『我に返った弟息子!』―「私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。・・・私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです」(エズラ9:6)。―    《ルカ15:11-32/今回は15:17-19》3-③

【前 置】

●「弟息子」についてのメッセージは、今回が三回目で締めくくりとなります。それゆえ、前々回のメッセージでは、「弟息子」の父親に対する恥知らずの要求を取り上げました。それに続く前回のメッセージでは、「弟息子」が恥知らずの反逆に出た事を取り上げました。そして三回目の今回は、「弟息子」の神と父親に対する恥ずべき罪の悔い改めについて取り上げます。

●今回のメッセージのキーワードは、「我に返っ(た)」(15:17)です!「弟息子」が「我に返っ(た)」がゆえに、彼は、自分が「飢え死にしようとして」(15:17)いるどん底状態を認める事ができました!また、「我に返っ(た)」事が、「弟息子」を「罪」(15:18)の自覚へと至らせました!そして彼は、自分が裏切り、恥をかかせた父親の元に帰る決心をします!霊的には、「我に返(る)」という事が、人を悔い改めへ至らす事になります!「弟息子」の三回目の締めくくりのメッセージは、この大切な悔い改めを取り上げます!

●今回のメッセージの主題は『我に返った弟息子!』で、副題が「私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。・・・私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです」(エズラ9:6)です。

【全体のアウトライン】

◎序 論:三つ目のたとえ話、その特徴と背景/済

◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)

[1]弟息子(ルカ15:11-19)/今回(3回目)

1)父親に対する弟息子の恥知らずの要求(15:11-12)/済

2)父親に対する弟息子の恥知らずの反逆(15:13-16)/済

3)神と父親に対する弟息子の恥ずべき罪の悔い改め(15:17-19)/今回(3回目)

[2]父  親(ルカ15:20-24)/次回(4回目)

1)弟息子に対する父親の恥ずべき歓迎(15:20-21)

2)弟息子に対する父親の恥知らずの和解(15:22)

3)弟息子に対する父親の恥知らずのお祝い(15:23-24)

[3]兄息子(ルカ15:25-32)

1)父親に対する兄息子の恥ずべき反応(15:25-30)

2)兄息子に対する父親の恥ずべき応答(15:31-32)

―1―

[4]実際に起こった悲劇的な結末

[5]続く栄光の救いの御業

[6]救いの祝宴への招き

【今回のアウトライン】

◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)

[1]弟息子(ルカ15:11-19)

1)父親に対する弟息子の恥知らずの要求(15:11-12)/済

2)父親に対する弟息子の恥知らずの反逆(15:13-16)/済

3)神と父親に対する弟息子の恥ずべき罪の悔い改め(15:17-19)

ア)恵み深くまたあわれみ深い父親を思い出し、謝罪の練習をする弟息子(15:17-19)

イ)救いに導く事のできる悔い改めをありありと描写している弟息子(15:18)

ウ)自分が招いた損失を生涯掛けて償い、受容してもらう事を願った弟息子・・・(15:19b)

【本 論】

◎二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)

[1]弟息子(ルカ15:11-19)

1)父親に対する弟息子の恥知らずの要求(15:11-12)/済

2)父親に対する弟息子の恥知らずの反逆(15:13-16)/済

3)神と父親に対する弟息子の恥ずべき罪の悔い改め(15:17-19)

ア)恵み深くまたあわれみ深い父親を思い出し、謝罪の練習をする弟息子(15:17-18)

●失望と落胆のどん底で、「弟息子」は飢餓に直面し、17節冒頭に記されていますように、彼はとうとう「我に返(り)」ました!そして、自分の父親を思い出しました!富める、気前のいい、寛大で、あわれみ深い父親を思い出したのです!「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか」、と!(15:17b)そして、それとは真逆に、17節最後のところで、「それなのに、私はここで飢え死にしようとしている」、と自分の置かれた現実を初めて直視しました!

