『畑にいた兄息子!』 律法主義者である兄息子VSあわれみ深い忍耐で「祝宴」へ招く父親③-5 ――《ルカ15:11-32/今回は15:25-30》―
【前 置】
●前回のメッセージにおいては、愛と赦しと和解によって弟の放蕩息子を受け入れてくださった父親を通して表された神について学びました。今回から二回にわたって、三人目の「兄息子」に焦点を当てて御言葉を学びます。「兄息子」とはどういう人なのか。その一番の問題点は何なのか。その問題点ゆえに、「兄息子」はどういう生き方をして来たのか。そして、「兄息子」とは対照的に、父親はどういう人なのか。父親を通して、イエス様が伝えられた真理は何なのか。それらの点を取り上げて、イエス様のたとえ話をじっくり学んで行きます。
●15章25節から30節までの六節にわたるこの箇所は、「兄息子」に関しては6項目そしてと父親に関しては2項目、合わせて8項目のポイントから成り立っています。そしてメッセージの最後で、これらの多くのポイントを要約し、その内容をより把握しやすいものにします。
●今回のメッセージの主題は『畑にいた兄息子!』で、副題が「律法主義者である兄息子VSあわれみ深い忍耐で『祝宴』へ招く父親」です。それでは、アウトラインでメッセージの流れを確認しましょう。そして、紐解かれる御言葉の真理に霊の目を向ける事にしましょう。
【全体のアウトライン】
◎序 論:三つ目のたとえ話、その特徴と背景/済
◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)
[1]弟息子(ルカ15:11-19)/済
[2]父 親(ルカ15:20-24)/済
[3]兄息子(ルカ15:25-32)/今回&次回
1)父親に対する兄息子の恥ずべき反応(15:25-30)/今回(5回目)
2)兄息子に対する父親の恥ずべき応答(15:31-32)/次回(6回目)
[4]実際に起こった悲劇的な結末
[5]続く栄光の救いの御業
[6]救いの「祝宴」への招き
【今回のアウトライン】
◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)
[3]兄息子(ルカ15:25-32)/1回目
1)父親に対する兄息子の恥ずべき反応(15:25-30)
ア)「畑にいた」兄息子(15:25-26)
イ)弟息子を「迎え」、和解した父親(15:27)
―1―
ウ)父親の弟息子への対応に「怒っ(た)」兄息子(15:28a)
エ)弟息子の時と同じあわれみで兄息子を「なだめた」父親(15:28b)
オ)父親に「仕え(た)」事は、奴隷以外の何ものでもなかったと告げる兄息子(15:29a)
カ)「戒めを破ったことは一度もありません」と断言する兄息子(15:29b)
キ)「友だちと」祝うようにと言わない父親の不公平と不当性を責める兄息子(15:29c)
ク)「そんな息子のために肥えた子牛をほふられるとは」と、父親の偏愛を非難する兄息子(15:30)
【本 論】
[3]兄息子(ルカ15:25-32)/1回目
1)父親に対する兄息子の恥ずべき反応(15:25-30)
ア)「畑にいた」兄息子(15:25-26)
●それでは、聖書本文に取り組んで行きましょう。25節の前半で、「ところで、兄息子は畑にいた」と記されています。兄はそこで一日を過ごし、労働者たちの監督に当たっていましたので、「弟息子」が帰って来た事やその後の「祝宴」について知る由はありませんでした。そして続く25節の後半で、彼が「帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてき」ました。「兄息子」は、父親と弟の和解については何も知りませんし、またこれまで聞いた事のない祝いの音が響き渡っていました。大きな屋敷全体に、自分にとっては全く未知の、村を上げてのお祝いが進行中である事に驚かされました。その中で、恐らく、人だかりの端にいる若者に対してだと思われますが、「兄息子」は、26節で、「しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ね」ました。
●「兄息子」は第一子であり、長男として、本来お祝いを計画する責任をもっているのですが、彼自身はそのお祝いの中には入っていません。更に、「兄息子」は家督を相続しているのですから、お祝いで用いられているものは全て彼の財産でした。でも、彼には何の相談もありませんでした。彼の父親は既に残っている財産の三分の二を長男に分け与えてはいましたが、法的には、その財産を用いるに当たって許可を得る必要はありませんでした。その財産に対する使用権という法的な権利によって、父親自身が生きている限りにおいては、家の財産を支配する権利を父親自身が持ち続けていました。
●しかしここで、父親が「兄息子」に相談できなかったという点に関しては、繰り返しになりますが、「兄息子」が父親と何の関係ももっていなかったという事を示すものでした!(I see)そしてまた、「弟息子」とも、何の関係ももっていなかったという事を同様に示していました!家族との関係という点において、「兄息子」は、比喩的にもまた実際上でも、25節の冒頭に記されていましたように、彼は遠い「畑にいた」のです!(Wow)父親に対しまた「弟息子」に対して、「兄息子」は距離がありました!
