『福音の浸透に伴う女性の価値の高まり!』①

―「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」(ガラテヤ3:28)。―《使徒16:11-18/今回は序論&16:11-13》
【前 置】
●前回まで、四回にわたってゲッセマネの園に関するメッセージを取り次ぎました。その中で、ゲッセマネの園における、イエス様の壮絶な苦しみをお伝えしました!救いの御業を成し遂げられるまで、父なる神から引き離されねばならないという、イエス様にとっての最大の試みでした!その後、イエス様は不当な裁判を受けられ、十字架刑に向けて進んで行かれる場面へと移り変わるのでした。ところがその時点で、牧師の冬期休暇を迎える事になりましたので、一旦、ルカの福音書の講解説教をお休みにして、過去に取り次いだ使徒の働きからリメイク版のメッセージをお届けする事にいたします。その大きな変化に関して、会衆の皆さんのご理解をお願いする次第です。
●これから、まずは三回にわたって、使徒の働きから女性に関する内容のメッセージをお届けいたします。そして、それに関連して続いて行くピリピ教会の誕生に関するメッセージを三回にわたって取り次ぎます。ゲッセマネの園に関するメッセージとはかけ離れていますが、きっと多くの事を学ぶ事ができると確信しております!それでは、今回から始まる六回にわたるメッセージシリーズの全体像、すなわちそれぞれのメッセージの主題を確認する事から始めて行く事にしましょう。
【シリーズ全体のアウトライン】
➊二人の女性像!(使徒16:11-18)
Ⅰ.『福音の浸透に伴う女性の価値の高まり!』(使徒16:11-13)/一回目
Ⅱ.『自由にされた女性リディア!』(使徒16:14-15)/二回目
Ⅲ.『束縛された女性!』(使徒16:16-18)/三回目
❷迫害から救いの実へ!(使徒16:19-40)/四回目
Ⅰ.『金儲けをする望みがなくなったのを見て・・・』(使徒16:19-24)
Ⅱ.『主客転倒!』(使徒16:25-34)/五回目
Ⅲ.『毅然とした使徒の態度!』(使徒16:35-40)/六回目
●六回に及ぶメッセージの前半の三回は、『二人の女性像!』というテーマのもとに聖書を紐解きます。その一回目のメッセージの主題が「福音の浸透に伴う女性の価値の高まり!」で、副題が「「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」(ガラテヤ3:28)です。今、世界では性の多様性が叫ばて混乱がもたらされてはいますが、その底辺では、いつの時代にあっても、「男尊女卑」の傾向が強くはびこって来ました!使徒の働きの背景にあるギリシャやローマの社会や文化においても例外ではなく、「女は男に従うもの」だという考えが常識でした。(続く)
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この「男尊女卑」の社会や文化において、女性の価値がどのように高められて行ったのでしょうか?キリスト教の広がりというものが、この偏った価値観に対してどのような役割を果たして行ったのでしょうか?キリスト教が果たした重要な役割について、ご一緒に聖書から学ぶ事にしましょう!それではまず、前半の三回分のメッセージのアウトラインで、その流れを把握する事にしましょう。
【前半三回のメッセージの全体アウトライン】
◎序論:二人の女性に見られる自由と束縛!/今回
◎本論:福音の浸透に伴う女性の価値の高まり!
[1]自由にされた女性(使徒16:11-15)/今回&次回
1)リディアとの出会い、神の計画(使徒16:11-13)/今回
2)リディアの救いと解放と変化(使徒16:14-15)/次回
[2]束縛された女性(使徒16:16-18)/次々回
1)女奴隷との出会い、サタンの束縛(使徒16:16)
2)女奴隷とサタンの働き(使徒16:17)
3)女奴隷の不幸と解放(使徒16:18)
【今回のメッセージのアウトライン】
◎序論:二人の女性に見られる自由と束縛!
1)社会で見られる様々な解放運動
2)本物の解放とは(ヨハネ8:32/他)
3)世界には二種類の人々しかいない(ローマ8:2/他)
4)二人の女性に見られる自由と束縛(使徒16:11-18)
◎本論:福音の浸透に伴う女性の価値の高まり!
