『 友よ、あなたの罪は赦された 』 ―「中風をわずらっている人」を助ける果敢な友人たち― 《 ルカ 5 :1 2- 26 今回は 5 :1 7- 20 》
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【序 論】
●前回から三回シリーズで、『 癒し、赦す救い主 』 というテーマで学んでいます。前回は「ツァラアトに冒された人」の出来事を取り上げましたが、今回は「中風をわずらっている人」の出来事を取り上げます。前回と同様に、不治の病に対するイエス様の超自然の癒しの力が示されています。しかし、今回更に重要なポイントは、イエス様が罪を赦す権威を持っておられるという事が記されています。それは、まことの神だけがお持ちの権限であり、また赦しが人間の最大の必要でもある事を示しています。なぜなら、罪を赦していただかない限り、人が永遠の神の裁きを回避する道は他にないからです!
●今回のメッセージの主題は『友よ、あなたの罪は赦された!』で、副題が「中風をわずらっている人」
を助ける果敢な友人たちです。下記のアウトラインに記されていますように、二回にわたってこのメッセージを取り次ぎます。前半が17節から20節までで、この出来事がどういう状況で起こり、またそこでどういう宣言がなされたのかを見ます。後半の21節から26節については次回のメッセージで取り扱いますが、イエス様のパリサイ人たちや律法学者たちとの対峙、そしてその結果について取り上げます。
【全体のアウトライン】
[1]ツァラアトに冒された人を癒されるイエス様(ルカ5:12-16)/済
イエス様へ接近する悔い改めの思いに導かれた罪人
[2]中風をわずらっている人を癒されるイエス様(ルカ5:17-26)/今回(1)
イエス様の罪を赦す権威
1)状況(5:17-19)/今回
2)宣言(5:20)/今回
3)対峙(5:21-24)/次回
4)結果(5:25-26)/次回
【今回のアウトライン】
[2]中風をわずらっている人を癒されるイエス様(ルカ5:17-26)
イエス様の罪を赦す権威
1)状況(5:17-19)
ア)イエス様の「ある日のこと」(5:17a)
イ)イエス様に警戒の目を向ける宗教指導者たち(5:17b)
ウ)イエス様の元を訪れる「中風をわずらう人」と果敢な友人たち(5:18-19)
2)宣言(5:20)
ア)イエス様の宣言、「友よ、あなたの罪は赦された」(5:20)
イ)イエス様の十字架と復活以前と以後の救いについての理解
―1―
【本 論】
[2]中風をわずらっている人を癒されるイエス様(ルカ5:17-26)
イエス様の罪を赦す権威
1)状況(5:17-19)
ア)イエス様の「ある日のこと」(5:17a)
―「ある日のこと」―
●17節の冒頭で、「ある日のこと」と記されていますように、「中風をわずらっている人」にまつわる出来事がいつどこで起こったのかという点については詳しく記されていません。それは、前回取り上げました「ツァラアトに冒された人」の場合も同様でした。並行箇所のマルコやマタイの福音書を見ますと、恐らく、ガリラヤ湖周辺の宣教の旅を一つを終えてカペナウムに戻られた時の出来事であろうと思われます(マコ1:39/マタ9:1)。また、会堂ではなく、個人の大きな家屋に「多くの人が集まっ(て)」(マコ2:2)いましたので、もしかしたらペテロの家であったのかも知れません。
―「教えておられる」―
●イエス様の働きには決まったパターンがありました。それがこの17節の前半に記されていますが、「イエスが教えて...おられると」とあります。イエス様がおられるところが会堂であろうが、個人の家屋であろうが、まずそこでなされる優先事項は「教え(る)」(マコ2:2)という事でした!
