『放蕩息子の父親に見られる神の愛と赦しと和解!』自分を正しい者とする律法主義者VS自分を「不敬虔な者」と認める霊的破綻者③-4                 《ルカ15:11-32/今回は15:20-24》

【前 置】

●三回にわたる「弟息子」に関するメッセージを前回終了し、今回はその父親にスポットライトを当ててメッセージを取り次ぎます。父親に関するメッセージは一回で終えますが、その聖書箇所が提供する真理は、私たちの神に関する理解を深めてくれます!

●パリサイ人や律法学者という当時の宗教指導者たちの律法主義による救いの視点からしますと、放蕩息子に対する父親の行動ははなはだ恥ずべきものでした!行いによる救いかそれとも恵みと信仰による救いなのか、その両者の違いは決定的で、その違いが、これら宗教指導者たちとイエス・キリストの間に見られます!それにしても、放蕩息子に対する父親に見られる神の愛と赦しと和解の真理は、実に、私たちを圧倒します!そして、良い行いによって人は救われるという律法主義者たちに対して、イエス・キリストは大きなチャレンジを与えられます!

●今回のメッセージの主題は『放蕩息子の父親に見られる神の愛と赦しと和解!』で、副題が「自分を正しい者とする律法主義者VS自分を『不敬虔な者』と認める霊的破綻者」です。それでは、紐解かれる聖書の真理に心の耳を傾けて行きましょう。

【全体のアウトライン】

◎序 論:三つ目のたとえ話、その特徴と背景/済

◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)

[1]弟息子(ルカ15:11-19)/済

[2]父  親(ルカ15:20-24)/今回(4回目)

1)弟息子に対する父親の恥ずべき歓迎(15:20-21)

2)弟息子に対する父親の恥知らずの和解(15:22)

3)弟息子に対する父親の恥知らずのお祝い(15:23-24)

[3]兄息子(ルカ15:25-32)次回(5回目)

[4]実際に起こった悲劇的な結末

[5]続く栄光の救いの御業

[6]救いの祝宴への招き

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【今回のアウトライン】

◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)

[2]父  親(ルカ15:20-24)/今回(4回目)

1)弟息子に対する父親の恥ずべき歓迎(15:20-21)

ア)父親による全く期待していなかった歓迎の始まり(15:20b)

イ)村人たちの非難による恥から息子を守る父親(15:20c)

ウ)愛と赦しと和解を身振り手振りで伝える父親(15:20d)

エ)息子の父親による受け入れが示す、信者の神の子としての受け入れ(15:21)

2)弟息子に対する父親の恥知らずの和解(15:22)

ア)弟息子への目に見える和解の証拠/一番良い衣、指輪、履き物(15:22)

イ)宗教指導者たちにとって理解し難い父親の惜しげない愛と恵み深さ

3)弟息子に対する父親の恥知らずのお祝い(15:23-24)

ア)重要な者となった弟息子、それを示す父親による盛大な祝宴(15:23-24)

イ)天の救いの喜びを伝える三つのたとえ話のお祝い、失われた罪人の神への回復

[2]父  親(ルカ15:20-24)

●いなくった「弟息子」の恥ずべき物語のように、宗教指導者たちの目からすると、お父さんの物語もまた、三つの恥ずべき局面が描かれています。アウトラインで確認しましたように、一つ目が「弟息子」に対する父親の恥ずべき歓迎(15:20-21)、二つ目が「弟息子」に対する父親の恥知らずの和解(15:22)、そして三つ目が「弟息子」に対する父親の恥知らずのお祝い(15:23-24)です。

1)弟息子に対する父親の恥ずべき歓迎(15:20-21)

ア)父親による全く期待していなかった歓迎の始まり(15:20b)

●さて、それでは今回のメッセージの本論のスタートです。20節21節に記された一番目の「弟息子」に対する父親の恥ずべき歓迎を取り上げましょう。その一つ目が、弟息子にとっては、20節中盤以降に記された、父親による全く期待していなかった歓迎の始まりです。

●「飢饉」に見舞われ、食べ物を与えてくれる者が一人もおらず、「弟息子」に残された選択肢は一つしか残されていなかった事を、前回のメッセージでお伝えしました。その唯一の選択肢が、20節冒頭に記されていますように、「立ち上がって、自分の父のもとへ向か(う)」事でした!彼が受ける事となる父親の歓迎というものは、彼の想像を遥かに超えるものでした!そしてそれは、このたとえ話が語られている主な聞き手である律法主義者たち、すなわちパリサイ人や律法学者たちに衝撃を与えるものでした!

