『わたしについて来なさい! 』 ―社会ののけ者であった取税人マタイの変革、売国奴からキリストの使徒へ― 《 ルカ 5 :2 7- 32 今回は 5 :27 -29 》

【序 論】
●前回のメッセージでは、人は神によって創造されたゆえに、その本質は宗教的であるという事を学びました。しかし、人はその堕落のゆえに、自分の努力によって救いを達成する宗教を作り続けて来ました。しかし、まことの救いは、まことの神によって霊的に死んだ人間のために備えられなければなりませんでした!まことの神によって達成された救いを説く宗教こそ、人が救いにあずかる事のできる唯一の道だという事を学びました!
●今回は、まことの神によって達成された救いを説く宗教がどのようなものなのかを、社会ののけ者であった取税人マタイをご自分の元へ召される救い主イエス様を通して学びます!メッセージの主題は『わたしについて来なさい!』で、副題が「社会ののけ者であった取税人マタイの変革、売国奴からキリストの使徒へ」です。全体並びに今回のメッセージの流れは、下記のアウトラインの示す通りです。
【全体のアウトライン】
◎ 序論/人が達成する宗教VS神が達成される宗教/済
[1]軽蔑された罪人を召されるイエス様(ルカ5:27-29)/今回
[2]独善的な偽善者と対峙されるイエス様(ルカ5:30-32)/次回
【今回のアウトライン】
[1]軽蔑された罪人を召されるイエス様(ルカ5:27-29)
1)取税人マタイに目を留められるイエス様(5:27a)
ア)神の手配
イ)取税人の実態
2)「わたしについて来なさい」とマタイを召されるイエス様(5:27b)
ア)取税人マタイの心を知っておられたイエス様
イ)イエス様について以前から知っていたマタイ
3)すべてを捨ててイエス様に従った取税人マタイ(5:28)
ア)義と救いに心の底から飢え渇いていたマタイ
イ)思い切って過去と決別したマタイ
ウ)売国奴からキリストの使徒となるマタイ
4)変革された人生を証しする取税人マタイ(5:29)
ア)傲慢な者たちではなく、社会ののけ者たちを招待
イ)食卓が意味する受容
―1―
【本 論】
[1]軽蔑された罪人を召されるイエス様(ルカ5:27-29)
1)取税人マタイに目を留められるイエス様(5:27a)
ア)神の手配
●マタイの召命が記されているこの聖書箇所は、まず「その後」という言葉から始まっています。「その後」というのはどういう出来事の「後」かと言いますと、それは「中風をわずらっている人」(5:18)の驚くべき癒しの御業の「後」の事です。その「後」、イエス様が教えておられた家、あの四名の友人たちによって屋根をはがされた家ですが、そこを「出て行(かれ)」れました。「その後」どうなるのかは容易に想像できる事ですが、イエス様の奇蹟に魅了された群衆は、そのままイエス様の後をついて行きました。並行箇所のマルコ2:13を見ますと、イエス様は「湖のほとりに出て行かれみもとにやって来た」群衆に対して、再び「教えられた」事が記されています。イエス様の働きの中心が教えであったという事が随所に見られます!
●ところで、イエス様には、神が既に手配しておられる事がありましたので、そのご計画に沿って行動されました。それが27節の中盤に記されていますように、イエス様が、「収税所にすわっているレビ(マタイ)という取税人に目を留められた」事です。この「収税所」が位置している町の名前はカペナウムでシリヤからエジプトに通じる道が走っていますし、ガリラヤ湖東部の地方からも舟で物資が運ばれて来ますので、東西南北の貿易の要衝でした。ですから、カペナウムの「収税所」は当然多忙で繁盛しますし、ガリラヤでは一番の収益を上げていたと考えられます
イ)取税人の実態
●「取税人」というマタイの職業は、イスラエルにおいては社会から最も憎まれまた軽蔑されていました!「取税人」はユダヤ人社会ではくずやかすとして見られ、最も低い社会階層にある者たちでした!そしてまた、イスラエル社会では、彼らこそが最悪の罪人の象徴でした!(5:30、7:34、18:11/マタ18:17、21:31)ですから、イエス・キリストが取税人を救いそして彼を使徒にするという事は、律法学者たちやパリサイ人たちからしては、とても受け入れ難い事でした!
