『主客転倒!』⑤

―真理の中で喜び、苦難に勝利し、救いの恵みに感謝する!―《使徒16:19-40/今回は16:25-34》
【復習&前置】
●前回は、『迫害から生み出される救いの実!』というシリーズの一回目で、「金儲けする望みがなくなったのを見て・・・』」という主題でメッセージを取り次ぎました。一番目に、迫害の背景にあった金銭愛や拝金主義を取り上げました。金銭に目がくらむと、残虐な行為に発展しますし、不当な言動に出ますし、そして周りの人々を自分の利益のために操作する事になります!女奴隷の主人たちは金を愛するがあまり、最高権威者である長官たちまでも動かして自分たちを守ろうとしました!二番目に、キリストにある苦しみや困難は、福音を前進させる事につながるという点も学びました!また、信仰者のキリストある苦しみというものは、他の人々の益になるという点も学びました!
●二回目の今回のメッセージは、主題が「主客転倒!」で、副題が「真理の中で喜び、苦難に勝利し、救いの恵みに感謝する!」です。パウロとシラスが金銭愛や拝金主義によって引き起こされた迫害によって不当に投獄され、その劣悪な状況に対してどう対応したのでしょうか?その状況に介入される神によって、どのような麗しい御業が起こされたのでしょうか?これから解き明かされる聖書の御言葉の真理に期待して、霊の耳を傾ける事にしましょう。全体のアウトラインと今回のアウトラインは、それぞれ下記の通りです。それでは、メッセージの大まかな流れを把握して行く事にしましょう。
【全体のアウトライン】
◎序論:悪い状況から良い結果をもたらしてくださる聖書の神!/済
◎本論:金儲けする望みがなくなったのを見て・・・/前回&今回&次回
[1]迫害の背後にある金銭愛と拝金主義(使徒16:19-24)/済
[2]祈りと賛美と神の介入(使徒16:25-29)/今回
[3]備えられた魂と宣教(使徒16:30-32)/今回
[4]救いとその証拠(使徒16:33-34)/今回
[5]報復でなく教会の守りを意識した対応(使徒16:35-40)/次回
【今回のアウトライン】
[2]祈りと賛美と神の介入(使徒16:25-32)
1)牢獄での力強い証し(使徒16:25)
2)神の驚くべき介入と主客転倒(16:26-29)
[3]備えられた魂と宣教(使徒16:30-32)
1)看守の最も重要な質問(使徒16:30)
2)神の器たちの最も重要な答え(使徒16:31-32)
―1―
[4]救いとその証拠(使徒16:33-34)
1)素早い愛の反応(使徒16:33a)
2)素早い神への従順(使徒16:33b)
3)素早いもてなし(使徒16:34a)
4)心からの救いの喜び(使徒16:34b)
【本 論】 それでは、本論に入りましょう。
[2]祈りと賛美と神の介入(使徒16:25-32)
1)牢獄での力強い証し(使徒16:25)
―劣悪な状況の中での力強い証し―
●前回、23節と24節で学びましたように、パウロとシラスは、長官たちに指示された警吏によって「何度もむちで打た(れて)」血を流し(16:23)、そして「看守」によって「奥の牢に入れ」られ、更に「木の足かせをはめ」られました(16:24)。当時の刑務所の状況は劣悪でした。不潔ですし、皮膚はめくれて血は流れているし、眠れる状態では決してありませんでした!一方、彼らの両足は、広げられるだけ目一杯広げられて木製の台木に固定されました。それは、痛みが伴う痙攣を増すために作られた道具でした。これは、迫害以外の何ものでもありません!福音のために苦しんでいる神の器たちの姿です!
●ここで私たちが注目したいのは、そのような劣悪な環境の中で、パウロとシラスは喜びを保っていた事です!(Wow!)彼らはそのような状況で、「真夜中ごろ」何をしたのでしょうか?(16:25a)「祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」のです!(16:25b)(Wow! & Wow!)その光景は、二人の祈りと賛美に耳を傾けていた「ほかの囚人たち」を驚かせたに違いありません!(I see! & Right!)それは、神が、劣悪な環境の中にあってもそれを祈りと賛美に変えてくださるという力強い証しでした!(Wow! & Wow!)