●その思いもよらない歓迎が、20節中盤に記されていますように、「弟息子」にとっては、「まだ家までは遠かった」ところから展開して行きます!彼がまだ村に入らない前に、「父親は彼を見つけ(た)」と、イエス様は語られました!これは、何を意味しているのでしょうか?これは、父親は「弟息子」が帰って来る方角を見つめ続け、待ち続け、黙って苦しみ続けていたという事を意味しています!そして、恥ずべき弟息子が、いつの日か戻って来る事を待ち望んでいたのです!          ―2―

●パリサイ人や律法学者たちは、もし「弟息子」が戻るのであれば、父親は自分の名誉を守るために、最初は息子と再会する事を拒否すると考えたに違いありません!息子を出迎えるのではなくて、自宅の門の外側に待たせ続け、何日にもわたって恥をかかせ、面目を失わせる事でしょう。それからやっと息子が接見する事を許される時、彼は父親の前に相当ヘリくだらされ、冷たい扱いを受ける事でしょう。そして父親は、息子の放蕩によって浪費した分を完全に埋め合わせてもらうために働く必要がある事を告げるでしょう。またそのためには、どれくらいの労働期間を要するのかも告げる事でしょう。彼が父親と和解する事ができる前に、それを果たす必要がありました。和解に向けたこれら全ての為すべき事こそが、律法学者であるラビたちの教えであったのです!(I see)その教えを簡単にまとめますと、悔い改めとは罪人によって果たされるべき良い行いであり、それによってゆくゆくは神の恩情と赦しを獲得する事できるというものです!聖書は、この受け止め方を律法主義と呼んでいます!聖書が示している悔い改めとは、人間の良い行いが先行するのではなく、神の恵みと神がお与えになる信仰が先行します!良い行いは、救われて後に神が備えてくださるものです!この理解は大切!

イ)村人たちの非難による恥から息子を守る父親(15:20c)

●律法主義というものはユダヤ人社会に深く染み付いているものですし、それと同じような精神というものは、他のどの国にも見られます。行いによる義です!人は正しい行いによって、神の御前に正しい者にされるという理解です!このメッセージシリーズの序論で語りましたように、それは、ユダヤ人の社会や宗教や文化の中に深く染み付いているものであり、それがユダヤ人の意識や感覚を生み出し、更にそれがユダヤ人の行動を生み出しています!ですので、このたとえ話においても、聴衆は、父親が「弟息子」に対してふさわしい行動に出るであろうという事を期待しています!しかし、イエス様は、20節後半に記された息子に対する父親が取った行動を告げられる事によって、人々の期待を粉砕されます!息子を「見つけ(た)時、父親はどういう思いに駆られ、そしてどういう行動に出るのでしょうか?それは、放蕩した息子に対して、父親は彼を「かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけ」しました!律法主義に基づく行動では、全くあり得ない事です!いやむしろ、それは律法主義に反する行動です!

