『新しいぶどう酒は、新しい皮袋に! 』 ―霊の目が覆われた人々の中にあって唯一無二の福音を語る― 《 ルカ 5: 33- 39 今回は 5: 3 4- 39 》

【序 論】
●『唯一無二の福音』というテーマでのメッセージは今回が二回目で締めくくりとなりますが、それと同時に、ルカの福音書第五章も終える事になります。「あなたの弟子たちは断食と祈りをしていない」と宗教指導者層の人々に非難されたイエス様は、生活の身近にある事柄を通して『唯一無二の福音』がどのようなものなのかを提示されます。
●今回のメッセージの主題は『新しいぶどう酒は、新しい皮袋に!』で、副題が「霊の目が覆われた人々の中にあって唯一無二の福音を語る」です。平凡なありふれた事柄から、福音についての深い真理を紐解かれるイエス様のお言葉に注目して行きましょう。
【全体のアウトライン】
◎ 序論/唯一無二の福音/済
[1]ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちの非難(ルカ5:33)/済
[2]イエス様の弁明(ルカ5:34-35)/今回
[3]イエス様のたとえ(ルカ5:36-39)/今回
【今回のアウトライン】
[2]イエス様の弁明(ルカ5:34-35)
1)弟子たちが断食する必要のないとき(5:34)
2)弟子たちが断食する必要のあるとき(5:35)
[3]イエス様のたとえ(ルカ5:36-39)
1)新しい衣から布切れを引き裂いて古い衣に継ぎ当てはしない(5:36)
2)新しいぶどう酒を古い皮袋に入れない(5:37-38)
3)古いぶどう酒を飲んでから新しいぶどう酒を望まない(5:39)
【本 論】
[2]イエス様の弁明(ルカ5:34-35)
1)弟子たちが断食する必要のないとき(5:34)
●前回取り上げましたが、33節で、バプテスマのヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちがイエス様に詰め寄って、自分たちは「よく断食をし、祈りをしています・・・ところが、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています』」と言って、イエス様を非難した事が記されていました。すなわち、「イエスよ、あなたの弟子たちは、「断食」を怠って、ユダヤ人の伝統的な宗教の習慣にそむいているのではないですか」と言って非難したのです。

―1―
●そこでイエス様は、34節以降、「断食」をしないご自分の弟子たちを擁護すべく、その弁明に当られます。そうするに当って、イエス様は、「花婿につき添う友人たち」という誰でも想像できる身近な例を取り上げて語って行かれます!イエス様は、結婚祝いの時に、「花婿」(新郎)が、自分の友人たちが「断食」するよう望みますかと問うています。皆さんはどう考えますか?皆さんが、「花婿」の立場であると仮定しましょう。結婚式のお祝いの席で、自分の友人たちが「断食」をして集ってくれる事を期待しますか?この質問って大変おかしい質問だと思いませんか?結婚の祝いに、友人たちが断食をして出席する事を願って招待する「花婿」は誰一人いません!もし祝いの席で暗く辛い顔をして「断食」していたのなら、その場はどうなるでしょうか?何のために披露宴に集っているのか分かりません。花婿と花嫁を祝福する場に、断食を望むのは変です!もしそうするのなら、「花婿」とその友人たちとの関係はどうなりますか?友人でいられなくなるでしょう!
●結婚披露宴はお祝いですので喜びの時です。悲しみの「断食」の時ではありません。嬉しい時であり、泣く時ではありません。踊る時であり、嘆き時ではありません(伝3:4)。並行箇所のマタイ9:15では、イエスは次のような説明を加えています。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむ事ができるでしょうか」、と。イエス様が話されたこのたとえは、至極当たり前のたとえでした。
●旧約聖書ではイスラエルが主の花嫁であるという表現は用いてはいますが、救い主を「花婿」という言葉で表現はしていません(イザ62:4-5/エレ2:2/ホセ2:16-20)。このところで初めて、イエス様が救い主を「花婿」と表現しておられます!(参 マタ9:15/マコ2:19-20/ヨハ3:29)そして、後に記される黙示録では、教会がキリストの花嫁だと表現されています!(19:7、21:2、9、22:17)イエス様はここで何を言わんとしているのかと言いますと、「花婿」である救い主イエス・キリストがその「友人」である弟子たちと共におられる時、どうして弟子たちが断食して悲しむよう彼らに望む事ができますか、と問うておられるのです!イエス様が弟子たちと共におられるにもかかわらず、そう願うのは愚かな事です!
