリスト― 《 ルカ 5 :1 -11 今回は 5: 1 6a 》
【序 論】
●今回のメッセージからルカの福音書は5章に入ります。イエス・キリストが真の神であられるという特徴がどのようなものなのか、その五つのポイントが記されています。今回のメッセージで最初の二つのポイントを、そして次回は残りの三つのポイントを取り上げます。今回のメッセージの主題は『夜通しの不漁、昼間の一瞬の大漁・・・?!』で、副題が「真理の源であられ、全知であられるイエス・キリスト」です。また、その五つのポイントが下記のアウトラインに記されています。それでは、イエス様の神性の特徴に注目しましょう。
【全体のアウトライン】
[1]イエス様は真理の源である(ルカ5:1-3)/今回
[2]イエス様は全知である(ルカ5:4-6a)/今回
[3]イエス様は全能である(ルカ5:6b-7)/次回
[4]イエス様は聖である(ルカ8-10a)/次回
[5]イエス様はあわれみ深い(ルカ5:10b-11)/次回
【今回のアウトライン】
[1]イエス様は真理の源である(ルカ5:1-3)
1)神の御言葉そのものを語られるイエス様(5:1)
2)困難な状況でも神の御言葉を語られるイエス様(5:1、3b)
3)目的を持ってシモンの舟を選ばれたイエス様(5:2-3a)
[2]イエス様は全知である(ルカ5:4-6a)
1)魚群を正確に探知される全知のイエス様(5:4)
2)“大工”であったイエス様の漁の指示に従うペテロ(5:5)
3)真っ昼間の大漁に驚愕する漁師たち(5:6a)
【本 論】
[1]イエス様は真理の源である(ルカ5:1-3)
1)神の御言葉そのものを語られるイエス様(5:1)
―背景&流れ―
●「さて」という出だしから5章が始まっていますが、それは、4章後半に記されたペテロの家での出来事から時が流れ、今度は、ガリラヤ湖の湖畔での出来事へと移って来た事を示しています。
―1―
イエス様はまだガリラヤの地において、宣教(4:44)と癒しと悪霊からの解放(4:40-41)を成し続けておられ、その結果多くの群衆がイエス様について来ているという状況が伝えられています(4:42/参 4:14、5:15、6:17、7:11-12、24、8:4、42、45、9:11、37、11:14、29、12:1、54、14:25)。
●一世紀の後半、ユダヤ人の歴史家ヨセフスはガリラヤの人口が三百万人であったと推定しており、それに伴って非常に多くの群衆がイエス様について来ていたという事は理解できるものです。その当時、テレビ・ラジオ・新聞という報道機関がない中で、人々が沢山集まるにはよっぽどの説教家でなければなりませんでした。その点、明らかにイエス様に並ぶ者は他にいませんでした!現に、ユダヤの「役人たち」は、祭司長やパリサイ人たちに対して、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした」(ヨハ7:46)と報告しています!この5章の出来事においても、「ゲネサレ湖の岸辺に立って」おられたイエス様の元へ「群衆が神のことばを聞こうとして・・・押し迫って来」ました。
―「ゲネサレ湖」について―
●「ゲネサレ湖」という名称は、湖の北西に位置する「ゲネサレ」と呼ばれる肥沃な平原の名前から来ています。「ガリラヤ湖」(マタ4:18、15:29/マコ1:16、7:31)としてよく知られていますが、ヨハネの福音書が書かれた後の時代では、「テベリヤの湖」(ヨハ21:1)と呼ばれていました。旧約聖書では「キネレテ湖」(ヨシ12:3、13:27)または「キネレテの海」(民34:11)と呼ばれていました。アッパールームのテキストにも記しましたが、長さが21Kmで幅が12Km、最深部で43mもある大きな淡水湖で、地中海の海面下211メートルに位置し、世界の淡水湖の中で最も低い所にあります。ガリラヤ地方における最も特色ある地形を形作っています。ガリラヤ湖には地下の泉から湧くいくらかの水と、主にはヨルダン川の水が流れ込んでいます。その水源は標高2,814mのヘルモン山にあり、その水はガリラヤ湖を経て海面下427mという地表で最も低い死海に流れ込んでいます。今日でも、湖のきれいな水は飲料水として使用されるだけでなく盛んな漁業を支えています。
2)困難な状況でも神の御言葉を語られるイエス様(5:1、3b)
―「神のことば」―