●「弟息子」と父親の再会の時間帯が、日中である事は確かです。なぜなら、「家までは遠(い)」距離にある息子を見る事ができるのは夜の時間帯では無理だからです。村自体は、昼間の活動でせわしく動いている時です。父親は、息子が村に入って来る時があるならば、彼の元へ自分から近づく事を前もって決めていました!というのも、息子が父親に対して悪態をついて財産の分け前を父親が生きている間に要求し、それを受け取って村を出て行ったのですから、それ以来、それが小さな村全体の悪い噂となっていました。そして、村人たちの「弟息子」に対する反感や彼を蔑(さげす)む思いというのは、彼が村を離れてからこれまでの間、ずっと村人たちの心の中に積み上げられて来たものです。それゆえ、「弟息子」が戻って来た事が村人たちに気づかれるなら、即座に、彼らは「弟息子」を虐待する恐れがありますので、父親は息子を守ってやらねばならないという意識をもっていました!(I see)そしてまた、息子を「かわいそうに思(う)」という父親の気持ちがその意識を強め、虐待が始まる前に、息子を守るという行動へと自分自身が駆り立てられて行ったのです!(I see)     ―3―

●これから取り上げる物語の詳細というものは、父親が息子の恥を自分自身で負い、そして彼を完全な名誉ある立場に回復させ、即、和解を図った事を告げています!それは言うまでもなく、この三つ目のたとえ話を聞いている聴衆に対しては、相当の驚きをもたらしたに違いありません!信じられない事に、この恥ずべきへりくだり、その謙遜が、息子の元に近づこうと切望する父親に見られます!なぜなら、息子に会うために、父親が彼の元へ「駆け寄って」行ったのですから!すなわち、父親は走って息子の元に向かったのです!これが、恥ずべき行動なのです!どういう意味でしょうか?

●イスラエルが位置する中東において、身分の高い人々は、公の場では「駆け」ません!すなわち、公の場で走る事をしません!それが中東の文化です。(I see)この「駆け(る)」(トゥレクオ)と訳されているギリシャ語の動詞は、1コリント9章24節と26節においては、「競技場で走る」という「走る」に訳されています!息子が村に入って後に、村人たちから罵倒されあるいは虐待を受ける前に、息子の元へ行くと決断した父親は、文字通り、「競技場で走る」選手のように全速力で「駆け寄っ(て)」行ったのです!(Wow)高貴な身分にある重鎮(じゅうちん)が、公の場で走るという事は、その時もまた今でも聞かれる事はありません!(I see)この中東で走らなければならないという事は、男性もまた女性も同様に、その身に着けている長い衣をまくり上げなければならないのです!(I see)という事は、両足を露わにするという事を意味しています!(I see)ゆえに、それは恥ずべき行為として受け取られます!(I see)ですので、その時、父親は、人々の目からすると恥の的であったのです!(I see)自らが恥をかく事によって、息子に恥が掛かる事を防いだのです!(Wow)

ウ)愛と赦しと和解を身振り手振りで伝える父親(15:20d)

●しかし、それよりも尚ショッキングな事は、父親が放蕩息子に再会した時に取った行動です!それが20節最後の部分に記されている事で、「彼の首を抱き、口づけした」事でした!愛と赦しと和解を身振り手振りで伝えた父親に対して、パリサイ人や律法学者たちは更なるショックを受けたに違いありません!

●実に、この父親の中に、主イエス様はご自分を表しておられました!イエス・キリストって、どういうお方でしょうか?天の父の元におられる栄光から離れてこの世に来られ、十字架刑という究極の恥を負われ、信仰をもってご自分の元へ来る悔い改めた罪人をへりくだって受け入れられます!そして、その人々へ、完全な赦しと和解をお与えになられます!

エ)息子の父親による受け入れが示す信者の神の子としての受け入れ(15:21)

●息子の反抗によってひどく傷つけられた父親ではありましたが、気絶させられる程に受け入れられたのがこの「弟息子」です!それはひとえに、父親の側の恵みによるものでした!父親が息子に対して取ったその行動というものは、息子の側のいかなる行動によって誘発されたものではありませんでした!

●そして、息子がついに口を開く時が来て、前回取り上げた18節と19節に記されていた一生懸命練習した悔い改めの言葉を、21節で次のように伝えました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません」、と!(続く)

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そこで、21節の御言葉をよく読んでみますと、何と、練習の時に語っていた19節の後半部分の「雇い人の一人にしてください」という重要な言葉が省かれています!(I see)なぜでしょうか?!それは、関係回復と和解を得るために、彼自身が働く必要がなくなったという事を知ったからです!父親が、自分を息子として受け入れた事を知ったからです!彼は、父親に快く受け入れられたために、その日その日を身を粉にして働いて、「雇い人の一人」として受け入れてもらう必要がなくなったからです!息子は即座に赦され、即座にあわれみが注がれ、そして即座に和解してもらったのです!

