『三つ目のたとえ話の奥深さ!』―自分の快楽のために父親の死を願う人間の邪悪さ、その願いを許されご自分の元へ回帰するよう導かれる神の愛と赦し―《ルカ15:11-32/今回は序論&15:11-12》3‐①
【前 置】
●ルカの福音書15章の講解説教は、今回からいよいよ三つ目のたとえ話がスタートします。今回はその初回のメッセージですので、序論部分で、三つ目のたとえ話の特徴と背景について学びます。ユダヤ社会に深く染み付いていた社会・宗教・文化の観念、そしてそれらが生み出しているユダヤ人の意識や感覚、更に古代中東における特有の生活や見識などを取り上げます。
●その後、本論では11節と12節のみを学ぶのですが、そのたった二節の行間には、その御言葉の意味やそれから引き出される真理を理解すのに必要な様々な重要要素が隠されています。それらの要素とは、「弟息子」の願い、その「父」の対応、村人たちの考えや反応、主な聞き手である宗教指導者たちの考えや反応、そして神ご自身がどういうお方なのか、などです。
●聖書の背景の奥深さや聖書の御言葉の意味深さに触れ、聖書そのものに対する関心が深められる事を期待しています!これから数回にわたって取り次ぐメッセージのテーマは、『二人の反逆息子、愛と恵みの父親』です。「名誉」や「恥」という言葉が、この聖書箇所を紐解くキーワードです!
●今回のメッセージの主題は『三つ目のたとえ話の奥深さ!』で、副題が「自分の快楽のために父親の死を願う人間の邪悪さ、その願いを許されご自分の元へ回帰するよう導かれる神の愛と赦し」です。紐解かれる御言葉の真理を捉え、その真理に感謝し、そしてその真理に生かされる者となりましょう。
【全体のアウトライン】
◎序 論:三つ目のたとえ話、その特徴と背景/今回
◎本 論:二人の反逆息子、愛と恵みの父親(ルカ15:11-32)/今回(1回目)
[1]弟息子(ルカ15:11-19)/今回(1回目)
1)父親に対する弟息子の恥知らずの要求(15:11-12)/今回
2)父親に対する弟息子の恥知らずの反逆(15:13-16)/次回(2回目)
3)神と父親に対する弟息子の恥ずべき罪の悔い改め(15:17-19)/次回(2回目)
[2]父 親(ルカ15:20-24)/次々回(3回目)
1)弟息子に対する父親の恥ずべき歓迎(15:20-21)
2)弟息子に対する父親の恥知らずの和解(15:22)
3)弟息子に対する父親の恥知らずのお祝い(15:23-24)
―1―
[3]兄息子(ルカ15:25-32)
1)父親に対する兄息子の恥ずべき反応(15:25-30)
2)兄息子に対する父親の恥ずべき応答(15:31-32)
[4]実際に起こった悲劇的な結末
[5]続く栄光の救いの御業
[6]救いの祝宴への招き
【今回のアウトライン】
【序 論】
◎三つ目のたとえ話、その特徴と背景
1)最も豊かな内容で、最も複雑な意味を含んだたとえ話
ア)極めて優れたたとえ話の語り手、イエス・キリスト
イ)極めて重大な救いのたとえ話、神の完全なメッセージ
ウ)たとえ話が語られた背景の理解は、上辺の誤った解釈を防ぐ
2)人の罪、悔い改め、そして神への回帰
3)弟息子、父親、兄息子が意味するもの、そして恥と名誉
【本 論】
[1]弟息子(ルカ15:11-19)
1)父親に対する弟息子の恥知らずの要求(15:11-12)
ア)”放蕩息子のたとえ話”と一般的に言われているが・・・(15:11)
イ)弟息子の父親への衝撃的な要求(15:12)
【序 論】
◎三つ目のたとえ話、その特徴と背景
1)最も豊かな内容で、最も複雑な意味を含んだたとえ話
ア)極めて優れたたとえ話の語り手、イエス・キリスト
