『わたしの心だ。きよくなれ 』 ―悔い改めの思いに導かれた罪人、愛とあわれみに富めるイエス様― 《 ルカ 5 :1 2 -26 今回は 5 :1 2- 16 》
【序 論】
―これまでの流れ―
●私たちがこれまで学んで来ましたように、今回の聖書箇所においても、全ての人、全ての物、そして全ての事柄に対するイエス様の絶対的且つ完全な力が表されています!四章の前半では、イエス様が悪魔による誘惑の全てをことごとく粉砕するという事が記されていました!引き続き、四章の中盤や後半にかけては、悪霊どもを追い出す事によってサタンの領域に対するイエス様の支配が示されていました!そして、ペテロの義母や他の大勢の人々の癒しは、イエス様の病に対する支配を示していました!それから、前々回と前回取り上げましたガリラヤ湖における奇蹟の漁は、イエス様の自然領域に対する支配を示していました!イエス様の地上生涯においてなされた数々の奇蹟は、イエス様の神としてのご性質をありありと証明するものでした!
―これからの流れ―
●今回から取り上げる箇所には、病に対するイエス様の超自然の支配を示す二つの例が記されています。それは、「全身ツァラアトに冒された人」と「中風をわずらっている人」で、人間の医学では到底太刀打ちできない病気でした。これらの癒しは、イエス様の神の力やあわれみを越えるものを示しています!一番目の「全身ツァラアトに冒された人」を通しては、救い主に近づく悔い改めの思いに導かれた罪人の姿が取り上げられ、二番目の「中風をわずらっている人」を通しては、救い主の罪を赦す権威が取り上げられています。
●今回のメッセージの主題は『わたしの心だ。きよくなれ!』で、副題は「悔い改めの思いに導かれた罪人、愛とあわれみに富めるイエス様」です。全体並びに今回のアウトラインは下記の通りです。新しいテーマである『癒し、赦す救い主』について、共に聖書から学んで参りましょう。
【全体のアウトライン】
[1]ツァラアトに冒された人を癒されるイエス様(ルカ5:12-16)/今回
イエス様へ接近する悔い改めの思いに導かれた罪人
[2]中風をわずらっている人を癒されるイエス様(ルカ5:17-26)/次回以降
イエス様の罪を赦す権威
【今回のアウトライン】
[1]ツァラアトに冒された人を癒されるイエス様(ルカ5:12-16)
イエス様へ接近する悔い改めの思いに導かれた罪人
1)ツァラアトという恐るべき病(5:12b)
2)ツァラアトに冒された人のイエス様への決死の接近(5:12c)
3)ツァラアトに冒された人へのイエス様の深いあわれみ(5:13-16)
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【本 論】
[1]ツァラアトに冒された人を癒されるイエス様(ルカ5:12-16)
イエス様へ接近する悔いた思いに導かれた罪人
●12節の冒頭で、「イエスがある町におられたとき」とあります。「ある町」という表現ですので、それがガリラヤのどの町なのか、またいつイエス様が「ツァラアトに冒された人」に出会ったのかについて、その詳細は定かではありません。
1)ツァラアトという恐るべき病(5:12b)
●12節の中盤の「ツァラアト」という言葉について理解する事から始めましょう。旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、そのヘブル語を音訳してそのまま「ツァラアト」という言葉で日本語聖書には記されています。マルコの福音書のアッパールームテキストの第36課でも取り上げましたが、実は、2003年に出版された新改訳聖書の第三版からこの言葉が使われています。それまでは、「らい病」と訳されていました。一方、新共同訳聖書では1997年にまた口語訳聖書では2002年に、「重い皮膚病」と翻訳されています。それら三つの聖書の訳語は、より良い翻訳が決まった場合には変更するとしています。その理由としては、「聖書のツァラアトは皮膚(レビ13、14)に現れるだけでなく、家の壁(レビ14:33‐53)や衣服(レビ13:47‐59)にも認められる現象であり、それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかでないからである」、という新改訳聖書のあとがきで説明しています。ですから、家の壁や衣服には発症しない「らい病」という言葉はふさわし訳語ではないと判断された次第でした。
