『弟息子に見られる罪人の実態!』―放蕩の末に物乞いにさえなれず、万策尽き、餓死寸前へと追い込まれて行く弟息子―《ルカ15:11-32/今回は15:13-16》3-②

【前回の復習】

●『二人の反逆息子、愛と恵みの父親』というテーマで、二回目のメッセージを取り次ぎます。前回はメッセージ全体の序論で、このたとえ話が極めて重大な救いの物語であるという事をお伝えしました。この最も豊かな内容で且つまた最も複雑な意味を含んだ物語を理解するには、その背景にあるイスラエルの人々の社会、宗教、文化から来る考え方を理解する必要がありました。それが、名誉を求め、恥を退けるという倫理観に代表されていました。その倫理的な枠組みを根本から覆されたのが、イエス様がお語りになられたこのたとえ話でした!

●正しいと言われる全ての事に対して反逆する事によって、恥の極端な例がどういうものなのかを示したのが「弟息子」でした。そして、パリサイ人や律法学者たちの目からしますと、「父」はその戻って来た息子を受け入れる事によって、より恥ずべき者として表されています。そして、「兄息子」は究極的な恥の表れで、それはパリサイ人や律法学者たちを象徴しているという事でした。

【今回の前置】

●「弟息子」は父親に対して恥知らずの要求をして自分の財産を手に入れて後、今度は、恥知らずの反逆の行動に出ます。今回のアウトラインに記されていますように、彼は、自分の責任が問われない遠いところへ逃避します。次に、彼は物乞いになる事さえにも失敗するという悲惨な状況下に追い込まれます。そして、彼が陥った悲惨な状況というものが、実に、罪人の悲惨な状態がどういうものかを教えております!

●今回のメッセージの主題は『弟息子に見られる罪人の実態!』で、副題が「放蕩の末に物乞いにさえなれず、万策尽き、餓死寸前へと追い込まれて行く弟息子」です。イエス様がお伝えになられた罪人の実態というものが、読者にとって手に取るようにありありと描かれております。それでは、紐解かれる御言葉の真理に期待を寄せると同時に、その真理がもたらす教訓を分かち合う時をもつ事にしましょう。

【全体のアウトライン】

◎序 論:三つ目のたとえ話、その特徴と背景/済

◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)/2回目

[1]弟息子(ルカ15:11-19)/今回(2回目)

1)父親に対する弟息子の恥知らずの要求(15:11-12)/済

2)父親に対する弟息子の恥知らずの反逆(15:13-16)/今回(2回目)

3)神と父親に対する弟息子の恥ずべき罪の悔い改め(15:17-19)/次回(3回目)

―1―

[2]父  親(ルカ15:20-24)/次々回(4回目)

1)弟息子に対する父親の恥ずべき歓迎(15:20-21)

2)弟息子に対する父親の恥知らずの和解(15:22)

3)弟息子に対する父親の恥知らずのお祝い(15:23-24)

[3]兄息子(ルカ15:25-32)

1)父親に対する兄息子の恥ずべき反応(15:25-30)

2)兄息子に対する父親の恥ずべき応答(15:31-32)

[4]実際に起こった悲劇的な結末

[5]続く栄光の救いの御業

[6]救いの祝宴への招き

【今回のアウトライン】

◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)

[1]弟息子(ルカ15:11-19)

1)父親に対する弟息子の恥知らずの要求(15:11-12)/済

2)父親に対する弟息子の恥知らずの反逆(15:13-16)

ア)自分の責任が問われないところへ逃避する弟息子(15:13-14a)

イ)物乞いになる事さえにも失敗する悲惨な状況下の弟息子(15:14b-16)

ウ)罪人の悲惨な状態がどういうものかを教えている弟息子

【本 論】

◎二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)

[1]弟息子(ルカ15:11-19)

1)父親に対する弟息子の恥知らずの要求(15:11-12)/済

2)父親に対する弟息子の恥知らずの反逆(15:13-16)

ア)自分の責任が問われないところへ逃避する弟息子(15:13-14a)

「弟息子」が父親に対して相当無礼な財産の要求をして以来、彼がそれから急激に下降線を辿って行くには、そう時間が掛かるものではありませんでした!13節が告げていますように、彼は、「それから何日もしないうちに」、自分が受け取った「すべてのものをまとめ」ました。ここで「まとめて」(“スナゴー”)という言葉が使われていますが、原語のギリシャ語聖書以外でもよく使われている言葉で、父親から財産として譲り受けた「すべてのものを」現金に換えたという意味を示唆する言葉です。また、「遠い国に旅立(つ)」という時、分け与えられた財産を持ち運ぶ訳には行きませんので、それを現金化する事が唯一実用的な方法であったという事からも容易に考えられます。そして、そうする目的が何かと言いますと、自分の罪深い楽しみのためでした!