●ローマによるイスラエルの植民地支配というのは、ローマ軍が駐屯しているというだけでなく、ロー..マの税金制度にイスラエルが従わなければならないという事を意味していました!ガリラヤの地における税金は取税人たちによって取り立てられ、取り立てたお金はヘロデ・アンテパスの元へ届けられ、そしてそのヘロデによってローマ帝国へ届けられるという仕組みでした。ヘロデ・アンテパスという領主を憶えておられるでしょうか?ヘロデ大王の第4の妻の息子で、ガリラヤとペレヤの領主でした。異母兄のヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤを奪って結婚し、それを咎めたバプテスマのヨハネの首をはねるという、罪に罪を重ねた悪名高い人物でした。
●アンテパスは、収税所の営業権を最高額の入札者に売り渡しました。その権利を取得した者にとっては、金の儲かる仕事を得たのも同然です。
―2―
取税人たちは、ローマ当局が定めるある一定の金額を税金として徴収しますが、それ以上に徴収した額については、取税人に委ねられる事で了解されていました(ルカ3:12-13)。人頭税(ユダヤ人と奴隷にも課税)に加えて、所得税(1%)、土地への税金、農産物への税金(穀類の10%や葡萄酒や果物にかかる20%の税)、貨物運送税、手紙、道路使用税、橋の使用税、そして強欲な取税人たちが考え得るありとあらゆるものに課税しました。このように取税人が幅を利かせるようになりますと、窃盗や揺すりや搾取が横行します。そして、税金を払えない人々に対しては、取税人が法外な利息を付けて金を貸して支払わせます。また一方、取税人はチンピラを雇って人々を脅して税金を払わせようとしますし、支払いを拒否する人には身体的にひどい目に遭わせます。
●これらの取税人の行為は、税金は神のみに支払うべきだと信じているユダヤ人たちにとっては憎悪の対象でした!ですから、取税人たちは、同胞のユダヤ人たちからは非国民とか売国奴として見られていました!それゆえ、彼らは汚れた者であり、ユダヤ人会堂への出入りを禁じられていました。彼らはまたユダヤ人の裁判所で証言する事が禁じられていました。なぜなら、彼らは嘘つきと言うレッテルが張られていたからでした。取税人が悔い改めるという事は特に困難であるとまで考えられていました!
●ユダヤ人の口伝律法やその解説書がまとめられて生活の規範となっているタルムードには、二種類の取税人たちがいた事が記されています。一つ目が「ガバイ」(佐賀弁の「とても」という意味の「がばい」ではありません)と呼ばれる取税人で、人頭税、土地の税金、所得税といった一般的な税金を取り立てる人たちでした。二つ目は「モケス」と呼ばれる取税人で、その他の細々とした税金を徴収する者たちでした。「モケス」には更に二つのグループがあり、取税人を雇って彼らに仕事を委託する「大モケス」と、自らが出向いて仕事をする「小モケス」がいました。マタイは道端の収税所に座って仕事をしていたところから「小モケス」だと言えます。当然、人前に顔を出して仕事をする「小モケス」の方が「大モケス」よりも嫌われました。小モケスのマタイは、道脇で、同胞の憎しみを肌で感じながら仕事をしていました。ですから、彼はカペナウムで最も憎まれていた人の一人でした!マタイはガリラヤ湖に面する港町でこの業務に携わり、漁師たちにも課税をしていいました。
2)「わたしについて来なさい」とマタイを召されるイエス様(5:27b)
ア)取税人マタイの心を知っておられたイエス様
●イエス様は父なる神の取税人マタイに対するご計画と、その日の神の手配による導き確信しておられました。また、イエス様は、取税人と言う身分がによって妨げられる事はありませんでしたので、彼に躊躇なく近づく事ができました!ですから、イエス様は彼の収税所で立ち止りました!そして、マタイに対して、「『わたしについて来なさい』と言われ」ました!主はマタイの心をよく知っておられました!彼は金持ちでしたが、その心はとてもみじめで、不幸な毎日を送っている事を、イエス様はよくご存じでした!それから、マタイが自分の罪深さを痛感し、その罪が重荷となって悩み苦しみ、そのため義に飢え渇いているという事を、イエス様はよくご存じでした!