イ)弟息子を「迎え」、和解した父親(15:27)
●「しもべ」は「兄息子」に対して、27節で次のように答えました。「あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです」、と!弟が戻って来てそしてお父さんが寛容にその息子を受け入れたという称賛に値する報告は、本来ならば、お兄さんを喜びで満たすに違いありません!(続く)
―2―
しかしそうではなく、父親が放蕩三昧した息子を完全に受け入れて「迎え(た)」事に対して、兄は憤慨し、激怒しました!そして、更に悪い事に、父親は、弟が財産を浪費した事に対してその分を返却させようとしているのではなく、またその犯した罪を咎めようとしているのでもなく、弟と既に和解してしまったという事を認識しました!( I see)なぜ和解した事が分かるのかと言いますと、この「無事な姿」と訳されている言葉が、70人訳聖書(ヘブル語の旧約聖書をギリシャ語に訳した聖書)では、「平和」に言及された言葉であるという点から、只単に、それは「弟息子」の肉体的な健康を指しているだけでなく、和解にも至ったという事を示しているからでした!(I see)
ウ)父親の弟息子への対応に「怒っ(た)」兄息子(15:28a)
●年上の反逆者である「兄息子」は、父親と弟に対する自分の恨みや腹立たしい思いを、何年にもわたって巧みに隠し続けて来ました!(I see)弟のように、兄の方もまた、初めからずっと邪悪な者ではあるのですが、それは内に隠されて来ていましたので、外には現れてはいませんでした!(I see)しかし、今回のこの弟の放蕩生活からの帰宅によって、彼の内に隠れていた本当の思いが露わにされたのです!これまで長きにわたって内に溜め込んで来た憎しみが人前で激しく込み上げて来る中、28節の前半で、「兄は怒って」、他の人たちとお祝いをするために「家に入ろうともし」ませんでした!兄は、いなくなっていた弟の回復を喜ぶ事ができませんでした!なぜなら、彼は自分の父親に対する何の愛ももっていなかったからです!(I see)彼は、値しない者が受ける恩情、熱い情けというものを理解する事はできませんでした!彼はまた、ただで与えられる赦しを理解できませんでした!そして彼は、父親の例で分かりますように、父親自身は弟の放蕩息子によって傷ついてはいますが赦す権威をもっており、その赦すという行動によって、弟が恥から解放され得るという事を理解する事ができませんでした!
●ところで、パリサイ人や律法学者たちは、この「兄息子」の反応を高く評価したに違いありません!彼らは、心の中で、きっと次のように思ったことでしょう。「ああ~、この放蕩息子の恥ずべき罪とその息子に対する父親の恥ずべき赦しに対して、兄は自分の面目と名誉を保って、とうとう、怒りの内に正しい行動を取った」、と!(I see)彼ら宗教指導者たちは父親の行動に憤慨し、それを恥ずべきものだと考えていたに違いないからです。それは丁度、キリストが取税人や罪人たちと関わられ、付き合われている事に憤慨し、それは恥に値ずべきものだと考えたのと全く同じ事でした!(参/マタ9:11)(I see)
●宗教指導者たちがそうであったように、「兄息子」は律法主義者であり、それは偽善者を意味していました!上辺では、自分に期待されている事を行い、しかし内面おいては、隠れた罪に満ち溢れている者でした!(I see)どのような隠された罪を、「兄息子」は内に秘めていたのでしょうか?それは、父親と「弟息子」に対する苦々しい思いであり、憎しみであり、妬みであり、怒りであり、そしてありとあらゆる欲望でした!(マタ23:28)それは丁度、イエス様が律法学者たちに対して、マタイ23:28で指摘されたお言葉のようにです。「おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ」、と!(I see)
●真実は、「兄息子」は放蕩した「弟息子」よりも更に深くまた本当に失われた者であったのです!(続く) ―3―
なぜなら、「兄息子」は、自分が良い人でありまた道徳的に正しい人であるという事を自分自身に納得させ、且つまた他の人々に対してもそれを納得させるために、その生涯を送っていた者だからです!(I see)実に、そうする事が、自分自身がひどく悲惨な罪人であるという認識をもつ事を阻ませていました!(I see)それがパリサイ人や律法学者たちにも同様に言える事で、彼らは自分たち自身が「罪人」ではなく「正しい人」たちだと考えていたがゆえに、悔い改めに至らなかったのです!(マタ9:13)(I see)
エ)弟息子の時と同じあわれみで兄息子を「なだめた」父親(15:28b)
●宗教指導者たちとは対照的に、28節の後半において、「弟息子」に対して示していた同じあわれみ深い忍耐をもって父親が「出て来て」、「祝宴」に来るよう兄息子を「なだめ」ました!この父親の行動は、罪人が救いに来るよう懇願する、イエス・キリストを通して表された神を象徴しています!(参/エゼ18:31、33:11、ルカ19:10)「兄息子」に対するこの父親の行動は、またもや、独善的なユダヤ人たちを驚かせたに違いありません!彼らが期待したのは、罪深い放蕩息子である弟のために「祝宴」が開かれ、そこに入って混じり合う事を願わない兄が称賛される事でした!しかし、「祝宴」を催した父親の愛は、「兄息子」の律法に対する熱意や献身を遥かに上回り、圧倒するものでした!