―パリサイ派の歴史―
●この出来事の中で、著者のルカは、特に「パリサイ人たちと律法の教師たち」が多くの人々に混じって「座っていた」事に注意を向けています!ルカの福音書では、ここで初めて「パリサイ人」に言及しています!その当時、四つあった宗派の中の一つです。金持ちでエリートの祭司たちのグループのサドカイ派、ローマからの独立を主張する熱心党、世俗から離れて難行苦行の修道生活を送っているエッセネ派、そして「分離された者」という意味のパリサイ派です。パリサイ派の人々は、モーセの律法やそれに彼ら自身が付け加えて行った末に彼らの伝統となって行った教えに熱心な者たちでした。また、彼らは富裕層のサドカイ人とは違って中産階級の人々で、ユダヤ最高議会においても少数派でしたが、彼らの教えや伝統を通して、一般庶民に対しては多大の影響を与えていたグループでした(参/使5:34-40)。サドカイ派は紀元後70年のローマ軍による神殿破壊によって消滅し、熱心党は紀元後132年からから135年に起きたバル・コクバの乱後に壊滅し、それでパリサイ派がユダヤ教の支配的な地位を得るようになります。そして、彼らが口伝律法や儀式やそれまでの伝統を紀元後200年頃にまとめたミシュナや、更にその後500年頃に編纂したタルムードがユダヤ教と実質的に同じ意味を持つものとなりました!
―パリサイ派の教え―
●パリサイ人の教えや神学というものは多くの点で聖書の教えに忠実な面があります!それゆえ、傾聴に値するところがあります!例えば、彼らは復活(使23:6-8)や御使い(使23:8)や悪霊や聖定、そしてそれに対する人間の責任というものを信じています!(続く)
―2―
彼らは救い主が来られて地上の王国を設立する事を待ち望んでいますし、神の律法を守りまた教える事に専念しています!また一方、彼らの大きな問題点は、神の律法に対する熱心さの余り、律法が定める儀式に目が行き、外面的に律法を守るようになって行ったのでした!そうすると、自分たちの上辺の行いをよく見せようとするだけで、本来大切にしなければならない内面の本当の信仰のあり方を大切にしなくなりました!そのような彼らの外面だけを良く見せようとする霊的な偽善に対して、イエス様は容赦なく非難されました!彼らに対するイエス様の叱責は、次の言葉に表れています。
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ(マタ23:23)。
●前述しましたように、彼らの教えと彼らの行いとの間の大きなギャップは、当然彼らを偽善的な生き方へと導きました。その点について、イエス様と彼ら自身が編纂したタルムードの双方が強く叱責しているとこところです!神の律法に対する彼らの熱意にもかかわらず、「彼らは盲人を案内する盲人」(マタ15:14)で、彼らの改宗者を「自分より倍も悪いゲヘナの子にする」(マタ23:15)のです。そして、自分たちが作った規則や規定とが入り混じって複雑に絡み合い、それを一般民衆に教え込むのですから、人々は霊的に押し潰され、到底負えない重荷を負わされて行きました(マタ23:4/使15:10)。ここで忘れてはならない点は、律法を守る事が誰も救いに導く事はできないという事です!なぜなら、聖書が次のように語っているからです。「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは」、律法を守る事ができないという「罪の意識」(ロマ3:20)だけだからです!(参 ロマ3:28/ガラ2:16、3:11、24、5:4)元熱心なパリサイ人であったパウロは、後にキリストに出会って回心し、その真理をはっきりと知るようになりました!(ピリ3:4-11)
―律法の教師たち(律法学者たち)―
●ルカは「パリサイ人たち」と共に「律法の教師たち」も多くの人々の中に混じっていたと伝えています。聖書の他の箇所では、「律法の専門家」(7:30/他)と呼ばれたり、あるいは「律法学者」(5:21/他)と呼ばれたりしている人々です。彼らはプロの学者たちで、神の律法の解釈や適用における専門家です。彼らは往々にしてパリサイ人ではあるのですが、全てがそうなのではなく、両者が分けて記されているところが20箇所くらいはあります。このような律法学者は、「偉大な」という意味の「ラビ」と呼ばれ、日本語では「先生」だとか「師」などと訳されています。中には、神の言葉を教える者たちを「ラビ」と呼んでいる箇所もあります(ヨハ1:38/他)。
イ)イエス様に警戒の目を向ける宗教指導者たち(5:17b)
●17節の中盤で、「パリサイ人たちと律法の教師たちが・・・ガリラヤとユダヤとのすべての村やエルサレムから来ていた」とルカは記しています。何を意味しているのでしょうか?それは、ユダヤ人権威者たちが彼らをイエス様の元に送っているという事なのです!実に、彼らは、イエス様に対して警戒の目を向けていたという事なのです!それにはいくつかの理由がありますが、最初に挙げられるのは、イエス様のユダヤの地における働きにおいてまずされたのが、サドカイ人が支配している神殿の営業活動を粉砕した事でした!(ヨハ2:14-16)
―3―
約半年前のメッセージで語りましたが、神の宮の外庭が「大祭司アンナスの市場」と化し、アンナスが法外の収入を得ていたという事でした。神殿の敷地が人々の礼拝のために用いられるよりも、祭司たちが収入を得るための市場と化している事に対してイエス様は怒りを表されました!何と、「細なわでむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し・・・『それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」(ヨハ2:14-16)、と言って神の宮を清めたのでした!