[1]自由にされた女性(使徒16:11-15)
1)リディアとの出会い、神のご計画(使徒16:11-13)
ア)福音はヨーロッパへ(使徒16:11-12)
イ)福音はヨーロッパの最初に女性たちへ(使徒16:13)
【序 論】
◎二人の女性に見られる自由と束縛!
1)社会で見られる様々な解放運動
●日本も含め、諸外国で、解放運動と呼ばれる多くの運動が展開されて来ました。表向きでは、弾圧や抑圧や不平等から人々を解放して自由にし、そしてその人々をより高い社会的な地位へと引き上げようというのが、それらの運動が目標としているところです。そうする事によって初めて、人々は充足感を味わう事ができると、それらの運動に携わる人たちは主張して来ました。
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2)本物の解放とは(ヨハネ8:32/他)
●しかしながら、他の全ての社会運動と同様に、解放運動もまた究極的には、彼らの約束とは程遠いものです!心が変えられないままで、人々の社会的地位を変えようと試みても、そのような運動は真の解放をもたらすものではありません!本物の解放を経験する方法は、一つしかありません!その唯一の方法とは、罪と死の束縛から解放される心をもつ事です!イエス・キリストはその真理を、ヨハネ8:32で、次のように語られました。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」、と!そのような真理は、人の努力によって得られるものではありません!預言者エレミヤが、人々へ次のように問い掛けた通りです。「クシュ人が」すなわちエチオピア人「がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう」、と!(エレ13:23)
●霊的な死から永遠の命へ、闇から光へ、サタンの王国から神の王国への根本的な変革というのは、「血によってではなく」すなわちいかなる血筋や家柄によるものではなく、また「肉の望むところでも」すなわち個々人の願いによってでもなく、また「人の意志」すなわち人間が創り上げて来た制度「によってでもなく、ただ、神によって生まれた」者のみに与えられるものです!(ヨハ1:13)このように、キリストにあって新しく生まれるという完全な変革を通してのみ、人は初めて真の充足を味わう事ができるのです!
3)世界には二種類の人々しかいない(ローマ8:2/他)
●それゆえ、この世界には、二つの種類の人々のみが存在しています!一つ目が、「キリスト・イエスに」あって「罪と死・・・から・・・解放」された者です!(ロマ8:2)二つ目が、神に対して「背(いた)」ままで「罪の中に死んでい(る)者」という二種類の人々です!(エペ2:1)別の表現をしますと、神に敵対して罪赦されずに不義のままの奴隷と、神と和解して義とされた奴隷という、二種類の人々しかいません!(ロマ6:16-18)
4)二人の女性に見られる自由と束縛(使徒16:11-18)
●女性解放動というものは、女性へ自由を約束する社会の努力の一つで、その中には良きものが含まれていますが、その運動が、罪と死という根本的な束縛から女性を解放するものではありません!今回を含め三回にわたってメッセージを取り次ぐ前半の使徒16:11-18には、二人の女性が描かれています。自由と束縛という双方の女性の例が記されています。リディアという人は、ヨーロッパにおける最初の異邦人キリスト教回心者で、真に自由にされた女性を指しています!ところが一方、名前がなく、悪霊に憑かれた若い女奴隷は、罪とサタンに束縛された者を指しています!
【本 論】 それでは、本論に入って行きましょう。
◎福音の浸透に伴う女性の価値の高まり!
