『神の恵みにとどまるように!』―「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(ヘブ10:39)。―《使徒13:42-52/今回は13:42-44》

【序 論】

●聖書は、「福音は・・・信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」(ロマ1:16)と告げています!この「力」と訳されている言葉は、“ドゥーナミス”というギリシャ語が使われており、「ダイナマイト」の語源にもなっています。ダイナマイトが爆発すると物凄い破壊力を示すように、福音を信じる者に対して、福音はダイナマイトのように物凄い変化をもたらす「力」を持っているのだと言うのです!ですから、ひとりの人が信じたら、その影響力はそのひとりの人にとどまりません!周りを巻き込んで影響を与えます!しかし、その逆もまた真なりで、福音がもたらされた結果、物凄く否定的な爆発を引き起こす事もまた本当の事です!なぜなら、福音はその聞き手の仮面を剥がし、その人が無力な罪人に過ぎないのだという事に直面させます!自分を正しい者とする、その自己義や野望を暴きます!ですから、そこにはしばしば否定的な反応が起こり、激怒したり、そして福音のメッセージを拒絶します!

●新約聖書の最初の説教家であったバプテスマのヨハネをはじめ、福音を語るメッセンジャーにとっては皆そうでした!首都エルサレムの宗教指導者当局は、ヨハネに対して、どのような権威が与えられていて、そのような対立的なメッセージを語りまた悔い改めを説くのかと迫りました(ヨハ1:19-20)。説教家の中でも、主イエス・キリストは、当時の宗教権威者たちを最も激怒させたお方です!(I see!)そしてその結果、彼らは、イエス・キリストを十字架によって処刑しました!福音がもたらされた時に、人々の間に不和や分裂が起こる事については、イエス様ご自身が既に述べておられた通りでした!それが、次のお言葉に表れています。

10:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。10:35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。10:36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。10:38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。10:39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです(マタ10:34-36)。

●イエス様は、「平和の君」と呼ばれていますし(イザ9:6)、福音の目的とはそもそも神との平和に導くものです!(ヨハ14:27/ロマ8:6)。しかし、福音を信じた直後というのはしばしば衝突を引き起こします!キリストへ回心するという事は、緊迫した家族関係を招く可能性があります!(マタ10:35-36)私自身の経験からもそうです(父母/部活のコーチや仲間たち)。迫害や殉教に至る事さえもあります!キリストに従うという事は、そのような困難に直面しても、進んで耐え忍ぶという事が想定されて語られてもいます!(マタ10:32-33、37-39)

―1―

●イエス様に続く使徒たちも例外なくそうでした!ペテロが首都エルサレムで説教をすると、首都そのものに騒動を起こし、その結果、使徒たちが迫害に遭いました!ステパノが説教すると、同様に騒動が起きて石を投げつけられて殉教の死を遂げ、その後、教会に対する迫害が巻き起こりました!この使徒の働きを通して見られる事は、福音が説教される時はいつでも分裂が起こり、それが最終章に至るまでずっと続いて行きます!福音は、全ての人々を一つにするのではなくて、むしろ、頑なな者と悔いた砕かれた者とを分けます!御言葉の真理を退ける者とその真理を愛する者とを分けます!救われない者と救われる者とを分けます!(Wow!)

●初代教会時代において、福音に対する反対や抵抗の殆どはユダヤ人たちから起こりました。首都エルサレムにおいては、ユダヤ人が救い主イエス・キリストを退け(ヨハ1:11)、また使徒たちを迫害しました(使4、5、7)。サマリヤにおいては、ユダヤ人の血を引いた魔術師シモンが反対しました(使818-23)。ダマスコでは、パウロがユダヤ人たちから命を狙われました(使9:20-23)。ヘロデ王は、ユダヤ人に気に入られようとしてヤコブを殺し、ペテロを投獄しました(使12章)。第一回の宣教の旅の最初の宣教地キプロスにおいては、既にお伝えしましたように、ユダヤ人の偽預言者バルイエスが反対しました(使13:6-8)。