●息子として受け入れられるという事が、信仰者が何たるのかを見事に描いています!信仰者とは、悔い改めそして神に直接向かって恵みと赦しを懇願する事によって、まさに神の子として受け入れられる者を指しています!それは、信じる者の行いからは全く掛け離れたものです!

2)弟息子に対する父親の恥知らずの和解(15:22)

ア)弟息子への目に見える和解の証拠/一番良い衣、指輪、履き物(15:22)

●父親は、息子との和解について目に見える証拠を与えました!父親の取った行動は、このたとえ話を聞いている人々へ更なるショックを与えたに違いありません!父親に恥をかかせ且つまた汚名を着せた息子に対して、惜しみなく恩情を注ぐこの父親に対して、人々は理解し難く思っていたに違いありません!父親が息子との再会のために走り寄った時、恐らくその後を追って行った「しもべたちに」対して振り向き、最初に「急いで」と告げました!そして間髪入れずに、「一番良い衣を持って来(なさい)」、と命じました!「一番良(く)」また最も重要な「衣」というのは、家長すなわち父親に属するもので、最も重要な機会にのみ着られるものです!そして、父親は盛大で特別な祝宴の席を設けるよう指示を出し、その上で更に、通常自分がそのような席で身に着ける「衣」を、この息子に与えたのです!

●「指輪」というのは家紋をあしらった印鑑が付いているもので、文書が本物である事を証明するために、蝋(ろう)で封印されたところへ印を押すために用いられるものです!ですので、その「指輪」を与えられる者には、父親からの特権と権利と権威とが授けられているという事を意味していました!「履き物」とはしもべたちが通常履くものとは違い、彼が息子として完全に回復した事を示すものでした!

●「弟息子」が何も持たないで父親の元へ戻ったように、霊的には、悔い改めそして自分が救われるためには何も持たない、神の前に何の功績もない罪人が、父なる神に近づく事を指しています!そして天の父なる神は、自分が正しいと思っている独善的な者を義とするのではなく、ローマ4:5に記されているように、神の前に自分が「不敬虔な者」だと認める者を「義と認め(て)」くださるのです!

イ)宗教指導者たちにとって理解し難い父親の惜しげない愛と恵み深さ

●父親が自分の「衣」や「指輪」を「弟息子」に授けたのには、キリストのたとえ話を聞いていた人々をショックさせたに違いありません!その人々は、「衣」と「指輪」とは、本来ならば、権利上、「兄息子」へ行くべきものである事を知っていたからです。(続く)

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兄息子が自分の結婚式という、家族にとっては最も晴れある場で、父親の公式な場での衣装であるガウンを身にまとうべきでした。「兄息子」が、長男としての権利の象徴である「指輪」を受け取るべきでしたし、そして父親の代行を務めるべきでした。

●しかしたった今、信じられない事に、父親はこれらのものを弟息子に与えたのでした!そのような惜しげのない愛と恵みが、神を信頼して悔い改めている罪人へ授けられるというのは、律法主義者たちにとっては理解し難いものでした!律法主義は、恵みを憎みます!律法主義は、ひどく恵みを嫌います!

3)弟息子に対する父親の恥知らずのお祝い(15:23-24)

ア)重要な者となった弟息子、それを示す父親による盛大な祝宴(15:23-24)

●息子が帰って来た事を大喜びした父親は、しもべたちに対して、金に糸目をつけない盛大な宴会を準備するよう命じました!それは、6節に記されていました、いなくなった羊を見つけた羊飼いや、また9節に記されていました、なくした銀貨を見つけた女性が小さく見えます!