●「ツァラアトに冒された人」の肉体的症状はと言いますと、その患部が「雪のようにな(り)」(民12:10)、「肉」を「腐(らせる)」(民12:12)病気でした。「ツァラアトに冒された人」への社会的な取り扱いはと言いますと、祭司よって「ツァラアト」だと診断されると、「七日間、宿営の外に締め出(され)」(民12:14/レビ13:46)ねばなりませんでした(レビ13:6)。「ツァラアトに冒され(て)」いる限り、「ひとりで住み、その住まいは」同胞イスラエル人々からは距離を置かねばなりませんでした。ですから、エルサレムなどのように城壁で囲まれた「町」(2列7:3)に入る事は許されませんでした。それゆえ、家族と一緒に住む事や仕事をする事などは許されません。また、「自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって」すなわち口を押えて、「『汚れている、汚れている』と叫(ばなければ)」(レビ13:45)なりませんでした。本当にひどく辛い状況下に置かれていました!宗教的な取り扱いでは、神殿に行って礼拝する事が許されませんでした。そのような厳しい条件が課せられていますので、イエス様の元に来た「ツァラアトに冒された人」に気付いた人々は、その人に対する恐怖と憤りを持ったに違いありません。ある者は伝染を恐れて口を覆い、ある者は後ずさりし、ある者は律法違反に憤り、ある者は立ち去り、ある者は追放しようとし、またある者は石を投げ付けようとした事でしょう。
●神が人々をのろわれた時、時に、その人が「ツァラアトに冒され(る)」事を許されました。一人目は、アロンとモーセの姉のミリヤムです(民26:59)。モーセの地位に対するねたみのゆえに主の怒りが彼女に下り、ミリヤムは「ツァラアトに冒され」ました。モーセのとりなしで彼女はいやされましたが、七日間は宿営の外に締め出されました(民12)。
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二人目は、預言者エリシャのしもべであるゲハジです。神がエリシャを通してシリヤの将軍ナアマンの「ツァラアト」をいやされた時の事です。ナアマンは自分が癒された感謝のお礼としてエリシャへ贈物を渡そうとするのですが、エリシャはそれを受け取る事を拒みます。ところが、ゲハジは自分の欲にかられてナアマンを追い掛け、偽りの口実を作って贈物を自分が受け取ってしまいます。神は、彼が「ツァラアトに冒され(る)」(2列5:27)事によって彼を戒められました。三人目は、ユダ王国の十代目の王ウジヤで、彼も主に戒められて「ツァラアトに冒され」(2歴26:21)ました。彼の問題は高ぶりにありました。敵に対して並はずれた勢力を持ち(2歴26:6‐8)、内部の防備を強化して守りを堅固なものにした時、彼は傲慢な王となり、祭司しか関われない務めを奪って自分が神殿で香をたこうとしたところを注意された時に、彼は激しく怒りました。その時、「彼の額にツァラアトが表れ」(26:19)ました。彼は「ツァラアトに冒された者として隔離され・・・その子ヨタムが」(26:21)後を継ぎましたが、彼は死ぬまで隔離されたままでした。ですから、この病気に冒された人々は神によってのろわれた者であると考えるようになりました。ルカ5章に登場するこの「ツァラアトに冒された人」も、自分をそのように見ていたのだろうと思われます。
2)ツァラアトに冒された人のイエス様への決死の接近(5:12c)
●あわれでのけ者にされたこの人には、人間的には何の希望もありませんでした。不治の病を抱え、社会的に汚名を着せられ、そして自分自身の罪のゆえに神に裁かれた者として見られて来ました。イエス様の事を聞き、イエス様を探すためにやって来、そして12節にありますように、彼は「イエスを見(ました)」。そして、彼はイエス様に近づきました。しかし、彼の取った行動はふさわしくないものでした。なぜなら、「ツァラアトに冒された人」が、他の「ツァラアト」患者以外の人々に近づいたり関わったりする事は旧約の律法によって厳しく禁じられていたからです(参/ルカ17:12/レビ13、14)。感染する恐れがあまりにも大きくありましたので、「ツァラアト」患者は、エルサレムや他の城壁に囲まれた町々からは締め出されていました(参/2列7:3)。