●今回から二回にわたって学ぶ使徒13章の最後の部分において、福音が説教された時に、ユダヤ人から激しい反対が起こり、町を二分する程に至ります!パウロが語った福音に対する初めの反応は肯定的に見えます。しかし、その後の反応は、否定と肯定との双方の態度が見られます。『明暗を分ける福音』というテーマのもと、今回、一回目のメッセージの主題は『神の恵みにとどまるように!』で、副題が「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(ヘブ10:39)、です。二回に及ぶメッセージの全体の流れは、次のアウトラインが示す通りです。

【全体のアウトライン】

[1]力ある教会の特徴(13:1-13)/済

[2]イエスの福音を宣べ伝える(13:14-41)/済

[3]明暗を分ける福音(13:42-52)/今回

【今回のアウトライン】

[3]明暗を分ける福音(13:42-52)

1)福音に対する初めの反応(13:42-44)

ア)好意的な反応(13:42)

イ)積極的な反応(13:43a)

ウ)告白的な反応(13:43b)

エ)継続的な反応(13:44)

2)福音に対する後の反応(13:45-49)/次回

3)福音に対する反応の結果(13:50-52)/次回

―2―

【本 論】

[3]明暗を分ける福音(13:42-52)

1)福音に対する初めの反応(13:42-44)

―前置き―

●現在のトルコに位置しますが、当時はガラテヤと呼ばれていた地方に「ピシディアのアンティオキア」という町があり、そこのユダヤ人会堂で語られたパウロの説教に対して、二回のメッセージを通して、人々の明暗がどう別れるのかという点に目を留めながら、信仰や救いについて学んで行く事にします!『明暗を分ける福音』の一回目のメッセージは、四つの肯定的な反応を通して御言葉を学んで行く事にします。

ア)好意的な反応(13:42)

●それでは、一番目のポイントである42節に目を留めましょう。「ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ」とありますので、パウロの説教に対するこの会堂の人々の反応は、キリスト教の福音に対して、かなり肯定的な関心を示している事が分かります。

●過去四回の礼拝でパウロのメッセージを取り上げましたが、大体どんな内容であったのかをおぼえておられるでしょうか?ユダヤ人の会堂ですので、まず取り上げた事は旧約聖書に記されている歴史でした。アブラハムから始まる「父祖たちを選(ぶ)」事から始まり(13:17)、エジプトでの奴隷生活、40年間の荒野の旅、カナンの約束の地の征服について語りました。そして、「さばきつかさたち」(13:20)や預言者たちまた王たちを遣わし、いかに神がご自身の主権を持ってイスラエルを選ばれ、守られ、そしてお世話をして来られたのかを語りました。その中でも特に、イスラエルの最も偉大な王であるダビデについて語り、その子孫から旧約聖書の預言に従って救い主イエス・キリストが神によって送られる、という内容で語られました。

●パウロのメッセージの中で、一点以外、何ら不愉快な内容はありませんでした!その不愉快な内容とは、彼のメッセージで九回も出て来る「イエス」という名前でした(13:23、27-29、31、33-34)。その名前は、「ナザレのイエス」(マコ10:47/ルカ18:37)と呼ばれ、ユダヤ人たちからはさげすまれていた地名、「ナザレ」がついた名前でした。イスラエルの北の田舎のガリラヤの、しかも最もさげすまれた「ナザレ」から救い主が誕生するという事自体、南のユダヤに位置する首都で、宮のあるエルサレムに拠点を置く宗教指導者たちや人々からは、到底受け入れられないものでした!(I see)しかし、これは、イエス・キリストが「苦難のしもべ」(イザ9:1-2)として来られ、しまいには十字架の苦難を味わうという事を示す意味があって付けられた呼び名でした!それゆえ、イエス・キリストが敢えてそう呼ばれていたのでした!この「ピシディアのアンティオキア」の町の人々が、もしその真理を理解していたのであれば、彼らは、エルサレムで頻繁に起こったような強行手段によって、反対をするような事は少なくともなかったものと思われます。