2)弟子たちが断食する必要のあるとき(5:35)
●ここでは、もう一つ大切なポイントがあります。「花婿は」、いつも彼らと一緒にいる訳ではないのです!35節で、「しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します」、とイエス様は語られました!「花婿」がお祝いのさなかに突然「取り去られ(る)」時、弟子たちの喜びの時は終わると言うのです!イエス様はここで、やがてご自分が十字架で処刑されて殺される事を示されました!その時、弟子たちはイエス様を失います!ルカの福音書においては、ここで初めてイエス様がご自分の死について言及されたのです!「花婿」であるイエス様が「取り去られ(る)」時、弟子たちは恐れと悲しみに襲われます!その時、「牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行(く)」(13:7)というゼカリヤ書の預言の言葉が成就するのです!(参 マタ26:31/マコ14:50)
●しかし、弟子たちは、イエス様が繰り返し語られるご自分の死の予言を理解しませんでした。なぜなら、彼らは、救い主はイスラエルの敵を滅ぼしそしてご自身の王国をこの地に打ち建てられるという先入観に捉われていたからです。
―2―
イスラエルの国を敵の手から解放して独立させる前に、救い主が十字架に架かって死なれる事によって罪の赦しの道を開くという理解を持つ事ができなかったのです。弟子たちの頭であったペテロも、この点を悟っていませんでしたので、とんちんかんな行動に出てしまいました。聖書は、次のように伝えています。
16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。 16:22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れし、いさめ始めた。「主よ。とんでもないことです(直訳/あなたにあわれみがありますように)。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」(マタ16:21-22)。
●しかし、約7百年前にイザヤの預言の言葉が実現する事になります!「虐(しいた)げとさばきによって、彼(救い主イエス様)は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと」(イザ53:8)、と!
[3]イエス様のたとえ(ルカ5:36-39)
●唯一無二の福音を説明するために、イエス様は引き続き、三つのたとえを話されます。「新しい衣と古い衣」、「新しいぶどう酒と古い皮袋」そして「古いぶどう酒を飲んでから新しいぶどう酒を望まない」という三つのたとえです。
1)新しい衣から布切れを引き裂いて古い衣に継ぎ当てはしない(5:36)
●一番目の「たとえ」ですが、36節で、イエス様は「だれも、新しい衣から布切れを引き裂いて、古い衣に継ぎを当てたりはしません」と言われました。そうする事が、いくつかの理由で愚かな事だという事を語られます。一つ目の理由は、「新しい衣から布切れを引き裂(く)」という事は、その「新しい衣」が「引き裂(かれる)」という事ですから、どんなに「新しい衣」であっても役に立たなくなってしまいます!「新しい衣」を台無しにする事を意味しています!説明がいらない程とても明らかなたとえ話です。そんなおろかな事は誰もしません。二つ目の理由は、「古い衣」に「新しい衣から布切れ」を「継ぎを当て」する事はうまく行きません。なぜなら、まず色合いが違います。「新しい衣」と「古い衣」とでは、使った年数に相当な差がありますので、当然、色が合いません!そして、色合いだけでなく、その柄も違います。これも説明する必要のないほど明らかなたとえです。
●三つ目の理由は、更に悪い事に、「継ぎを当て」をして後にやがて洗濯をする時が来ます。すると、どうなりますか?「新しい衣から」切り取った「布切れ」は、水に浸かったらどうなりますか?縮みます!一方、「古い衣」は洗濯後にどうなりますか?縮みません!なぜなら、これまで何度も洗濯した事によって縮み切っているからです。結果、「新しい・・・布」が縮んで「古い衣」の継ぎ接(は)ぎした部分の布が引っ張っられて「引き裂(かれて)」しまう事になります。マタイ9:16が告げていますように、「そんな継ぎ切れは着物を引き裂き、破れがもっとひどくな(り)」ます、と!最終的にどういう結果を招くかと言いますと、「新しい衣」も「古い衣」も、その両方が台無しにされます!
