『ねたみに燃えるのか、主のことばを賛美するのか?!』―逆らう者か、味方か、それ以外の選択肢はない―《使徒13:42-52/今回は13:45-52》
【復 習】
●前回のメッセージでは、ピシディアのアンティオキアのユダヤ人会堂に於いて、初めてイエス・キリストの福音が伝えられた時、当初、人々は四つの前向きな反応を示しました。一つ目が好意的な反応(13:42)、二つ目が積極的な反応(13:43a)、三つ目が進んで告白する反応(13:43b)、そして四つ目が継続して求めるという反応でした(13:44)。それらは、いずれも、肯定的な反応ばかりに見えました。
●前回、特に学ばせられた点は、人が「福音を信じます」と告白した時に、その人が本物のキリスト教信仰を持つに至ったかどうかについては、その信じた瞬間に判別できるものではないという事でした!信じた人が、その後、「神の恵みにとどまる」事によって(使徒13:43)、初めて、その人が本当に信じ、そして救われた事を判別する事ができるという事でした!ここで決して忘れてはならない重要点は、キリストを信じる者が「神の恵みにとどまる」事ができるのを「聖徒の堅忍」と言いますが、その「聖徒の堅忍」は「神の保持」によって守られており、更にその下には「神の堅忍」という土台が据えられている事によって成り立っているという事でした!(「親思う心にまさる親心」/吉田松陰)
【序 論】
●さて、『明暗を分ける福音』というテーマの二回目で且つ締めくくりの今回は、いったん「福音を信じます」と告白した人々が、一週間後、どのような反応を示したのかについて、その否定面と肯定面に目を向けながら、御言葉の真理を学びます。人の真の救いとは何か、福音を退ける人の意志と責任とは何か、人の救いにおける神の主権による選びとは何か、そして全ての人が直面する命か死かの選択とは何か、それらいずれも重要な点について学ぶ事にします!
●今回のメッセージの主題は『ねたみに燃えるのか、主のことばを賛美するのか?!』で、副題が「逆らう者か、味方か、それ以外の選択肢はない」です。解き明かされる御言葉の真理に期待を寄せましょう!
【全体のアウトライン】
[1]力ある教会の特徴(13:1-13)/済
[2]イエスの福音を宣べ伝える(13:14-41)/済
[3]明暗を分ける福音(13:42-52)/今回(2回目/最終回)
【今回のアウトライン】
[3]明暗を分ける福音(13:42-52)
1)福音に対する初めの反応(13:42-44)/済
2)福音に対する後の反応(13:45-49)
ア)ユダヤ人の否定的な反応(13:45-47)
イ)異邦人の肯定的な反応(13:48-49)
―1―
3)福音に対する反応の結果(13:50-52)
ア)宣教者を迫害して追放するユダヤ人たち(13:50)
イ)強情で不信仰の中に取り残されたユダヤ人たち(13:51)
ウ)「喜びと聖霊に満たされていた」真の信仰者たち(13:52)
【本 論】
[3]明暗を分ける福音(13:42-52)
2)福音に対する後の反応(13:45-49)
ア)ユダヤ人の否定的な反応(13:45-47)
―ユダヤ人たちのねたみと冒涜(13:45)―
●先週の安息日とは打って変わって、驚くべき逆の反応が現れました。45節では、「しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え(た)」と伝えています。ユダヤ人たちがそのような態度を取った原因が、実に「ねたみ」であったという事を聖書は告げています!神の救いがユダヤ人と同様に異邦人にも与えられるという事に、ユダヤ人は憤慨したのです!46節から48節で、三回にわたって記されている「異邦人」という言葉で、そう判断する事ができます!(I see!)
●旧約聖書に記録された預言者ヨナが、救いに関して、人種的に大変偏った態度を示した最古の例です!アッシリヤの首都ニネベという異邦人の町に対して、自分たちの悪を悔い改めるように神からのメッセージを語るよう預言者ヨナは神から指示されました。さもなければ、ニネベは滅ぼされるという神からの警告でした。しかし、彼はニネベとは全く逆の方角のタルシシュに逃げました。その理由は、もし彼がニネベに神の言葉を伝えると、ニネベの人々が悔い改めて神に立ち返るようになる事が分かっており、そうなる事をヨナが憂えたからでした!神がヨナを強制的にタルシシュ方向からからニネベへ方向転換させ、そしてご自身の悔い改めのメッセージを語らせました!すると、王をはじめ、人から家畜に至るまで断食して悔い改めるよう布告がなされて、ニネベの国民全体が神の前に悔い改めました。すると、ヨナはどういう反応を示したでしょうか?彼は、怒りまくりました!彼のその時の気持ちを代弁するとこうです。「神様、だから言ったでしょう。悔い改めを呼び掛けると彼らは悔い改めて神に立ち返るって・・・、異邦人なんて救われなくたっていいではないですか・・・」、と。そう考えていたヨナは、ニネベの人々の悔い改めを見、神が彼らを滅ぼそうとする事を止められたことに怒り、ついにはヨナ自身が死のうと思った程でした!(ヨナ4:1-3)(Wow)救いにおけるひどく偏ったユダヤ人の人種的な差別が見られます!ユダヤ人こそが神を敬い、神に愛され、神に選ばれている優れた民族だという偏見です!