●主イエス様は、極めて優れたたとえ話をお作りになられました!お作りになられたたとえ話は、霊的な真理を明らかにするもので、それらのたとえ話に比べられるものはこの世にはありません!それらのたとえ話というのは、それらが表に表れる以上のインパクトがあり、神の国と救いに関わる深い霊的な意味を伝えています!しかしそれでいながら、イエス様が語られたたとえ話というのは、聞く人々が日常で体験する事柄から引き出されております!イエス様がお作りになられたたとえ話は架空のものではあっても、それらは、神話や幻想的なものから引き出して来たこの世の様々な偽りの宗教の教えとは全く対照的なものです!ギリシャ神話やローマ神話では、神々がねたみ合い、神々が争い、神々が結婚している事を告げていますが、それらは全てナンセンスです。日本神話が日本の誕生を告げていますが、それらも同様に全てナンセンスです!人が創り出す神話とは、人の次元を超える事はありません!そのような神話から引き出される様々な宗教が説く教えというものは、全てナンセンスです!イエス様が語られたたとえ話とは、比べ物になりません! ―2―
●聖書は世界に対する真の書物であり、事実に対し、また人間の日常生活における経験に対しても、全て真実な書物です!これまでも語って来ましたように、イエス様がある時からたとえ話で語り始められたのは、人々へどんなに真理を直接告げられても、人々がその真理を受け入れず、イエス・キリストに従おうとしなかったからです!そこで、イエス様は、人々が真理を知った上で、なおそれらの真理を退ける者たちに対する神の裁きが増して行く事を避けるために、群衆から真理を隠されため、間接的なたとえによって話されるようになりました!しかし、そういう意図があったにしても、イエス様がお語りなるたとえ話は明瞭で理解し得るものでした!しかしながら、真理を退ける者たちがそれらのたとえ話を理解しても、その中に含まれている真理の深い霊的な意味だとか、それらを自分に適用して生きて行くという事については、何も悟る事のできない者たちでした!(I see)
イ)極めて重大な救いのたとえ話、神の完全なメッセージ
●そういう訳で、この二人の息子の物語というのは明解なたとえ話ですので、宗教指導者たちは、このたとえ話を正確に理解しました。しかし、その霊的な意味においては、彼らは盲目でした!イエス様のたとえ話の中で、このたとえ話は最もよく知られており、また最も印象に残っているものです!一般には、“放蕩息子のたとえ話”として知られていますが、その中身は、「二人の反逆な息子たちと、愛と恵み満ちた彼らの父親の物語」です!(I see)子供もこの物語を理解する事ができますが、その物語の意味は最も深く、且つまた最も複雑な内容となっています!(I see)
●このたとえ話を理解にするにあたって、それを表面的に扱ってはいけません!すなわち、単なる上辺だけの理解では、このたとえ話が伝えているメッセージの意味深さや豊かさを把握させる事ができません!聖書は、率直に言いまして、古代の中東の書物です!ですので、その中の真理というものは、それが記された土地の文化を背景に記されていますので、私たちの日本文化や、その他世界の文化とはかけ離れているという事をわきまえなければなりません!これまで、文脈を無視して、余りにも安易にこのたとえ話を切り取ろうとする聖書解釈者たちがいました。そして、その切り取った部分を現代社会に持ち込んでた易く適用し、本来の正しい解釈から外れてしまっているという現状を招いています!そうする事によって、その特別な意味を汲み取れず、イエス様のメッセージを正確に伝える事に失敗しています!それは、小さな罪ではありません!なぜなら、このたとえ話が、特に極めて重大な救いを取り扱っているからです!
ウ)たとえ話が語られた背景の理解は、上辺の誤った解釈を防ぐ
●神がこのたとえ話に込められた意味を引き出して理解するためには、イエス様が語られた時に、それを聞いた聴衆という枠組みの中で聞く必要があります!ユダヤ人の中に深く染み付いている社会観念や宗教・文化の観念、そしてそれらが生み出している人々の意識や感覚、それから古代中東における特有の生活や見識などを無視する訳には行かないのです!またその当時、たとえ最も高い教育を受けた人々であっても、彼らのルーツは素朴な農業を営む社会にありました。その当時の生活の特徴をある程度理解するという事が、現代の私たちのたとえ話の理解に光を当ててくれます!そして、それは私たちを、上辺だけの誤った聖書解釈から守ってくれるのです!
