『罪を赦す権威 が意味するもの 』 ―「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」― 《 ルカ 5 :1 2 -26 今回は 5 :2 1- 26 》
【序 論】
●私たちは「ツァラアト犯された人」と「中風をわずらっている人」と、その二人を愛と赦しで取り扱われる救い主イエス・キリストを通して、『癒し、赦す救い主』というテーマで御言葉を学んでいます。今回がその三回目で、締めくくりのメッセージとなります。今回は特に、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」というイエス様の質問を通して、『罪を赦す権威が意味するもの!』について学びます。メッセージの流れは、下記のアウトラインの示す通りです。
【全体のアウトライン】
[1]ツァラアトに冒された人を癒されるイエス様(ルカ5:12-16)/済
イエス様へ接近する悔い改めの思いに導かれた罪人
[2]中風をわずらっている人を癒されるイエス様(ルカ5:17-26)/今回(2)
イエス様の罪を赦す権威
1)状況(5:17-19)/済
2)宣言(5:20)/済
3)対峙(5:21-24)/今回
4)結果(5:25-26)/今回
【今回のアウトライン】
[2]中風をわずらっている人を癒されるイエス様(ルカ5:17-26)
イエス様の罪を赦す権威
3)対峙(5:21-24)
ア)イエス様を神の冒涜者と考える宗教指導者たち(5:21)
イ)宗教指導者たちの考えを見抜いて対峙されるイエス様(5:22-24)
4)結果(5:25-26)
ア)霊肉の癒しを通して神をあがめて帰宅する中風の人(5:25)
イ)神の御業に驚き、神をあがめ、恐れに満たされた群衆(5:26)
【本 論】
[2]中風をわずらっている人を癒されるイエス様(ルカ5:17-26)
イエス様の罪を赦す権威
3)対峙(5:21-24)
―1―
ア)イエス様を神の冒涜者と考える宗教指導者たち(5:21)
●「友よ、あなたの罪は赦された」と宣言されたイエス様について、「律法学者たち」や「パリサイ人たち」は、「そのような厚かましくもまた図々しい発言をよくもしたものだ」と思って憤慨したに違いありません!その事が、21節で次のように記されています。「ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考ええ始めた。『神への冒涜を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか』」、と!
●ところで、「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」という彼らの理解には何の誤りもありません!全く正しい真理を、この宗教指導者たちは語っています!罪人を清め、義とし、また再び罪に定める事は決してなさらないお方は「神おひとり」だけです!律法の与え主でありまた律法を犯す者を罪に定めて裁くお方も神のみです!そして更に、罪を永遠に赦す事ができるお方も神のみです!人が犯す全ての罪は、最終的には全て神ご自身に対する罪ですので、本当の意味で、神にしかそれを赦す権限はありません!その一つの例として、ダビデのバテシェバとの罪に関して、彼が神の前に次のように告白している事からも分かります。「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」(詩51:4/口語訳)と告白し、彼は神に自分の犯した罪の赦しを乞いました!
●ところが、「友よ、あなたの罪は赦された」と宣言されイエス様に対する宗教指導者たちの評価は、「神への冒涜を口にするこの人は、いったい何者だ」でした!彼らは、イエス様を単なる人だと決めつけ、受肉された神だとは見ませんでした!罪を赦す権威を主張されたイエス様は、神かもしくは神の冒涜者のいずれでしかありません!その中間はありません!もしイエス様が神の冒涜者であるとするなら、イエス様は単なる良い人間である事はできませんし、預言者の一人である事もできませんし、また単なる道徳や倫理の教師である事もできません!律法学者たちのイエス様への評価はとんでもないもので、全く的外れなものでした!