●「ツァラアト」患者に対するラビ(律法の教師)たちの取り決めはより厳しいもので、具体的に定められていました。例えば、「ツァラアト」患者が健康な人の1m80cm以内に近づく事が禁じられていました。また、「ツァラアト」患者の方角から風が吹いている場合には、風下にいる健康な人の45m以内に近づく事が禁じられていました。また、会堂のある特別な区域への接近制限を課しました。あるラビは、「ツァラアト」患者がいた通りから運ばれて来た卵を食べる事を拒否しました。別のラビは、「ツァラアト」患者との距離を保つために石を投げる事を擁護しました。
●このように、このルカ五章に出てくる「ツァラアトに冒された人」は、肉体的な症状に苦しむだけでなく、社会的にそして宗教的にも厳しい制限が課せられました。彼は、旧約聖書の律法やラビたちの規則を犯してまでもイエス様に接近したのです!その行動は、彼がいかに必死であり、決死の思いでイエス様に近づいた事を示していました!彼は恐れを越え、恥を越え、そして自分自身や他者に対する危険をも顧みませんでした。彼にとって失うものは、文字通り何一つありませんでした。
●イエス様の元に来た彼は、イエス様の前で「ひれ伏し」ました!イエス様を敬いそして礼拝する姿勢の表れです!
―3―
彼のこれまでのイエス様に対する理解がどのようなものであれ、彼はイエス様が神によって送られた事を確信しており、12節後半で、彼はイエス様を「主」と呼びました!彼が助けを求めて「お願いした」状況というものは、まさに彼の切迫感を表れでした。彼は罪深いのけ者とされ、みじめな者で、哀れな者で、全く行き場のない者でした。彼が行く所は、イエス様の御元しかありませんでした!
●彼は、完全にへりくだって主に近づきました!彼は癒やしていただくという期待を持って来ているのは確かですし、イエス様が自分を癒す力をお持ちである事を何一つ疑ってはいません!しかし、彼はイエス様に自分の要求を突き付けるために来たのではありませんでした!なぜなら、「お心一つで.....」という言葉に表れていますように、彼は、「もしあなたがお望みになるのでしたら、私はその時にのみに癒やされます」と申し上げているのです!彼は自分がふさわしい者であり、また受けるに値する者だと主張しているのでは全くありません!彼は只自分を神の御手の中に置いて、「神のなされるようにして下さい」と願っているのです!彼は明らかに癒しを願ってはいますが、その癒しを明確にイエス様に対して表しているのではありません!また、彼は自分の権利を主張しているのでもありません!彼の一番の関心は自分の幸せではなく、主の御心であり主の栄光でした!そういう意味で、彼には神によって与えられた悔い改めの表れが伴っていたであろうと考えられます!
―この人は、へりくだり、心の貧しい者として、そして信仰をもって近づいた!―
●イエス様へ近づいたこの「ツァラアトに冒された人」の接近の仕方というのは、悔い改めた罪人が救い主に近づく姿を表しています!彼は自分が汚れた罪深い者であるという事を認め、自分の努力によって正しい行いをする事によって救われるという考えを捨てて救い主に近づいていたと思われます!彼はイエス様を主とし(ロマ10:9)、神とし(ヨハ8:24)、そして唯一の救い主(使4:12)として認めて、イエス様を尊ぶ心でやって来ました!彼は、「今は恵みの時、今は救いの日」(2コリ6:2)と知って、切迫感を持って主の元に来ていました!彼はへりくだり、心の貧しい者として主の元に近づきました!(マタ5:3)彼は、自分が主権者である神から何かを受けるに値する者では全くないという事、また、自分を推薦するようなものは何一つないないという事もよくわきまえていました!そして最後に、彼は信仰をもってイエス様の元に近づきました!どのような信仰でしょうか?それは、ローマ4:5が語っているように、「働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」という信仰でした!