●これと同じような状況が他の福音書にも記されています。イエス様を取り囲む熱心な群衆が急増し、湖の波打ち際へとイエス様を押し寄せている様子が記されています(マコ3:9、4:1)。人々の関心を引いたのが、1節で記されていましたように、イエス様が宣べ伝える「神のことば」でした!そして、勿論、イエス様がなされる奇蹟の御業も含まれていました。ここで使われている「神のことば」というのは、今日のクリスチャンが共通して理解している聖書に記されている御言葉を指しているのではありません。「神の」という「の」という助詞は、ギリシャ語の文法ではその源.や所有..を表す言葉です!ですから、その意味を汲んで訳しますと、次のようになります。「群衆は神から直接来たことばを語るイエス様に聞こうとして押し迫って来」たのです!イエス様が話された時、人々は文字通り神が話しておられるの聞いていたのです!
●イエス様が語られた「神のことば」の主題は、救いの良きおとずれです!神の国に入るための真理です!
―2―
それは、4章中盤のナザレの会堂におけるイエス様の教えのところで既に学びましたように、霊的に貧しい人々が霊的に豊かにされ、霊的に捕らわれている人々に罪からの解放が与えられ、霊的に盲目の人々に霊的視力が与えられ、そして霊的にしいたげられている人々に自由が与えられるという事でした!それは、赦しと救いと永遠の命の良きおとずれでした!イエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに言います」と語られ、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」(ヨハ5:24)と語られた通りです!
●イエス様の教えは、律法学者たちの教えとは著しく異なっていました!律法学者たちの権威というものは、他の律法学者たちの教えを引用するところから来ていました。しかし、神であられるイエス様は、民が長い間待ち望んでいた神の王国の啓示を直接民に語りました!そして、その王国はイエス様ご自身を信じる信仰を通して入る事の出来る神の王国でした!イエス様は、旧約聖書の学者や神学者のようには語りませんでした!イエス様が語られたのは、哲学的な思索だとか、律法学者の伝統ではありませんでした!イエス様が語ったのは、神のお言葉でした!イエス様は神の御子であり、神が受肉されたお方でした!イエス様が語られた時は、神の権威によって語ったのです!ですから、「人々はみな驚いて、『これは何だ。権威ある新しい教えだ』」(マコ1:27)と反応しました!(参/マタ7:29)
●イエス様は受肉された真理でした!なぜなら、神が真理だからです!(詩31:5/イザ65:16)イエス様のお言葉は、ご自分の真理の表れでした!ヨハネ14:6で、イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と宣言されました!使徒ヨハネはそれよりも前に、「ことばは」すなわち神の「ことば」は「人となって、私たちの間に住まわれた」と記しています!そして、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(1:14、17)と記しました!
―イエス様は御父の言われた通りに真理を話された!―
●イエス様は、ご自分が御父によって遣わされたがゆえに真理を語ると繰り返し教えられました!当時、ユダヤ人宗教指導者たちは、「驚いて・・・『この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか』」(ヨハ7:15)と疑問を投げ掛けました。すると、イエス様は彼らに対して、「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです」(ヨハ7:16)と答えられました!後に、イエス様は、「ご自分を信じたユダヤ人たちに」に対して次のように「言われ」ました。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハ8:31-32)。また、ユダヤ人指導者たちに対しては、「8:45 しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。 8:46 あなたがたのうちだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか」(ヨハ8:45-46)と語られました!そして再び、イエス様はご自分が御父のお命じになった通りに真理を話されたという事を次のように告げました!
