『人は自分の救いの物語をどう書き終えるか?!』弟息子の恵みによる救いか、それとも兄息子の良い行いによる救いか③-6
――《ルカ15:31-32/今回は15:31-32》―
【前回の復習】
●前回のメッセージでは、「弟息子」を全面的に赦しそして和解した父親に対して、「兄息子」は実に次のような恥ずべき反応をしました。自分は奴隷のように父親の下で長年にわたって苦役に服し、一日も早い父親の死を願って財産を受け継ぐ事を欲し、一度たりとも父親の戒めを破った事がないと錯覚し、父親を「お父さん」と呼ぶ事なく「あなた」と呼び、父親と家族との距離を取って世の友だちとだけ付き合い、そして父親は弟だけを愛する偏愛の父だと非難しました!
【今回の前置】
●今回のメッセージの前半では、その「兄息子」の激しい非難に対して父親がどう応答したのか、その中身を取り上げます。後半では、32節止まりで、なぜ唐突にもこのたとえ話をイエス様は終えられたのか、32節以降、父親と「兄息子」とのやりとりはどうなったのか、それらの点を掘り下げます。そして、そうなさったイエス様の真意を探って行く事にします。
●今回のメッセージの主題は『人は自分の救いの物語をどう書き終えるか?!』で、副題が「弟息子の恵みによる救いか、それとも兄息子の良い行いによる救いか」です。今回もまた前回に引き続き、8ポイントの要点がアウトラインに記されています。まずはその流れを確認して、全体像を把握する事にしましょう。そして、解き明かされる御言葉の真理に期待を寄せましょう。
【全体のアウトライン】
◎序 論:三つ目のたとえ話、その特徴と背景/済
◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)
[1]弟息子(ルカ15:11-19)/済
[2]父 親(ルカ15:20-24)/済
[3]兄息子(ルカ15:25-32)
1)父親に対する兄息子の恥ずべき反応(15:25-30)/済
2)兄息子に対する父親の恥ずべき応答(15:31-32)/今回(6回目)
[4]実際に起こった悲劇的な結末/次回
[5]続く栄光の救いの御業/次回
[6]救いの「祝宴」への招き/次回
―1―
【今回のアウトライン】
◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)
[3]兄息子(ルカ15:25-32)
1)父親に対する兄息子の恥ずべき反応(15:25-30)/済
2)兄息子に対する父親の恥ずべき応答(15:31-32)
ア)ユダヤ人に対する神の寛大さ/「私のものは全部おまえのものだ」(15:31)
イ)失われた罪人が発見された時の神の喜び/「喜び祝うのは当然ではないか」(15:32)
ウ)終わりがないように思えるこのたとえ話
エ)終わりがないのが終わりであるこのたとえ話
オ)兄息子が父親へどう応答したのかを特に知りたい宗教指導者たち
カ)父親が兄息子とどうなったのかを知りたいたとえ話の中の祝宴の客人たち
キ)たとえ話の聞き手の全てが、父親の優しい訴えをどう受け止めるべきかが問われている
ク)たとえ話の聞き手の全てが、このたとえ話をどう書き終えたいのかが問われている
【本 論】
[3]兄息子(ルカ15:25-32)
1)父親に対する兄息子の恥ずべき反応(15:25-30)/済
2)兄息子に対する父親の恥ずべき応答(15:31-32)
―導 入―
●このたとえ話の最後の二節の31節と32節には、父親の「兄息子」に対する恵み深く優しい応答というものが見られます!しかし、その事を知っているたとえ話の中の村人たちからすると、それは父親の最後の恥ずべき行為であったと考えられたに違いありません!また一方、このたとえ話を聞いているパリサイ人や律法学者たちからしても同様に、それは、父親の最後の恥ずべき行為であったと考えられたに違いありません!(I see)これらの人々は、「兄息子」が父親に向かって生意気にも感情を爆発させた事に対して、父親がその顔をひっぱたいてでも戒める事を期待したに違いありません!(I see)しかし、父親はそうする事なく、「兄息子」に対して、優しく、愛情の込もった言葉を使い、また「弟息子」に対してなぜ恵み深く優しい対応を取ったのかを説明しました!そして父親は、「弟息子」に対して表した全く同じ愛情をもって、「兄息子」にも働き掛けたのでした!(Wow)
ア)ユダヤ人に対する神の寛大さ/「私のものは全部おまえのものだ」(15:31)