●もう一度42節に戻りますが、「ピシディアのアンティオキア」の人々は、パウロに対して「次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ」のでした。このように、素晴らしい説教家のしるしというものは、聖書の福音に対して人々の興味や関心を引き起こすところにあります!使徒パウロは、まさにそのような説教家でした。(続く)

―3―

パウロが使徒17章の「べレア」という地のユダヤ人会堂で説教した時には、会衆は、「非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(使17:11)とあります。「毎日聖書を調べた」たいと思わせるほど、ベレヤの会衆はパウロの聖書の解き明かしに惹きつけられていました!また、パウロがギリシャの首都アテネでメッセージを語った時には、ある人々が「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」(17:32)、と引き続きパウロのメッセージに関心を示しました。そういう意味で、パウロは、人々の心を福音へ向ける力ある素晴らしいメッセンジャーでした!

●一方、聞き手が只聞いているだけでいいのかというと、聖書はそうは言っていません。聖書は、福音を聞く人々に対して、「見よ、今は恵みの時、今は救いの日」(2コリ6:2)なので、「今日、もし御声を聞くなら」、すなわち福音のメッセージを聞くなら、イスラエルの民のように「心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に神に逆らったときのように」、と警告を発しています!(ヘブ3:7-8/詩95:7-11)。この「ピシディアのアンティオキア」の人々は、どうだったのでしょうか?その反応の更なる詳細については、次回のメッセージでも引き続き取り上げて行きます。

イ)積極的な反応(13:43a)

●二番目のポイントである43節に進みましょう。パウロのメッセージに耳を傾けた多くの人々が、肯定的な反応を示しています。前半部分では、「会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちがパウロとバルナバについて来たので、二人は彼らと語り合い」と伝えています。彼らは、パウロのメッセージを通して、自分たちの心にかなり訴え掛けられるものがありました。それで、彼らは次の安息日までは待てませんでしたので、集会後にもっと聞きたいと願ったのでした。その人々は、ユダヤ人と異邦人の両方の人々でした。これまでもお伝えして来ましたが、神を敬う改宗者たちとは異邦人たちではありますが、ユダヤ人と同じように割礼までも受けてユダヤ教に改宗した人々です。彼らは会堂を出てからも、アンティオキアの町の通りを共に歩きながら対話を続けたのです。彼らのメッセージに対する開かれた心やもっと真理を知りたいという願いは、二人の宣教師たちを大いに励ましたに違いありません。

ウ)告白的な反応(13:43b)

●そして、三番目のポイントですが、同じく43節後半に記されている対話の最後で、パウロとバルナバは次のように対応しています。「二人は彼らと語り合い、神の恵みにとどまるように説得した」、と!パウロとバルナバの対応の言葉は、何を意味しているのでしょうか?このパウロとバルナバの勧めの言葉の意味を理解する事は非常に大切です!本当に信仰を持つという事がどういうことなのか、それを指し示している重要な言葉だからです!ここで、対話には表れてはいない双方のやり取りの内容を読み取る必要があります!そこに隠れている言葉が何かと言いますと、パウロのメッセージを聞いた人々の中から、ある人々が、明らかに「私は信じます」という告白をしたのだと思われます!それゆえ、パウロとバルナバが、「神の恵みにとどまるように」という応答をしているのです!

―4―

●さて、ポイントは、二人がどうしてそういう勧めをしたかという事です!?聖書から福音のメッセージを聞いた聞き手が、「私はイエス・キリストを信じます」と信仰の告白をした時に、その信仰が本物であるか否かというのは、直ぐには判別できないからです!(Wow!)どういう意味でしょうか?聖書から福音のメッセージを聞いて「私は信じます」と信仰を告白した者の信仰が本物かどうかの判断は、「神の恵みにとどまる」事によって初めて証明されるからです!(That’s right!)