―冒涜罪―
●「神への冒涜」というのは、罪の中でも最も極悪な罪でした!なぜなら、それは神を直接侮辱する罪だからです!ユダヤ人は、「神への冒涜」を三つのレベルに分けて考えていました。一つ目は、神の律法について悪く言う事でした。それは、ステパノやパウロが、「律法に逆らうことばを語るのをやめません」(使6:13/使21:27-28)と非難され、それは冒涜罪に当るという理由で不当に訴えられた例に見る事ができます。二つ目の更に深刻な「神への冒涜」は、神ご自身を中傷する事、ののしる事、そして呪う事でした(レビ24:10-16/参 出20:7)。しかし三つ目に、「神への冒涜」の究極の形が、神の権利や権限を自分のものとする事でした。すなわち、神の役割を奪ってまるで自分が神であるかのように振舞う事です。この三つ目の、究極の冒涜罪によって、律法学者やパリサイ人がイエス様を訴えているのです!(参 ヨハ5:18、8:58-59、10:33、19:7)すなわち、彼らは、「イエスが、神にしかできない罪を赦す権威と役割を奪って自分のものとしている」と訴えているのです!
―2―
イ)宗教指導者たちの考えを見抜いて対峙されるイエス様(5:22-24)
●22節の前半で、イエス様が、「彼らがあれこれ考えているのを見抜いて....」おられた事が記されています!並行箇所のマルコの福音書によりますと、イエス様が「ご自分の霊で」(2:8)見抜いておられたと記されています。何を意味しているのでしょうか?人の心の中をそして心の奥底の全てを「見抜(かれる)」のは神のみですので、イエス様がここで神ご自身である事を更に証明しています!(1サム16:7/1王8:39/1歴28:9/エレ17:10/エゼ11:5)でも、イエス様は、所詮、「だれの証言も必要とされ」ないお方です!神ご自身ですし、それにイエス様は「人のうちに何があるのかを知っておられ(る)」(ヨハ2:25)事からも、その必要はありません!
●宗教指導者たちは、イエス様が罪を赦す権威持っている者ではく、単なる律法の教師の一人だとか、あるいは神の赦しをその中風の人に伝える預言者の一人くらいにしか考えていませんでした。彼らの口に出さない考えを明るみに出して彼らと対峙すされるために、イエス様は22節の後半で、「あなたがたは心の中で何を考えているのか」と言われました。そして、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と質問をする事によって、彼らに挑戦されたのです!明らかに、その双方とも人間にとっては優しくありません!いや、人間にとっては不可能な事です!しかし、ここで、その事が問われているのではありません!イエス様は誰もが納得する圧倒的な真実をこれから示すために、「どちらが易しいか」と問われました!
●宗教指導者たちの誰もが、神のみが罪を赦す事の出来るお方で、またその罪が病気の根本原因であるという事を知っていました!そこで、人の不幸の根本原因である罪について、そしてその赦しが何を物語っているのかを掘り下げて行きましょう。救いの結末に来るのは、審判(裁き)ではなくて栄化(栄光)です!栄化(栄光)は、信仰者を全ての罪の結果から解放し、その内なる人にもまた外なる体にも永遠にわたる影響を与えます!栄化された信仰者は罪のない完全な霊魂を持ち、そして栄化された完全な体を持ちます!それゆえ、病気と死から完全に解放された者となります!栄化されるためには全ての罪の赦しを必要としますので、受肉された神である救い主イエス様は、この人間世界にある罪の結果を取り除く力をお持ちである事を実証しなければなりません!それによって、赦しも含めて、救い主が罪の影響に勝利する事ができるお方であるという事を証明する事になります!その両方を、イエス様はまさに行おうとされていたのです!
●さて、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」というイエス様の質問に対する答えは何でしょうか?中風の人に向かって、「あなたの罪は赦された」と言うのはより易しいものです。なぜなら、実際に中風の人が赦されたかどうかを裏付ける方法もまたそれを否定する方法もないからです!しかし、他方、「起き」上がって「歩(く)」かどうかは、全ての人にとって明らかな事です!イエス様は誰の目からも明らかな肉体の癒しを行う事を選ばれる事によって、「人の子」すなわち神であられるイエス・キリストが、「地上で罪を赦す権威を持っている」という事を人々が「知(らせよう)」とされました!