3)ツァラアトに冒された人へのイエス様の深いあわれみ(5:13-16)
●「ツァラアトに冒された人」に対して、イエス様はどのような反応を示されたでしょうか?並行箇所のマルコの福音書では、イエス様が、このどうしようもない状況に置かれたその人に対して、「深」い「あわれみ」(1:41)によって動かされた事が記されています!そして13節の前半で、イエス様は「手を伸ばして彼にさわ(られ)」ました!旧約の律法によりますと、「触れれば汚れると言われる人間の汚間の汚れにれに触れ(た)場合」(レビ5:3)はその「罪を告白し罪のきよめのささげ物」(5:5、6)をしなさいと定められていました。律法によれば、「ツァラアトに冒された人」は「儀式上汚れた者であり」、その人にさわる事は罪でした。また伝染性もあり、公衆衛生上隔離するよう定められていました。
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しかし、 イエス様はその律法の定めを越えて「彼にさわ(った)」のでした!別に「彼にさわ(ら)」なくても癒す事の出来るイエス様でしたが、イエス様は「彼にさわ(る)」事によってご自分の彼に対するより深い愛を示されました!
●「ツァラアト に冒された人 」に触れるという事は衝撃でしたし、また前代未聞の行動でした! イスラエルの誰もが、とりわけ律法を教えるラビの全てが、「ツァラアト」患者に触れる事によって自分自身を汚す事は しません でした。 しかし、 イエス様はご自分の主権による力によって、 また ご自分の主権による愛 とあわれみ によって 応答 されました !イエス様は、 13節の中盤で、「『 わたしの心だ。きよくなれ』と言われ」ました! すなわち、 「私はあなたの癒しを願うので、きよくなりなさい」と語られたのでした!「すると、すぐに、そのツァラアトが消え 」 ま した!イエス様の癒しの御業に は いつも共通する事ですが、「全身ツァラアト に冒された人 」の「ツァラアト」 の 症状が全て瞬間的に消え去り、完全に癒されました! そして、彼は次の 14 節 に記されていますように、 祭司のいるエルサレムの神殿へ出向くために、 100Km 余りの長旅に出掛ける事ができる程に完全な癒しと回復が与えられたのでした!―「だれにも話してはいけない」―
●癒された後、14節で、イエス様は彼に対して、差し当たって、「だれにも話してはいけない」と「命じられ」ました。彼が直ちに行わなければならない事があったからです。それは、「行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい」という事でした。癒され清められた「ツァラアト」患者は、社会復帰のための手続きを取る必要がありました。まずはエルサレムにある神殿に出向き、「モーセが命じた・・・きよめの」の手続きに従わなければなりませんでした。祭司は彼の体を検査して「ツァラアト」の症状がないのかを確かめ、その後彼は、「自分の衣服を洗い」、「髪の毛、口ひげ、眉毛」などの「毛をみなそり落とし、水を浴び」なければなりませんでした。次に、「傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉」を祭司の元へ「持って来」(レビ14:8-10)なければなりません。その他、様々な清めの儀式をするのですが、その全てを終えるのに八日間を要しました。
―「祭司に見せ(る)」特別な理由とは―
●もし、彼がイエス様の命令に従って祭司の元を訪ね、イエス様がどのように彼を癒したのかについて詳しく話をするのなら、それによってイエス様がまことの救い主であり神の御子であるという力強い「証し..」となったに違いありません!この「証し..」が祭司たちを説得し、イエス様がご自身について主張しておられる事が真実なものであるという事を認める事になります!また逆に、もし祭司たちがその「証し」によって明確に示された救い主を拒絶するのならば、彼らは自分たち自身を逆に神の御前に告訴する事になります!なぜなら、彼ら自身がその奇蹟的に癒された「ツァラアト」の患者の体を検査して真実を知っているからです!