―3―
2)人の罪、悔い改め、そして神への回帰
●失われた羊や失われた銀貨のたとえ話のように、この三つ目のたとえ話もまた、失われた者の救いに対する神の喜びを描写しています!最初の二つのたとえ話は、罪人を探し出すに当たっての神の側のお働きを強調していました。しかし、この三つ目のたとえ話は、罪人を探し求められる神について触れている一方で、より人間の側の罪、その悔い改め、そして神の元へ帰る事に焦点が当てられております!この三つ目のたとえ話は、劇的な内容です!罪人の絶望の淵における後悔、それに対する悔い改め、そして罪人のそのような悲しみに対する神の愛と赦しが、この物語の中で脈打っています!
3)弟息子、父親、兄息子が意味するもの、そして恥と名誉
●このたとえ話は、三名の登場人物によって繰り広げられて行きます。弟息子、父親、そして兄息子です。名誉を求め、恥を退けるという倫理観が優先順位を占めていた当時の社会の中で、この三名がどういう行動に出たのでしょうか。名誉を守り、恥を退けるという社会に生きている人々に対して、この物語は、その倫理的枠組みを根本から覆すのです!正しいと言われる全ての事に対して反逆する事によって、恥の極端な例がどういうものなのかを、弟息子が表します。そして、パリサイ人や律法学者たちの目からすると、父親はその戻って来た息子を受け入れる事によって、より恥ずべき者として表されます。この物語を理解する全ての人にとって、兄息子は究極な恥の表れであり、それはパリサイ人や律法学者たちを象徴しています!彼ら宗教指導者たちとは、ユダヤ人社会においては最も尊敬に値する者たちだと見なされており、また恥のない者たちだと見なされていました。これらの名誉や恥というものが、この物語が進むに連れて、明らかにされて行きます!
【本 論】
[1]弟息子(ルカ15:11-19)
―前 置―
●さてここから本論に入りますが、まずは第一ポイントの弟息子の恥について、それがどう展開して行くのか、アウトラインで既に取り上げましたが、再度ここでその三つの段階を確認しましょう。一番目に、弟息子は、彼の父親に対して恥知らずの要求をします(15:11-12)。二番目に、彼は、自分の父親に対する恥知らずの反逆に出ます(15:13-16)。そして三番目に、彼は、彼の父親に対する恥ずべき罪の悔い改めをします(15:17-19)。今回は時間の都合上、その一番目の父親に対する弟息子の恥知らずの要求のみを取り上げる事にします。
1)父親に対する弟息子の恥知らずの要求(15:11-12)
ア)”放蕩息子のたとえ話”と一般的に言われているが・・・(15:11)
●11節で、イエス様が「ある人」について話し始められたのですが、その「人」には「二人の息子がいた」と伝えています。これまでも触れて来ましたが、ルカ15章の三つ目のたとえ話は“放蕩息子”としてよく知られており、この物語は主(おも)に「弟息子」の事を伝えているのだと暗に伝えてしまっているのです。しかし、それは全くもって正しいものではありません!
―4―
●最後の段階からしか登場しませんが、実は、「兄息子」に対して、このたとえ話の主(おも)な焦点が当てられているという事を忘れてはなりません!最初の「弟息子」の行動が、兄の罪深い反応とそのたとえ話を聞いている宗教指導者たちに対する告発という、一連の出来事を引き起こしているのです!(I see)“放蕩”という言葉は、自由奔放で途方もなく好き勝手に振舞い、また無謀な浪費を続ける事を意味します。それはまさに「弟息子」の事であり、その行動はまさに“放蕩”を指しています。
イ)弟息子の父親への衝撃的な要求(15:12)
―「弟息子」の父親に対する衝撃的要求(15:12a)―
●この「弟息子」は、自分の父親に対して、衝撃的な要求をします!12節で、父親に対して、「『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言(い)」ました。パリサイ人や律法学者たちは、たとえ話のこの時点のイエス様の言葉を聞いて驚かされ、そしてこの「弟息子」の厚かましく、恥知らずの要求にショックを受けたに違いありません!息子から父親に対するこの要求というのはとんでもないもので、もっての外であり、これまで聞いた事のない要求でした!これは、自分の必要の全てを満たしてくれている父親に対して著しく愛と感謝に欠けるもので、全くもって無礼な要求でした!パリサイ人や律法学者たちは、その要求を恥ずべきもの、非難に値するもの、受け入れる事のできないものと見なしたに違いありません!そして、「あなたの父と母を敬え」という十戒の第五番目の戒めに対する、目に余る違反行為と見なしたに違いありません!(出20:12/参 レビ19:3、マラ1:6、マタ15:4)