●「雇い人」と記されていますが、それは日雇い労働者を指しています。殆どの場合、手に職を持っていない、その日暮らしの貧しい人々で、その日の労賃がいくらであろうが、それに応じて働いている人々を指しています(参/マタ20:13-14)。このような人々が社会の構成員であるという現実を認めて、旧約聖書の律法はそのような労働者を守り、適切な賃金が支払われるよう規定しています。ここにも、その規定を定められた聖書の神の素晴らしいご性質を、次の御言葉の中に垣間見る事ができます!申命記24:14-15は、その点に関して次のように告げています。

24:14 貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地の、あなたの町囲みの中にいる寄留者でも虐げてはならない。24:15 その人の賃金はその日のうちに、日没前に支払わなければならない。彼は困窮し、それを当てにしているのだから。彼があなたのことを【主】に訴えて、あなたが罪責を負うことのないようにしなさい。                      ―2―

●このような日雇い労働者に対して、この父親がどう対応していたのかが、17節中盤に記された「弟息子」自身の言葉によって理解する事ができます。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか」、と!すなわち、「パンのあり余っている雇い人」という表現から、その父親が、律法が求めている遥か以上の対応を、これら手に職をも持たないその日暮らしの貧しい人々にしていたのです!(I see)その父親を思い出したのです!そのような寛容な父親を思い出したという事が、彼に希望を与えました!そして、父以外のところに戻るという選択肢が自分には残されていないという事にも重々気づかされていました!(I see)

●そこで彼は、18節に記されていますように、「立って、」自分の「父のところに行こう」と決断しました!これから後にたとえ最悪な事が起こるにしても、それは、自分が異邦人の地で直面した事よりも厳しくはないものと思ったに違いありません!(I see)彼は、自分の父親が日雇い労働者たちをいつも大切に扱っていたように、少なくとも、自分が同じ慈しみとあわれみによって取り扱われるものと望んだのでした!(I see)ところが一方、パリサイ人や律法学者たちにとっては、「弟息子」が父親をそのように思い出した事については、軽率で厚かましいものだと思った事でしょう。

●そのような思いを抱いた「弟息子」は、18節の後半で、自分が実家に戻った時には、短い告白をもって父親の前に出て行こうと、その謝罪の言葉を復唱して練習しました!「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です」、と!彼がへりくだって自分の恥ずべき罪を告白して後に、彼が推測する最上の扱いは次のようなものでした。自分が浪費してしまった全てのものを償うために父親の元で働く事が許され、そしてその後に、父親と和解する事が彼の望みでした!(I see)

●一方、パリサイ人や律法学者たちは、「弟息子」が次のようである事に同意したに違いありません。彼が自分の罪を告白し、悔い改め、へりくだり、恥ずかしい思いをする必要があると!しかしそれは恐らく、浪費した全ての物を父親に返して後に初めて、赦しとあわれみを受け取るであろうと!(I see)宗教指導者たちは、人は、そのようにして初めて自分の恥から逃れる事ができると考えていたに違いありません!(I see)

イ)救いに導く事のできる悔い改めをありありと描写している弟息子(15:18)

●他方、「弟息子」自身の受け止め方こそ、救いに導く事のできる悔い改めを示しております!彼は「我に返(り)」、自分の状況がいかに絶望的であるのかを実感し、理解しました!彼は父親の優しさを、あわれみ深さを、寛容さを、そして慈しみ深さを思い出し、そしてそれらを拠り所にしました!

●同じように、罪を悔い改める者は自分の状況がいかなるものかを判断し、罪から離れる必要がある事を認めます!彼は自分が無礼を働き、恥をかかせた天の父以外には、誰一人戻るべき者がいない事を悟ります!そして、神に向かって自らが差し出すものは何一つなく、ただ信仰によって、恵みによる赦しと和解を求めます!「弟息子」は父親に向かって、自分が「天に対して罪を犯し」また父親の「前に罪ある者で」ある事を認めました!「天に対して罪を犯し」という言葉は、「弟息子」が、天と同じ高さまで自分の罪を積み上げたという風にもとる事のできる表現でもあります!

―3―

●律法学者であり、且つまた祭司であり、そして更には有力な指導者であったエズラが、バビロン捕囚から祖国に戻ったイスラエルの民が堕落の一途を辿る中、次のように告白しました。「私の神よ。私は恥じています。私の神よ。私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。私たちの咎は増し、私たちの頭より高くなり、私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです」、と!(エズ9:6)。同じように、罪を悔い改める者は、天と同じ高さまで自分の罪を積み上げた事を認めます!そして、その全ての罪の責任を取ります!また、自分が犯した罪が極悪なものである事を認めます!(Wow)