●31節の前半で、父親は「兄息子」に対して「子よ」と語り掛けました!この「子」という言葉は、既に11節、13節、19節、21節、24節、25節、30節で取り上げました「息子」(“ヒュイオス”)とは違う言葉が使われています。どういう言葉かと言いますと、“テクノン”というもっと愛情のこもった意味の「子」という言葉が使われています!31節で、父親は、「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ」、と語り掛けて、「兄息子」がどういう立場にある者なのかを思い起こさせています!父親は一家の資産を所有する権利をもってはいましたが、その権利を既に「兄息子」に譲っておりました(15:12)。 ―2―
●これは、特にユダヤ人に対する神の寛大さ、そのおおらかなお心を表しています!ユダヤ人には聖書の言葉が与えられ、最も惜しみない神の寛大な一般恩恵が注がれ、そして何年にもわたって福音を聞く機会が与えられました!(参/ロマ9:4-5)神の豊かさというものは、ユダヤ人に対して最もおびただしくまた最も明瞭に与えられていましたし、その中で、特に、自分たちの聖書知識を誇っていた宗教指導者たちに対してはまさにそうでした!(I see)
イ)失われた罪人を発見された時の神の喜び/「喜び祝うのは当然ではないか」(15:32)
●父親が締めくくりに言及された32節には、次のように記されています。「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか」、と!失われた罪人が発見された時の神の喜びという、このルカ15章の三つのたとえ話の共通のテーマが、ここで繰り返されています!「一人の罪人が悔い改めるなら・・・大きな喜びが天にあるのです」、と15:7、10で語られていた通りです!「弟息子」は、恵みによって神の救いを求める人々を象徴しています!しかし反対に、「兄息子」は、行いによって救いを求める人々を象徴しています!
―このたとえ話の終わり方について―
ウ)終わりがないように思えるこのたとえ話
●この32節をもって、イエス様は、ルカの福音書15章の三つ目のたとえ話を終えました。しかしこれは、まるで締めくくりのないたとえ話で終わっているように思えます!舞台公演の後に、緞帳(どんちょう)の幕が下りないで終わるようなものです!オーケストラに例えるのでしたら、満足の行く締めくくりのフィナーレがないまま、その演奏が終わるようなものです!(I see)イエス様はそれ以上のお言葉を語る事なく、その場から立ち去って行かれました!(Wow)そしてその後の16章を見ますと、イエス様が公の場から離れ、こぢんまりとしたところへ弟子たちと一緒に移られ、全く新しいたとえ話を語り始められた事が分かります!(I see)
●この意外な成り行きに、読者はあっけにとられます!全ての物語には、結末というものがあります!私たちは最後の幕が下りるフィナーレを期待して待っているのです!実際の物語を読む前に、その筋書きが最後にはどう決着するのかを見るのを待つ事のできない読者たちがいる事は確かです!このルカ15章の三つ目のたとえ話というものは、これから結論という時に、読者を宙ぶらりんな状態に放置したままで終わっているのです!すなわち、このたとえ話は、実に、唐突に終わっているのです!
―聖書に対する低い見解をもった学者たちのこの件に対する意見―
●聖書学者たちの中には、神の霊感によって書かれた聖書の無謬性(むびゅうせい)や信憑性(しんぴょうせい)に関して、低い見解をもっている方々がいます。ルカ15章の終わり方について、彼らは次のような説明を試みます。一つ目に、今、自分たちが手にしているこのたとえ話というものは、どういう訳か、著者によって最後まで仕上げられなかったと説明しています。あるいは二つ目に、このたとえ話の最後の部分は書かれたのだけれども、どういう訳か、その部分だけが切り離されて紛失してしまったと説明しています。つまり、このたとえ話には終わりが確かどこかにあり、そうに違いないけれども、それがどこにあるのか分からないと説明します! ―3―
エ)終わりがないのが終わりであるこのたとえ話
●しかし一方、聖書の無謬性や信憑性に関して高い見解をもっている聖書学者や、それに同意している福音主義の立場にある人々は、ルカの福音書15章の終わり方を次のように受け止めます!このたとえ話の終わり方が余りにも唐突過ぎるというのには、何かアクシデントがあったという訳ではなく、私たち読者をそこへ置き去りにしてはいないのだと理解しています!実に、そこがポイントです!これが、イエス様がお語りになった長い衝撃的なたとえ話のシリーズの最後に表れたとどめの一撃なのです!驚くべき全ての筋書きのたとえ話がより合わされて一つになり、衝撃的な全体像を作り出し、そしてこの三つ目のたとえ話がその驚きの頂点に達しているのです!イエス様は見事にそのたとえ話をまとめられ、そして父親と兄息子との間にある緊張を解消されずに、あっさりとその場を去って行かれたのです!そこには、何ら、切り離されて失われたたとえ話の断片などというものは一つもありません!イエス様は、父親と「兄息子」との間にある緊張状態を未解決のままにしておいて、意図的にそのたとえ話をそのところで終えられたのです!(I see & Wow)それはまるで、この物語の落ちがどこにあるのか、またこの物語の締めくくりが何なのかを、私たちに問い掛けているように見えます!(Wow & Wow)
