『毅然とした神の器たちの態度!』⑥

―報復ではなく、権力者から宣教者たちと教会を守るため!―《使徒16:19-40/今回は16:35-40》
【復習&序論】
●『迫害から生み出される救いの実!』というテーマのメッセージシリーズは、今回が3回目で最終回を迎えます。一回目が、『金儲けする望みがなくなったのを見て・・・』という主題で、また「迫害の背後にある金銭愛と拝金主義&困難は福音を前進させる」という副題で語らせていただきました。具体例として、物質的な豊かさを求めて拝金主義に陥った中国が直面している深刻な問題を取り上げました。前回の2回目は、『主客転倒!』という主題で、「真理の中で喜び、苦難に勝利し、救いの恵みに感謝する!」という副題で語らせていただきました。牢獄における看守と囚人である宣教師たちとの上下関係が大逆転するという、神の奇跡的な介入が起こりました!そして、看守とその家族全員が福音を聞いて救われるという、神の大きな御業が拝されました!
●実は、この3回目のメッセージにおいても、主客転倒が起こります!今度は、ピリピの町の権力者である二人の「長官」とキリスト教の福音を宣べ伝えている二人の神の器との間で、主客がひっくり返ります!「長官たち」の釈放命令に対して(16:35-36)、パウロは「それはいけない」と答えたのです!(16:37)権力者に対して、「それはいけない」と答えたパウロには、どういう意図があったのでしょうか?『迫害から生み出される救いの実!』シリーズの締めくくりとして、『毅然とした神の器たちの態度!』という主題のもと、また「報復ではなく、権力者から宣教者たちと教会を守るため!」という副題のもとにメッセージを取り次ぐ事といたします。締めくくりのメッセージは、第五ポイントです。
【全体のアウトライン】
◎序論:悪い状況から良い結果をもたらしてくださる聖書の神!/済
◎本論:金儲けする望みがなくなったのを見て・・・/前々回&前回&今回
[1]迫害の背後にある金銭愛と拝金主義(使徒16:19-24)/済
[2]祈りと賛美と神の介入(使徒16:25-29)/済
[3]備えられた魂と宣教(使徒16:30-32)/済
[4]救いとその証拠(使徒16:33-34)/済
[5]報復でなく教会の守りを意識した対応(使徒16:35-40)/今回
【今回のアウトライン】
[5]報復でなく教会の守りを意識した対応(使徒16:35-40)
1)権力者から宣教者たちへの釈放命令(使徒16:35-36)
2)権力者の大失態に対する大胆指摘(使徒16:37)
3)権力者の気まずさとやむを得ない決断(使徒16:38-39)
4)権力者から守られた教会への励まし(使徒16:40)
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【本 論】 それでは、本論に入りましょう。
[5]報復でなく教会の守りを意識した対応(使徒16:35-40)
1)権力者からの宣教師への釈放命令(使徒16:35-36)
●パウロとシラスが投獄されていた場所を「大きな地震」(16:26)が襲いました。それは、牢獄だけの限定的なもので、「大きな地震」と表現されていますので相当な揺れがあったのですが、建物の損壊はなく、一人の犠牲者も出しませんでした。地震は自然現象の一つですが、この「大きな地震」は神が牢獄の中で祈りと賛美を捧げていた神の器たちに解放を与え、更に、看守とその家族とを救いへと導くための神ご自身の介入でした!真夜中にバプテスマ式が執り行われ、それに引き続き、感謝の食事会が持たれ、皆がキリストにある信仰が与えられ、またバプテスマ恵みを祝いました!
