『正しい人ではなく罪人を 』 ―「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(ヤコブ4:6)― 《 ルカ 5: 2 7- 32 今回は 5 :30- 32 》
【序 論】
●『 正しい人ではなく罪人を 』 というテーマで、三回目のメッセージを取り次ぎます。前回は軽蔑された罪人を召されるイエス様(ルカ5:27-29)について学びましたが、今回はそれとは逆に独善的な偽善者と対峙されるイエス様(ルカ5:30-32)について学びます。パリサイ人や律法学者たちは、イエス様の弟子たちに対して、「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか」(5:30b)という挑戦的な質問をしました。それに対するイエス様の三つの答えを通して、今回は聖書の重要な真理を学びます。
●今回のメッセージの主題がテーマと同じ『正しい人ではなく罪人を!』で、副題が「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える」(ヤコブ4:6)です。聖書の真理は、信仰者を整えます。それでは、解き明かされる御言葉に期待を寄せましょう。
【全体のアウトライン】
◎ 序論/人が達成する宗教VS神が達成される宗教/済
[1]軽蔑された罪人を召されるイエス様(ルカ5:27-29)/済
[2]独善的な偽善者と対峙されるイエス様(ルカ5:30-32)/今回
【今回のアウトライン】
[2]独善的な偽善者と対峙されるイエス様(ルカ5:30-32)
1)イエス様と弟子たちへ文句を言う宗教指導者たち(5:30)
ア)宗教指導者たちの伝統的な教えを守らない事への不満
イ)傲慢で上辺を繕う偽善的な宗教指導者たち
2)宗教指導者たちへ答えられるイエス様(5:31-32)
ア)「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です」(5:31)
イ)「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」(マタイ9:13/ホセア6:6)
ウ)「わたしは・・・正しい人・・・ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(5:32)
3)神の律法に対する宗教指導者たちの誤った見解(ガラテヤ3:24/他)
ア)神の律法は人の義を達成するためにあるのではない
イ)神の律法は人の罪を示し、人の義が神によって達成されるためにある
【本 論】
[2]独善的な偽善者と対峙されるイエス様(ルカ5:30-32)
―1―
1)イエス様と弟子たちへ文句を言う宗教指導者たち(5:30)
ア)宗教指導者たちの伝統的な教えを守らない事への不満
●前回学びましたように、29節で、当時社会の最下層にいて、皆から憎まれそして軽蔑されていた取税人マタイがイエス様の招きに応じて救われました。マタイはその救いの恵みを、自分と同業者たちである取税人たちをはじめ、罪人と呼ばれている者たちにも是非知って欲しいと願い、彼らを自分の家で行う「盛大な」食事会へと招きました。前回触れましたように、罪人たちとはどういう人々であったでしょうか?それは、泥棒であり、チンピラであり、ごろつきどもであり、酒飲みであり、売春婦たちでした。そしてそこへ、イエス様を来賓として招いて伝道の機会を持ちました!それはまさに、救い主イエス様が罪人を受け入れられるという麗しくも驚くべき光景でした!
●しかし一方、「パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たち」は、マタイの家に招かれた人々をろくでもない連中と捉えていましたので、たとえ彼らが招かれたとしても、その傲慢な差別意識のゆえに、その会食会へ出席する事は決してありませんでした。だからと言って、彼らは、その会食会で何が行われていたかについて知らない訳ではありませんでした。30節で、彼らはイエス様の「弟子たちに向かって小声で文句を言(う)」事によって、自分たちの不平をぶつけました。彼らは、食事会に参加している取税人や罪人たちに対しても関わりを持つつもりは毛頭ありませんので、話し掛ける事もしませんでした。しかし、彼らが明らかにいらだちと憤りをおぼえている相手は、イエス・キリストでありまたその弟子たちでした!なぜでしょうか?それは、彼らが大切に守っているラビたちの伝統的な教えを、イエス様と弟子たちも守るよう望んでいたからです!
イ)傲慢で上辺を繕う偽善的な宗教指導者たち
●彼らの質問は、30節の後半に記されていますように、「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか」というものでした。彼らの質問は、答えを期待して質問している訳ではありません!彼らは質問の形を取っていますが、彼らが意図している中身は、イエス様と弟子たちの側のけしからん行為に対する痛烈な批判です!イエス様と弟子たちがこれら汚れた社会ののけ者たちと付き合う事は、全く受け入れられない行為だと批判しているのです!その行為に対する彼らの憤りを伝えているのです!逆に、その質問は、パリサイ人たちや律法学者たちがいかに傲慢で、表面的なものだけに目を向け、偽善的な者たちであるのかという事をさらしています!彼らは自分たちが宗教界の精鋭(エリート)たちだと考えていますが、実際には神の愛や恵みに欠けており、救いをまるで知らない者たちでした!イエス様はそのような外見上の道徳主義者たちを退けました!しかしその代わりに、悔い改めた罪人を聖い人々へ変える事に関心を向けていました!