[1]自由にされた女性(16:11-15)
1)リディアとの出会い、神の計画(使徒16:11-13)
ア)福音はヨーロッパへ(使徒16:11-12)
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―トロアス→サモトラケ→ネアポリス→ピリピ(16:11-12)―
●パウロとその一行は、「アジアで」すなわち現在のトルコの地で「みことばを語ることを聖霊によって禁じられ(まし)た」(16:6)。そして次に、アジアの「ビティニヤア」という北部に位置する地方へ行って宣教する事も、「イエスの御霊がそれを許され(ません)」でした(16:7)。そこで、彼らは西へ西へと導かれて行って、小アジアと呼ばれている巨大な半島で、最終的に行き着いた所が「トロアス」(16:8)という港町でした。その「トロアス」で、パウロは「幻」を通して、「一人のマケドニア人が立って、『マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願する」という導きを神から得ました!「マケドニア」という大地は、エーゲ海を渡った先にあるギリシャ半島にあり、もうそこからはヨーロッパ大陸が広がっていました。福音が、いよいよヨーロッパへ渡る時が来たのです!(この「トロアス」の近くに、世界遺産に認定された「トロイ」があります。紀元前1200年頃に、ギリシャとトルコとの間で起こった戦争の場となった町です。「トロイの木馬」もそこが発祥地です。今では、コンピューターのウイルスの名前でも知られています。)
●16:11で、そこでパウロ一行は、「トロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着(き)」ました。すなわち、アジアの「トロアス」からヨーロッパへ向かう中間地点に「サモトラケ」という島があり、そこで一泊して「翌日」、ヨーロッパ大陸である「マケドニア」の「ネアポリスに着いた」のでした。パウロ一行は、「ネアポリス」で福音を語るのではなく、そこから16Km程内陸に入った「ピリピ」に向いました。
●「ピリピ」という地名は、紀元前359年、アレキサンダー大王の父親に当る「マケドニア」の王ピリピ二世の名にちなんで付けられました。歴史は流れ、紀元後60年頃の使徒の時代には、12節にありますように、「この地方第一の町で、植民都市であった」と伝えています。どの国の植民都市かと言いますと、勿論、ローマ帝国です。「全ての道はローマに通ず」という諺がある程、ローマは軍事上、世界の主要都市へ向けて道路を整備しました。それを「ローマ街道」と呼んでいます。その街道の東の端に位置するのがこの「ピリピ」という都市でした。ローマが建設した道路を、使徒やクリスチャンが福音伝道のために用いました!そしてまた、ローマの支配によって平和が維持されていた時に、福音伝道が前進して行ったのです!全て神の時と神のご支配の中に、初代教会の宣教が進められたという事が分かります!(I see)
イ)福音はヨーロッパの最初に女性たちへ(16:13)
―「安息日」/「祈りの場」(16:13a)―
●12節にありますように、パウロ一行は、福音宣教のために「ピリピ」に「数日滞在し」ました。そして13節で、「安息日」になると、彼らは、「町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をし」ました。使徒パウロの宣教方法というのは、「安息日」には、まずユダヤ人会堂を訪れる事でした。それには、大切な三つの理由がありました。一番目に、もし、異邦人のところへ最初に出入りすると、ユダヤ人から受け入れられなくなりますので、まずはユダヤ人との関りをもつのが、伝道における大切な知恵でした!(I see)二番目に、パウロはユダヤ人であり且つパリサイ人でしたので、ユダヤ人たちは、彼を律法の教師として会堂に迎える事ができました。三番目に、ユダヤ人伝道によって救われたユダヤ人たちが、パウロの異邦人伝道の手助けを行う事ができました。「ピリピ」の場合、ユダヤ人会堂を構成する10人のユダヤ人男性がまだいませんでしたので、パウロ一行は、「祈り場があると思われた川岸に行(って)」ユダヤ人を訪ねたのです。「川岸」というのは、きよめの儀式をするのに必要な水を提供してくれる都合の良い場所でしたので、そこをユダヤ人は集会所として用いていました。 ―4―
●ユダヤ人が教える時には、律法の教師がいつも取るべき姿勢が「腰を下ろ(す)」というものでした。そして、パウロは「集まって来た女たちに話しを」始めたのです。集まっていたのは、女性たちばかりでした。ここでも、「ピリピ」の町にはユダヤ人の数が少なかった事を示していますし、現実問題として、「祈りの場」に集った人々を導くユダヤ人男性リーダーがいませんでした。集ったユダヤ人女性たちは、互いに祈り、旧約聖書の律法を読み、そして読んで学んだ事を分かち合っていたと考えられます。パウロのように旅する律法の教師によって教えを受けるという機会は、ごくにまれな事であり、パウロの訪問はまさにそこに住むユダヤ人たちにとっては特別な時であったに違いありません!