―劣悪な状況下でどうして神を賛美できるのか?―
●そこで、次の質問は大切だと思います。「そのような劣悪な状況下で、二人の宣教師たちはどうして神を賛美できるのか?」です。皆さんは、どうお答えになりますか・・・?いくつかの答えがあると思いますが、ここで、根本的な二つの答えを挙げる事にしましょう。
ア)一つ目の答え
●一つ目は、多くのクリスチャンが忘れている事なのかも知れませんが、神をほめたたえるという事は、状況や事情によって決まるものではないという事です!状況が良いと神をほめたたえる、状況が悪いと神をほめたたえない、というものではないのです!(Yes! & Wow!)状況に関係なく、聖書は何と命じているのでしょうか?「いつも主にあって喜びなさい」、と!(ピリ4:4)第1テサロニケ人への手紙では、「5:16 いつも喜んでいなさい。 5:17 絶えず祈りなさい。5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい」と命じています!そしてその言葉に続いて、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と記されています!(5:16-18)ピリピとテサロニケ双方とも、使徒パウロが記しています。神が私たちに命じそして望んでおられる事は、いつも主にあって喜ぶ事です!
―2―
●という事は、クリスチャンの喜びは、状況によるのではないという事が分かります!それでは、何によってまたどういう事をクリスチャンは喜ぶのでしょうか?これは、とても大切な質問です!それは、神の真理の中で喜ぶという事です!(Wow!)どういう真理の中で喜ぶのでしょうか?それは、主権者なる神が私たちの人生の全ての出来事を支配しておられるという真理です!(Wow!)いかなる困難が襲っても、その大切な真理の中でクリスチャンは喜ぶ事ができるのです!(Amen!)その真理を麗しく表している御言葉が、暗唱聖句にもあるローマ8:28です。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる」という真理です!私たちがいかなる状況に置かれても、この力強い真理の中でいつも喜ぶ事ができるのです!(Wow! & Wow! & Wow!)
●更に、真理の中でクリスチャンは喜ぶ事ができるという事は、真理は御言葉ですから、御言葉の真理の中で喜ぶ事ができると言い換えて表現する事ができます!御言葉の真理に満たされた生活は、御霊に満たされた生活という事にも言い替える事ができますので、そこに喜びの歌が生まれて来るのです!ですから、クリスチャンは状況によって喜ぶのではなく、御言葉の真理の中ですなわち御霊に満たされた歩みの中で喜ぶのです!
―神の輝かしい真理の中で喜んで生きたパウロの例(2コリ1:8-11)―
●パウロが使徒としてまた宣教師として歩む中で、数々の物凄い困難に直面しましたが、彼はそれをどう受け止めいていたのでしょうか?第2コリント人への手紙は、次のように伝えています。
1:8 兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。1:9 実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。1:10 神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。1:11 あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです(2コリ1:8-11)。
再度、語らせていただきますが、クリスチャンは状況によって浮き沈みするのではなく、どんな状況に追い込まれても、神の真理の中で常に喜ぶ事ができるのです!
―使徒ペテロからの同じ勧め/真理の中で喜んで生きることについて―
●一方、エルサレムの初代教会時代をはじめ幾多の迫害によって困難を通されて来た使徒ペテロは、この同じ真理を次のような表現で伝えています。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」、と!(1ペテ5:10)物凄く力強い御言葉の真理です!(Wow! & Wow! & Wow!)
―3―
●「劣悪な状況のもとで、なぜクリスチャンは神を賛美する事ができるのか?」という質問に対する一つ目の答えの締めくくりを、次の御言葉によってまとめる事にしましょう。パウロのように、クリスチャンは次のように告白できるのです。
4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです(2コリ4:16-17)。
イ)二つ目の答え
●「劣悪な状況下で、なぜクリスチャンは神を賛美する事ができるのか?」という質問に対する二つ目の答えは、これも大切な答えですが、神をどう捉えているかに掛かっています!人が神をどう捉えているのかで、その人の将来は大きく左右されます!神をどう捉えるかという事は神学においては基本中の基本ですし、また実際のクリスチャンの歩みにとっても基本中の基本です!神についての基本理解を外してしまうと、クリスチャンはその信仰生活で喜びを外してしまいます!
●ですから、パウロとシラスは、自分たちの神理解を自分たちが直面している状況に合わせないのです!別の言い方をしますと、自分たちが直面している状況は大変難しいので、神にとっても難しいとは思わないのです!そうではなくて、自分たちが直面している状況に、神についての素晴らしい真理の光を当てるのです!そして、この状況がどういう意味や価値を持っているのかを判断するのです!牢獄での賛美は、神がこの劣悪な状況をご自分の栄光のために、また自分たちの益のために変えてくださるという神への信頼からくる確信の表れです!その神への確信が、賛美となるのです!(Wow! & I see!)パウロとシラスは、神が何か良い事をなさる前に、全てを益としてくださる神を既に賛美していたのです!(Amen! & Wow! & Wow!)