●息子からそのような事を父親に対して言うという事は、ユダヤ人の文化では、自分の父親が死ぬ事を願っているという事を告げているのと等しい事でした!(I see)なぜなら、自分の父親がまだ生きている間は、自分の財産の分け前を受け取る権利がなかったからです。創世記25:31-34や申命記21:17によりますと、「弟息子」が父親の財産の三分の一、「兄」が三分の二という風に定められていました。31節からも分かりますように、父親は自分が生きている限り、財産を所有し続け、管理しているのですから、「弟息子」の意向や計画を一掃する事ができました。
●しかしながら、父親は、「弟息子」が家族を離れ、そして彼が自分の自己中心的な願いを満足させる自由を優先させました。当時の社会常識からしますと、そのように要求する息子は、自分自身に恥をもたらす事になると考えられていました!それだけでなく、公においても、その父親によって彼に恥がもたらされる事を意味していました!そして更に恐らく、そのような要求をする息子に対しては、財産分与が認められなくされたり、あるいは家族から追放される事さえも起こり得る事で、最終的には、その息子は死んだと見なされる事さえも起こり得る事でした!(参/15:24、32)(Wow)
―「弟息子」の関心は自分の快楽!(15:12b)―
●この「弟息子」の更なる無責任さというのが、12節の中盤に記されている「財産」という言葉から分かります!(I see)原語では“オウスィアス”という言葉が使われており、ここだけにしか用いられていない言葉です!聖書では、通常、「遺産」(ルカ12:13)だとか「相続財産」(ルカ20:14/マタ21:38/マコ12:7)と訳される“クレ-ロノミア”が使われています。ここではそうではなく、“オウスィアス”という言葉が用いられているという事は、次の点を示唆していると考えられます。(続く)
―5―
この「弟息子」は、自分の分け前としての財産に対しては責任を取りたくないないのです!彼は、自分の財産の分け前分を将来の自分の家族の利益や幸福のために増やしながら管理する事に対しては、何の興味ももち合わせてはいませんでした!彼の父親、そしてその前の世代の祖父や曾祖父たちも皆そのように財産を管理して守り増やして来たのですが、彼は自分の事しか考えませんでした!自分の分け前を清算して、それを自分の快楽のみに使いたかったのだという事が分かります!
―「弟息子」に選択の自由を与えた父親の対応が意味するもの(15:12c)―
●この息子の父親に対する無責任且つ自己中心の要求の言葉は、村全体に広がったに違いありません!村人たちは、父親に恥をかかせそして汚名を着せたその「弟息子」に対して父親が激怒し、そしてそれに対して見合った戒めを断行すると思ったに違いありません。ところが驚く事にそうではなく、父親は、全く期待していなかった対応に出ました。父親がその息子の要求に応え、12節の最後に記されていますように、「財産を二人に分けてやった」のです!この「財産」と日本語で訳されている言葉は“ビオス”という原語が用いられていますが、それは文字通り、物質生活を指す言葉です。どういう意味でしょうか?先祖代々の家族が産み出して来た全ての物質、そしてそれが現世代に受け継がれて来た全ての物質を指している言葉です。
●父親は自分の自由意志に基づいて「財産を二人に分けてや(り)」ましたが、それは、理解されて行ったのだろうと思われます。しかしそれにしても、自分の息子の邪悪で厚かましい要求に応えてそうしたのは、大変ショッキングな事でした!息子の横柄で傲慢な態度に対して、平手打ちを食わしてもいいところですが、父親はそうせずに、彼の欲したものを与えたのです!父親が大いに譲歩して、「弟息子」にした事を聞いた宗教指導者たちの目には、その父親の厚意がどう映った事でしょうか?それは、彼らにとって、父親は、恥ずかしくも、不名誉な行動を取ったと見えたに違いありません!主イエス様は、次のような霊的ポイントを述べられておられるのです。神は、罪人が一連の邪悪な行為に走る自由をお与えになっておられるという事です!