オ)父親に「仕え(た)」事は、奴隷以外の何ものでもなかったと告げる兄息子(15:29a)
●父親の名誉に対しまた弟の祝福に対して激しい非難を兄が浴びせる中で、兄がこれまで内に溜め込んで来た怒り、苦々しさ、恨み、腹立たしさというもの全てが一挙に溢れ出ました!(I see)29節の「兄息子」の言葉に注意を払いましょう。日本語の聖書は、古い訳の口語訳以外は全て、「私はお父さんにお仕えし」と訳しています。しかし、ギリシャ原語では、「お父さん」という言葉は使われていません!「あなた」という言葉が使われています!すなわち厳密に訳しますと、「私はあなたに仕え」という風になります!日本語の翻訳上、「私はお父さんにお仕えし」というふうに訳する方が、日本文化においてはぴったりくる表現となるので、そう訳したのだと推測されます。しかし、ギリシャ原語ではそうではないのです!「弟息子」は18節と21節で、父親に向かって「お父さん」と呼び掛けていますが、他方、「兄息子」は父親に向かって、「お父さん」とは呼び掛けてはいないのです!(I see)何を意味しているでしょうか?それは、「兄息子」の父親を敬わない、無礼な態度を示しています!
●そして、ぶっきらぼうに、29節の鍵括弧の中で、「兄息子」は冒頭で次のように語っています。「ご覧ください」、と。これもむしろ、「見てください」とか「このとおり」と訳した方が、その時の「兄息子」の憤った心境をよく表すものと思われます。そしてそれに続いて、「長年の間、私はあなたにお仕えし(て)」来ました、と語りました。この「お仕えし」という言葉は、「奴隷のように仕える」という言葉が使われています!(I see)「奴隷」はギリシャ語で“ドゥーロス”で、奴隷のように働くが“ドゥレウオ”です!英語の現代訳(TEV:Today’s English Version/The Good News Bible)では、「私はあなたのために奴隷のように働いて来ました」と訳しています!その訳は、「兄息子」の本心を実によく表現した翻訳です!
●「兄息子」にとっては、「長年の間」、父親の下で働く事は、奴隷以外の何ものでもなかったのです!(I see)父親に対する愛と尊敬は、「兄息子」にはありません!父親の下で働く事は、只単に、骨の折れる労働であり、苦役でしかありませんでした!(I see)(続く) ―4―
ゆえに、「兄息子」は父親が死ぬ事を待ちわびており、死後、その財産を受け継ぐ事を待ちわびています!兄が願っていた事は、実に弟が願っていた事と同じであったという事が、ここで明らかになりました!(I see)兄が父親から受け継ぐ事のできる財産の全ては自分が使うためであって、それを得るために、弟とは違う方法を選んだに過ぎないのです!(I see)両息子とも同じく邪悪です!