2)神の驚くべき介入と主客転倒(使徒16:26-29)
●パウロとシラスの「賛美する歌」は、「突然、大きな地震が起こっ(た)」事によって中断されましたが、それは、ご自分の二人の器たちのために、そしてまた人々の救いのために、神が介入された事を示していました!聖書は、その地震を単なる地震ではなくて「大きな地震」と記しています!それゆえに、「牢獄の土台」そのものが「揺れ動き、たちまち扉が全部あいて、すべて囚人の鎖が外れ(る)」程のものでした!
●使徒12章のヘロデによるペテロの投獄では、神の御使いが牢獄に送られて解放を与えました。ここ使徒16章では、自然現象の一つである地震を用いて、パウロとシラスの解放を導かれました。それが自然現象であれ、あるいは超自然現象であれ、その両領域は神の主権の支配の下に置かれているものです!
●27節によると、この「大きな地震」によって「看守」は「目をさまし」ました。それは、牢獄と同じ敷地内の家屋に住んでいたからです。彼が、「牢の扉があいているのを見(た)」時、当然、「囚人たちが逃げてしまったものと思い」ましたので、彼は、「剣を抜いて自殺しようと」しました。ローマの兵士が囚人を逃がしてしまったとなると、それがいかなる理由であれ、その責任を取らされて、首をはねられて処刑される事は避けられませんでした!(使12:19、27:42)。どっちみち死ぬのであれば、自分の命を絶った方がいいという事になります。 ―4―
●「看守」が意を決して自殺しようと思った時、暗やみの中から「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」という叫び声が聞こえて来ました!(16:28)「私たちはみなここにいる」という言葉は、「看守」にとっては驚きの言葉であり、「なぜなのか」と思える不思議な言葉でもあり、また自分の命の救いを意味する言葉でした!囚人たちが逃げていないという事は、「看守」にとっては奇跡としてしか思われませんでした!
●なぜ、パウロやシラス以外の囚人たちは逃げようとしなかったのでしょうか?いくつか考えられますが、まず、余りにも大きな地震であったので、その衝撃で自分たち自身が固まっていたのかも知れません。余震も続いていたのかも知れません。次に、脱獄しても再逮捕される時の事を考えると、恐怖の余り逃げ出せなかったのかも知れません。あるいは最後に、これが有力な理由だと考えられますが、他の囚人たちは、パウロとシラスとを尊敬していたからであろうと思われます!なぜなら、パウロとシラスが鞭打たれて血を流し、足を目一杯広げられて足かせを掛けられた苦しい状態で神に祈って賛美をしている姿を見ていて、その余りの気高さに、只者ではないと思わせられたに違いありません!それゆえ、パウロとシラスが逃げないように命じた事に対して従ったのであろうと推測できます!
●この信じられない出来事や展開にびっくり仰天した「看守」は、29節にありますように、「明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスとの前にひれ伏し」ました!この姿をどういう表現したらいいでしょうか?これが、まさに『主客転倒』です!「看守」が、囚人たちの前でひれ伏すのです!通常あってはならない光景です!逆転の御業が起こったのです!彼は、ピリピの街でパウロとシラスとが語ったメッセージを聞いていたのかも知れません!あるいは、使徒たちのうわさを聞いていたのかも知れません。そして、彼らが語る言葉が神の真理であるという事を、この「大きな地震」によって超自然的な確認させられた可能性が高いです!
●皆さん、この「大きな地震」が、神によって引き起こされた超自然的な奇跡と理解する事ができるでしょうか?そう受け止める事ができるとしたら、その理由は何なのでしょうか?その理由とは、「大きな地震」であるにもかかわらず、牢獄の敷地だけという限定的なもので、しかも「大きな地震」であるにもかかわらず、建物の壊滅状況について全く伝えられていないという事です!(I see!)