●しかし、使徒パウロは次のように語っています。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません」と!(1コリ6:12)そして、「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取(る)」と同じくパウロが告げています!(ガラ6:8)「弟息子」を含め、人は自分が語った言葉と行動に責任を取らねばならいない時が来るのです!詳しくは、これからのメッセージで明らかにされて行きます。
【まとめ】 それでは、この度のメッセージをまとめましょう。
●序論で語った事をまとめましょう。イエス様のたとえ話は、人間が作り出したこの世の神話や幻想的な話とは全く次元の異なるもので、神の国と救いに関わる深い霊的な真理を伝えていました!その真理を的確に捉えるには、その聞き手であったユダヤ人たちに深く染み付いている社会観念や宗教・文化の観念、そしてそれらが生み出しているユダヤ人の意識や感覚、そして古代中東における特有な生活や見識などに目を留めねばならないという事でした。それ無しに、「弟息子」のたとえ話だけを安易に切り取って、現代の社会に安易に当てはめるような、聖書解釈をしてはいけないという事を学びました!(続く) ―6―
特に、この三つ目のたとえ話は、人間の側の罪、悔い改め、神の元への回帰、そして罪人の悲しみに対する神の愛と赦しに焦点が当てられています!そして序論の締めくくりとして、名誉を求め、恥を退けるという倫理的な優先順位が占めていた当時の社会の中で、イエス様はこのたとえ話を通して、その枠組みを根本に覆して行かれるのです!
●本論で語った事をまとめましょう。今回は、その一番目、「弟息子」の父親に対する恥知らずの要求という点だけを取り上げました。父親がまだ生きている間に自分の財産の分け前分を要求する事は、ユダヤ人の文化では、自分の父親が死ぬ事を願っているという事を告げているのと等しいのだという事を意味していました!それゆえ、「弟息子」の要求は恥知らずでした!一方、父親は「弟息子」の意向や計画を一掃する事ができましたが、「弟息子」が家族を離れ、そして自己中心的な願いを満足させる自由を優先させました。それゆえ、父親は、恥ずかしくも、不名誉な行動を取った、と宗教指導者たちの目には映りました。その父親の対応は、神は、罪人が一連の邪悪な行為に走る自由をお与えになっておられるという事を告げていました!神は罪人をロボット扱いにはされず、「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取(る)」、すなわち人は自分が語った言葉と行動に責任を取らねばならいないという事、すなわちそれは人が自分の罪を認め、悔い改め、そして神へ回帰する事を願っておられるお方であるという事を示唆していました!
【適 用】 それでは次に、今回のメッセージの適用をしましょう。
●序論の適用をしましょう。この世の多くの宗教は、罪深い人間が作りだした神話や幻想的な話から真理を引き出そうとしていますが、あなたは、その事をどう思いますか?あなたの真理の源はどこにありますか?神話や幻想的な話ですか、それとも真の神が書かれた永遠に変わらない神の御言葉ですか?あなたの聖書の読み方や理解の仕方には、御言葉の前後関係をはじめ、歴史や文化や宗教という文脈の中で捉える習慣はありますか?一ヶ所だけを切り取って、自分や自分の周りの人々に当てはめてはいませんか?イエス様は、名誉を求め、恥を退けるという当時の倫理的な優先順位の枠組みを根本から覆(くつがえ)して行かれるのですが、そのようなイエス様をあなたはどう思われますか?一方、あなたの倫理的な優先順位はこの世的ですか、それとも聖書的ですか?
●本論の適用をしましょう。自分の父親が死ぬ事を願ってまで、自分の快楽を満たそうとする「弟息子」の邪悪さや罪深さから、あなた自身が学ぶ事は何ですか?その罪深い者たちをロボットのように扱って操作するのではなく、その邪悪な行為に走る自由を与えておられる神の心をあなたはどう思われますか?あなた自身が自由に罪深く歩んでいた頃、神はあなたをどう見られ、そしてあなたをどう導こうとされていたのですか?そのような神の忍耐と導きに対して、今、あなたはどう応答しますか? それでは、祈りの時をもちましょう。
―7―
【結論の御言葉】
■「15:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった」(ルカ15:11-12)。
[引用&参考文献]
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書11-17』(ムーディー出版、2013) (John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 11-17、 The Moody Bible Institute of Chicago、 pp. 303-308.)
―8―