●35節に記されていましたように、神の超自然の介入があった「夜が明け」ますと、それらの出来事を全く知らない「長官たち」は、パウロとシラスに「何度もむちで打(ち)」(16:23)させた同じ「警吏たちを遣わして」、パウロとシラスを「釈放」するよう命じました。自分たちが、この二人のキリスト教宣教者を取り締まるに当って、どのくらいの失態を犯したのかを認識していませんでした。それで、「じゃそろそろ、この二人のユダヤ人たちを釈放でもするか。一日限りでいいだろう」くらいの気持ちで命じた事でしょう。「長官たち」は、何の疑いもなく、むちで懲らしめられたパウロとシラスが、足を引きずりながら静かに町を去って行く事想像したでしょう。しかし、その二人の考えは、長官たちのとは全く違っていました!「釈放」の知らせを受けた看守は喜んだ事でしょう。彼は36節で、「このことばをパウロに伝えて、『長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。さあ牢を出て、安心してお行きください』と言(い)」ました。
2)権力者の大失態に対する大胆指摘(使徒16:37)
●しかし、パウロは37節で、長官たちが自分たちを軽々しく始末する事に対して異議を唱えました!通常ですと、「有罪判決を受けていないのに公衆の前でむち打ち、牢に入れました」ので、その違法行為対して、怒りと共に報復に転じてもいいはずなのです。ローマ市民に対して身体的な罰を加える事は、ローマの法律からすると重大な違反行為でした。ましてや、「有罪判決を受けていない」にもかかわらず、すなわち取り調べなしにローマ市民に対して身体的な罰を加えたのですから、それは長官たちにとっては重大な落ち度でした。そのような深刻な法律侵害がどのような結果を招くかと言いますと、長官とピリピの町そのものに深刻な打撃を与える事になります。どのような打撃でしょうか?二人の長官はその地位を剥奪されますし、ピリピの町がローマの植民都市としての特権を皇帝によって取り上げられる可能性がありました!(I see!)
●長官たちの過失が物凄く大きなものである事を、パウロは認識していました!ですので、彼らが「ひそかに」自分たち「を去らせ」ようとして、「有罪判決」なしの投獄とむち打ち刑という過失の上に、更に過失を重ねようとしていましたので、その長官の命令に対してパウロは意義を唱えました!どのような言葉でその気持ちを吐き出したのでしょうか?「それはいけない」、という言葉によってです!新改訳第三版では、「とんでもない」と訳されています!そしてその言葉に続いて、「彼ら自身が」すなわち長官たち「自身が来て、私たちを外に連れ出すべきです」と主張しました!
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別の表現を用いますと、「もし、長官たちが自分たちに立ち去って欲しいと願うのなら、ローマ市民である私たちに対して不当な裁判とそれに伴う不当な刑罰を科した事をした事を認め、彼ら自身が出向いて私たちに謝罪すべきでないか」、という趣旨の言葉を告げたのです!
●神のご計画や御心を知らない人々でしたら、この長官たちの釈放命令をどう受け止め、そしてどう反応するでしょうか?一番多く考えられる事は、報復です!「お前たちは何て事をしてくれたのか。落とし前をつけろ。ちゃんと後始末せえ」、と言うと思います。ローマ市民に対する不当なむち打ち、不当な投獄ですから。パウロやシラスではなくて一般の人々であれば、長官たちだけでなく、警吏たちにも、また看守に対しても、とっくに仕返しをする事でしょう。囚人が逃げたと思った看守が自害する事に対して、「自業自得だろう」と思って見過ごし、逃走するのだろうと思われます。しかし、パウロが長官たちの違法な取り扱いと、その後始末の仕方について異議を唱えたのには、実に、重要な意味が背後にあったからなのです!それが、今回のメッセージのハイライトです!
●パウロが「それはいけない。彼ら自身が来て、私たちを外に連れ出すべきです」と語った言葉の背景には、自分とシラスに対する不当な取り扱いが、今後、更にピリピの地で救われて行くクリスチャン対して繰り返されないようにと考えたからです!自分たちの苦い経験が、今後の信者と教会の守りのために、生かされて行くべきだという考えがあったからです!すなわち、パウロとシラスが受けた不当な裁判が、今後のピリピのクリスチャンに対する権力者たちの取り扱いの前例となってはならないという強い危機意識があったからです!もし、パウロとシラスが、静かにピリピの街を立ち去るような事になれば、未来の宣教者たちもまた同じように不当に取り扱われる危険にさらされます!それゆえ、パウロは、「それはいけない。彼ら自身が来て、私たちを連れ出すべきです」、ときっぱり言い放ったのです!(Wow! & Wow!)