●これらの超自然的な出来事を通して、「看守」は、パウロとシラスが神から遣わされたメッセンジャーである事を確信しましたし、そしてそれは、「看守」自身が彼らの語る救いを求めるという方向へと導いて行きました!使徒9章で、クリスチャンを迫害して片っ端から牢獄へ入れていたサウロが、シリアの首都ダマスコに入ろうとした時に突然天からの光が照らして彼を回心へと導かれたように、この「大きな地震」という神が引き起こされた現象を通して、神が看守をひれ伏させたのです!彼はこれまでローマの兵士として、また「看守」として自分自身を守り身構えていたものが全てはぎ取られ、彼の心が福音のメッセージに応答するよう神によって開かれて行ったのです!
―5―
[3]備えられた魂と宣教(使徒16:30-32)
1)看守の最も重要な質問(使徒16:30)
●「看守」は、パウロとシラスを「外」の中庭に「連れ出し」ました。勿論、その前には、他の囚人たちを、元の所に戻して、厳重に監禁したに違いありません。そして、彼は二人の宣教師たちに向かって質問をするのですが、通常、考えられる質問をしていないのに気づかされます!例えば、「この地震は一対何なのですか?」、「なぜ、あなた方は逃げないのですか?」、「なぜ、こんなことが起こったのですか?」と聞いてきてもおかしくはないはずです!(I see!)
●しかし、その「看守」はそのような質問をせずに、30節で、人間にとって最も重要な質問をしたのです!「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」、と!このような質問をするという事は、いったい何を意味しているのでしょうか?神が働かないと、このような質問が出て来るはずがありません!という事は、彼はこの「大きな地震」という特別な出来事の中に神の介入があるという直感していたので、このような質問が出て来ているのです!皆さん、この「看守」が、神によって備えられた魂であるという事に気づいて来たでしょうか?この看守の心に働き掛けておられる、神の御手の動きが見えるでしょうか?
●この「看守」の質問は、聖霊によって灯されて、心の内に燃え盛っていったものでした!人が、生涯の中で必ずすべき最も重要な質問です!すなわち、彼の質問とは、自分が神の御前に罪赦され、そして義とされる事を心から切に求めるものでした!彼は、個人的にあるいは人づてに、あの「占いの霊につかれた若い女奴隷」(16:16)がパウロの働きを通して悪霊から解放された事を聞いていた可能性が高いです!(I see!)それで、彼は、パウロとシラスが、彼の心の底からの質問に答えてくださるまことの神の器たちと信じた事でしょう!
2)神の器たちの最も重要な答え(使徒16:31-32)
●「看守」の単刀直入な質問に対して、パウロとシラスも同様に、単刀直入に答えました!「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」、と!(16:31)彼と彼の家族一人一人の心は、福音に対して十分に備えられていました!何の妨げもありませんでした!救いというのは、ひとえに主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられるものです!「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」、と記されている通りです!(4:12)この救いの輝かしい真理は、使徒たちの福音説教の中心を締めています!(2:38-39、5:14、8:12、10:43、11:17、13:12、38-39、48、14:1、15:11、17:12、18:8)イエス様ご自身は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と仰せられました!(ヨハ14:6)福音書においてもまたその後記された書簡においても、この救いのテーマは一貫しています!(ロマ3:20-25、5:1、1コリ6:11、ガラ2:16、3:24、エペ2:8-9、2テモ3:15、テト3:7)
●「主イエスを信じ(る)」という事は、第一に、イエス様ご自身がご自分について語られた事を信じるという事です!
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それは、「イエスが神の子キリストであること」そして「イエスの御名によっていのちを得る」という事を信じることを意味します!(ヨネ20:31)第二に、「主イエスを信じ(る)」という事は、イエス様が行われ、そしえイエス様になされた神の御業を信じるという事です!その神の御業とは、「15:3・・・キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」です!(1コリ15:3-4)そして、その二つは次のようにまとめられます。「10:9・・・もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」、と!
●救いのメッセージは、その「看守」と「彼の家にいる者全員に」対して語られました!(16:32)彼の家族、しもべたち、そして彼の家に滞在していた親戚や客人たちの全てが福音を聞きました!そして、「看守」の家族の一人一人が福音を信じて救われた事は、34節の「神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」という御言葉から分かります!使徒の働きを見ますと、使徒11章のコルネリオの家族の全て、この16章の紫布商人ルデヤの家族の全て、そして18章の「会堂管理者クリスポ」の「家族全員」が、「主を信じた」事を伝えています!(18:8)
[4]救いとその証拠(使徒16:33-34)
●神によって備えられた心に福音が語られるのなら、当然の結果がもたらされます!その「看守」とその家族一人ひとりに対して、その当然の結果である救いがもたらされました!「看守」をはじめ、その家族一人ひとりの救いが本物である事が、これから取り上げる4つの点で鮮明になります!
