『人が達成する宗教VS神が達成され る 宗教 』 ―「わたしが来たのは、正しい人・・・ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」― 《 ルカ 5 2 7 32 今回は 序論 》
【序 論】
●『正しい人ではなく罪人を』という新しいテーマで、三回のメッセージを取り次ぎます。このシリーズで取り上げる中心人物は、当時、社会から憎まれまた軽蔑されていた取税人「レビ」ですが、多くの人にとっては「マタイ」という名前で知られています。また、中心人物とは対照的に、前回のシリーズでも取り上げましたパリサイ人や律法学者たちも再び登場します。今回の序論では聖書のテキストそのものには入りませんが、この世界に見られる二種類の宗教の違いを浮き彫りにして真理を探って行く事にします。
●主題が『人が達成する宗教VS神が達成される宗教』で、副題が「わたしが来たのは、正しい人・・・ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」です。全体並びに今回のメッセージの流れは下記とアウトラインの通りです。解き明かされる御言葉の真理に期待を寄せましょう。
【全体のアウトライン】
◎ 序論/人が達成する宗教VS神が達成される宗教/今回
[1]軽蔑された罪人を召されるイエス様(ルカ5:27-29)/次回
[2]独善的な偽善者と対峙されるイエス様(ルカ5:30-32)/次々回
【今回のアウトライン】
◎ 序論/人が達成する宗教VS神が達成された宗教
1)人間は生まれつき宗教的な生き物である(創1:26/他)
2)全ての宗教は二つに分類される
ア)人間の努力で救いを達成する宗教
イ)まことの神が救いを達成される宗教(1テモ1:11/他)
3)救い主が来られた時のイスラエルの宗教(ルカ5:30、31b、32a/他)
4)救い主が説かれた真の救いをもたらす宗教(ルカ5:32/他)
5)憎まれ軽蔑されていた取税人マタイの救い(ルカ5:27-28)
【本 論】
◎ 序論/人が達成する宗教VS神が達成された宗教
1)人間は生まれつき宗教的な生きものである(創1:26/他)
●人間の本質は宗教的で、人間はまさに宗教的な生きものです!宗教のない国は存在しません!日本全土にわたって人々が手を合わせて拝む対象があり、宗教に関連する祭りが毎年忠実に守られて催されているのも、人間の本質が何かを如実に表しています!なぜ、人間の本質が宗教的なのでしょうか、その理由は明白です! ―1―
それは、まことの神が人間を創造されたからです!天地創造の時、三位一体の神は次のように言われました。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」(創1:26)、と!地上の生きものの中で、「人」だけが神の「似姿に造(られ)」ました!「人」は、神と関われるものとして創造されました!それが、人が生まれながらに宗教的だという事の理由です!他の生き物には全く見られない霊的な性質です!