2)宗教指導者たちへ答えられるイエス様(5:31-32)
ア)「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です」(5:31)
●宗教指導者たちは「弟子たちに向かって小声で文句を言(って)」いたのですが、その「小声」の「文句」を耳に挟まれたイエス様は彼らの非難に答えられます。イエス様の答えは、三つの部分から成り立っています。 ―2―
一番目に、31節で、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です」と語られました!どうですか、このイエス様のお言葉は複雑で、理解しがたいものですか?全然そうではありません。むしろ、イエス様は、彼らの質問に対して、決まりきった事を引き合いに出して答えておられます!イエス様が語られたこのお言葉が誰を指しているのかを考えてみますと、「医者」とはイエス様を指しています。イエス様は偉大な「医者」です!肉体の病気をはじめ、心の病気、霊的な病気、そして悪霊につかれた人をも健康な者へと回復させる偉大な「医者」です!そして、イエス様が、取税人マタイが開いた「盛大な」食事会に招かれた大勢の取税人や罪人たちと関わるという事は、彼らが霊的に病んでいる「病人」で、救い主の霊的な治療を必要としているという事を物語っていました!
●一方、律法学者やパリサイ人たちは、イエス・キリストが取税人や罪人たちと関わるべきではないと主張している以上、イエス・キリストが彼らを治療して助けるべきでないと主張しています!しかし、よく考えてみますと、最も霊的な治療を必要としている者たちとは誰でしょうか?間違いなく、律法学者やパリサイ人たちです!彼らこそ、病んでいる者たちの中で最も病んでいる者です!ですから、彼らは、そもそも取税人や罪人たちを最も罪深い者たちで且つ最も霊的に病んでいると者だと論じるのは全く的外れな事です!ましてや、彼らと関わってはならない、付き合ってはならないと言って社会ののけ者であるというレッテルを貼る事も全く見当違いです!
●「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です」というイエス様の答えが意味している事は、律法学者やパリサイ人たちとは、彼らが本来助けようと努めるべきであった霊的病人たちを憎んでいる者たちであるという事でした!それは、彼らの心がとても冷たく、邪悪なものであるという事を示していました!当時の宗教指導者たちは、自分たちの内にある罪を見ません!しかし逆に、彼らは、他者の内に何の良いものもまた価値あるものも見ませんでした!
イ)「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」(マタイ9:13/ホセア6:6)
●二番目に、イエス様は御言葉から答えられます!ルカの福音書には記されていませんが、並行箇所のマタイ9:13の同じ場面で、イエス様が律法学者やパリサイ人たちに対して次のように語っています。「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」、と!前の新改訳第三版訳では、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」と記されています。この「行って学びなさい」という言い回しは、律法の教師であるラビが、容認できない無知さ加減に対して叱責する時に用いられる表現です。
●この御言葉は、元々ホセア6:6に記されている御言葉で、イエス様がここで引用しているものです。その意味とは、神は単なる上辺の、形式上の、心の伴わないいけにえを求めておられるのではなく、真実の愛やあわれみを示す心を求めておられるという事です!(箴21:3/イザ1:11-17/アモ5:21-24/ミカ6:6-8)イエス様は「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」(ルカ6:36)と命じられました!そして、他者にあわれみを示す者は、「あわれみを受けるからです」(マタ5:7)とも語られました!(続く)
―3―
しかし、逆に、「あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます」(ヤコ2:13)、と神はヤコブを通して警告されました!自分たちは律法を厳格に守っていると自負している律法学者やパリサイ人たちが、あわれみを最も必要としている人々へそれを示さないのは、もはや彼らにとっては何の弁解の余地もありません!
ウ)「わたしは・・・正しい人・・・ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(5:32)
●最後の三番目ですが、再びルカの福音書に戻ります。最後の3:32の御言葉です。イエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」と断言されました!受肉された神が、権威を持ってお語りになられたお言葉です!ここでイエス様が「正しい人」と言われたのは律法学者やパリサイ人たちを指しているという事には間違いありません。しかし、よく考えてみますと、正しい人って果たしているでしょうか?それは、いません!人は生まれながらにして罪人です!でも、正しくされた人はいるでしょうか?それは、います!その人は神の御前に自分の罪深さを認め、それを神に告白して赦しをいただき、その後神によって「正しい」と認められた人です!神の恵みによる義認を表しています!
●律法学者やパリサイ人たちは、自分は正しくそれゆえ救い主を必要としている者ではないと考えている人々です!彼らが救い主を必要と考えるのは、外国の支配を打ち破ってイスラエルの地上の王国を築いてくれる救い主であって、その前になされなければならない救いを達成されるための十字架の業を全く必要だと考えません!マタイ15章で、「口先で」神を「敬(い)・・・人間の命令を、教えとして教え」(15:8)、イエス・キリストが神である事を否定し続けるパリサイ人や律法学者たちについて、「彼らのことは放っておきなさい」(15:14)とイエス様は弟子たちに告げられました!救い主を否定し続ける者たちに対して、彼らをその独り善がりの愚かさの中に放置されたのです!それは、神の裁きを表す取り扱いを示していました!イエス様が彼らに真理を示し続けて拒否され続け、彼らがこれ以上罪に対する裁きを受けないためです!