●軽蔑の対象である異邦人にまでも、まことの神の救いの祝福が及ぶという事ほど、ユダヤ人を激怒させるものはありませんでした!(Wow! & horrible!)多くの異邦人がパウロの話しを聞きに来た事が、ユダヤ人たちを尋常ならぬ「ねたみに燃え」させてしまいました!使徒の働きにおけるユダヤ人の「ねたみ」というものは、今回が初めてではありません!使徒5章において、「エルサレムの付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて」、使徒たちの前へ「集まって来た」のですが、「その全部がいやされた」という事実に、ユダヤ最高権力者たちが直面させられました。(続く)
―2―
すると、「大祭司とその仲間たち」は、神の御業に感謝するのではなく、むしろ「ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちに手をかけて捕らえ、彼らを公の留置場に入れた」のです!(使5:16-18)
●ピシディアのアンティオキアのユダヤ人たちは、「ねたみ」に駆られただけではありません。45節の中盤に記されていますように、彼らは、「パウロが語ることに反対し」ました。この「反対し(た)」という言葉は、ギリシャ原語によりますと、未完了形で記されていますので、「パウロが語ることに反対し」続けて、そしてそうする事をする意義を唱え続けたのです!そして更に、そのユダヤ人たちはそれでも気が済みませんでしたので、45節の末尾に記されていますように、パウロを「口汚くののしった」のです!この「ののしった」という言葉は、原語では、神を「冒涜する」という言葉が使われています!(I see!)という事は、彼らは「パウロの語ることに反対し(た)」だけでなく、その議論の中で、神とキリストについて邪悪な事を言う、神とキリストを冒涜する言葉さえも発していたという事なのです!という事は、彼らは、更にどのような深刻な罪を犯していたのでしょうか?彼らは、自分たちにとって唯一の救いの希望である神を退けてしまっているのです!(Wow! & horrible!)
●ここで、彼らが一週間前に表明した信仰告白について振り返る事にしましょう。彼らは、パウロとバルナバに対してどういう反応を示していましたか?42節と43節が、それを物語っていました。彼らは二人に対して、「次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼(み)」ましたし、「会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人・・・たちが、パウロとバルナバについて来たので、二人は彼らと語り合(った)」と伝えています。その彼らが、神とキリストとを冒涜しましたので、彼らの信仰は本物でなかったという事が明らかにされました!というのも、本当に救われた人は、神を冒涜する事がないからです!1コリント12:3は、何と告げているでしょうか?神を本当に信じている者は、「イエスは、のろわれよ」とは言わない、と!異邦人に対するユダヤ人の盲目で理不尽な偏見は、彼らの救い主、彼らの地上の王国、そして天国を失わせる事となりました!
―パウロとバルナバの反応(13:46-47)―
●一方、46節に記されているパウロとバルナバの対応に目を留める事にしましょう。彼らの激しい怒りに対して、「パウロとバルナバは」、勇気を持って「大胆に語(る)」事によって、その議論に終止符を打つ事となります!二人が初めに告げた事は、「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなりませんでした」という点でした!神の救いのご計画というのは、まずユダヤ人に対してその救いが宣べ伝えられるべきだというものでした!その点については、イエス様ご自身と使徒ペテロや使徒パウロのそれぞれの言葉によって、確認しましょう。
●イエス様は、「カナン人の女」が悪霊に取りつかれた娘の解放を願って来た時に、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」ときっぱり語られ(マタ15:24)、その願いを断られました!(Wow)勿論、イエス様の救いは異邦人も含んでいましたが、異邦人への伝道は後々に使徒たちによってなされるという事はよくご存知でしたので、地上の三年半という短い宣教期間の優先順位はユダヤ人でした。しかし、この「カナン人の女」の信仰の素晴らしさにイエス様が応答されて、その娘を解放されました。しかし、どの民族よりも、福音伝達の優先順位はユダヤ人でした!また、十二使徒を宣教に遣わされる時にも、「異邦人の道に行ってはいけません。
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また、サマリヤ人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と命じられました!(マタ10:5-6)また、死から復活されたイエス様は、使徒たちに対して、「『罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります」とその宣教の優先順序が語られました!(ルカ24:47)宣教はまず、イスラエルの首都エルサレムのユダヤ人たちからなされるべきでした!