カ)「戒めを破ったことは一度もありません」と断言する兄息子(15:29b)
●そして引き続き、29節の中盤で、兄は、「私は・・・、あなたの戒めを破ったことは一度もありません」と断言しました!これと同じ内容の言葉を、富める若き青年指導者も次のように断言しています。「私は少年のころから、それら」律法の「すべてを守ってきました」、と!(ルカ18:21)自分は良い人であると考えるのは偽善者を意味し、それは自分を欺いている人です!自分を欺くという罪人の驚くべき性質を反映したこの「兄息子」は、自分は父親のいかなる命令も「破ったこと」はないという錯覚の下に生きていたのです!(I see)建前では完全な態度を表している兄と、「弟息子」を情け深く取り扱う恥ずべき態度を表している父との間におけるやりとりです。「兄息子」は実に、自分自身を「悔い改める必要のない九十九人の正しい人の」一人だと見ていたのです!(ルカ15:7)(Wow)
キ)「友だちと」祝うようにと言わない父親の不公平と不当性を責める兄息子(15:29c)
●父親は不公平で且つまた不当な振る舞いをしていると訴える事によって、「兄息子」の父親に対する不満や悪感情が続けて噴き出して来ます。29節の後半で、「その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹」すなわち「肥えた子牛」よりも遥かに価値の低い「子やぎ一匹」さえも「下さったこともありません」、と言って不満をぶつけました!この不満に満ちた言葉には、どのような意味が含まれているのでしょうか?それには、二つの意味があります。一つ目に、彼は、自分の律法主義が称賛されていないという事を訴えています!「自分がどれだけ奴隷のようにあなたに仕えて働いて来たか分からないのですか」、と!(I see)しかし、天は、そのように自分は正しい人であると主張する独善者に対して、決して「祝宴」を催しません!
●二つ目に、彼にとって、「祝宴」を共にする本当に重要な人々とはいったい誰なのでしょうか?彼自身が一緒になって「祝宴」を楽しみたいという人々は、いったい誰なのでしょうか?それは、彼の家族ではありません!(Wow)29節の後半に記されていますように、彼の「友だち」です!彼の家族ではないのです!いかがでしょうか、パリサイ人がパリサイ人としか付き合わなかった、という点を連想させませんか?!(I see)兄には、所詮、家族と祝うという気持ちがないのです!すなわち、彼の頭には、家族の長である重要な父親とその家族や親族、そしてその家族に仕える多くの人々と祝う気持など毛頭ないのです!(I see)前述しましたように、彼は父親をそして家族を愛していません!
ク)「そんな息子のために肥えた子牛をほふられるとは」と、父親の偏愛を非難する兄息子(15:30)
●加えて、「兄息子」は父親の誠実な務めを無視し、弟に対してえこひいきしているとして、父親を非難しました!兄は弟を自分の弟として認める事を拒み、またその名前を口に出す事すらも拒みました!兄は、軽蔑の思いを込めて、30節の中盤で、弟について、「あなたの息子」だと原語では言い切り、父親へ宛て付けて語っています!(I see)そして引き続き、兄が弟について言及する場面では、可能な限り弟を黒く描いて、次のように語っています。(続く) ―5―
弟は、「遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした」、と!そして、それにもかかわらず、父親がとてつもなく盛大な「祝宴」を開き、そのために「肥えた子牛を屠(った)」と言って、父親を非難しました!
―小まとめ/「兄息子」が表している宗教指導者たち!―
●このたとえ話で描かれている内容というものは、肯定的にもまた否定的にも、私たちの心を打ちます!律法主義の「兄息子」は一人闇の中に立って「祝宴」には加わらず、恵み深い父親を非難しています!しかし同時に、その恵み深い父親は、「弟息子」の回復を喜ぶ「祝宴」で尊敬され、称賛されています!「兄息子」の言動は、如実に、パリサイ人や律法学者たちを描いています!彼らは悔い改めませんし、独善的で、外側を飾る偽善者たちであって、イエス・キリストを罵倒し嘲(あざけ)る者たちです!イエス・キリストとは、罪人と和解するために来られた神が受肉されたお方で、全てのユダヤ人宗教社会が退けたお方でした!それらの人々は、天の「祝宴」に加わって、自分たちの救いのゆえに神をほめたたえる者たちではなく、救いの道を開かれる救いイエス・キリストを退ける者たちでした!
【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。
●「兄息子」の一番の問題点は、パリサイ人や律法学者たちと同様に、自分の正しい行いによって神の前に義とされ、永遠の命が与えられ、天国に行けるという律法主義者でした!彼は、自分自身を「悔い改める必要のない九十九人の正しい人の」一人だと見ていました!(ルカ15:7)それゆえに、彼は父親に対して、「私は・・・、あなたの戒めを破ったことは一度もありません」と言ってのけたのでした!(ルカ15:29b)誰一人として、神の律法を完全に守れる人はいません!「兄息子」は、単に、自分は父親のいかなる命令も「破ったこと」はないという錯覚の下に生きていたに過ぎませんでした!これが、自己欺瞞であり、自分を欺き、自分をだますという驚くべき罪人の性質です!