●悔い改めとは、神に向かって回復されるための道のりにおいて、罪人が果たすべき重要な役割です!その悔い改めを離れては、真の福音はありません!罪人に対して悔い改めを呼び掛ける事は、全ての聖書的伝道の核心部分だと言えます!それは、旧約聖書から始まりました!(参/詩32:5、51:1-4、17/イザ1:16-18、55:6-7、エゼ18:30、32、33:19、ヨナ3:5-10)新約聖書において悔い改めは、福音説教における中心部分でした!バプテスマのヨハネの説教において(ルカ3:3-9)、イエス様ご自身の説教において(マタ4:17/ルカ5:32、13:3、5、24:46-47)、使徒たちの説教において(マコ6:12)、各地の初代教会における説教においてもそうでした!(使2:38、3:19、5:31、8:22、17:30、20:21、26:20/2コリ7:9-11)悔い改めが人の功績や手柄として、また救われる前の人の行いとして捉えられてはなりまません!なぜなら、悔い改めは、神によって与えられなければならないものだからです!(使11:18/ロマ2:4/2テモ2:25)悔い改めは罪人へ要求されているものですが、それはあくまでも神によってもたらされなければならないものです!私たち自身の悔い改めも、全て神によってもたらされたものです!そうしていただいた事によって、私たちは救いへ近づけられて行きました!

ウ)自分が招いた損失を生涯掛けて償い、受容してもらう事を願った弟息子(15:19b)

●「弟息子」は、自分が浪費した全てを返すために、働かなければならない事を当然想定していました。彼は、自分が息子としても、また家の召使いの一人としてでさえも、すぐに家族に迎え入れられるという風には期待していませんでした!19節最後の部分に記されていますように、彼は、父親が自分を「雇い人の一人」として受け入れる思いがあるのではないかという事だけに望みを置いていました!

●彼の空しい人生というものは、過去においては悲しみに満ちていました!現時点においては、痛みに満ちていました!そして未来においては、自分の残りの生涯を通して受け入れられる事を求めるという暗い先行きが待っており、更なる苦しみが待ち受けていました!しかし、後で判明する事にはなりますが、彼は、自分にとって父親がどういう人物なのかが、この時点においては全く見えていませんでした!(I see)父親がどういう人物なのか、父親に関する次回のメッセージに期待してください!

【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。

●今回のキーワードは、「我に返っ(た)」という言葉でした!それゆえ、「弟息子」は、自分が「飢え死にしようとして」いるどん底状態にある事を直視する事ができました!それがゆえに、彼は、富める、気前のいい、寛大で、あわれみ深い父親を思い出しました!そして、父親の気高いそれらの性質に頼る事が、彼に希望をもたらしました!それ以外の選択肢は、自分には残されていないという事にも気づいていました!                                            ―4―

●罪を悔い改める者とは、自分の罪を天と同じ高さにまで積み上げた事を認めます!罪に陥ったひどい状況を認め、罪から離れる必要がある事を認めます!自分が無礼を働き、恥をかかせた天の父以外には、誰一人戻るべき者がいない事を悟ります!そして、神に向かって自らが差し出すものは何一つなく、ただ信仰によって、恵みによる赦しと和解を求めます!自分が犯した罪が極悪なものである事を認め、その罪の全ての責任を取ります!そして、人には悔い改めが要求されていますが、それさえも、神によってもたらされるものであるという事をまなびました!

●最後に、「弟息子」は、父親によって「雇い人の一人」として受け入れてもらうという事のみに望みを置いていましたが、その時点で、それとは裏腹に、彼は父親がどういう人物なのかが全く見えてはいませんでした!それは、人の推測を遥かに超える天の父の気高いご性質を示すものでした!

【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。

●人は皆罪深い者ですが、あなたは、自分の罪を天と同じ高さにまで積み上げた者であるという事を認めますか?自分が罪を犯したという時、あなたは自分が神ご自身に対して無礼を働き、神ご自身へ恥をかかせたという理解はありますか?自分の罪深さを自覚するよう導かれた時、その罪の解決のためには、聖書の神以外に戻るべき者が他に全くいない事をあなたは悟りましたか?罪の赦しに当って、あなたが神に差し出すものは何一つなく、ただ神の恵みによって与えられた悔い改めと信仰とによって、初めて神と和解できた事を理解しましたか?そして最後に、神が「赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられ」、あなた「をお捨てにな」られなかったという真実によって(ネヘ9:17b)、あなたは圧倒されていますか? それでは、祈りの時をもちましょう。

【結論の御言葉】

15:17 しかし、彼は我に返って言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』」(ルカ15:17-19)。

[引用&参考文献]

・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 11-17、 The Moody Bible Institute of Chicago、 pp. 311-313.)

―5―