1)素早い愛の反応(使徒16:33a)
●一番目が、「看守」の素早い愛の反応です!33節の前半を見ますと、「看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った」とあります!イエス様は次のように言われました。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子である」、と!救われて弟子となった者に表れる明らかなしるしは愛です!その愛が、この「看守」の行動に見られます!(I see! & Wow!)
2)素早い神への従順(使徒16:33b)
●二番目に、素早い神への従順です!同じく33節の後半には、「そして、彼とその家の者全部が、すぐにバプテスマを受けた」とあります!バプテスマ式を通して、自分たちがキリストを信じた事を公の場で表し、自分たちがキリストに従う者である事を証ししました!真夜中でしたが、「大きな地震」のために周辺の多くの人々が外に出ていた事でしょうから、彼らのバプテスマ式は公の場で行われたものと考えられます。もし家族以外に人々がいなかったとしても、彼らがバプテスマを受けた事は間違いなく周りの人々へ伝わって行った事でしょう。(I see!)
3)素早いもてなし(使徒16:34a)
●三番目に、彼らの救いが本物である事が、彼らの素早いもてなしに現れています!バプテスマ後に、34節の前半で、「看守」は「二人を家に案内して、食事のもてなしをし」ました!「もてなし」というと、ピリピの地で最初にバプテスマを受けたリディアの事を思い出さないでしょうか?彼女がイエス・キリストを信じてバプテスマを受けた時、パウロに対して、彼女は何と語ったでしょうか?
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「『私の家に来てお泊まりください』と懇願し、無理やり・・・そうさせた」とありました!(16:15)救われた者に表れるもてなしの心です!
4)心からの救いの喜び(使徒16:34b)
●四番目に、心から救いの喜びを表しました!34節の後半で、「神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」と聖書は伝えています!つい先までは、「看守」は責任を取って自殺をしようとしていました!しかし今は、自分の全ての罪が赦され、赦されたばかりでなく義と認められた事による喜びのオーラが彼から放たれていました!(詩32:1/ロマ4:7)(Wow! & Wow!)これら四つの変化がすぐに現れたのは、神の恵みのみがなせる救いの御業であったからです!(Amen! & Amen!)
【まとめ】 それではここで、まとめをしましょう。
●どんな困難な状況下でも、神が介入されるなら、たとえ牢獄の中であってもそこに祈りと賛美が生まれ、神の御業が現れます!すると、そこに主客転倒という神の御業が現れます!そして、人々は、神の器の前にひれ伏して、人生の最も重要な質問をします!「救われるためには、何をしなければなりませんか」、と!答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなた(は)・・・救われます」でした!そして、本当に信仰を持って救われた人には、救われた証拠が必ず伴います!それが、愛であり、神への従順であり、もてなしであり、そして喜びでした!
【適 用】 最後に、この度のメッセージの適用する時をもちましょう。
(1)あなたは、あなたの人生の全ての出来事において、神が支配しておられるという真理を握っていますか?そして、どんな状況に置かれても、その真理によって、あなたは喜べますか?あなたは、神をどう捉えていますか?自分たちの置かれた悪い状況をご自分の栄光のために、そしてまた私たちの益のために変えて下さるという神だと捉えていますか?そして、その神に信頼して試練や困難の中を歩んでいますか?
(2)更に、いかがでしょうか、クリスチャンの皆さん、あなたには救いの証拠が見られますか?あなたの信仰生活の中に、神と人への愛と、神への従順並びに人への従順、すなわち聖書の御言葉に対する従順と、それから人へのもてなし、そして喜びという救いの証拠が見られますか?
(3)そして最後に、まだクリスチャンになっていない皆さん、あなたの神様への理解はこの世の基準に基づくものですか?それとも、聖書の御言葉に基づくものですか?いかがでしょう、永遠に変わらない聖書の御言葉によって、神様についての真理をより深く学んでみませんか? それでは、祈りの時をもちましょう。
【結論の御言葉】
■「私たちの一時の軽い患難は、それとは比べものにならないほどの重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです(2コリント4:17)。
■「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(1テサロニケ5:16-18)。
[引用&参考文献]
・ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き13-28』(ムーディー出版、1996)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Acts 13-28, The Moody Bible Institute of Chicago, 1994, p.105-109.)
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