―3―
「12:49 わたしは、自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。 12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです」(ヨハ12:49-50)、と!
―船上から「神のことば」を語られるイエス様―
●イエス様は、2節の前半で、「岸辺に小舟が二艘あるのをご覧にな(られ)」ました。そして、3節にありますように、イエス様は「そのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みにな(られ)」ました。水の上にいる事によって、群衆に波打ち際へ追いやられる事はありませんので、イエス様は自由がきくようになりました!また、群衆との程良い距離ができますので、群衆がイエス様をより良く見る事ができるようになります!それに加え、声が良く通るようになる事も考えられます!なぜなら、イエス様と群衆との間には何の妨げとなる物もなく、真っ平らで静かな湖面の上から話す事によって、そのお声が響くように届けられる事にもなったと考えられるからです!イエス様のお考えになる事ですから、きっと湖上の舟が理想的な講壇になったに違いありません!
●岸辺から「少し漕ぎ出(された)」後で錨を降ろし、イエス様は、ラビが聖書を教える時に、伝統的に行っていたように「腰を下ろし、舟から群衆を教え始められ」ました!(参/マタ13:2)イエス様は、状況がいかに切迫しようがあるいは困難が立ちはだかろうが、「神のことば」を教える事を止めませんでした!なぜなら、前回取り上げた43節に記されていましたように、「神の国の福音を宣べ伝え(る)」ために、天の父から「遣わされ(ていた)」からでした!(4:3/マコ1:38)
3)目的を持ってシモンの舟を選ばれたイエス様(5:2-3a)
●この場面で、もう一つ見逃してはならないポイントがあります。再び2節の前半に戻るのですが、イエス様が波打ち際に追いやられる中で、「岸辺に小舟が二艘あるのをご覧にな(られた)」というのは先程読んだところですが、この中に含まれているもう一つの大切なポイントを取り上げて行きましょう。この舟は漁をするためのものです。「小舟」とありますが、手漕ぎの小さな船を指しているのではなくて、イエス様や12弟子が一度に乗れるに十分な大きさの漁船です(マタ8:23-24、14:22-23/マコ6:31-32、8:10)。ですから、網も浅瀬や岸辺で使うような小さなものではなく、数名の男性たちが扱う大きなものです。これらの舟は浜に乗り上げるようにして留めたり、あるいは湖岸に停泊させたりするようにしていました。この時、2節の後半では、「漁師たちは舟から降りて網を洗っていた」と伝えています。「網を洗って」、次の夜に行う漁に備えるためでした。ガリラヤ湖における漁は、魚の習性上、夜が一番適していました。ですから、昼間は「網を洗っ(たり)」、破れた網を修理したり、船体の修理に当ったり、あるいは漁具の手入れをしたりしていました。
●前述しましたように、群衆とご自分との距離を作るために、3節に記されていますように、二艘の「うちの一つ、シモンの舟に乗(られ)」ました。10節を見ますと、もう一艘は、ヤコブとヨハネが所有するものである事が推測できます。イエス様が「シモンの舟に乗(られた)」のは、只そうされたのではありませんでした!イエス様は、目的を持たずに物事をなさるお方ではありません!イエス様が「シモンの舟に乗(られた)」というのは、彼の人生の中により深く入って来られたという事を意味していました!
―4―
そしてまた、ペテロと共に、もう一艘の舟にいるヤコブやヨハネの人生にもより深く関わって来られた事を意味していました!というのは、彼らをより高いレベルの献身へと引き上げるという目的があったからです!