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●更にまた重要な点は、もし彼がイエス様の命令に従ってエルサレムの神殿の祭司のところに行くのであれば、イエス様はその期間時間を稼ぐ事ができ、イエス様にとって今以上に群衆が膨れ上がる事を防ぐ事が出来ますし、またそれによって公の働きがまだ妨げられずに済むようになります!群衆の現状とは言いますと、前回と前々回のメッセージで取り上げましたように、イエス様がガリラヤ湖の水際まで押し迫られ、ペテロの舟に乗って神の言葉を語らねばならない程にまで来ていました。
―「ツァラアト」から癒された者の不従順とその結果―
●しかしながら、彼は、自分になされた驚くべき奇蹟の癒しによって、もう天にも昇るような喜びの余り、彼にとってイエス様の命令はどこかへ吹っ飛んでしまいました。そして、彼は、マルコの福音書が伝えていますように、「出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始め」(1:45)ました。彼は、祭司たちへ力強い証しをする機会を失ってしまいました!その結果、15節に記されていますように、「イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒してもらうために」イエス様の元に「集まって来」ました。余りにも「大勢の群衆」のため、イエス様は「表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所」へ追いやられて行きました。「しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た」(1:45)のでした。
●「ツァラアト」から清められたその人の不従順は、イエス様の公での働きを狭める事になりました。それゆえ、イエス様は人口の多い町から地方の田舎へ追いやられて行ったのです。荒野に追いやられているイエス様を見つける事ができる者たちはそうしましたが、町にいる殆どの人々はそうできませんので、イエス様の癒しや教えやまたさわっていただく事も経験する事ができなくなりました。
―「寂しいところに退いて祈っておられ(た)」イエス様!―
●神の言葉を宣べ伝える事に焦点を当て、また神の働きのために必要な力を維持するために、人としてのイエス様は御父並びに聖霊との交わりを必要としておられました!それゆえ、たとえ人口の少ない地域に追いやられたとしても、イエス様「ご自身」は、16節にありますように、尚、「寂しいところに退いて祈っておられ(た.)」のです!(参/ルカ4:42)祈りは、イエス様の地上生涯とその働きにおいてはなくてはならない重要なものでした!
【まとめ&適用】 それでは、今回のメッセージのまとめそして適用をしましょう。
●今回は、「ツァラアトに冒され(て)」苦難の人生を味わっていた人物が、神によって心砕かれて悔い改めの思いへと導かれ、救い主に近づく姿を通して、主を礼拝する思いや自分の要求ではなく神の御心を第一にする事の大切さを学びました!と同時に、歓喜の中で、主の命令を忘れて祭司への証しやイエス様の公における働きに制限をもたらしてしまいました。肯定的な面と否定的な面の両面を通して、私たちは霊的な教訓を学ぶべき事を教えられます!
●一方、イエス様の「ツァラアトに冒された人」への対応は、どの律法学者たちとも異なっていました!イエス様は「彼にさわり」、そして「わたしのこころだ。きよくなれ」と宣言して、彼を癒されるのはご自分の願いである事を鮮明に示されました!イエス様の主権による力の偉大さ、愛の深さ、そしてあわれみの深さが如実に表されていました!あなたは、このイエス様から何を教えられましたか? それでは、祈りましょう。 ―6―
【締めの御言葉】
5:12「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」 5:13 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた(ルカ5:12b-13)。
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 1-5、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2009、 pp.311-317.)
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