●「人」は神の命じた命令を守らず、神に反逆して堕落してしまいましたが、それでも尚、「人」の宗教的な本質は変わる事がありませんでした!堕落して後は、まことの神ではなく、神が造られた被造物を拝むようになりました。また、人が自らの手で像を造り、それを拝むようになりました。イザヤ書では、その事が次のように描写されています。
44:13 木で細工する者は測り縄で測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の立派な姿に仕上げて、神殿に安置する。 44:14 杉の木を切り、うばめ樫や樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。月桂樹を植えると、大雨がそれを生長させる。 44:15 それは人間のために薪になり、人はその一部を取って暖をとり、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。 44:16 半分を火に燃やし、その半分の上で肉を食べ、肉をあぶって満腹する。また、温まって、『ああ、温まった。炎が見える』と言う。 44:17 その残りで神を造って自分の偶像とし、ひれ伏してそれを拝み、こう祈る。『私を救ってください。あなたは私の神だから』と(44:13-20)。
―切り株で仏像造り/奈良県十津川村で林業を営む81歳の男性―
●偶像に関するこのイザヤ書の御言葉を読みながら、私はあるテレビ番組(NHKBS3/「新日本風土記」)で紹介されていた二つの場面を思い出しました。それは、まず初めに、奈良県の最南端にある十津川村の林業に関する話です。そこには六代にわたって林業を受け継いで来られた81歳の男性がおり、仕事の合間に造っているものがあります。それは、自分が伐採した木の切り株を自宅に持ち帰り、それを彫って仏像を造る事です。それぞれの切り株には、それぞれの特徴ある形があります。ある切り株は、大きな雲の上に座って衣を着ているような恰好をしています。また、ある切り株は袈裟(仏教の僧侶がまとう衣の一つ)を着ているような恰好をしています。その形に添うようにして仏像を造り、山の神に捧げるのだそうです。なぜそうするのでしょうか?それは、三百年たった木が結局は切られて行く中で、伐採後に残った切り株の芯の部分に仏を彫ってやったら、甦るのではないかという心が絶えず彫る時に湧いて来るからだと語っていました。イザヤ44章が語っていましたように、「木で細工する者(は)・・・人の形に造り、人間の立派な姿に仕上げて、神殿に安置する」や「ひれ伏してそれを拝み・・・『私を救ってください。あなたは私の神だから』」と自分が造った「偶像」に祈る事と相通じる点があります!
―“石”を祭る御霊(ごれい)神社/奈良県吉野郡吉野町窪垣内(くぼがいと)地区―
●もう一つは、奈良県吉野郡吉野町窪垣内(くぼがいと)地区(紀伊半島の真ん中辺り)にまつわる話です。その地区は、犬のいない里として知られています。その地区では犬は禁じられた動物で、犬を飼ってはいけない事になっています。(続く)
―2―
犬を飼ったら災いが起きると言い伝えられています。子どもが犬を飼いたいと言っても、親からきっぱりとダメだと言われます。なぜ犬がここまで遠ざけられその風習が固く守られて来たのでしょうか、その起源となるものが、その地区にある「御霊(ごれい)神社」で祀られている「石」にありました。
●その「石」の由来は、後に天武天皇となる大海人皇子(おおあまのおうじ/西暦631-686年)が、皇位継承をめぐる争いで知られる日本の古代史で最大の戦乱と言われる「壬申の乱」(西暦672年)にまでさかのぼります。大海人皇子(おおあまのおうじ)が敵軍に追われて、吉野郡吉野町窪垣内(くぼがいと)地区で、後に御霊(ごれい)神社が建立される場所の下の河原(吉野川と思われる)に逃れて来ました。その時、敵は犬を放って行方を追っているのですが、大海人皇子(おおあまのおうじ)を守る翁(男性老人)がその河原(かわら)にあった舟を裏返しにして、その中に皇子(おうじ)をかくまいました。追っ手の放った犬がにおいを嗅ぎつけてワンワンと吠えて舟の周りを回ったりしました。すると、翁はこの犬は卑しい犬だと言って、そこにあった石で殺してしまいました。それ以来、大海人皇子(おおあまのおうじ)を守るために用いられた石を後に建立される御霊(ごれい)神社に納め、今日に至っています。その“石”を神霊が宿っているご神体とし、人々の礼拝の対象にしています。偶像です。このように、人間の本質は、実に宗教的だという事が言えます!何でも神と関係付けるのです!
2)全ての宗教は二つに分類される
●その結果、何千という宗教や哲学や世界観というものが生まれて来ました!全てに神が宿るという原始的な宗教から、高度に洗練された宗教制度にまでに及んでいます!これら様々な宗教は互いに異なっており、細部に至っては大きく違うものですが、突き詰めると二つにグループに分類されます!一つのグループは人間が達成した宗教で、もう一つは神が達成された宗教です!