3)権力者の気まずさとやむを得ない決断(使徒16:38-39)
●38節と39節に進みますが、「警吏たち」がパウロの異議申し立ての「ことばを長官たちに報告した」とき、「長官たちは、二人がローマ市民であると聞いて恐れ」ました。彼らは、自分たちが行った裁判がローマの法を逸脱しており、その結果、自分たち自身へ、また自分たちが派遣されているこのピリピの町自体へも与える影響がどれくらい大きなものであるのか直感しました!(I see!)この事態を静めるために、「長官たち」の方が折れて、「自分たちで」牢獄へ「出向いて来て」、パウロとシラスの「二人をなだめ・・・そして牢から外に出し、町から立ち去るように頼んだ」のです!この「頼んだ」という言葉を原語の意味を汲んで訳しますと、彼らは、繰り返し「頼み続けた」のです!(I see! & Wow!)彼らは、自分たちがとても気まずい立場に置かれている事を痛感していました!前回のメッセージで取り上げましたように、看守と神の器たちたちの間の関係の大逆転、主客転倒を思い出さないでしょうか?「看守」が「震えながらパウロとシラスの前にひれ伏し」た事を思い出さないでしょうか?!(16:29)今度は、ローマ皇帝の名によって派遣されている、看守よりも遥かに高い地位にある「長官たち」二人が、宣教者たち二人の前で、実に、気まずい立場に立たされたのです!正に、『主客転倒!』の第二弾です!
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●この長官たちのばつの悪さや気まずさというものには、なお深い意味がありました!このまま二人の宣教師たちをピリピの町に滞在させておくと、あの「占いの霊につかれた若い女奴隷」の「主人たち」をはじめとした者たちによって、更なる暴力や暴動につながる危険性がありました!(I see!)パウロに指摘されるまでの長官たちというのは、実に自分たちの地位を誇っていました!「俺たちこそがこの植民都市ピリピの長官である!」、と!しかし、その長官たちが二人の宣教者の前に低くされ、「町から立ち去るよう」しきりに二人に「頼(まない)」のであれば、それこをピリピの町を危険にさらす事になるのでした!権力者へやむを得ない決断が迫られました!(Wow! & Wow! & Wow!)
4)権力者から守られた教会への励まし(使徒16:40)
●パウロとシラスは、この権威者たちの願うようにはしましたが、自分たちのやるべき方法でそれをした事が最後の40節に記されています!「牢を出た二人」が取った最初の行動は、直ぐに「町から立ち去る」のではなく、「リディアの家に行(く)」事でした!なぜでしょうか?それは、主にある「兄弟たちに会い、彼らを励ま(す)」必要を強く感じていたからです!(I see!)そして、その後、初めて町から「立ち去った」のです!
●パウロとシラスは、リディアとその家族を中心とするピリピの最初のキリスト教会に行って、牢獄で何が起こったのか、そしてその後どのように素晴らしい神の御業が拝されたのかを報告して、神の恵みを分かち合いました!そして、自分たちの逮捕と刑罰と投獄とが、いかにローマの法律に反するもであったのかを伝えました!そして最後に、今後、ピリピのクリスチャンたちが自分たちと同じ不当な扱いを受ける事のないよう、権威者である長官たちにいかに示しを付けた事も語ったに違いありません!(Yes!)これが、神のご計画の中になされた出来事であったという事も伝えたに違いありません!真の牧会者が取るべき行動が、何たるべきかを示していました!(Amen! & Amen!)