―女性について(1)/使徒パウロとパリサイ人との大きな違い(16:13b)―
●ここで注目したい点は、このヨーロッパ大陸で、パウロが最初に福音を語った人たちとは女性であったという事です!聖書に記された女性の役割に関するパウロの教えを読んで、ある読者たちはパウロを拒みます!パウロを嫌う人々は、彼を「男尊女卑」の首謀者すなわち男性優位主義者だとレッテルを貼るのです!しかし、パウロはそのような偏見を女性に対して決してもっていたのでは決してありません!なぜなら、この「祈りの場」における女性たちのグループに対するパウロの熱心な働き掛けは、彼の女性を尊ぶという態度が十分に見受けられるからです!
●パウロの女性に対する態度は、彼がかつて属していたパリサイ人たちとは全く異なっていました!一般的に、パリサイ人は、女性に対して神の御言葉を教えようとしません!(I see!)そして、彼らは決まって次のような祈りを神に捧げていたのです。「神よ、私は異邦人でもなく、奴隷でもなく、また女性でもない事を感謝します」、と!(Wow)皆さんは、この祈りをどう思いますか?もし、新垣牧師がこのような祈りを礼拝で捧げたら、皆さんはどうしますか?(この教会で、私は生きて行く事はできないでしょうし、教会の畑に速やかに埋められて、その肥やしにされる事でしょう・・・。)
―パウロの女性に対する具体例―
●パリサイ人から回心して使徒となったパウロは、ローマ16:1で、「ケンクレヤにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します」と書いて、女性執事のフィベの働きを価値あるものとして認め、そして彼女をローマ教会の信徒たちへ推薦しています!同じくローマ16:3では、「・・・プリスカ・・・によろしく伝えてください」と女性の働き人の名前をあげて挨拶を送っています。更に、ピリピ4:2-3では、「ユウオディヤ・・・シンティケ」という二人の女性の名前をあげて、「福音のために私と一緒に戦った」人々ですと伝えています。パウロは、紛れもなく女性の尊い価値を認め、主のために奮闘している事を広く紹介しているのです!パウロは、決して男性優位主義者ではありませんでした!
―イエス・キリストの女性に対する取り扱いの模範例―
●使徒パウロが、かつて属していたパリサイ人たちと大きく異なるようになったのは、言うまでもなく彼を救いに導かれたキリストご自身の教えと、その教えに基づく模範があったからでした!まずは、キリストが表された女性に対する対応の仕方が、12弟子の女性に対する考え方を変えました!そしてまた、かつてパリサイ人であった使徒パウロの女性に対する考え方をも完全に変えました!イエス・キリストの具体的な模範例を、いくつか紹介しましょう。
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五人の夫を変えそして六人目の男性と同棲していたサマリヤの女へイエス・キリストが近づかれ、そして彼女を救いへと導かれました!決してそのサマリヤの女の罪を攻めたてて非難する方法ではなく、優しく愛を持って接し、悔い改めと回復へと導かれました!また、キリストは姦淫の場で捉えられた女性に対して、律法の規定による石打の刑ではなくて、罪の赦しと回復とを説かれてその女性を諭されました!また、キリストは悪霊に憑かれた女性を解放へと導かれました!それから、死んだ少女を生き返らせました!更には、自分の子どもが悪霊から解放されるように願ったカナンの異邦人女性の信仰をほめられ、そして彼女の願いに答えられてその娘を癒されました!それからまた、ナインという町に住むやもめが息子を亡くして悲しみに沈んでいたのですが、その子を甦らせて彼女に慰めを与えられました!キリストの女性たちに対する言動は、実に慈愛に満ちたものでした!それらが、キリストに従う全ての男性の模範となって行ったのです!それらが、男尊女卑の世界を変える原動力になって行ったのです!その改革の根本に、実にキリストがおられたのです!(Amen! & Amen!)
