『寸分違わない聖書の証言!』①                          聖書に記録された使徒パウロの最初の伝道説教から学ぶ(その2)          《使徒13:1-52/今回は13:21-26》

【前回のメッセージの続き】

●現在、『パウロはキリストの福音を宣べ伝える』というテーマでメッセージを取り次いでおり、今回がその二回目です。前回は、『イスラエルの歴史に鮮明に見られる神の介入!』と題してメッセージを取り次ぎましたが、時間の都合上、一番目の「イエス・キリストは、歴史の頂点である」という見出しの最後の王たちを立てる事によって(13:21-22)という項目については、お伝えする事ができませんでした。そこで、今回の二回目のメッセージに移る前に、前回取り残したその部分をお伝えする事から始めて行きましょう。

21節の一行目に目を留めてください。王がイスラエルを治めるという時代を迎えます。イスラエルの民が、その当時、王を求めたと伝えて記されています。イスラエルの歴史で常に繰り返されて来た事ですが、彼らは、主なる神がイスラエルを治めるという事に信頼を置きませんでした!(Wow!)そして、他の異教の国々のように、神ではなく「王を求めた」のです!1サムエル8:5で、民はサムエルに対して、次のように迫りました。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」、と。しかし、「そのことばはサムエルの目には悪しきことであった」、と続く6節に記されています。それで、サムエルがその事を主に祈ると、次のような答えが返って来ました。

8:7・・・「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。8:8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。8:9 今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」

―サウロ王―

●それで、テキストの21節後半に戻りますが、「神は彼らにベニヤミン族の人、キシュの子サウルを四十年間与えられました」。ここで、使徒パウロと王サウロとを比較してみましょう。使徒パウロのユダヤ人名はサウロで、この名前は明らかにイスラエルの最初の王の名誉にあやかって付けられたものです。サウロ王が「ベニヤミン族」出身であったように、使徒パウロもそうでした(ロマ11:1/ピリ3:5)。しかし、二人の共通点はそこまでです。パウロは神に対する従順なしもべとなりましたが、サウロ王はプライドが高く、自己中心で、神に対して不従順でした。サウロ王は自分で勝手にいけにえを献げた事によって神の命令に逆らい(1サム15章)、その行為が、彼が王位から退けられる理由となりました。しかし、それでも神は恵み深く彼を取り扱って、「四十年間」にわたってイスラエルを治める事を許されました!神のご配慮や御守りの表れです!

―1―

―ダビデ王―

●サウロが王位から退けられて後、テキストの22節に記されていますように、「神は彼らのために王としてダビデを立てられました。ダビデとサウロとの大きな違いは、神への従順にありました!神はダビデについて、次のように証しされました。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる、と!ダビデは、神の「心にかなった者」と呼ばれたのですが、どうしてそう呼ばれなければならないのか、と疑問を呈する人がいるかも知れません。なぜなら、ダビデは自分の命が危険にさらされた時に、自分を偽って「おかしくなったようにふるまい」(1サム21:13)、嘘をつく事によって難を逃れました。彼は臆病で、ひきょうで、姦淫の罪を犯し(2サム11:1-4)、挙句の果てに殺人の指示までしました(2サム12:9)。神の「心にかな(う)者ではなく、神の「望(ま)」れる「ことをすべて成し遂げる」どころではなかったのではないですか、と疑問を呈する人々がいると思います。

●ダビデは確かに神の「心にかなった者」と呼ばれたのですが、完全な人ではありませんでした!完全な信仰者でもありませんでした!只、彼は自分の罪が何であるのかを知り、それをそのまま受け入れ、そして悔い改めた人物でした!(詩32、38、51)そして、神は彼を懲らしめられました!神の懲らしめは、信仰者を成熟へと向かわせ、完成させて行きます!ここでも、神のご配慮や御守りを見る事ができませんでしょうか?それでは、なぜダビデが、サウロ王のようにではなくて、神の「心にかな(う)者」と呼ばれにふさわしいとされたのでしょうか?それは、彼の最も大きな願いが神の御心を行うという事であったからです!そして、このダビデの血統から救い主がお生まれになるのです!その事実が、次の23節に記されています!何と記されているでしょうか?「神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました」、と!(Wow!)