●ペテロが最初どのようにイエス様と関わったのか、その辺りから振り返ってみましょう。かつて、バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレとヨハネが、「ヨルダンの川向こうノベタニヤ」(ヨハ1:28)という地で、バプテスマのヨハネの紹介によってまずイエス様と出会いました(ヨハ1:35-39)。その後、アンデレが自分の兄弟であるペテロをイエス様の御元へ連れて来ました(ヨハ1:41-42)。その後、「ガリラヤ湖のほとり」(マタ4:18-22/マコ1:16-20)で、イエス様は、ペテロとアンデレそしてヤコブとヨハネという二組の兄弟たちを、ご自分に従う最初の弟子として選ばれてご自分の元に引き寄せられました。
●そして、今回のテキストであるルカ5章のところで、ルカのみが、彼らの最終段階の召しを記録しています。彼らは自分たちのなりわいである漁業の仕事を捨てて、生涯にわたるフルタイムのキリストの弟子となったのでした!イエス様は特にペテロに的を絞られました!なぜなら、彼が12弟子の中でリーダーとなり、残りの弟子たちに大きな影響を与える事をご存じであったからです!ですから、イエス様の一挙手一投足に全て意味があったのです!
[2]イエス様は全知である(ルカ5:4-6a)
1)魚群を正確に探知される全知のイエス様(5:4)
●群衆に対する「話が終わると」、4節で、イエス様は、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」とペテロ並びにその舟の漁師仲間たちへ命じられました!漁に適さない昼間に、しかも「魚を捕りなさい」と命令しておられるという事は何を意味しているのでしょうか?絶対に魚が捕れるという確信がない限り、決してそう命令できるものではありません!そんな確信ってどこから来るのでしょうか?二千年前のガリラヤ湖の漁においても、また現代の漁業においても、いつも難関な事は、魚の居場所がどこなのか把握するのが難しいという事です!たとえ経験豊富な漁師であっても、また最新の魚群探知機を用いても、引き上げた網に魚が入っていないという事はよくある事です!
●しかし、主イエス・キリストはどこに魚の群れがいるのかをピンポイントでご存じです!全てを創造されたお方として(ヨハ1:3/コロ1:16/ヘブ1:2)、イエス様は全ての被造物を完全に知っておられました!一羽の雀の命が失われる事においても、また雀がぴょんぴょんと跳ぶ事さえも知っておられるのです!(マタ10:29)なぜなら、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つな(い)」(ヘブ4:13/新改訳第三)です!この後の展開を見ますと、イエス・キリストの全知性が明らかにされて行きます!
2)“大工”であったイエス様の漁の指示に従うペテロ(5:5)
●これは、ある意味、驚かされる場面です!なぜなら、“大工”のイエス様があえて経験豊富な漁師に対して、どのように漁をするのかを伝えるのですから!?
―5―
5節で、「シモン」は、主に対して「先生」と「答え」ました。この「先生」(“エピスタテース”)という言葉は、権威ある者に対する尊敬を込めた表現ですが、全知全能の神を意識して発する言葉ではありません。「シモン」は、「私たちは、夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした」と伝えました。それなのに、どうしてイエス様は彼らが真っ昼間に魚を取るよう求めたのでしょうか?それに加え、その大きな網を湖に投げ入れてまたそれをたぐり寄せるというのは重労働を意味していましたので、なぜそうしてまで命じる事ができたのでしょうか?しかし、このお方は只の大工ではありませんでした!ペテロの義理のお母さんの高熱を瞬時に癒されたお方でした!ですから、ペテロは、「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」と付け加えてイエス様に答えたのでした!
3)真っ昼間の大漁に驚愕する漁師たち(5:6a)
●もしイエス様の命令が彼らを驚かせたのであれば、その命令の結果は、彼らをもっと驚かせるものとなりました!彼らが「そのとおりに」網を下ろしてみますと、驚いた事に、「おびただしい数の魚が」網の中に「入(って)」いました!真っ昼間に、そのような前代未聞の漁獲量をあげる事は、彼らのこれまでのいかなる経験を持って来てしても把握する事の出来ないものでした!彼らのいかなる成功経験も、それに太刀打ちできるものではありませんでした!全知なる救い主は、どこに魚の群れが潜んでいるのかをよくご存じでした!