―四つの土壌のたとえ(マタ13章/マコ4章)からも共通して言えること!―

●それは、イエス様が福音書で話された四つの土壌の譬え(通常「種蒔きのたとえ」)からも言える事です。種が地に落ちて、少し時間が経って芽を出し、またもっと時間が経って成長し、そして更に時間が経って実を実らせます。その種が本当に実を結ぶかどうかは、ある程度の時間が経過してから初めて分かるように、救いについても、福音の種が薄い岩地という心の中に落ちたのか、いばらという心の中落ちたのか、それとも良い地という心の中に落ちたのかを判断するには、福音の種が蒔かれた時ではなく、福音の種が蒔かれてから暫く時が経過してからです!ですから、救いの真理をよく理解しているパウロとバルナバは、「神の恵みにとどまるように説得した」のです!すなわち、この「神の恵みにとどまる」というのはと、福音のメッセージに正しく応答して、救い主イエス・キリストを本当に信じて確かに救われた人を指している言葉であるからです!

―聖徒の堅忍!―

●この「神の恵みにとどまる」という真理を別の言葉で表現しますと、「聖徒の堅忍」と言います!(別紙提示)神学用語です!「堅忍」とは「堅」く「忍」ぶ)事ができるという意味です!すなわち、本物の信仰とは、堅く忍耐して「神の恵みにとどまる」信仰を指しています!真の救いの信仰のしるしは堅忍です!これが、パウロとバルナバが伝えたい重要な点なのです!「神の恵みにとどまる」という点については、イエス様ご自身は、次のように表現を変えて語っておられました。

8:31・・・「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします(ヨハ8:31-32)。

また、ヨハネ15章で、イエス様は次のように語られました。

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます(ヨハ15:4-6)。

一方、使徒パウロは、コロサイ書では次のように述べています。

・・・あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません・・・(コロ1:23a)。

―5―

―神の恵みにとどまらなければ、どのような危険に陥るのか?―

●ここでもう少し掘り下げて考えたい事は、この「ピシディアのアンティオキア」の人々が「神の恵みにとどま(って)」いなければ、どのような危険なところへ陥って行くのかを、パウロとバルナバは容易に推測する事ができました。その危険なところとはどのようなところなのでしょうか?彼らが、「神の恵みにとどまる」事ができなければ、どのような試みに直面する事になるのでしょうか?その答えは、前回のメッセージで触れた律法主義に戻ってしまうという誘惑や危険性です!パウロのメッセージを聞いた人々で、キリストの福音が本物であり真理であると頭では分かっていても、まだ救いの信仰を持つまでには至っていない人々にとっては、律法主義の基盤で成り立っているユダヤ社会や文化かから来る圧力に負けてしまう恐れが十分にありました!(I see!)その圧力に負けてしまうと、神の恵みによる救いから離れて、自分の良い行いによって救いを得ようとする律法主義に陥る事になります!また、ユダヤ教の儀式を守っていれば救われるという、儀式主義に戻っていく危険性が十分にありました!

●ですから、そのような危険な立ち位置に置かれている者たちに対して、使徒パウロは、ガラテヤ書で次のように警告を発しています。

5:4 律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。5:5 私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから(ガラ5:4-5)。

また、迫害のゆえに苦しんでいるユダヤ人クリスチャンが、律法主義に戻る事を防ぐために、ヘブル書の著者は次のように警告しています。

10:38 「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」10:39 しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です(ヘブ10:38-39)。

これらの御言葉から、神は、私たちに何を伝えているのでしょうか?良い行いによって義とされそしてそのように救いを求める人々は、神の恵みとイエス・キリストを捨て去る事になり、永遠に罪に定められるものになってしまうのだ、と警告しているのです!

―聖徒の堅忍の土台は、神の保持であり、神の堅忍である!―

●これまで、私たちは、「神の恵みにとどまる」という「聖徒の堅忍」について、御言葉をいくつか取り上げて来ました。また、神の恵みと信仰による救いから離そうと、良い行いによって救われるという律法主義や儀式主義に対する警告の御言葉もいくつか取り上げて来ました。ここで、確認しておきたい点が一つあります。いかがでしょうか?「神の恵みにとどまる」クリスチャンは、自分の頑張りによって、「神の恵みにとどまる」と言っているのでしょうか?「聖徒の堅忍」を支えているのは何なのでしょうか?