―女性について(2)/その当時の世界の女性に対する見方―
●その当時の異教の世界というものは、パリサイ人と比べものにならない程、実にひどいものでした!ギリシャの女性たち、ローマの女性たち、また異教の女性たちは、奴隷のように扱われていました!極端な例を取り上げますと、もし男性が女性の作った食事が嫌なら、法的手続きを経ないで、その女性を殺す権利さえも持っていました!男尊女卑もここまで来ると、実に邪悪なレベルです!食事の面でそうであるのなら、信仰や宗教の面ではどうなのでしょうか?女性が、夫に相談なく別の宗教に乗り替えるなど言語道断でした!そういう世界状況下に、福音が小アジアへそしてヨーロッパへと伝えられて行き、キリスト教信仰に導かれる女性が起こされて行ったのです!(I see!)そのような情勢下で、キリストによって自由にされて解放された女性と、男尊女卑の考え方を根強く持っている夫との間に深刻な問題が生じて来るのは火を見るよりも明らかでした!(Right!)
―聖書の女性観や人間観そして個別の救い―
●旧約聖書の創世記において、神は、最初アダムという男性を創造され、次にエバという女性をその助け手として創造されました。女性は男性の助け手として創造されたからといって、そこに男性が女性よりもより価値が高いと言うような事を、聖書は決して語っていません!男女の役割には違いがありますが、神の前に、男女の価値には違いはなく、それは全く等しいものでした!
●一方、新約聖書は、この点において、何と語っているのでしょうか?ガラテヤ人への手紙で、キリストにあって「男も女もありません」とはっきり述べられています!(3:28b)また、キリストにあって「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人も」ない(3:28a)、とはっきり語られています!同じキリストの十字架の身代わりの死によって救われた者同士の間に、何の差別もない事を示しています!ですから、クリスチャンが礼拝のために教会堂に集まって来る時、それらの人々は、国籍によっても、社会的な身分によっても、男女の性別によっても、また貧富の差によっても、何の差別を設けてはならないのです!ですから、教会では、一人ひとりの人格が尊ばれて対応されるべきです!
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―信者の女性と信者でない夫との関係からくる軋轢そしてその変革―
●女性は男性に当然従属する者だと考えられている世界で、ある女性が夫の同意なくキリスト教信仰に導かれてバプテスマを受けた女性がいるとします。キリストによって自由にされ、解放されたその女性と夫との関係に問題は生じて来ないでしょうか?その夫は、自分に関係なく勝手に信仰を持ったそのような女性に対して怒りをもたないでしょうか?それは、夫にとっては、「俺を無視しやがって」というふうに考えないでしょうか?信者でない夫と信者の妻との間には、このように当然の如く緊張感が走るようにならないでしょうか?
●そのような緊張関係が、キリストにあって自由にされた女性によって生じて来たのです!当時の男尊女卑の世界において、キリスト教が広がる事によって妻が救われ、夫婦の間に緊張や軋轢が生じつつも、妻がそれをキリストによって乗り越えながら、男女が神の前に平等な立場にあるのだという事を次第に社会へ認知させるようになりました!それで、男尊女卑の社会が変革されて行ったという歴史的な経緯があるのです!女性を蔑視するという誤った価値観をもつ世界に対して、キリスト教は、男女は神の前に平等であるという正しい聖書的価値観を植え付けて行ったのです!私たちの先輩のクリスチャンが、神の力を受けて、このように道を開いて行ったのです!(Wow! & Wow!)