●前々回と前回と今回の三回のメッセージで、すなわち17節から23節まで、イスラエルに対する神の真実がどのようなものであったのかを学びました!イスラエルの歴史の流れは、その先祖たちの選びから始まり、四百年間のエジプトにおいても、四十年間の荒野においても、約束の地カナンにおいても、さばきつかさが遣わされる事においても、そして王たちが立てられる事においても、その全てにおいて、神の摂理による恵み深さ、あわれみ深さ、ご配慮、そして御守りに溢れていました!それゆえ、そのイスラエルの歴史を一言で表現しますと、その歴史は救い主イエス・キリストに向かっていたという事が言えます!イエス・キリストが歴史の頂点であるというメッセージを、使徒パウロは、このピシディアのアンティオキアのユダヤ人会堂で、「イスラエル人」たちと「神を恐れる」異邦人改宗者たちへ伝えようとしていました!

【序 論】

●さて、ここから、今回のメッセージの序論です。今回のメッセージの主題は『寸分違わない聖書の証言!』で、副題が、前回と同様に、「聖書に記録された使徒パウロの最初の伝道説教から学ぶ」(その2)です。前回から今回に掛けては、イエス・キリストが歴史の頂点であり、歴史そのものがイエス・キリストに向かっているという点を学びましたが、今回から次回に掛けては、イエス・キリストが旧約聖書の預言の成就そのものであるという点を学びます!

―2―

●今回はバプテスマのヨハネに関する預言と成就について取り上げ、次回はキリストの十字架や復活等の預言と成就について取り上げます。イエス・キリストは、「聖書は、わたしについて証ししているものです」と語られ(ヨハ5:39)、また「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書かれてあることは、すべて成就しなければなりません」と語られました!(ルカ24:44)そのように、聖書が、寸分違わずに、救い主について証言している書物であるという事を示しています!

【全体のアウトライン】

序論:説教の重要性!/済

[1]力あるキリスト教会の特徴(13:1-13)/済

[2]キリストの福音を宣べ伝える(13:14-41)/前回&今回&次回

[3]明暗を分けるキリストの福音(13:42-52)/次々回以降

【今回のアウトライン】

[2]キリストの福音を宣べ伝える(13:14-41)/今回(2回目)

1)イエス・キリストは、歴史の頂点である!(13:17-23)/前回&今回

カ)王たちを立てる事によって(13:21-23)/今回

2)イエス・キリストは、預言の成就そのものである!(13:24-37)/今回&次回

ア)救い主の到来を告げたバプテスマのヨハネ(13:24-26)/今回

イ)救い主に関するユダヤ人の二つの疑問を解く(13:27-31)/次回

ウ)救い主が朽ち果てない三つの約束(13:32-37)/次回

3)イエス・キリストは、罪人を義とするお方である!(13:38-41)/次々回

【本 論】

[2]イエスの福音を宣べ伝える(13:14-41)

1)イエス・キリストは、歴史の頂点である!(13:17-23)/前回&今回

2)イエス・キリストは、預言の成就そのものである!(13:24-37)

ア)救い主の到来を告げたバプテスマのヨハネ(13:24-26)

●それでは23節に目を留めましょう。使徒パウロは、「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました」と伝えました!すなわち、イエス・キリストは血筋においては「ダビデの子孫」からお生まれになられ、預言においては、神が、イエス・キリストを旧約聖書の「約束に従って・・・救い主」として「イスラエルに・・・送ってくださいました」!すなわち、イエス・キリストが救い主として来られたのは、旧約聖書の預言の成就を意味していました!イエス・キリストにあって、旧約聖書に記された神の約束が現実のものとなりました!