―3―
●さて、イエス様がここで何を言わんとしているのかをまとめましょう。福音という「新しい衣」は、ユダヤ教という「古い衣」に「継ぎを当て(る)」事はできないのだという事をはっきり告げています!それは、ユダヤ教のみならず、人の行いによって救いを得るいかなる宗教にも、福音を「継ぎを当て(る)」事はできないという事です!イエス様の教えは、ユダヤ人宗教指導者たちの教えとは完全に相いれません!互いに反目し合っています!これまで語って来ましたように、「人が達成する宗教」と「神が達成される宗教」との間の溝は永久に埋める事ができないという事、このたえが再度私たちに教えています!
●ユダヤ人宗教指導者たちは自分たちを正しい者と見ましたが(ルカ16:15)、イエス様は義人はいないので悔い改めの必要性を説かれました!(ルカ5:32/参 マタ4:17)ユダヤ人宗教指導者たちは自分たちの高い宗教的な地位を誇りにしていましたが(ルカ20:46-47)、イエス様はへりくだる必要性を説かれました!(マタ5:3)彼らは外側の作法、仰々しさ、儀式、また神の律法を外面的に守る事に関心を寄せていましたが(マタ15:7-9)、イエス様はその心にそしてその内面に関心を払われました!(ルカ11:39-52)。彼らは人からの栄誉と称賛を愛しましたが(マタ23:5-7)、イエス様は人ではなく神からの栄誉を受ける事の大切さを説かれました!(ヨハ12:43)。
●ここで、誤解してはならない点があります!それは、イエス様のたとえの中の「古い衣」は、旧約聖書を指しているのではありません!旧約聖書の律法は神が制定されてイスラエルに与えられたものであり、聖く、正しいく、良いものです!(ロマ7:12)そして、イエス様が救い主としてこの地に来られたのは、この神の律法を成就するためでした!(マタ5:17-19)このたとえの中の「古い衣」というのは、ラビと呼ばれていた律法学者たちが築き上げた規則と伝統の上に成り立っている宗教を指しています!それは、人が作った伝統的な儀式や規則を守る事によって救われるという律法主義の宗教でした!(マタ15:3-6)彼らが作った宗教が、実に、神が作られた旧約の律法を大いに見えなくさせていました!
●イエス様は、彼らが人工的に作った宗教制度に「継ぎを当て(る)」ために来られたのではありませんでした!そうではなく、真の「救いの衣」(イザ61:10)で、すなわちご自分を信じる信仰による救いの福音を、律法学者たちが作り上げた律法主義宗教という「古い衣」とそっくり入れ替えるために来られたのです!
2)新しいぶどう酒を古い皮袋に入れない(5:37-38)
●二番目の「たとえ」です。「新しい・・・布」を「古い衣」に「継ぎを当て」をするのが愚かであり無駄であるように、今度は、37節と38節で、「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れ(る)」事もまた同様に愚かで無駄であるとイエス様は語られます。なぜなら、「そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめにな(る)」からです!現代、ぶどう酒は木の樽になどに入れて寝かせ、その後不純物を取り除いてから瓶詰にします。しかし、当時、イスラエルにおいては、ぶどう酒は動物の皮で作られた袋状のものに入れていました。ぶどう酒の主成分は水、エタノール、各種の有機酸、糖、グリセリン、アミノ酸、核酸、タンニン、炭酸ガスなどです。
―4―
各種の有機酸の中には酒石酸、リンゴ酸、クエン酸、乳酸、酢酸、コハク酸が含まれ、物凄く複雑な化学変化を経て作られます。それゆえ、新鮮なぶどう酒は発酵する時にガスを発生させます。それゆえ、そのガスによって入れ物である「皮袋」が広げられるのです!
●ですから愚かにも、もし「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れ」ますと、その発酵によって「古い皮袋」の「皮」が引き伸ばされて限界に達し、「新しいぶどう酒」が「皮袋を裂(いて)」しまいます。それで、「ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめにな(って)」しまいます。それゆえ、「新しいぶどう酒は」必ず「新しい皮袋に入れなければなりません」。なぜなら、「新しい皮袋」は弾力性のない「古い皮袋」とは違って十分な柔軟性がありますので、「新しいぶどう酒は」が発酵している間中十分に対応できます!