―2―

●現代とは違い、その当時、生前分与という財産の受け継ぎ方がない中で、「弟息子」は、父親が死ぬまで自分に割り当てられた財産を所有する事は本来できませんでした。しかしそういう中で、前回のメッセージでお伝えしましたように、「弟息子」は父親の生前に財産の分け前を受け取る事に成功し、売却する事も許され、早急にそれらの手続きを進めたに違いありません。そのような進め方ですので、恐らく通常の売却価格からは割り引かれた形で、買い手との契約を結んだであろうと推測する事ができます。

●父親に屈辱を与える事がまるで悪い事ではないかのように、彼は自分の家族に対する責任を無視し、売却した財産の代金を自分の罪の楽しみのために浪費するために、「遠い国に旅立っ(て)」行きました。「遠い国」とはイスラエル以外の地、すなわち異邦人の地を指しています。彼は父親から遠く離れ、また自分の恥ずべき言動を非難する村人たちから遠く離れ、すなわち自分の責任が問われる地から遠く離れて、罪の快楽にふける事を望んだのです!(Wow)彼の行動は、神から逃れようと試みる全ての罪人の愚かさを象徴しています!彼は神に対して、弁明責任を取りたくないのです!

―「兄息子」も「弟息子」も父親を愛しておらず、また互いも愛していない!―

●このたとえ話を聞いている人々は、この時点で、お父さんと「弟息子」の仲介役として、イエス様が、なぜ「兄息子」を登場させないのかと不思議に思ったに違いありません。もし「兄息子」が本当にお父さんを愛していたのならば、彼は、弟の無責任な行動から、お父さんの名誉を守ったに違いありません!(I see)また一方、もし彼が弟を本当に愛していたのなら、彼は弟の方にも介入して、弟の人生を破壊から守り、また全ての人に対して弟が恥を積み重ねて行かないよう手を尽くし、守ったに違いありません!(I see)また、兄も結局のところ、いなくなる弟の恥を負う事にもなります!(I see)愛と寛容に満ちた父親は、感謝も愛もないこの二人の息子に対して自分の全てを与えました!それは丁度、天の父なる神が、「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方だという事を思い出させてくれます!(マタ5:45b)しかし、その二人の息子は、父親に対して何の意義ある関係ももっていませんし、また互いの関係においても何の意味ある関わりももっていませんでした!(I see)

―金の切れ目が縁の切れ目!―

13節後半に進みますと、「弟息子」は自分が計画していた旅の目的地に到着して後、「そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしま(い)」ました!この「使ってしまった」(“ディアスコルリゾー”)という言葉の元々の意味は、「散らす、散乱させる」です(マタ25:24、26、26:31/ルカ1:51/ヨハ11:52/使5:37)。彼は父親から譲り受けたお金をばらまき、散らし、散乱させ、実に無謀な浪費を重ねて行きました!快楽に溺れた暮らしぶりというのは、30節からも分かりますように、遊女との付き合いも含んでいました!彼は、文字通り、大金を「湯水のように使(い)」尽くしてしまったのです!

●罪の快楽というものは、いつしか過ぎ去って行きます!(ヘブ11:25)金が尽きる最後の時、宴会は終わります!パーティーは終了です!彼と共に喜んでどんちゃん騒ぎをした友人たちにとって、14節の冒頭に記されていますように、彼が「何もかも使い果たした」となれば、彼はもうお役御免です!彼は不要とされます!金の切れ目が縁の切れ目です!これが、この世の仕組みです!

―3―

イ)物乞いになる事さえも失敗する悲惨な状況下の弟息子(15:14b-16)

●彼が破産して後に、別の災難が降り掛かりました。それは、14節中盤に記されていますように、彼自身が自ら招いたものではありませんでしたが、「その地方全体に激しい飢饉が起こり」ました。「飢饉」というのは、古代においてはよく起こり得る事で、非常に恐ろしくまた命取りになる自然災害でした!「飢饉」はアブラハムを(創12:10)、そしてヤコブとその家族(創47:4)を避難先である異邦のエジプトへ追いやりました。また、イサクを異邦のペリシテの地へ(創26:1)、ルツとその家族を異邦のモアブの地へ追いやました(ルツ1:1)。イスラエルの歴史を通して「飢饉」が見受けられますし、それはしばしば恐ろしい結果をもたらしました。その驚愕の例が、人肉を食べてその危機を乗り越えるというものでした!何と、自分たちの子供を煮て食べるたという事実が聖書に記録されています!(2列6:25-29)飢饉は、文字通り恐ろしい災害です!