―3―

―パウロが最初に取り上げる預言/バプテスマのヨハネ―

●使徒パウロが、最初に取り上げているのは、24節に記されている「ヨハネ」に関する預言でした。この「ヨハネ」は、通常何と呼ばれた「ヨハネ」であったでしょうか?それは、バプテスマの「ヨハネ」です。救い主が来られる前に、使者が遣わされるというのです。その預言の言葉が、イザヤ40:1-3に記されています。

40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。40:5 このようにして【主】の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに【主】の御口が語られる。」

人々の心を救い主の到来に備えて整える働きをする神からの使者が現れる、と預言していました!また、マラキ3:1には、「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える」と預言されています。これら全ての預言が、バプテスマの「ヨハネ」にあってことごとく成就しました!その「ヨハネ」が、24節に記されていますように、「この方」すなわち救い主が「来られる前に、イスラエルのすべての民に、悔い改めのバプテスマをあらかじめ宣べ伝え(る)」事によって、その民を救い主へ備えさせたのです!

「ヨハネ」のバプテスマは、クリスチャンのバプテスマとは異なります。クリスチャンのバプテスマは、イエス様が十字架と復活の御業を成し遂げられて後に新たに定められたものです。「ヨハネ」のバプテスマは、ユダヤ人の清めの儀式で、心からの悔い改めを象徴していました。ヨハネは、「イスラエルのすべての民」に悔い改めを呼び掛けて、やがて来られる救い主に対して人々の心を備えさせたのです!いつの時代にも言える事は、救いに際して常に必要とされる重要な点は、聖霊が起こしてくださる罪からの悔い改めです!神を信じて救われるという事は、自分が神の御前に罪深い者である事を聖霊によって悟り、そしてその罪を悔いて改め、神に向って方向転換をして新しく歩む事を指します!

25節に進みますと、「ヨハネ」が自分の先駆者としての務めを終えて、「その生涯を終えようとしたとき、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思っているのですか。私はその方ではありません。見なさい。その方は私の後から来られます。私には、その方の足の履き物のひもを解く値うちもありません』」、と!ヨハネは、イエス様から偉大な者だと称賛されましたが(マタ11:11)、彼の揺るがないへりくだりは、自分が救い主かと思わせるような発言に対しては、キッパリと断りました!しかも、彼は、自分は、救い主の「足の履き物のひもを解く値うちも」ない者だとさえ告白しています!「足の履き物のひもを解く」者とは、奴隷の中でも最下位の奴隷の務めでした!ヨハネは、「自分は、その最下位の奴隷よりも更に価値のない者です」とさえ告白していたのです!(Wow!)

―パウロの聴衆とバプテスマのヨハネとの関係―

●パウロのメッセージを聞いている聴衆にとっては、バプテスマの「ヨハネ」とはよく知られている神の器に違いありません。なぜなら、このピシディアのアンティオキアが位置する小アジヤの地には、バプテスマのヨハネの弟子が存在していたからです(使19:1-3/エペソにて)。ですから、このパウロの聴衆が、救い主として来られた「ナザレのイエス」については、ヨハネの弟子たちから聞かされていた可能性は十分にあります。(続く)

―4―

そうであるのなら、ヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハ1:29)とイエス・キリストを人々に紹介していたように、キリストに関する知識はもっていた可能性が高いです。しかし、それが、キリストにある救いにはつながってはいませんでした。前回のメッセージお伝えしましたように、この聴衆は、歴史は救い主に向っているという大きな流れは知っているのですが、その救い主が身代わりの十字架によって既に救いの御業を成し遂げられ、そしてその後復活されてその救いを確証されたイエス・キリストである事とは結びついていませんでした!

●パウロは、自分が取り次いでいる説教の重要点に到達して来ました。16節で呼び掛けたように、26節前半でも、聴衆に対して、アブラハムの子孫である兄弟たち、ならびに、あなたがたのうちの神を恐れる方々、と語り掛けました。そして、パウロは、「この救いのことばは、私たちに送られたのです」と宣言しました!「この救いのことば」とは、バプテスマのヨハネが告げた「救いのことば」を指しています!「この救いのことば」は、「ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人」に告げられたもので、そしてそのキリストにある「救い」は得られるのだと告げたのです!(ロマ1:16)

【まとめ】 それでは、メッセージのまとめをしましょう。

●今回のメッセージの冒頭では、前回カバーできなかったポイントを取り上げました。王たちを立てるという、神を信頼しない人々の要求を神ご自身が許して受け入れられる事によって、神はイスラエルの歴史に介入され続けました!イスラエルの初代の王サウル対して、またその後のダビデに対しても、それぞれの不従順や罪にもかかわらず、神は忍耐され、二人に対して40年の王位期間を恵みによって与えられました!ダビデの至らなさにもかかわらず、神の御心を行う事が最も大きな願いであったダビデの血筋から救い主がお生まれになるよう、神はご計画をお立てになりました!ダビデは指摘された自分の罪を素直に認め、そして悔い改めました!神はそのダビデに恵みを与えられ、時に必要な懲らしめを与え、霊的成熟を導かれ、そして完成に向わせました!