●サドカイ人たちはパリサイ人たちと共に、イエス・キリストに対して警戒の目を向けざるを得ませんでした!イエス・キリストの教えと数々の癒しの奇蹟の御業がユダヤとガリラヤの人々を魅了し、その数が日毎に増えて行く事に対して脅威を感じましたし、またねたみを抱きました!それで彼らはイエス様の後をつけ回し、何かイエス様を訴える口実を探していたのです!これからルカ5:17以降で、イエス様によって明らかにされる出来事が、敵意をもってやって来た「パリサイ人たちと律法の教師たち」にとっては、決して忘れる事のない、また決して否定する事の出来ない経験へと結びついて行きます!そして、彼らの邪道な教えまた正道を外れた神学に対する恐るべき挑戦を受ける事になるのです!
―御父に服従されたイエス様―
●17節の後半で、再度、受肉されたイエス様のあり方が記されています(3:22、4:1)。「イエスは主の御力によって、病気を治しておられた」、と。イエス・キリストは神ご自身ですので、本来なら自由に神としての力を行使されて当たり前なのですが、受肉されて人として来られましたので、御父に服従されそして聖霊の御力によって働きを進められました!この点については、これまでのメッセージで既に学んだところですが、イエス様は、文字通り、「ご自分を無に」され「仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ・・・た」(ピリ2:7)のでした!
ウ)イエス様の元を訪れる「中風をわずらう人」と果敢な友人たち(5:18-19)
●イエス様が教えておられる時、18節の冒頭で、「男たちが」その場に到着しました。マルコ2:3では、四名の男性たちであった事を伝えています。彼らは「中風をわずらっている人を床に載せて運んで来」ました。イエス様が行かれるところへはどこでも、肉体の病を抱えた人々が癒しを求めてきましたように、この「中風をわずらっている人」もその内の一人でした。「中風」という言葉は「片方がゆるむ」ということばから来ており、身体の一部分の麻痺を指す病気です。それが生まれつきのものなのか、脊髄の損傷によるものか、脳疾患によるものなのか、あるいは徐々に悪化して来たものなのかについては記されていません。ツァラアトとは違って、「中風」という病が社会から隔離されるような病気ではありませんでした。しかし、人が病気になった時、「だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」(ヨハ9:2)と言っている事からも分るように、体が麻痺している人を見て、多くの人々がそれはその人の罪に対する神の裁きであると見る傾向にありました。それゆえ、この「中風をわずらっている人」もそのように非難されて来ていたのであろうと考えられます。しかし、イエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」(ヨハ9:3)と言われるお方でした!