―3―
●床に横たわっている中風の人に向かって、イエス様は、「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」と言われました!それは、イエス様が罪そのものに対し、罪の力に対し、そして罪から来る報いに対して、それらを無効にする事ができるのかどうかが分る厳しい...テスト...でした!そのテスト結果を疑う時間なんてありませんでした!なぜなら、すぐにその結果がもたらされたからです!
4)結果(5:25-26)
ア)霊肉の癒しを通して神をあがめて帰宅する中風の人(5:25)
●イエス様の癒しの全てがそうであったように、中風の人の癒しの場合でも完全で瞬間的なものでした!麻痺の影響は残っていませんし、徐々に癒されて行くというのでもありませんし、リハビリ期間をまったく必要としませんでした!そうではなく25節に記されていますように、「彼はすぐにたちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行(き)」ました!ツァラアトの人の場合とは違って、中風の人は伝染性の病気ではありませんので、癒されて後に祭司の元へ最初に出向いて検査を受ける必要はありませんでした。
●人がイエス様によって癒された後によく見られる光景ですが、この中風の人も「神をあがめながら」家路につきました(参/13:13、17:15、18:43)。彼はただ単に自分の肉体が癒されたから喜んだだけでなく、それ以上に、自分の罪が完全に赦された事に大きな喜びを得ました!すなわち、イエス様は罪の影響によってもたらされる肉体の病気に対する力と、罪を赦して罪から来る罪責感から解放する力とを結び付けて一緒に表されました!癒しを行われたお方は、必ず赦す事ができるお方でした!
イ)神の御業に驚き、神をあがめ、恐れに満たされた群衆(5:26)
●この出来事において、キリストに対する応答が二つのグループに分かれています。一つが宗教指導者たちのグループで、もう一つが中風の人とその四名の友人たちそして民衆というグループでした。聖書には記されていませんが、宗教指導者たちの間では、イエス様の圧倒的な癒しの奇蹟の御業にどう反応したでしょうか?おおむね予測はできますが、他の箇所も見ながら彼らの反応がどういったものかを量りましょう。同じルカの6章で、イエス様が「右手の萎えた人」(6:6)を癒されました時に、パリサイ人たちは「怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始め」(6:11)ました。また11章では、悪霊によって「口がきけなかった人が」イエス様によって悪霊が追い出された事によって、「ものを言い始めました」(11:14)。平行箇所のマタイでは、「しかし、パリサイ人たちは、『彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ』と言った」(9:34)と伝えています。イエス様のなされる鮮やかな奇蹟の御業に対して、畏敬の念に包まれて神をあがめるどころか、イエス様に対して怒りを持ち、その御業をサタンの力によるものだと言い、イエス様とサタンとがまるで同盟を結んでいる者と結論づけました!余りにも的を外した反応です!
―4―
●ところが、宗教指導者たちの反応とは反対に、癒された中風の人やその友人たち、そしてそこにいた群衆の反応は逆でした!イエス様の前代未聞の度肝を抜く奇蹟を目の当たりにして、26節で、「人々はみな非常に驚き」ました!そして、彼らは「神をあがめ」ました!更に、彼らは、「恐れに満たされ」ました!この「恐れ」(フォ.ーボス)というのは、恐ろしい状況や出来事によって引き起こされたパニック状態を指した言葉です!また、この「恐れ」というのは、一般的に長期間にわたる不安や心配を表す言葉でもあります。
●そして、ここで最も意義深い三番目の「恐れ」の意味は、神の聖さと力に触れそして神の臨在に包まれた時に抱く「恐れ」です!共観福音書や使徒の働きの中に記された「恐れ」というものは、常にもそのような意味で使われている言葉です(1:12、65、2:9、7:16、8:37、21:26/マタ14:26、28:4、8/マコ4:41/使2:43、5:5、11、9:31、19:17)。そういう意味で、この中風の人の癒しの御業を通して現された「恐れ」は健全なものでした!こような「恐れ」は神に対する畏敬の念を生み出します!そして、この「恐れ」は信仰者に罪を避けさせます!(参/2コリ7:1、11)そして、敬虔な生き方へと導きます!(ピリ2:12)また、この敬虔な恐れは、信者同士が互いに従い合いそして仕えるようにも動機づけます!(エペ5:21)また、「主を恐れることを知っている」(2コリ5:11)使徒パウロは、コリント教会の信徒が偽教師の影響によってパウロが述べ伝えた福音から離れる事を食い止めるために、自分の誠実さについて彼らを説得するよう導かれました!