―牧会者としてのパウロの例―
●真の牧会者とは、パウロやシラスの姿に見られますように、自分たちは権力者によって不当に鞭打たれ、そして不当に投獄されても、それが神の許された計画であり方法であるのならば、神はその不当な状況を益としてくださると信じ、迫害を甘んじて受けるのです!(Wow! & Wow!)自分たちは身体的に負傷しましたが、その結果、神が何か良き業をなされると期待しました!そして、その期待を遥かに上回る程に、看守とその家族や関係者が救われるという神の御業が拝されました!その神の救いの計画のために、二人の宣教者は、迫害に甘んじました!
●しかし、このような不当な裁判や取り扱いが今後ピリピの一般信徒に及ぶと予測されると、権力者たちに対しては、きっぱりと手を打ったのです!すなわち、権力たちの手から教会を守るという行動に出たのです!これが、真の牧会者の姿です!使徒パウロの牧会者としての指針がよく表されている御言葉を取り上げましょう。1テサロニケ2:1-12で、ピリピでの迫害の事を含め、次のように記しています。
2:1 兄弟たち。あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。
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2:2 それどころか、ご存じのように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。2:3 私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。2:4 むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。2:5 あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。2:6 また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。2:7 キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、2:8 あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。2:9 兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。2:10 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。2:11 また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、2:12 ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました(1テサ2:1-12)。
●パウロの第一の関心は、神ご自身でした!神の前に、自分の心の動機や行いが正しいかどうかをいつも吟味していました!彼は人を喜ばせようとして牧会したのではなく、神の御心に人々が沿うように牧会しました!彼の相手は人ではなく神でした!神に対して正しく向かっていれば、人に対して自ずと正しく向かう事ができます!御心に沿って、時には母親のように「優しくふるまい」、また時には父親のように「神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました」!これが真の牧会者の姿であり、全ての牧者のお手本です!(Wow! & Amen!)
―私の25年の牧会を振り返っての反省/一組の夫婦の離脱―
●約13年前に起こった事をお伝えする事にしましょう。実はその当時、一組の夫婦が教会を離れました。私が札幌に赴任して25年間の関わりを持って来た方々です。関東に住んでおられたその夫婦の息子さんが、結婚をするという報告を受けました。彼が社会人となって、この10年近く教会生活を送っておらず、結婚相手にクリスチャンでない方を選んでいる事や、結婚に対する考え方にも聖書的な理解が全く見られませんでした。それで私は、その息子さんのクリスチャンのご両親に対して、「ううん、これは、未信者同士の結婚だと思います」と率直に申し上げました。その子にバプテスマを授けたのは私ですが・・・。そして、その夫妻は、牧師室から出て行かれました。それから数日経った後で、ご主人の方から次のような事を言われました。「自分たちが相談した時に、牧師から一言、うちの息子に会ってお話しを伺いましょうという言葉を掛けてもらいたかった」、と。そして、お二人は、「息子に対する牧師の思いが薄い」と言って教会を離れる決意をしたのです。
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―真理や真実が語れる教会/一人の兄弟の証し―
●イエス様は、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」と語られました(ヨハ8:32)。しかし、逆に真理や真実を拒むなら、そこに分裂がもたらされます!愛する皆さん、あなたは、真理や真実が語られる教会がいいですか?もちろん、愛を持って真理や真実を語る事が前提にあります!(エペ4:15)。あるいは、真理や真実を語って互いの関係がぎくしゃくするよりも、上辺の交わりや関わりを保つ方がいいでしょうか?皆さんは、どういう教会を望みますか?私はこの教会の牧師となり、責任者として、神の前に、教会をどのように牧会して来たのか、その責任が神の前に問われる者です!ですから、真理を曖昧にする事には大きな責任が伴います!特に、救いの真理を曖昧にする事は、その人の永遠が決まる重要な事ですので、決して軽く扱ってはいけないと肝に銘じています!