●一方、神は、真に悔い改める心を求めておられます!頑なで、自分たちこそ正しいものだと自負する者を求めておられるのではありません!イエス様が義と認められたのは、へりくだって悔い改めた取税人であって、自分は偉い者だとうぬぼれ、自分を義人としたパリサイ人や律法学者たちではありませんでした!イスラエルの宗教指導者たちこそが罪深い者たちで、悔い改めを必要としている部類の者たちだとイエス様が指摘された事が、彼らのキリストに対する憎しみを増させて行きました!
●真理は何かと言いますと、自分自身を罪人として見る事を拒否する人々、すなわち自分の罪を無視して上辺を飾る人々、あるいは自分の罪は何ら大したものではないと考える人々を、神は救う事ができないというという事です!神の恵みと聖霊の回心の御業(神に背いている罪を認めさせ、神に立ち帰らせる働き)のみによって、初めて人は、自分が霊的に壊れた者であり、罪に押し潰された者であり、霊的に全く目の見えない者であり、そして救い主無しの永遠の地獄の滅びに向かっている者だという事を理解します!
―4―
そして、その自分の罪を赦すためにイエス様が身代わりとなって十字架に架かって死なれ、自分の罪の代価を支払って下さったと信じる者が初めて救われます!ヤコブがその書簡に記してある通りです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える」(4:6)、と!
3)神の律法に対する宗教指導者たちの誤った見解(ガラテヤ3:24/他)
ア)神の律法は人の義を達成するためにあるのではない
●律法学者やパリサイ人たちは、神が律法を与えられた目的をはなはだ誤解していました!自分たちの正しさを達成するために律法が神によって与えられたと理解するのは、はなはだ見当違いなのです!この点については、このシリーズの序論で触れました。律法学者やパリサイ人たちの宗教をどう呼んでいましたか?それは、人の努力によって救いを達成する宗教でした!
イ)神の律法は人の罪を示し、人の義が神によって達成されるためにある
●そうではなく、神の律法は人に罪の意識を起させ、それによって神と人とに対する大変申し訳ない思いを起させ、罪の悔い改めを起させ、神に立ち返る思いを起させ、そして神に向かってあわれみを求めさせるのです!ガラテヤ3:24で、使徒パウロは、「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです」と記していますが、まさにその通りです!そして、同じく、使徒パウロが、テモテへの手紙第一の中で次のように記しています。
1:9 すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、不法者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、 1:10 淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、嘘をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです(1:9-10)。
●自分自身をそのような者だと認める人のみが、栄光に満ちた神の赦しの福音を受け入れる事ができます!そのように受け入れた一人の器がいます。それは、先程引用しましたガラテヤ人への手紙やテモテの手紙第一を記したパウロです。パウロは「神をけがす者」でしたし、クリスチャンを「迫害する者」でしたし、また「暴力をふる(って)」(1テモ1:13)クリスチャンを死にも至らせた者でした。パウロは自分自身を「罪人のかしら」(1テモ1:15)だと告白しました!しかしそれにもかかわらず、パウロに対して、「主の恵みは・・・満ちあふれ」(1:14)、彼のような者でさえも救いにあずかる事ができるという事を、聖書ははっきりと私たちに告げています!まことの神は、実に赦しに富み、あわれみ深いお方なのです!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●今回のメッセージのポイントは、「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか」(5:30b)という挑戦的な質問に対する、イエス様がお答えになられた三つのお言葉にありました。それは、一番目に、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です」(5:31)で、二番目に、「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」(マタイ9:13/ホセア6:6)で、そして三番目に「わたしは・・・正しい人・・・ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(5:32)でした! ―5―
●そして、律法学者やパリサイ人たちがそもそも誤った信仰に陥っていたのは、彼らの誤った神の律法に対する見解から来ていました!人間の努力によって神の律法を守る事によって自分の救いを達成するという宗教を作り上げてしまっていたところに大きな問題の原因がありました!使徒パウロのように、自分は「罪人のかしら」(1テモ1:15)であると自覚し、こんな罪深い者にさえも、神が「恵み」を「満ちあふれ」させて救って下さるという神によって達成される宗教が最も重要であるという事を教えられました!
【適 用】 それでは、今回のメッセージの適用をしましょう。
●私たちは『正しい人ではなく罪人を』というテーマで、三回にわたって聖書を学んで来ました。人が達成する宗教ですか、それとも神が達成される宗教ですかという重要ポイントのが、三回のメッセージの底辺に流れていました!あなたは、今回のメッセージを通して、また今回を含めた三回のメッセージを通してどういう点が特に心に残りましたか? それぞれで、神の御言葉への応答の祈りの時を持ちましょう。
【締めの御言葉】
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。・・・人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです(ルカ5:32、19:10)。
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 1-5、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2009、 pp.332-334.)
―6-