―6―

●その答えは、勿論、人が頑張りで、「神の恵みにとどまる」事なんてできるはずがありません!クリスチャンが「神の恵みにとどまる」事ができるのは、ひとえに、神がとどまらせてくださっておられるからに他なりません!その事も、神学用語でお伝えしますと、「神の保持」と言います!(別紙提示)信じて救われた者が「神の恵みにとどまる」事ができるのは、その信じる者を神が保持してくれるからなのです!(Wow & Amen!)アーメンでしょうか!これは大切なポイントです!この真理は、次の御言葉によって、圧倒的に確かな約束とされています!

■6:39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。・・・10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。10:29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません(ヨハ6:39、10:28-29)。 (Wow!)

■高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません(ロマ8:39)。 (Wow!)

■あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです(ピリピ1:6)。 (Wow!)

■あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています(ピリピ1:6)。 (Wow!)

―まとめ―

●クリスチャンが「神の恵みにとどまる」事ができるのを「聖徒の堅忍」という言葉で表しましたが、その「聖徒の堅忍」は「神の保持」のゆえであり、それは根本的に「神の堅忍」(別紙提示)という土台に成り立っているという事を示しています!(Wow! & Wow!)

エ)継続的な反応(13:44)

●最後の第4番目のポイントです。44節では、「次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た」と伝えています。「ピシディアのアンティオキア」の人々の反応は、一時的に信仰を告白してそして去って行くような人々とは異なっていました。パウロのメッセージの聞き手の関心というものは、一週間に亘って持ちこたえているのです。彼らは、一週間後に戻って来て、自分たちに対するパウロのメッセージを切望して待っていたのです。そして、パウロのメッセージを一週間前に聞いた彼らの熱意は周りの人々へ伝わって行き、何と、「ほぼ町中の人々が」パウロとバルナバが宣言した「主のことばを聞くために集まって来た」のでした!

7―

―次回の予告/次の45節と50節の反応が意味するもの・・・?―

●この「ピシディアのアンティオキア」の宣教の働きはスムーズに行っているように見受けられます。ところが、次回のメッセージで扱う次の45節と50節のユダヤ人たちの反応は、物凄く否定的なものでした!「パウロが語ることに反対し、口汚くののし(り)」(13:45)、しまいには「二人をその地方から追い出した」くらいでした!(13:50)ですから、人は「信じます」と告白した瞬間に本物のキリスト教信仰を持つに至ったかどうかという事は、その瞬間には判別できないという事を物語っています!その後、「神の恵みにとどまる」という信仰者の姿を見て初めて判断する事ができるものなのです! (Wow & Yes!)

【まとめ&適用】

●今回から二回にわたって、『明暗を分ける福音』というテーマでメッセージを取り次ぎ始めましたが、その一回目のメッセージは、『神の恵みにとどまるように!』でした。本物のキリスト教信仰を与えられた人の最大の特徴は、『神の恵みにとどまる』という事です!この理解は重要です!そしてその信仰者は、「恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」と語ります!(ヘブ10:39)今回のメッセージは、あなたの救いに対する理解を深めるものとなりましたか?あなたの救いの理解を修正するものとなりましたか?あるいは、その両方ですか?

●愛する皆さん、あなたは、「恐れ退いて滅びる者」ですか?それとも、「信じていのちを保つ者です」か?救いに関する自分の考えや理解が先行していませんか?それとも、キリストのお考えが、それが記されている聖書の教えがあなたの考えや理解よりも先行していますか?あなたは、「神の堅忍」に対して、溢れるばかりの感謝の思いがありますか?自分が、主の前に「信じていのちを保つ者」なのかを吟味して行きましょう。 それでは、祈りましょう。

【結 論】

■「・・・神の恵みにとどまるように説得した」(使徒13:43b)。

■「・・・私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(ヘブル10:39)。

[参考&引用文献]

 ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き13-28』(ムーディー出版、1996)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Acts 13-28, The Moody Bible Institute of Chicago, 1994, pp.29-35.)

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