●神のイスラエルとの関りは、まずその先祖たちを選ばれる事から始まり、四百年間のエジプトにおいて、四十年の荒野において、約束の地カナンにおいて、さばきつかさたちを遣わされる事において、そしてまた王たちが立てられる事においても、神の聖定と摂理によって導かれ、そのお取り扱いは恵みに溢れ、哀れみ溢れ、ご配慮に満ち、御守りと真実に溢れていました!それを一言で表しますと、イスラエルの歴史はひとえに、救い主イエス・キリストに向かっていましたし、今でもまたそうです!イエス・キリストがイスラエルと世界の歴史の頂点であるというメッセージを、使徒パウロは、このピシディアのアンティオキアのユダヤ人会堂で、「イスラエル人」たちと「神を恐れる」異邦人改宗者たちへ伝え始めました!

●続くこのテーマの二回目のメッセージでは、『寸分違わない聖書の証言!』という主題で取り次ぎました。今回はバプテスマのヨハネに関するイザヤ書とマラキ書の預言を取り上げ、それが寸分違わずに成就した事を取り上げました!ヨハネは特に、「イスラエルのすべての民」に悔い改めを呼び掛け、やがて来られる救い主に対して人々の心を備えさせました!いつの時代でも、救いに際して常に必要とされる重要な点は、聖霊が起こしてくださる罪からの悔い改めです!(続く)

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自分が神の御前に罪深い者である事を悟る者のみが、その罪を悔いて改め、神に向って方向転換して新しく歩む者となります!その点、ヨハネは、「自分が最下位の奴隷よりも更に価値のない者だ」とさえ告白して、キリストの御前にへりくだり、救いにあずかる者がどいういう者であるべきかの最たる模範者でした!パウロは、このバプテスマのヨハネが告げた「救いのことば」こそが、「ユダヤ人をはじめ・・・信じるすべての人」に告げられたもので(ロマ1:16)、それを受け入れる者が初めてキリストにある「救い」を得られるものである事を告げました!

【適 用】 それでは、メッセージの適用をしましょう。

●いかがでしょうか、あなたのこれまでの信仰生涯で、神の恵みとあわれみとご配慮と御守りに満ち溢れておられる神に倣う歩みを送って来ましたか?旧新約聖書の預言は寸分違わず成就するものですが、あなたは、その聖書に絶対的な信頼を置いていますか?神のお言葉は一点の偽りもなく、完全に正しいものであるという事を受け入れていますか?その聖書は全ての人が罪人であり、その罪を、バプテスマのヨハネのようにへりくだりをもって悔い改めるよう命じていますが、あなたは自分が罪深い者である事を認めていますか?そして、自分はその罪を赦される必要がある者だと自覚していますか?いかがでしょうか、あなたはヨハネのようにへりくだって救いの恵みにあずかりましたか?バプテスマのヨハネは、「自分が最下位の奴隷よりも更に価値のない者だ」とさえ告白してへりくだりましたが、あなたの信仰生活は、へりくだりという徳に満ち溢れていますか? それでは、祈り時をもちましょう。

【締めの御言葉締】

■「9:16 しかし彼ら、私たちの先祖は傲慢にふるまい、うなじを固くし、あなたの命令に聞き従いませんでした。9:17 彼らは聞き従うことを拒み、彼らの間で行われた奇しいみわざを思い出さず、かえってうなじを固くし、かしらを立てて、逆らって奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられ、彼らをお捨てになりませんでした」(ネヘミヤ9:16-17)。

■わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません」(ルカ24:44)。

[参考資料]

※1 ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き13-28』(ムーディー出版、1996)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Acts 13-28, The Moody Bible Institute of Chicago, 1994, pp.20-23.)

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