●ですから、放蕩三昧した弟息子が浪費した財産を返却させず、その罪を咎めずに彼を完全に受け入れて「迎え」、和解した父親に対して、律法主義者の兄は激怒したのです!前回のメッセージでお伝えしましたように、律法主義者は罪を赦す恵みを憎み嫌います!それゆえ、彼は父親に対しては、決して「お父さん」と呼び掛けませんでしたし、父親の下で働く事は、奴隷以外の何ものでもないと考えました!父親に対する愛と尊敬はなく、父親が死ぬ事を待ちわび、死後、その財産を受け継ぐ事を願っていました!兄の願いは、まさに弟が願っていた事と同じであったという事なのです!律法主義者である兄の特徴は、「外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱい」でした!(マタ23:28)すなわち、彼の内は、苦々しい思い、憎しみ、妬み、怒り、そしてありとあらゆる欲望で満ち溢れていました!
●「兄息子」についてのイエス様のこのたとえ話は、律法主義者の兄を冒頭でどのように描いていましたか?彼は、離れていた「畑にい」ました!この表現は、何を象徴していましたでしょうか?彼の心は、父親をはじめ、家族や家族に仕えている人々からは遠い所にあった事を象徴していました!彼が祝って楽しむ相手は最も身近な父親や家族ではなく、それ以外の「友だち」でした。また、「祝宴」が開かれていた「音楽や踊り」のある明るく喜びに溢れていた中にではなく、それから距離を置いた暗がりの中に「兄息子」はいました!兄には、所詮、家族の長である重要な父親とその家族や親族、そしてその家族に仕える多くの人々と共に祝うという心はありませんでした!(続く) ―6―
律法主義者は、律法主義者としか交わりません!彼らは罪人を受け入れ、罪人に神の愛と恵みと信仰を分かち合う事をしないのです!(参/ルカ5:30)
●他方、「兄息子」や宗教指導者たちとは対照的に、父親は、「弟息子」に対して示していた同じあわれみ深い忍耐をもって「祝宴」に来るよう、「兄息子」を「なだめ」ました!この父親の行動こそが、罪人が救いに来るよう懇願する、イエス・キリストを通して表された神を象徴していました!「祝宴」を催した父親の愛は、「兄息子」の律法に対する熱意や献身を遥かに上回るもので、それを圧倒するものでした!
【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。
●律法主義者が力説した行いによる義と、イエス様や使徒たちが力説された恵みと信仰による義との違いについて、あなたの内で整理されて理解されていますか?あなたは、自分自身を「悔い改める必要のない九十九人の正しい人の」一人だと見ていますか?(ルカ15:7)またあなたは、「私は・・・、あなたの戒めを破ったことは一度もありません」と断言する者ですか?(ルカ15:29b)いかがでしょうか、あなたは、自分は良い人だという錯覚の下に生きていませんか?
●あなたは神に対して、「天のお父様」と親しく語り掛ける事ができますか?そして、神に仕えるに当たって、あなたは強制させられてそうしているという感覚はありますか?それとも、神に仕える事は、どんな状況でも素晴らしい事であり、喜びですか?いかがでしょうか、あなたは「外側は人に」おいては「正しく見えても、その内側は」、苦々しい思いや憎しみや嫉妬や怒りやありとあらゆる欲望で満ち溢れていませんか?(マタ23:28)
●ところで、あなたとあなたの神との距離、またあなたの神の家族との距離は遠いですか、それとも近いですか?あなたは、救いを神と神の家族である教会で祝っていますか?それとも、あなたが共に祝う人々とは、この世「友だち」だけですか?あなたは罪人を受け入れ、その人々に神の愛と恵みと信仰を分かち合っていますか?
●最後に、まだイエス・キリストを救い主として受け入れていない方々へお尋ねします。神はあなたに対して、あわれみ深い忍耐をもって救いの「祝宴」に来るよう招いておられますが、あなたは、その招きを受け入れますか?それとも、拒みますか? それでは、祈りの時をもちましょう。
【締めの御言葉】
■「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(マタイ9:13b)。
■「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)。
[引用&参考文献]
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 11-17、 The Moody Bible Institute of Chicago、 pp. 318-322.)
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