―信者の女性の犠牲と忍耐そして女性の地位向上―
●この変革には、言うまでもなく、クリスチャンの女性の側に大きな犠牲と忍耐が伴いました!そのような背景の下で、使徒ペテロはその第一の手紙で、未信者同士で出会って結婚した後に妻がキリスト教信仰に導かれ、信者でない夫とどうかかわるかという困難に対して、次のようなアドバイスを与えています。
3:1・・・妻たちよ、自分の夫に服従しなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。 3:2 夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするからです(ペテ3:1-2)。
男尊女卑という社会状況下で、信者でない夫をキリストにあって勝ち取るという事は決して容易な事ではないのですが、「神を恐れる純粋な生き方」という「妻の無言のふるまいによって」、夫が「神のものとされるため」だと諭しています!このようにキリスト教信仰が広まる中で、キリストにあって自由にされたクリスチャン女性たちの無言の忍耐を通して、徐々に女性の地位が高められて行ったのです!その恩恵は、遠い極東に位置する日本にも伝わって来ました!一家の頭や責任者という点で、男女の役割というものは家庭や教会においては違います!神は一家の頭に夫を立てていますし、また教会の指導者に男性を立てています!しかし、男女の価値というものは、神の前に全く平等なのです!
●一方、使徒パウロは、そのような男尊女卑の厳しい状況下で次のように語っています。
しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです(1コリント7:15)。
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「妻の無言のふるまい」と「神を恐れる純粋な生き方」をもって接しても、それでもなお緊張感や軋轢が続いている夫婦が存在していた事を示しています。(I see)その場合、「信者でないほうの」伴侶が「信者である」伴侶を拒絶して「離れて行くのであれば」、その場合に限っては「離れて行かせなさい」と教えたのです。そうする理由が二つあります。一つ目に、「神は、平和を得させようとして」私たちクリスチャンを「召されたので」、「信者でないほう」の伴侶が自ら進んで離れる事によって平和が得られるのなら、そうする事は神の御旨にかなったものだと教えています!二つ目に、聖書的に許されたクリスチャンの離婚者は、聖書的に再婚する道が開かれるという事をも示しています!
【まとめ】 それでは、メッセージのまとめをしましょう。
●「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使1:8)というイエス様の宣教の約束は確実に成就して行きました!福音が浸透して行く過程において、女性の価値というものが確実に高められて行った事を、キリスト教の歴史が証明しています!
●そして、その改革に当って神が用いられた重要な人物たちが、キリストによって新しく生まれて自由にされクリスチャン女性たちでした!すなわち、キリストの身代わりの十字架によって罪と死から解放された女性たちでした!「みことばに従わない」横暴な「夫」であっても、また神に悪態をついてクリスチャンを迫害するいかなる横暴な者たちに対しても、その人たちをキリストにあって勝ち取って行ったのは、自由にされたクリスチャン女性たちの「無言のふるまい」や「神を恐れる純粋な生き方」でした!現代に住む私たちは、世界の男尊女卑の考え方を変えて行った神の救いの恵みと解放、そしてそこで払われたクリスチャン女性たちの犠牲や忍耐を決して忘れてはならないのです!
【適 用】 それでは次に、メッセージの適用をしましょう。
●男性の皆さんへお尋ねしますが、あなたの中に、男性優位の考え方はありませんか?キリストにあって「男も女もありません」という聖書の男女平等の考えに全く同意していますか?男女の違いは役割だけであって、その両者の価値は神の前に全く平等であるという事を理解していますか?女性の皆さんへお尋ねしますが、あなたはキリストにあって罪と死から自由にされ、解放されていますか?そして、あなたの内に、男性や女性に対する聖書な理解は確立されていますか?男性と女性の双方にお尋ねしますが、互いの存在を価値あるものと認め、家庭においてまた教会において、喜んで協力するという関係を築いていますか?
【予 告】
●次回は、ヨーロッパ大陸で最初にキリストによって救われ、自由にされ、解放された女性である「リディア」に注目します!キリストにあって犠牲を払いそして忍耐した人とはどのような人物であったのでしょうか?!どうぞ、紐解かれる聖書の真理に期待してください。
【結 論】
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。・・・3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです(ガラテヤ3:26、28)。
[引用&参考文献]
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き13-23』(ムーディー出版、2014) (John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Luke 18-24, The Moody Bible Institute of Chicago, 1996, pp. 89-92.)
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