ア)人間の努力で救いを達成する宗教
●聖書的なキリスト教以外の全ての宗教は、人間の努力によって救いを達成しようとします!いくつかの宗教の救いに対する教えを例として挙げましょう。まず仏教は、「八正道」(はっしょうどう)を常に守り行うことによって煩悩(煩わせ、苦しめ、悩ませる心)を消滅させ、悟り..が得られ、苦しみを離れた安らぎの境地に到達すると教えます。「八正道」とは、一番目に仏教に対する正しい見解を持つ事、二番目に正しい考えを持つ事、三番目に正しい言葉を語る事、四番目に正しい行いをする事、五番目に正しい生活を送る事、六番目に正しい努力をする事、七番目に正しい思想や観念を持つ事、八番目に正しく精神統一をする事です。これら八つの徳目を修行によって実践して行く事によって悟りの境地に到達すると説きます。全て行いによる救いを説いています!
●次に、日本人の固有の民族宗教である神道はどうなのかという事になりそうですが、そうは行きません。なぜなら、神道には教祖もなく、教義もありませんので、救済もありません。神道では創造する中心が神ではありませんので、それこそ八百万の神々が存在する事になります。死んだ人がそのまま神となる慣習まで出て来ます。神を祭るための神主(かんぬし)も教義がないため特に資格もありませんし、修行らしいものもありません。神道は、実に曖昧模糊とした宗教です。神道に教えらしきものが見えるのは、仏教などの他の宗教によって影響されたものだと言われています。神道について、牧師である勝本正實(かつもとまさみ)師が次のように述べています。 ―3―
神道では、天国もなく地獄も語りません。あるのは「あの世」だけです。神道の考えでは、この世の暮らしの延長に死があり、死後もこの世と同じ共同体の暮らしがあると考えます。そこには家族や友達などの顔見知りの人が待っていると信じています。つまり神道は、救いを必要としない宗教だといえます。こうしたこともあって、戦前には「神道は宗教ではなく、人間としての当然のしきたり」と言われた時代がありました。※
ですから、救いという観点で、神道を取り上げて扱う事はできません。
●仏教に続いてイスラム教です。イスラム教は、イスラム教徒に義務として課せられた「五行」(ごぎょう)を行う事によって天国に入る希望を持つ事ができると説きます。その「五行」とはどのようなものか、次のように定められています。一番目に、「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」という意味のアラビア語による信仰告白をする。二番目に、太陽の位置によって決められた時間に、日に5回礼拝を行う。三番目に、貧しい人々に寄付する慈善活動を行う。四番目に、ラマダン(イスラムの9番目の月/2018年は5/15日から6/14)に29日ないし30日間、日の出から日没まで、健康な者は飲食、喫煙、性的な関りを断たなければならない。病気などにより通常の断食ができない場合は、その代わりにできる範囲で貧しい人々への寄付をする事で補う事が求められる。最後の五番目に、全てのイスラム教徒が少なくとも一生に一度、メッカ(サウジアラビアのマッカ州)へ巡礼に出かける。これらの「五行」を行う事によって天国に入る希望を持つと説きます。これも全て行いによる救いを意味しています!
●モルモン教ですが、バプテスマを受ける事、モルモン教会の会員になる事、教祖のヨセフ・スミスとその後継者を神の預言者として受け入れる事、そしてモルモンの神殿の儀式に出席する事によって、神を求める事が求められています。これも全て行いによる救いです!エホバの証人(ものみの塔)は、自分たちの道徳的な生き方と家々の個別訪問による改宗の働きをする事によって、この地上において永遠の命を獲得するよう教えられています。これも全て行いによる救いを意味しています!ローマカトリック教徒は、ミサや礼典や祈りや善行が神の恵みと一緒になって初めて救いを求める事ができ、天国を得る事ができると教えます。神の恵みのみで人は救われるのではなく、自分が犯した罪の償いの業が救いには必要だと説きます。また、「煉獄」(カトリック独自の教理で、死ぬ時に罪の状態にあるか、罪の償いを果たしていない状態にある霊魂が天国に入る前に一時苦しみを受ける場所)にいる人々が救われて天国へ行けるように、地上の信者の祈りと罪の償いの業によって脱出させる事ができるとさえも教えます。聖書と自分たちの伝統とを織り交ぜて、キリスト教ではない別の宗教を作っています!