―4―
●ですから、彼は「中風」という病のために、自分でイエス様の元に来る事ができませんでした。しかし幸いな事に、彼には四名の思いやりのある果敢な友人たちがおり、彼を助けてイエス様のおられる「家の中に運び込(んで)」来たのでした。イエス様が「みことばを話しておられた」(マコ2:2)時に、彼を「イエスの前に置こうとし」ましたが、19節に記されていますように、「大勢の人のために病人を運び込む方法が見つか(り)」ませんでした。マルコが伝えていますように、「戸口のところまで隙間もないほど」に「多くの人が集まったため」(2:2)でした。群衆は、誰も中風の人を中に入れるために脇へ寄ろうとする事はありませんでした。群衆の体と心がいわば障壁となっている状況です。
●でも幸いな事に、この中風の人には、何とか現状を打開しようという頼もしくまた果敢な友人たちがいました!家の中に入る事ができないと知ると、彼らは「屋上に上(り)」ました。イスラエルの殆どの家屋が平屋で、屋根は簡単な構造の造りでした。屋根にはいくつかの横木である梁が通っているのですが、その上に木の枝を渡し、更にその上にむしろなどの敷物を敷き、更にその上に土を盛って踏み固めただけのものでした。イエス様がおられるこの大きな家屋には、梁と梁の間には「瓦」が敷かれていたようです。この四名の「男たち」は「瓦をはがし」、その下にある土を取りのけ、木の枝を取りのけ、その中風の人の「寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした」のでした。
2)宣言(5:20)
●静まってイエス様の御言葉を聴いていた多くの人々は、家の屋上から「瓦をはがし」取る音が聞こえて来ました。そして、屋根に用いている木の枝や、土がぽろぽろと部屋の中に落ち始めました。人々は、「はてな・・・何が起きているんだろう」と、いろいろと想像を働かせていたのであろうと思われます。すると、屋根に大きな穴が空き、日の光が差し込み、「寝床」に寝かせられて体の動けない一人の男の人が、ゆっくりと「イエスの前につり降ろ(されて)」きました。劇的な瞬間で、民衆の目は、イエス様がこの事態にどう対処されるのかを固唾をのんで見守っていたのであろうと思われます!?
ア)イエス様の宣言、「友よ、あなたの罪は赦された」(5:20)
―「あなたの罪は赦された!」―
●聖書は、この中風の人または彼の友人たちが何か言葉を発したという事は記していませんが、その中風の人が肉体の癒しを必要としていたという事は見てすぐに分かるものでした。また一方、イエス様が語られた言葉は全く予測不能なもので、衝撃的なものでした!20節で、イエス様は中風の人を含め、この五名の男性たちの「信仰を見て」、その上で中風の人に向かって「『あなたの罪は赦された』と言われ」ました!イエス様はまず初めに、人にとってより重要な救いの必要性について語り掛けられました!イエス様は彼の心の内を見抜いておられ、彼が自分の罪のゆえに悲しみと恐れで震えている事をご存じでした!勿論、彼は癒しを求めてはいるのですが、しかしそれよりももっと重要な赦しを求めている事を知っておられました
●赦しは人類にとって最も大きな必要であり、また神の人類に対する最も重要な賜り物です!赦しは、この世においてまた来たる永遠の天国における祝福をもたらす唯一の道です!(続く)
―5―
イエス様は、「ご自分の民をその罪からお救いになる」(マタ1:21)ためにこの世に来られました!そして、「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」(使10:43)のです!赦しはキリスト教の最大の特徴であり、クリスチャンが宣べ伝える事のできる最も重要なメッセージです!(ルカ24:47/使2:38、13:38)
―赦し、贖いは、旧約聖書のメッセージである!―
●また、赦しはいつも贖い..を提供します!贖いとは何でしょうか?その原型が旧約聖書創世記の3章に記されています。アダムとエバが食べてはならないと神が命じておられた禁断の実を食べて罪を犯した後、自分たちが裸である事を知って恥じ、罪の意識を持つようになりました。あわれみ深い「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って着せられた」(創3:21)と伝えています。神が「皮の衣」を得るには、動物を殺し、その殺された動物から「皮」を取り、そしてその「皮」で「衣」を作らねばなりません。二人が最初に作った「いちじくの葉」の覆いとは比べものにはならない程のしっかりした、長持ちのする覆いの「衣」です!その「皮の衣」とは何を表しているのでしょうか?それは、救い主イエス・キリストの究極の犠牲の死を表しています!イエス・キリストの身代わりの死が恥と罪の意識を覆ってくれるのです!