23節前半に記されている「子牛」というのは、牧草だけでなく、穀物の飼料で飼育された「子牛」を指しています。聖書の中で見られますように、長男の結婚式において(マタ22:2-4)、あるいは重要な人物の訪問の時(参/1サム28:24)、あるいは最も重要な催しや出来事のために用意されていたものです!(I see)23節最後に記されていますように、招かれる人々が「食べて祝(う)」事ができるよう、しもべたちに準備するよう命じる事によって、父親は、自分の息子がどれほど重要な者になったのかを表しました!「肥えた子牛」一頭で二百人の人々を養う事ができますので、村人全員が招かれたに違いありません!(I see)

●羊飼いは羊という動物を見つけ、女性は、命は通ってはいませんが銀貨を見つけ、そして両者は少ない人数の友人たちとお祝いの時をもちました。しかし、この三つ目のたとえ話に出て来る父親は、24節に記されていますように、「死んでいたのに生き返(った)」自分の「息子」を見つけました!また、「いなくなっていたのに」今は「見つかったの(で)」、全村民上げて、父親と共に「祝宴を始めた」のでした!

イ)天の救いの喜びを伝える三つのたとえ話のお祝い、失われた罪人の神への回復

●この三つのお祝いは、いなくなった罪人の神による回復についての天の喜びを伝えております!これまでの二つのたとえ話もそうであったように、この三つ目のお祝いもまた、実際には、見つけられた側を称賛しているのではなくて、見つけた側を称賛しております!息子を探しそしてあわれみ深い赦しと恵み深い愛を通して、父親は、息子に対する自分の完全な和解を与えました!それが、罪人の神による回復であり、天の喜びを象徴しているのです!

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【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。

●ルカの福音書15章の三つ目のたとえ話を紐解くキーワードが、「名誉」や「恥」という言葉であるという事を、シリーズ最初の序論でお伝えしました。当時の宗教指導者であるパリサイ人や律法学者たちの目からしますと、父親を否定し、親元を離れて放蕩三昧に走り、「財産を湯水のように」浪費してしまった「弟息子」の帰りを歓迎し、「弟息子」に対する村人からの非難や虐待から彼を守り、その恥を自分が代わりに受け、そしてその息子に愛と赦しと和解を率先して与えた父親は、ユダヤ社会や文化や宗教においては恥ずべき者として映りました!これが、行いによる義を説く律法主義者たちの見方であり、恵みと信仰による義を受け入れない宗教指導者たちの姿を表していました!実に、律法主義は恵みを憎み嫌います!しかし、父なる神は、自分は正しいと思っている独善的な者を義とするのではなくて、自分が「不敬虔な者」であるという事を認める者を「義と認める」のです!これが、聖書が説いているまことの救いです!神による罪人の回復は、実に、天の喜びを象徴しています!

【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。

●今回のメッセージを通して語られた父親の放蕩息子に対する行動から、あなたは、神が愛と赦しと和解の神であるという事を確認できましたか?逆に、今回のメッセージを通して語られたパリサイ人や律法学者たちの救いの理解が、恵みと信仰によるものではなく、人間の行いによる律法主義という誤ったものであるという事も確認できましたか?律法主義が、恵みを憎みそして嫌うという事を確信しましたか?あなたがキリストを信じたと思った時、あなたは自分が「不敬虔な者」であるという自覚はありましたか?父親は「弟息子」が帰って来る方角を見つめ続け、待ち続け、黙って苦しみ続け、いつの日か戻って来る事を待ち望んでいましたが、そのようにして、あなたにも同様にされていた事に気づきましたか?あなたは、その神の愛とあわれみに対して、どう応答されますか?そして最後に、神はあなたのために十字架に架けられるという究極の恥を、あなたを救うために負われましたが、あなたはそのキリストの愛とあわれみに対して、どう応答されますか?

【締めの御言葉】

15:20・・・彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた(ルカ15:20-24)。

[引用&参考文献]

・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 11-17、 The Moody Bible Institute of Chicago、 pp. 313-317.)

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