―不信仰の実態―
●群衆は、26節で、自分たちが「今日、驚くべきことを見た」事を認めましたが、実は彼らの全てがキリストの神性について受け入れた訳ではありませんでした!興味深い事に、並行箇所のマタイの福音書では、「群衆はそれを見て恐ろしくなり神をあがめた」(マタ9:8a,c)とルカと同じように記されていますが、その中のある人は、「このような権威を人.にお与えになった」(マタ9:8)と理解していました。何を言わんとしているのでしょうか?それは、彼らが、イエス様が神ご自身であるというところまで受け入れてはいない事を表していました!
●イエス様の神としての前代未聞の奇蹟の力が鮮やかに現されたにもかかわらず、多くの者たちが信じる事を拒否した事について、使徒ヨハネは次のように述べています。「イエスがこれほど多くの多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」(12:37)、と!(参/1コリ1:22)使徒パウロは、このような愚かで無益な霊的病状について次のように説明しています。
2:1あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた者であり、 2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした(エペ2:1-3)。
―5―
4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。 4:4 彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです(2コリ4:3-4)。
霊的に死んでいる者が神を求める事はありません!罪の中にどっぷりとつかり、その人の内に救われるに値するものは何一つなく、その上この世の神であるサタンが福音に覆いをかけていますので、人間の側には救われる望みは何一つないという事を認めざるを得ません!
●しかし、たった一つだけ希望があります!それが、先程読みましたエペソ人への手紙の御言葉の後に次のように記されています。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。・・・2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださいました(エペ2:4-10)。
霊的に死んでいる人の救いは神にかかっています!神の恵みと選びにかかっています!そこに、希望があります!そこに、教会が宣教に励む希望があります!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●今回は特に、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」というイエス様がなされた質問に込められた真理について掘り下げて学んでみました。イエス様は、罪の赦しと、罪から来る罪責感からの解放と救い、そして罪のもたらす様々な影響からの救いをお与えになる救い主であるという事を学びました!救いの結末に来るのは、審判(裁き)ではなくて栄化(栄光)だという事を学びました!キリストにある救いは、内なる人と外なる人とに永遠に栄光をもたらすものである事を学びました!
●しかし、キリストがなされた誰の目にも鮮やかな奇蹟の御業にもかかわらず、ある人々は心を頑なにしてキリストが救い主である事を認めない者たちがいるという事も学びました。人間は常に、「今は恵みの時、今は救いの日です」(2コリ6:2)、また「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(ヘブ4:7)という御言葉を決して忘れてはならない事を学びました!
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【適 用】 それでは、今回のメッセージの適用をしましょう。
●あなたは今回のメッセージを聞いて、どのような点が心に問われましたか?あなたには永遠に続く救いの希望が与えられていますか?また、あなたは聖書に記された救いの招きに対して、心を頑なにしてはいませんか? 神の恵みがあるよう祈りましょう。
【締めの御言葉】
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るためにー。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」 5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った(ルカ5:23-25)。
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 1-5、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2009、 pp.322-325.)
―7―