―3―
イ)イエス様について以前から知っていたマタイ
●また一方、マタイも疑いなくイエス様を知っていたに違いありません。なぜなら、マタイが仕事をしているカペナウムの町をイエス様はご「自分の町」(マタ9:1)と呼んで住まれ、その町をご自分のガリラヤにおける働きの中心地としておられたからです。イエス様の力強い宣教の言葉や奇蹟の数々がカペナウム中に、そしてその周辺地域に広まっていましたので(ルカ4:37)、同じ町で仕事をしているマタイの耳に入らない訳がありません。
●マタイはその満たされない心のゆえに、取税人ザアカイのように実際にイエス様の話を聞きに出向いていたのかも知れません。マタイは、この時点でイエス様が神であられるとは理解していないのかも知れませんが、少なくとも、イエス様が偉大な預言者で、神のお言葉を語るお方だという事を認めていたに違いありません。
●旧約の聖徒たちのように、マタイは自分が罪深い者で、その赦しが神のあわれみの中にのみにあるという希望を持っていた事でしょう!この出来事から後に、マタイも12弟子の他の者たちと同じように、イエス・キリストが神ご自身であられるという真理を完全に理解して信じる受け入れる時が訪れます!イエス様は、この時点で、マタイの悔い改めの心に応じて彼の罪を赦され、弟子として召され、そして後に使徒になるのでした!(ルカ6:15)
3)すべてを捨ててイエス様に従った取税人マタイ(5:28)
ア)義と救いに心の底から飢え渇いていたマタイ
●「『わたしについて来なさい』と言われた」イエス様の招きに対して、マタイはどのように応答したでしょうか?彼の応答は間髪入れない素早いものでした!その決断は、彼の人生を大きく変える事になりますが、彼はなぜそのように即断する事ができたのでしょうか?その答えは、マタイが以前から心の奥底で飢え渇いた事への答えが、自分を招かれたイエス様にあると確信したからでした!その心の奥底にあった飢え渇きとは、罪深い自分が赦され、義とされ、そして救われるという事でした!その答えをイエス様が持っておられるという事は、イエス様が説かれた教えの内容から明らかでした!前々回、『罪を赦す権威の意味するもの』というメッセージで、イエス様が「友よ、あなたの罪は赦された」(5:20)と宣言を取り上げました。マタイは確かにイエス様がその権威を持っておられるという事、そして自分の罪を赦されるばかりでなく義とされるという望みを、自分を招いたイエス様が確かに持っておられるという事を確信していたに違いありません!
●また、もう一つ重要な点は、このマタイに与えられた変化というものは、神の介入なしには起こり得ないという事です!この頑固で、強情で、押しの強い取税人が、へりくだってキリストの招きに応えたのですから!そしてまた、そのへりくだった態度はマタイその後の生涯に顕著に表れていました!マタイは、この出来事から20年から30年後には福音書を記しますが、その福音書の中で、自分に関しては、この出来事(マタ9:9)と12使徒の名前のリストのみに言及しているだけです!(マタ10:3)
―4―
テキストのルカ5:28では「すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った」とルカが記していますが、マタイの福音書では、マタイ自身は、何一つそのような事を記していません!何を表しているのでしょうか?彼のへりくだりです!喜んで全てを捨てそしてイエス様に従ったマタイは、富める若い役人とは著しく対照的でした!前回も触れましたが、主とその富める若い役人とのやりとりが次のように記されています。
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたし従って来なさい。」 10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである(マコ10:21-22)。
この点からしても、マタイの回心は本物でしたし、回心した者の特徴の一つはへりくだりでした!
イ)思い切って過去と決別したマタイ
●マタイの決断は、決して後戻りしない最終の決断でした!彼は、自分の職業を捨て去りました!マタイを雇っていた「大モケス」は、直ぐに、マタイの収税所に別の「小モケス」を後釜に据えた事でしょう。そういう事からも、マタイが後戻りをする道は完全に閉ざされていました!実に、マタイは思い切って自分の過去と決別しました!漁師であった他の弟子たちはどうだったでしょうか?彼らは生活のために、いつでも漁に戻る事ができる状態にありました。現に、イエス様の復活後に、彼らは一時漁師に戻った事がありました(ヨハ21:1-3)。
ウ)売国奴からキリストの使徒となるマタイ
●28節の「立ち上がり」という言葉とその後の「従った」という言葉に注目しましょう。原語を見ますと、「立ち上がり」が過去の一時点における行為で、「従った」が未完了の行為を表しています!その文法的な意味を汲んで訳しますと、マタイはイエス様から召された時、彼は過去に決別し、そしてイエス様に従い続けたのでした!マタイは、新しく慕うお方を、新しい志を、新しい愛情を、新しい考えを、そして新しい意志を経験し始めました!それを簡潔に言い表しますと、彼は自分の内に新しい創造を経験したのです!(2コリ5:17)裏切者、売国奴、略奪者、窃盗者、そして社会ののけ者、その罪深い者がキリストの弟子となり、使徒となり、そして福音の伝達者となりました!マタイはこの世の一時的な職業を失いましたが、神の永遠に続くご計画を得ました!マタイは物質的な所有物を失いましたが、それとは反対に、彼は「天に蓄えられてい(る)」、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継(ぎ)」ました!(1ペテ1:4)彼は罪深い友人たちを失いましたが、神の御子であるイエス・キリストとの交わりを得ました!