●「弟息子」にとっては初めての経験で、14節の最後の部分に記されていますように、彼は「食べることにも困り始め」ました。彼の邪悪な決断、そしてそれに加えて「飢饉」という自然災害がもたらす厳しい危機に見舞われ、彼は想像を絶する絶望感へと突き落とされてしまいます!彼は自分の家族を捨て、そして今度は、旅先の異邦の地で出会った金銭目当ての友人たちが彼を捨てました!彼は外国の地にいるよそ者であり、助けを得るために、どこへ行く事もまた誰に助けを求める事もできませんでした!彼は一文無しで、極貧状態で、頼れるものは何一つありませんでした!抑制されない快楽を求め、収まる事のない欲望を求め、そして節度のない振る舞いを求めたがゆえに、行き着くところ、餓死寸前という恐怖の中に追い込まれて行きました!でも、そのような切迫状況に追い込まれているにもかかわらず、彼は、へりくだって郷里の実家に戻り、回復を求め、そして自分の恥ずべき振る舞いの結果に向き合うというまでには、まだ至ってはいませんでした!

●そうするのではなく、彼は、苦肉の策を思い付きました。15節前半に記されていますように、彼は、「その地方に住むある人のところに身を寄せ」ました。そうした「ところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせ」ました。ユダヤ人にとって、異邦人の地で豚を飼うという事は、想像し得る中で、最も屈辱的な仕事に就く事を意味していました!ユダヤ教のラビたち、律法学者たちの文書によりますと、豚に関わる者たちに対してはのろいが宣告されていました!これまで何度か説明して来ましたが、「豚」が悪い訳では全くなく、「豚」という食肉を通してイスラエルの人々が異邦人と交わる事によって、彼ら異教の偶像礼拝の風習がイスラエルに持ち込まれる事を防ぐためというのが、神が律法で、豚肉を食する事を禁止されたという理由です。そういう訳で、豚肉を食べるという事は、儀式上汚れるという教えなのです。そして新約時代に入り、その食物規定が撤廃された以上、豚肉を食べる事は何の律法違反でもありません。

●「身を寄せた」(“コラオー”)という言葉をイエス様は用いておられますが、それはあくまでも「身を寄せた」という事で、その「人」によって雇用されてはいない事を告げています!ですので、彼は経済的に保証されていないのです!(I see)彼は物乞いのままです!また、この「身を寄せた」という言葉は、元々「くっついてはなれない」という意味のある言葉から来ていますので、彼は助け手が全くいない地にあって、その「人」をしつこくまた固くつかんで離さないという姿を伝えています!(続く)

―4―

彼を追い払うために、15節の後半に記されていますように、その「人」は「彼を畑に送って、豚の世話をさせ(た)」のです。そういう訳ですので、彼に対して労賃を支払うというような意図は全くありません。「弟息子」は、そのようにして、餓死寸前へ追い込まれて行きます!

●そして16節前半で、「彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだった」と記されています。ここで、「いなご豆」についての説明が必要です。私が持っている日本語のそれぞれ異なる五つの聖書全てで「いなご豆」と訳している一方、英語のそれぞれ異なる九つの聖書では、全て、「さや」もしくは「豆のさや」と訳されています。何を意味しているのでしょうか?「いなご豆」であれば食用ですので、この「弟息子」も食べる事ができるのですが、「いなご豆」の「さや」ですので、「食べて・・・腹を満たしたいほど」なのですが、決して好んで食べられるようなものではないのです。しかし、何と彼は、「豚が食べているいなご豆」の「さや」を、まるで「豚」と取り合うかのようなところまで、最大に追い込まれているという状況にある事を示しています!(Wow)

●尚また16節最後の部分で、「だれも彼に」対して何も「与えてはくれなかった」ので、彼は物乞いを試みましたが、それさえも失敗に終わった事を告げています!(Wow)絶体絶命です!絶望以外の何ものでもありません!八方ふさがりです!もうこれ以上、手の打ちようがありません!彼は餓死という命の危険にさらされているのです!