●また10年以上も前の事ですが、ある兄弟を見ていても、「ああ、本物の信仰をもっているな。救われているな」と率直に思わされました!なぜそう思ったかと言いますと、自分がお付き合いしている女性の方がキリストを自分の救い主として信じて救われるのを、四年間もじっと忍耐して待っていたからです!その忍耐と祈りは、本当に信仰をもって救われている者にしかできないものでした!その兄弟には、救われた者に伴う考え方や物事に対する見方や理解の変化が言動にはっきりと表れていました!そのように、本物の信仰をもって本当に救われた者に伴う変化を、教会は注意して見守る必要があります!そういう意味で、キリストにある救いを曖昧にしないという牧師や教会の姿勢というものが求められます!これは、とても大切な点です
―お二人への手紙―
●先程お伝えした当教会の会員であったご夫婦の話に戻りましょう。その夫妻との二度目の話し合いを終え、お二人が「教会を出ます」と言われて去って数日後に、今皆さんへ私がお伝えした内容を手紙にしてお二人へ出す事にしました。教会を出る本当の原因が、いったい何であったのかを神の前に探って欲しいと思ったからです!本当に「息子に対する牧師の思いが薄かったから」なのか、それとも、「真理に従えなかったから」なのか?私は、お二人を愛する思いで、手紙を書かせていただきました。
●お二人から、「息子に対する牧師の思いが薄い」と言われた時、私は当初、自分にはその息子に対する声掛けをするという面で足りない部分もあったと感じましたので、その部分は謝罪をしました。しかし、よく振り返ってみますと、「本当に、私はその息子に対する私の思いは薄いものであっただろうか」と自問自答するようになりました。そして自己弁護する思いは毛頭ありませんが、思い出された事は、「ああ、そう言えば、私たちの教会のクリスチャンホームの二世の子で、誰よりも最初に病院に行って見舞った子は、その子だったよな。確か、その子の二度目の入院の際に、私は家内と共に見舞いのカードを書き、病室を訪ね、祈ったよな」という事が思い出されました。「息子に対する牧師の思いが薄い」と言われましたが、「いや、私はどの子よりも先に彼を見舞いに行きましたし、祈りましたし・・・。彼に対する私の思いが他のクリスチャンホームの子に比べて薄いのでは決してなかったのでは・・・」、という事が思い起こされました。
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●それでは、このご夫婦と私との間では何が問題であったのでしょうか?私が、この出来事でもう一つ気づかされた点は、私の思いが彼らの「息子に対して薄い」のではなくて、彼の父親に対して薄かったのだという事でした!長い信仰生活の中で、その方が教会の総会に顔を出したのは果たしてあっただろうか?殆どありませんでした。出席したのはその奥さんだけで、夫である兄弟が教会に関心を持って総会に出席した姿を見る事はありませんでした。そこで、私が神から問われたと感じたのは、「あなたの思いは、その父親に対して薄かったのではないですか?」という点でした!「彼の息子に対してあなたの思いが薄いのではなくて、彼の父親に対するあなたの思いが薄かったのではないですか?」と問われた思いがしました!
●私の主への応答は、「そうです、神様。私の彼への思いすなわち父親に対する思いが薄かったのです。主よ、お赦し下さい。私は今後、そのような事がないように悔い改めます。私の牧会姿勢を改める事にします」と祈りました!私の問題点は何だったのでしょうか?それは、使徒パウロがテサロニケ教会に対して書かれた手紙にありました「父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに・・・神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じ(る)」という、聖書的な牧会の姿勢が足りなかったという点でした!
●私はその父親である兄弟に対して、「○○さん、なぜ教会の大切な総会に出席されないのですか?何か事情でもあるのですか?なぜ、教会に対して関心が見られないのですか?なぜ、礼拝後に兄弟姉妹と交わらないのですか?神の家族である兄弟姉妹に関心がないのはどうしてですか?兄弟にとって、教会って何なのですか?」などというような問い掛けを一切して来ませんでした!これは、キリストにある愛の無い証拠です!愛していたなら、愛を持ってへりくだって真理を語り、忠告や警告をすべきでした!信徒に対するその基本的な愛の欠如を、私は神の前に問われたのです!その息子さんではなくて、その父親に対する思いの薄さを、私は神に問われたのでした!私はその神の指摘に感謝し、今後は、同じ過ちを繰り返す事の無いように神に対して祈りを献げました!