―宗教指導者たちやたとえ話の中の祝宴の客人たちが知りたいこと―
オ)兄息子が父親へどう応答したのかを特に知りたい宗教指導者たち
●そういう訳で、イエス様のたとえ話をじかに聞いている聴衆は、イエス様が立ち去って後、開いた口がふさがらずにその場に立ち尽くしていたと容易に想像できます。(I see)そこに残された人々は、次のような質問を互いにし合っていたに違いありません。(I see)またその質問というのは、今日、そのたとえ話を読んだ私たちもまた互いにし合う質問であるに違いありません。(I see)「何が起こったの?」、「兄息子は、父親の言葉にどう反応したの?」、「この物語の最期はいったいどこにあるの?」、と!その中でもとりわけ、パリサイ人や律法学者たちは、その事をとても知りたいのです!なぜなら、「兄息子」が、彼らを代表しているからです!(I see)
カ)父親が兄息子とどうなったのかを知りたいたとえ話の中の祝宴の客人たち
●また一方、このたとえ話の中で、客として祝宴に招かれた人々もまた、全てがどのような結末を辿っているのかを知りたがっていたに違いありません!(I see)そのゲストたちはまだ祝宴の中におり、その主催者である父親が戻って来る事を待っている人々です。(I see)父親は祝宴の席を唐突にも離れましたので、そこにいたゲストたちは、何か、深刻な事が起こった事を推測していたに違いありません。(I see)実際にそのような事が起こると、そこに招かれているゲストたちは次のようにささやき始めるでしょう。「兄息子が外にいるらしいよ。そして、どうやら怒っているらしいんだよね。招かれたゲストたちが、何か、非難に値する事を祝っているからなんだって。非難に値する事って何?それはね、放蕩して身を亡ぼす程に悪い事をした弟息子に対して、赦しを安売りをして、無条件に受け入れたからなんだって・・・」、と!?祝宴に集っている全ての人は、父親がどのような面持ちで戻って来るのかを待っており、いったい屋敷の外で何が起こったのか、それを知る手掛かりを得ようとしていたに違いありません。(I see)それが実に、イエス様のたとえ話を読んでいる私たちの反応でもあるのです。 ―4―
●そのように、いったいどうなっているのかという事を聞きたく、人々が期待している中、イエス様は話を終えられて、その場から立ち去られたのです!これまで語って来られた物語を語り終えられる事なく宙づりのままの状態にし、父子の緊張状態がどう解決されて行ったのかを告げる事なく、その場を後にして去って行かれたのです!(Wow)
―全ての聞き手が問われていること―
キ)たとえ話の聞き手の全てが、父親の優しい訴えをどう受け止めるべきかが問われている
●私たちは、その事に気づくべきです!この物語は、父親の「兄息子」に対する優しい訴えをもって突然に終えています!この物語に耳を傾ける全ての人々は、この訴えを心に受け止めるべきです!そしてその訴えをよく考え、自分自身へ適用すべきなのです!そして、罪人の救いにおける神の喜びを、私たちも喜びをもって受け入れ、そのように優しく振舞われる神に目を留めるべきなのです!
●率直に言いまして、イエス様がじかにたとえ話をされた相手、律法主義者であるパリサイ人や律法学者たちよりも、神の前に真摯に自己吟味を必要とする人々は他にいないと言っても過言ではありません!このたとえ話は、彼ら宗教指導者たちを第一に救いに招くものとして語られたからです!彼らが自分たちは正しい者であるというプライドを捨て、神の救いの方法に従い、それに合わせる必要があったからです!
●そして更に、同じ原則が私たちを含め全ての人に適用されるべきです!弟放蕩息子のように勝手気ままに振舞うふしだらな罪人から、「兄息子」のように聖人ぶった偽善者に至るまで、またその間にいるありとあらゆる罪人に対して、この同じ原則が適用されるべきなのです!それゆえ、このたとえ話を聞く全ての人は、罪人に対する神の親切に対してどう応答するか、それによって、自分自身の救いの物語の最期を書く事になるからです!