イ)まことの神が達成された宗教(1テモ1:11/他)
●しかし一方、聖書は救いについて何と語っているのでしょうか?聖書は自分が正しいと思って救いを達成しようとするこのような人間の努力は全く無意味なもので、それは永遠の滅びの中へ陥れるものでしかない事を告げています.!人が救われるための唯一の正しい基準は、まことの神が達成された宗教から来る事を告げています.!それが、主イエス・キリストの救いの福音を信じる信仰です!
―4―
●その福音とは「祝福に満ちた神の、栄光の福音」(1テモ1:11)で、且つそれは「神の恵みの福音」(使20:24)で、その「福音は・・・信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」(ロマ1:16)。福音の中心点は、「キリスト」が「聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」です!(1コリ15:3/参 マタ26:28/2コリ5:21/ガラ1:4/エペ1:7/、5:2/1ペテ2:24、3:18/1ヨハ2:2/黙1:5)それは、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハ3:15/参 3:16、18、36、1:12、6:40、47、11:25-26、20:31/使16:31/ロマ10:9)。救いはひとえに、神の「恵みのゆえに信仰によ(る」もので、「それは」人間から「出たことではなく、神の賜物です行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペ2:8-9)。恵みは、救いを達成する手段としての人間の行いを完全に締め出します!神は「不敬虔な者」(ロマ4:5)を義とするのであって、敬虔な者ではありません!救われた者、贖われた者とは「神が義とお認めになる人」(ロマ4:6b)であり、「行いとは関わりな(い)」(4:6a)ものです!「神は」人を「救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは.働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ(た)」(2テモ1:9)ものです!
3)救い主が来られた時のイスラエルの宗教(ルカ5:30、31b、32a/他)
●救い主が来られた時のイスラエルの宗教というのは、内面の真実がどうなのかではなくて、外面の儀式を守る事や上辺の自分たちの行いによって義と認められる事が大切だと思い込んでいて、神の目からは程遠いところにありました。使徒パウロは自分の同胞であるイスラエル人々の事を憂えて、次のように記しています。「イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたから.................です」(ロマ9:31-32)、と!
●イスラエルの人々は、自分たちが正しい者だと安心しておりました。それは、丁度、ナザレの会堂にいた多くの人々のように(ルカ4:14-30)、自分たちが霊的に破綻した者であり、罪によって捕らえられている者であり、真理に対して盲目な者であり、罪の重荷によって圧迫されている者であり、そして最後に、神の最終的な裁きに向かっている者だという事を認めない者たちでした!(創18:25)
4)救い主が説かれた真の救いをもたらす宗教(ルカ5:32/他)
●若い金持ちの青年が「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」(マコ10:17)と質問して来た時に、イエス様は、「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え」(10:19)と答えておられた時に、その青年は、すかさず「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」(10:20)と答えました。これが、当時のイスラエルの人々の霊的な状態です!彼らは、神の律法を上辺だけで守る事によって自分は正しい者だと考えていました!律法を守る事において、彼らの心は伴っていませんでした!(続く)
―5―
律法は人間によって完全に守る事ができないものですので、人間には救い主が必要である事を教えるのが本来の律法の目的なのですが、この金持ちの青年をはじめ、イスラエルの人々は、自分たちは律法を守っている正しい者であるという誤った理解を持っていました!そういう彼らに対して、イエス様は、このテキストの中心聖句であるルカ5:32で、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人.を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と主張されたのです!