●約13年前の2013年11月の事ですが、二週にわたる日曜日のディボーションの箇所が、箴言27章でした。その5節と6節のみことばと、それに関連する御言葉をお伝えします。
・27:5 あからさまに責めるのは、ひそかに愛するより良い。 27:6 愛する者が傷つけるのは誠実による。憎む者は多くの口づけでもてなす(箴言27:5-6)。
・人を叱責する者は、後になって、舌でへつらう者よりも恵みを得る(箴言28:23)。
・正しい人が真実の愛をもって私を打ち 頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように。私の頭がそれを拒まないようにしてください(詩篇141:5)。
「頭に注ぐ油」というのは、客人を喜んで家に歓迎する事を象徴する表現です!(I see!)戒められる事もまた、そのように真の祝福として喜んで歓迎されるべきだという事を意味しています!そうする事によって、戒められる人が神のために聖め分かたれるというのです!(Great!)私には、これらの御言葉が指摘している愛が欠如していた事を示されたのです!「愛する者が傷つける」とか、「正しい人が愛情をもって・・・打(つ)」というような愛について、私は欠如していたのです!
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愛する皆さんはいかがでしょうか、あなたは、このような箴言や詩篇に記されている真実な愛をもって兄弟姉妹を愛していますか?上辺だけで愛していませんか?リップサービスに留まっていませんか?真理や真実を語って愛そうとしていますか?それとも、その場を繕おうとして愛しているのですか?牧師である私をはじめ、小牧者の皆さんや信徒の皆さんが、それぞれ、このような愛の欠如について問われていませんか?そういう事を、教会全体が問われているのではないでしょうか?
【まとめ&適用】 それでは、ここで、今回とこれまでの二回のメッセージのまとめと適用をしましょう。
(1)今回のメッセージは何と言いましても、パウロやシラスの教会を思う熱い心について学びました!自分たちが不当な逮捕と鞭打ちそして投獄に遭っても、これがかえって今後のピリピのクリスチャンの不当な逮捕からの守りにつながるのならば、それを受け入れるという教会愛でした!いかがでしょうか、皆さんの教会に対する愛が問われていませんでしょうか?あなたはあなたの神の家族である教会を愛していますか?上辺だけで愛していませんか?愛情を持って、忠告や警告を与えていますか?そしてまた、教会の働きが前に進むよう神へ執り成しの祈りを献げていますか?
(2)三回シリーズのメッセージを振り返ってまとめてみましょう。サタンの計画は再びここでも失敗しました!まことの神が、主権を持って私たちの周りに起こる出来事を支配しておられるという事を学びました!ピリピ教会を滅ぼそうとしてサタンがもたらした迫害は、もうひと家族を教会に加えるという結果を生みました!そしてまた、教会を権力者たちから守るという事にもつながりました!どんな状況に置かれても、その中で大胆に御言葉を宣べ伝え、神に祈り賛美するクリスチャンのために、神が立ち上がって迫害を救いの実へとつなげてくださるという事も如実に示していました!愛する皆さん、あなたは、全てに主権をもって支配しておられる神に対して信頼していますか?神が問題を賛美に変えるお方だと信じていますか?それでは、祈りましょう。
【結 論】
「2:2・・・私たちは・・・ピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音を・・・語りました。2:3 私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。2:4 むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです」(1テサロニケ2:2-4)。
[引用&参考文献]
・ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き13-28』(ムーディー出版、1996)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Acts 13-28, The Moody Bible Institute of Chicago, 1994, p.110-111.)