ク)たとえ話の聞き手の全てが、このたとえ話をどう書き終えたいのかが問われている
●このたとえ話の終わり方というのは、イエス様ご自身がお選びになられた事ですので、文字通り、実に優れた締めくくり方です!この物語を私たちがどう書き終えるのか、それによって私たちがどういう結果を見たいのか、それは私たち一人一人に委ねられているのです!宗教指導者たちのように、独善的な恨みによって頑なになっていない心の持ち主であるのなら誰でも、このたとえ話の中に、何か重要なものをつかむ事ができます!(I see)すなわち、キリストにある神の恵みの栄光をつかむ事ができです!その中で特に、神の愛の赦しや悔いた罪人を喜びに溢れたお心で迎え入れてくださる神ご自身を捉える事ができるはずです!その真理のわずかでも捉えた人は、間違いなく、このたとえ話を次のような良い終わり方で書く事になります。
その時、兄息子は父親の前にひざまずいて、次のように告白します。「私は、自分の苦々しい思いを、愛のない心を、偽善に満ちた毎日の務めを、そして傲慢と独善を悔い改めます。お父さん、私を赦してください。私をあなたの本当の息子にしてください。そして、私を祝宴の中に連れて行ってください」。
―5―
そこで、父親は兄息子を抱きしめ、涙に溢れて口づけし、彼を家の中に連れて行き、上座の二人掛けの腰掛へ、弟と一緒に座らせました。二人は共に喜び、既に驚くべきものとなっていた祝宴の喜びの度合いが、急に二倍に増えました。その夜の祝宴を忘れる人は、決して、誰一人いませんでした。
●そういう終わり方をするのであれば、それは完璧な終わり方だと言えるでしょう。しかし、パリサイ人や律法学者たちをはじめとして、誰もが、そのようにたとえ話の最後を書けるのではありません!(Wow)イエス様のたとえ話を聞いていた宗教指導者たちは、実に、自分たち自身の終わりをこれから書いて行きます!そして、それは先程述べました良い終わり方とは全く異なるものでした!それは、どういう内容であったのでしょうか?それを、次回の最終回のメッセージの前半で取り上げる事にします!
【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。
●まずは、メッセージの前半をまとめましょう。父親に対するはなはだしい誤解や自らの律法主義から、「兄息子」は、放蕩した「弟息子」に対して愛情を注いだ父親に対して恥ずべき反応をしました。父親に向かって生意気にも感情を爆発させた「兄息子」に対して、本来なら、父親がその顔をひっぱたいて戒めてもいいところなのですが、父親は「弟息子」に対して表した同じ愛情と優しさをもって対応しました!それは、宗教指導者たちの目からすると、恥ずべき応答として映っていました。父親の対応は、ユダヤ人に対する神のおおらかなお心、寛大さを表していました!そして、「兄息子」に対して、「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか」(15:32)と諭し、このルカ15章全体のテーマである失われた罪人が発見された時の神の喜びを伝えていました!(15:7、10)このように、「弟息子」は恵みによって神の救いを求める人々を象徴していましたが、一方、「兄息子」は行いによって救いを求める人々を象徴していました!
●次に、メッセージの後半では、この三つ目のたとえ話には終わりが記されておらず、読者を宙ぶらりんの状態に置き去りにしているのではないかという疑問に対して、その答えを求めながら、イエス様の真意を浮き彫りにしました!その答えとは、たとえ話を聞きそして読む全ての人々が、罪人の救いにおける神の喜びを自分も喜びをもって受け入れ、そのように優しく振舞われる神に目を留める事でした!そして最後に、神の愛の赦しや悔いた罪人を喜びの内に迎え入れてくださる神についての真理に目が開かれる人は、真の悔い改めに導かれるという事を学びました!そして、そのような人は天の救いの祝宴の喜びを味わう者となるのでした!その人こそ、この三つ目のたとえ話の最期の部分を、良い終わり方で書き終える者だという事を示していました!逆に、その救いの真理を受け入れない者は、最悪な終わり方でこのたとえ話を書き終える事となります!その点については、次回のメッセージで詳しく取り扱います。
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【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。
●率直に、あなたは自分の罪深さを認め、神の恵みによって救いを求めますか、あるいは過去に、あなたはそのように求めましたか?それとも、自分は罪深い者ではなくて、自分の良い行いによって救われ、天の祝宴に行けると思っていますか?あなたは、神の愛の赦しや悔いた罪人を喜びの内に迎え入れてくださる神を、自分も喜びをもって受け入れる事ができますか?あなたはこの度のメッセージを聞いて、このたとえ話の最後の部分をどういう終わり方で書き終えますか?すなわち、あなたは、自分の救いの物語をどう書き終えますか? それでは、祈りの時をもちましょう。
【締めの御言葉】
15:31 父は彼に言った。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(ルカ15:31-32)
[引用&参考文献]
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 11-17、 The Moody Bible Institute of Chicago、 pp. 322-326.)
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