●この出来事から暫くして後に、イエス様はペテロに対して、神殿の税金を納めるために、「ステタル」という銀貨一枚を口の中に入れている限定された一匹の魚をどこでどのように見つけるのかを告げられました!(マタ17:27)そして、実にその通りになりました!また、復活後に、ペテロをはじめ弟子たちが夜通し漁をして一匹も取れなくて朝を迎えた時の事、イエス様が再び彼らに網を下ろすように告げられました!「すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らは網を引き上げることができ(ません)」(ヨハ21:6b)でした!
―イエス様の全知性を証明するその他の例―
●長さが21Km、幅が12Km、そして最水深43mもあるガリラヤのどこに魚がいるのかという事を的確に知っておられるのは、イエス様が全知であられるという証明の一つにしか過ぎません!別の機会では、イエス様が弟子たちと持たれる最後の晩餐の準備をするようにと言ってペテロとヨハネに指示を出された時に、「どこに用意しましょうか」という質問に対して、イエス様は次のように答えられました。22:10「都に入ると、水がめを運んでいる男に会います。その人が入る家にまでついて行きなさい。 22:11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。 22:12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで用を意しなさい。」(ルカ22:10-12)
すると、その結果はどうだったでしょうか?「彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした」(22:13)、と聖書は告げています!
―6―
●また、ナタナエルという人物がピリポによってイエス様の御元へ導かれるのですが、ナタナエルは、初めて出会ったイエス様が自分の居場所を既に超自然的に知っておられた事に驚いて、「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨハ1:49)と驚きと感動位をもって語りました!その事実も、全てを知っておられるイエス・キリストの全知性を示していました!
●イエス様が宣教されていた当時、またいつの時代でもそうですが、上辺では神を信じていると信仰告白をするのですが、その中身は本物の信仰からは遠く離れている人々がいました。その一人がイエス様を裏切ったユダですが、彼について聖書は次のように記しています。「信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである」(ヨハ6:64)、と!そして、同じヨハネの福音書で、「イエスは、人のうちに何があるのかを知っておられたのである」(ヨハ2:25)とも記しています!
●イエス・キリストが全てを知っておられるという全知性は、イエス・キリストの神性を十分に証明するものでした!それゆえ、弟子たちに次のように言わしめました!「あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます」(ヨハ16:30)、と!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●イエス様が神であられるという特徴がどういうものなのか、その五つの特徴の内の最初の二つを取り上げました。イエス様は真理の源であるという事、そしてまた全てを知っておられるという全知であられるという事でした!イエス様が語られたお言葉は、即そのまま神のお言葉であったという事でした!そして、イエス様はあの広いガリラヤ湖のどこに魚の群れがいるかさえもお見通しでした!現代の最新の魚群探知機を遥かにしのぐものでした!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用して行きましょう。
●イエス様は目的をもってシモンの舟を選ばれ、彼をはじめその兄弟アンデレやその漁師仲間のヤコブとヨハネに対してご自分が神である事を現され、彼らを人間を取る漁師になるための更なる献身のレベルへと引き上げあられました!あなたもそうではないでしょうか?神はあなたの全てを知っておられ、あなたがどのような進路を辿るのかも全てご存じです!いかがでしょう、あなたは、あなたを全て知っておられて日々の歩みを導いておられる方の御手の中で安心して毎日を過ごせていますか?あなたの人生に起こる全ての事に、神が関わっておられ、それらを益に変えて用いられる事を理解し、安心し、希望をもっていますか? それでは、祈りましょう。
【締めの御言葉】
■わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)。
■あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます(ヨハネ16:30)。
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur、
The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 1-5、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2009、 pp.299-304.)
―7ー