●主なる神は、ご自分をモーセに対して次のように表しています。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」(出34:6-7)、と!ネヘミヤは主を「赦しの神」(9:17)と呼びました!ダビデは、「数々の咎が私を圧倒しています。しかし わたしたちの背きを あなたは赦してくださいます」(詩65:3)と記しました!そして、ダビデは、「主よ まことにあなたはいつくしみ深く 赦しに富み あなたを呼び求めるすべての者すべてに 恵み豊かであられます」(詩86:5)とはっきり述べました!更に、ダビデは、「東が西から遠く離れているように 主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離される」(詩103:12)と赦しの広大さを表しました!ある詩篇作者は、神の赦しを確信して次のように述べました。「主よ あなたがもし 不義に目を留められるなら 主よ だれが御前に立てるでしょう。しかし、あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます」(詩130:3-4)、と!そしてまた、新しい契約の中で神が約束された赦しを語られる中で次ように宣言されました。「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」、と!それゆえ、預言者ミカは、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ(ます)」(ミカ7:18/新改訳第三版)と声高に語りました!
イ)イエス様の十字架と復活以前と以後の救いについての理解
●中風の男性が真に悔い改めた信仰を持っている事を知られたイエス様は、ご自分の神の権威に基づいて、全き且つ永遠の赦しを彼に与えられました!彼が、イエス様が神であられるという真理を必ずしも理解していたというのではありません。旧約聖書において、人々は自分たちが罪人で、神の裁きを受けるに値する者であり、自分たち自身を救う事ができず、罪を告白して悔い改め、そして神のあわれみにすがる事によって赦されて来ました!中風の男性の人の救いもまさにそうでした!
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●新約聖書に罪を悔い改めている取税人について記されていますが、イエス・キリストの十字架以前に人々がどのように救われるかという事を示す例です!神の宮に上って行った「取税人は」パリサイ人とは違って、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。罪人の私をあわれんでください』」(ルカ18:13)と祈りました。彼のへりくだった悔い改めと神の恵みと赦しを信じる信仰のゆえに、彼は「義と認められて家に帰(る)」(18:14)事ができました、とイエス様は語っておられます!これが、イエス・キリストの十字架以前の救いです!
●一方、イエス・キリストの十字架と復活以降は、救いの信仰の唯一の対象者であられる主イエス・キリストを信じる事から離れては、何人にも救いはありません!(ヨハ14:6/使4:12、17:30-31/1テモ2:5)使徒パウロは、ローマ10:9で次のように語っています。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」、と!イエス・キリストの十字架における犠牲の死のゆえに、神は、「ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」(ロマ3:26)のです!更に加えて説明をしますと、以前も語らせていただいた点ですが、イエス・キリストが十字架で救いの贖いの御業を達成された後は、十字架以前に神を信じて義とされて救われた全ての人々に、このキリストの救いが適用されるのです!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●今回のメッセージは、人類の最大の必要を取り上げました!それは、神の赦しでした!逆に、神の赦しとは、人類に対する神の最大の贈り物でした!神の赦しには、贖いが必要である事を学びました!贖いとは代価を払って買い取る行為を指していました!その代価が、イエス・キリストの十字架での身代わりの死でした!中風の人は、自分の罪のゆえに悲しみと恐れで震えている者でした!肉体の癒しを求めてはいましたが、それ以上に、自分の罪が赦されて自由にされる事を彼は願っていました!それゆえ、イエス様は彼に対して、「友よ、あなたの罪は赦された」と宣言されたのでした!そして、次回のメッセージでは、イエス・キリストが確かに罪を赦す事の出来るまことの神である事を証明されるお方である事を学びます!
【適 用】 それでは、今回のメッセージの適用をしましょう。
●あなたは人類の最大の必要である赦しに気づかされましたか?それに気づくためには、中風の人のように、自分の罪深さに気付かされる必要がありますが、あなたはいかがですか、自分の罪深さに気付いておられますか?そして、神の人類への最大の贈り物が赦しである事にも気づかれましたか?そして、あなたはその贈り物に対して神への深い感謝に溢れていますか?それでは、祈りましょう。
【締めの御言葉】
イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦されました」と言われた(ルカ5:20)。
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 1-5、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2009、 pp.317-322.)
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