4)変革された人生を証しする取税人マタイ(5:29)
ア)傲慢な者たちではなく、社会ののけ者たちを招待
●変革された取税人マタイの真実を示す意義深い出来事が、29節に記されています!それが、マタイが「自分の家でイエスのために盛大なもてなし」をした事でした!
―5―
「大勢」の人々が招かれた事から、マタイが大きな家に住んでいた事が分かります!それは、マタイがいかに金を儲ける取税人の仕事をしていたかという事を示していました。マタイは、実に、その職業とその位から離れ去ったのでした!それ程、マタイが経験したキリストから得る喜びが大きくまた真実なものであったのかを示していました!その喜びの中身とは、自分の罪が赦され、自分の心が変えられるという解放を指しています!回心したマタイは、自分の喜びの根源であるイエス様を自分の友人知人の全てに伝えたくて、「大勢」の人々を招いたのでした!
●マタイは、誇り高い者、支配者層の者たち、宗教指導者たちを招きませんでした。勿論、逆に、そういう人々は社会のけ者からの招きを受け入れる事はしませんので、マタイの「盛大なもてなし」に来るはずがありません。そうではなく、マタイが毎日一緒に働きまた関わっていた社会ののけ者たちを招いたのでした!それが同業の取税人たちであり、またルカは控え目に「ほかの人たち」と伝えていますが、マタイ自身が書いた福音書でははっきりと「罪人たち」(9:10)と記しています。
●招かれた「ほかの人たち」とは、疑いなく、泥棒、チンピラ、ごろつき、酒飲み、売春婦たちを含んでいました!まさにそれらの人々こそ、イエス様ご自身が探しそして救うために来られた人々でした.!(ルカ19:10)恐らく、彼らの全てがイエス様の事については既に聞いていた事でしょう。そして、恐らく、その内の何名かは、マタイのようにイエス様を救い主として信じ受け入れる心を持っていた事でしょう!
イ)食卓が意味する受容
●ルカは、招かれた人々が29節の後半で、「ともに食卓に着いていた」と伝えています!何を意味しているのでしょうか?それは、ゆったりとした食事時間が確保され、長時間にわたって会食をしながら対話した事を伝えています!更に、皆さん、食事を共にするという事にはどういう意味が含まれているでしょうか?イスラエルにおいては、食事を共にするという事は互いに受け入れるという事を意味する重要な行為でした!ルカは、その福音書の中で、イエス様がご自分の働きを通して、よく人々と食事を共にしている姿を記録しています!(7:36、10:38-40、11:37、14:1、22:14、24:30)自分の家での「盛大な」な会食は、マタイの古い人生に終止符が打たれそしてまた彼の人生が新しく始まったという事を祝うだけでなく、救い主イエス様を来賓としてお招きして伝道の機会を持ったという事も祝っていました!このお祝いの食事会は、救い主イエス様が失われた罪人を受け入れられるという事を表す驚くべき光景を私たちに伝えています!
【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●国民の裏切者、売国奴と呼ばれる取税人を弟子としそして使徒とするというのは、当時の宗教指導者からすると全く考えられない事であり、受け入れられない事でした!取税人が悔い改めるのは難しい事であると決めつけるユダヤ人社会の中で、罪の重荷で苦しみ、赦しと義とされる事を望んでいた取税人マタイの心を知って、イエス様は彼に声をかけられ救いに導かれました!これが、キリスト教です!
―6―
神が目に留められる者とは、自分は正しい者だと考える傲慢な者ではなく、自分の罪深さや醜さを知り、へりくだって神に助けを求める者たちを指します!まさに、マタイがそうでした!マタイのへりくだりは、イエス様の救いにあずかって以来、一貫して彼の信仰の歩みの中に見られたものでした!
【適 用】 それでは、今回のメッセージの適用をしましょう。
●愛する皆さん、社会のくずやかすと呼ばれる者の中に、神が救いを備えられている魂がいる事に気付かれましたでしょうか?「人はうわべを見るが、【主】は心を見る」(1サム16:7)とあります。いかがでしょうか、あなたの人を見る目には偏りはないでしょうか?イエス様は「失われた人を捜して救うために来たのです」また「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」というキリストの中心メッセージは、あなたが信じているキリスト教の中心メッセージでもありますか?あなたは偏見無しに、人へキリスト教のメッセージを伝えていますか? それは、祈りましょう。
【締めの御言葉】
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです(ルカ5:32)。
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 1-5、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2009、 pp.329-322.)
―7―