●イエス様のそのお言葉には、キリスト教が説く救いの本質が表されています!それはまた、イエス様の宣教とはどのようものなのかを簡潔に表しています!すなわち、主イエス・キリストは罪の悔い改めに導かれた人々を救うために来られたのです!(19:10)そしてまたそれは、教会の使命が何であるのかを明らかにしています!全ての福音の働きの中心は、罪人を悔い改めに導く事です!救いは、ナザレの会堂にいた人々や律法学者やパリサイ人たちのように、自分たちは正しい者だと考えている人々のためにあるのではありません!そうではなく、救いは、ルカ18:13-14に記された取税人のように、自分は正しいものではないと知っている者たちのために備えられたものです!
●それゆえ、イエス様は、ご自身の働きの中心を、自分は罪のゆえに失われた状態にある者だと認めている人々に据えたのでした!ところで、そのように認めている人々は、しばしば、社会からのけ者にされた人たちでした!ですから、イエス様が「取税人や罪人の仲間だ」(ルカ7:34)という悪評がたったのもそういう背景から来ているのでした!そのような人々は、自分たちが罪深い者で、望みのない状態にあるという事をよく理解している者たちでした!ですので、イエス様は彼らにご自分の救い主としての務めをする事ができました!この真理を、使徒パウロは次のように記しています。
1:26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。 1:27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。 1:28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しいものを選ばれたのです。 1:29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。 1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。 1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです(1コリ1:26-31)。
5)憎まれ軽蔑されていた取税人マタイの救い(ルカ5:27-28)
●これから学ぶイスラエルの常識を覆す劇的な出来事は、誰の罪をイエス様が赦すのかという質問に答えています!それはまた、イエス様が失われていた罪人を探して救うために(ルカ19:10)、当時、社会のくずとかかすとかと呼ばれていた人々の中にどれくらい深く入りこんでいたのかを伝えています!この出来事の中で、社会の最下層にいるある人物を救いに導きます!その人物とは、社会から憎まれそして軽蔑されていた取税人の「レビ」で、序論で語りましたようにマタイです!(続く)
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イエス様がマタイをご自分の弟子として召されそしてその直後の出来事というのは、二つの部分から成り立っています。一つが軽蔑された罪人を召されるイエス様(5:27-29)で、次回のメッセージで取り上げます。そして、もう一つが独善的な偽善者と対峙されるイエス様(5:30-32)で、次々回のメッセージで取り上げます。
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●この世界の全ての宗教は、二つに分類されるという事を学んで来ました。一つが人間の努力によって救いを達成する宗教、そしてもう一つがまことの神によって救いを達成する宗教でした!聖書を学ぶに当って、救い主イエス様がこの世界に来られた時、イスラエルの人々の宗教がどのようなものであったのかを知る事は重要です。彼らの大半が、人間の努力によって救いを達成する宗教の中にどっぷりと浸かっていました!その中で、イエス様が誰を中心にその救いの働きを進めておられたかと言うと、それはこれから取り上げる取税人マタイのような、自らの罪深さを知り、自からが失われた希望のない者だという事を認める者たちでした!
【適 用】 それでは、今回のメッセージの適用をしましょう。
●いかがでしょうか、この世にある二つの宗教の大きな違いに気付かされましたか?あなたは、以前、人は努力次第によって救われるものだと考えていませんでしたか?あなたは、自分が罪深く、自分には救われる根拠が何もないという理解はありましたか?また、この二つの宗教の大きな違いは、あなたが伝道するにおいて、どのように役立ちますか? メッセージを通して教えられた事を、主への応答の祈りとして捧げて行きましょう。
【締めの御言葉】
■わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです(ルカ5:32)。
■人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです(ルカ19:10)。
[参考文献]
※
※ 勝本正勝本正實『實『知っておきたい日本人の宗教とキリスト教』いのちのことば知っておきたい日本人の宗教とキリスト教』いのちのことば社、社、20182018、、p.22p.22。。
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 1-5、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2009、 pp.327-329.)
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