●最初の「たとえ」と同じように、この二番目の「たとえ」もまた、恵みの福音と人の行いによって救わるというユダヤ教が混ざり合うのは不可能な事であり、無駄な事だという事を強調しています!恵みの福音は人が達成するいかなる宗教とも相いれる事無く、また両立できるものではないという事をはっきりと伝えています! (ロマ11:6/ガラ5:4)
3)古いぶどう酒を飲んでから新しいぶどう酒を望まない(5:39)
●さて、いよいよ最後の39節に記された三番目の「たとえ」です。それは、恵みの福音を退け、自分たちの行いによって義とされる誤った宗教にしがみつく者たちの悲劇を伝えています!イエス様は、そのような人々を、自分たちがこれまで飲んで来た「古いぶどう酒」に満足している人々にたとえています。これらの人々は、「新しい物」すなわち「新しいぶどう酒」を味わおうと願わないのです!「だれも」とイエス様は言われました。「だれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません」、と断言されています!そして、その人々は、「『古い物は良い』と言(う)」のです、と語られました!
●偽りの宗教は、霊的な味覚を失わせます!アルコール依存症の者またアルコール中毒患者にとって、アルコールに対してその味覚が麻痺するのと同じです!人間の作った宗教にどっぷりと浸からせて霊的感覚を麻痺するようにしているのは、サタンの用いる常套手段の一つです!「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです」(2コリ4:4)と語られている通りです!丁度酒飲みが自分たちの飲み慣れた酒で酔っ払うように、人々は自分たちにとって心地良い宗教の伝統に頑なにしがみつき、新しく、新鮮な福音の救いの真理に対して殆どあるいは全く関心を示せないのです!
●自分たちの偽りの宗教を離れようとせず、また福音を受け入れようとしない人々にとって、救いの希望はありません!(ヨハ14:6/使4:12)大切な点ですが、キリスト教会の目標は未信者を彼らの宗教の中で心地良くさせる事ではありません!また、イエス様を彼らの宗教の中に受け入れてもらう事でもありません!それゆえ、主が教会に命じられたのは、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」という大宣教命令でした!
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すなわち、人間の教えではない神の教えが記されている聖書の御言葉をしっかり教えなさいと命じておられます!そして、信仰者がそれらの命令を達成する事ができるように、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタ28:19-20)という力強い約束を与えられたのでした!クリスチャンは福音の真理を曲げずに、偽りの宗教にどっぷりつかって霊的感覚の麻痺した人々に愛と忍耐を持って伝道するのです!主はご自分の選びの民を必ずあなたと出会わせ、福音の真理に目を開かせて下さいます!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●当時の宗教指導者層のエリートたちがしがみついていた宗教の特徴は律法主義で、まさに人の努力によって救いを達成するものでした。それは、恵みと信仰による救いを説く神が達成された宗教とは全く混ざり合う事のできないものでした!
【適 用】 それでは、今回のメッセージの適用をしましょう。
●私たちの住む日本列島の事を考えてみましょう。「古い物が良い」という人々で溢れています。日本の津々浦々には人々が慣れ親しんできた宗教があり、人々はその味に全く慣れ切ってしまって霊的な味覚を失っています!それゆえ、殆どの日本人は聖書が説く唯一無二の福音を望みません!日本人の殆どがサタンによって霊の目が覆われ、霊的闇の中に置かれています!その中から皆さんは選ばれて、唯一無二のキリスト教の福音を信じ受け入れる者とされました!絶大な恵みです!この日本人に対して、神はあなたを遣わしておられます!いかがでしょうか、あなたは唯一無二の福音をしっかりと握っていますか?あなたは「地の塩」そして「世の光」として、家庭に、親類に、職場に、また友人知人の元へ遣わされているという意識はありますか?あなたが遣わされているところへはどこへでも、主があなたと共におられる事を確信していますか? 私たちが大宣教命令に従って日々の歩みを進めて行けるように祈りましょう。
【締めの御言葉】
あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます(マタ28:19-20)
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 1-5、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2009、 pp.340-342.)
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