ウ)罪人の悲惨な状態がどういうものかを教えている弟息子

●「弟息子」の振る舞いというものは、罪人のあわれな願望を典型的に描いています!そして、彼が置かれた窮状というものは、罪人の絶望的な状況をありありと伝えています!神に対する罪は神の父性(父親としての性質)に対して逆うもので、神の栄誉と敬意を踏みにじり、神の愛をはねつけ、そして神の御心を拒絶します!悔い改めない罪人は、神に対する全ての責任を遠ざけ、よってその説明義務を遠ざけます!罪人は、神が神として君臨しておられるその位を否定します!罪人は、神を憎みます!罪人は、神が存在していないよう願います!罪人は、神を愛する事を拒みます!そして、罪人は、神に屈辱を与えます!

●罪人は神が自分たちに与えられた賜物を受け取り、それを自分たちの好き勝手な生き方の中に、また自分たちの放蕩の中に、そしてまた自分たちのブレーキの効かない欲望の中に浪費します!その結果、罪人は、自分たち自身を、霊的破綻の中に、霊的飢饉の中に、そして霊的極貧の中に見出す事になります!誰一人助ける者がおらず、逃げる場所がどこにもなく、しまいには永遠の死に直面しなければなりません!(Wow)

―次回のメッセージへつなげる―

●自分を助ける万策が尽きた時に、罪人は、どん底にぶち当たります!自分自身が、「弟息子」のように、そのような状況にある事に気づいた人々への唯一の解決策が、次の17節から19節に記された「弟息子」の言動の中に記されています。それが、次回のメッセージの内容です。

―5―

●父親に対して恥知らずの要求をして自分の財産を手に入れ、それを売却したお金を持って、自分の恥知らずの反逆が責められない遠い異邦の地に逃避したのが「弟息子」でした。父親に対する恥知らずの反逆は、彼を悲惨な人生のどん底へと追いやりました!物乞いになる事さえもできず、万策が尽き、餓死の恐怖の底に落とされました。それは、神に反逆した罪人の姿をありありと描いていました!神への反逆は、人を霊的破綻の中へ、霊的飢饉の中へ、霊的極貧の中へ、そして最終的に永遠の死の中へ追いやります!

【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。

●父親に対して恥知らずの要求をして自分の財産を手に入れ、それを売却したお金を持って、自分の恥知らずの反逆が責められない遠い異邦の地に逃避したのが「弟息子」でした。父親に対する恥知らずの反逆は、彼を悲惨な人生のどん底へと追いやりました!物乞いになる事さえもできず、万策が尽き、餓死の恐怖の底に落とされました。それは、神に反逆した罪人の姿をありありと描いていました!神への反逆は、人を霊的破綻の中へ、霊的飢饉の中へ、霊的極貧の中へ、そして最終的に永遠の死の中へ追いやります!

【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。

●最初に、クリスチャンの皆さんへお尋ねします。この「弟」の放蕩息子の堕落の真相がどういうものかを聞き、率直に、あなたが思った事は何ですか?「弟息子」に自分を重ね合わせて、そのメッセージを受け取る事ができましたか?神との関係において、自分がどういう者であったのかを、この「弟息子」を通してより深い理解が導かれましたか?そして、そのようなあなたが、神に立ち返る事ができた恵みに対して、あなたは神にどう応答しますか?

●次に、まだクリスチャンになっておられない皆さんへお尋ねします。いかがでしょうか、あなたは神に反逆している者である事に気づいていますか?あなたが造り主である神から離れ、悪い思いや行いによって、神を悲しませているにもかかわらず、神があなたに対して「ご自分の太陽を・・・昇らせ」また「雨を降らせてくださ(って)」おられる事に気づかされましたか?神はあなたに多くの贈り物を与えておられますが、それらを自分の好き勝手な生き方の中に、また自分の欲望の中に浪費してはいませんか?あなたは神の前に破綻しており、霊的に飢えており、極貧で、最終的には永遠の地獄の死に直面している事に気づかされましたか?そのようなあなたを救うために、救い主イエス・キリストがこの世界に来られた事に気づいていますか?そして、そのお方に頼り、あなたの人生を委ねて行こうと願われませんか? それでは、祈りの時をもちましょう。

【結論の御言葉】

■「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:3)。

[引用&参考文献]

・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 11-17、 The Moody Bible Institute of Chicago、 pp. 309-311.)

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