●一方、ペテロはどうだったでしょうか?彼は、ユダヤ人たちに対して次のように語りました。「神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなたがた一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです」(使3:26)、と!そしてまた、使徒パウロは、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」、と語りました!(ロマ1:16)福音宣教は、ユダヤ人へ宣べ伝えられる事が優先されました!パウロは、異邦人へ遣わされた使徒でしたが(ロマ11:13)、それでも彼は、ユダヤ人を優先して福音を宣べ伝えました!(I see)パウロが異邦人の町に入って伝道する時には、まずはユダヤ人に福音を語り、そしてその救われたユダヤ人の協力を得て異邦人たちへ証しするのでした!(I see)
―福音を退けるユダヤ人に対するパウロの宣告(13:46b)―
●46節の中盤で、福音を退けたユダヤ人に対するパウロの宣告が記されています。パウロは何と言っているでしょうか?「あなたがたはそれを拒んで」すなわち福音を「拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています」と!(Wow!)自分たちが、自分たち自身を「永遠のいのちにふさわしくない者」だと決断したのです!ユダヤ人は、自分たち自身に対して判決を下したのです!神に選ばれた民族であるユダヤ人は、幾世紀にもわたって救い主を待ち望んで来て後に、いざ救い主が来られると、その救い主と救いの恵みとを退けたのです!ヨハネの福音書1:11が、伝えている通りでした。「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」、と!(Wow!)悲劇にも、彼らは、自分たちは選ばれた民族だというプライドや、自分たちは正しい者だと言う自己義、利己的な愛のゆえに、恐ろしい代価を払わなければならない事になります!(Wow!)
―神の救いにおける主権と信じる事を拒絶する人の責任―
●この聖書箇所は、救いにおける人の責任について、聖書の重要な真理を教えています!地獄の滅びに至る全ての人のように、このピシディアのアンティオキアの信じようとしないユダヤ人たちは、彼ら自身の不信仰のゆえに、「自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めた」のです!ヨハネの福音書3:18には、次のように記されています。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである」、と!ですから、福音を信じる事を拒絶する道を選ぶなら、その人は、永遠の命から自分たちを締め出す道を選び取ってしまう事となります!
●イエス様は、信じようとしないユダヤ人たちへ、次のように語られました。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」、と!(ヨハ5:40)そしてその後で、次のようにも語られました。「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです」、と!イエス様は、彼らに明確に告げています!(ヨハ8:24/新改訳第三版)(続く)
―4―
地獄へ行って滅びるというのは、福音を拒絶する事また福音を信じない事によってもたらされる結果です!それゆえ、信じない魂は、その責任を全く自分自身へ負わせる事となります!救い主を個人的に信じ受け入れないという決断によって、その人が自分の責任で滅びをもたらす事になるというのは、聖書の教えです!
●それと同時に、その教えは、神が人の救いにおいては完全に主権を持っておられ、神が救おうと願われる者を救われるという聖書の教えとは、全く矛盾はしないのです!その二つは、聖書の中で、等しく保たれている真理です!この両方の真理が、今開いている使徒13:46の中盤と13:48の後半に記されています。46節では、「あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています」と告げ、48節では、「永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った」と告げています!(13:48)
●福音を拒んで地獄の滅びに至るのは、その信じない人の責任です!と同時に、福音を拒まずに受け入れる者とは、神の主権によって永遠のいのちに定められた人々である事を示しています!この二つの否定しようのない真理は、人の目にとっては、相反するものとして映ります。それは、限度ある人の理解を超えるものであるからです!神によって永遠の命に定められていない人と、定められている人がいる・・・。定められなくて永遠の地獄の滅びに至る人と、定められて永遠の天国に至る人がいる・・・。それは、人間の公平平等な感覚では、人の理解を超えるものですので、その点について人は当然悩みます!永遠の滅びに関する人の責任と、神の選びによって永遠の天国へと招かれる神の主権に関する説明については、後の48節で、その詳細を取り上げる事にします。
―福音は異邦人へ(13:46b-47)―
●ユダヤ人社会から拒絶されたパウロとバルナバは、46節の終盤で、「見なさい。私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」と彼らに告げました。そう語る根拠として、47節において、二人はイザヤ49:6を引用しました。「主が私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てまで救いをもたらす者とする』」、と!この「あなた」とは、救い主イエス・キリストを指しています!神の救いとはもっぱらユダヤ人たちだけのものであるという狭く偏った考え方というのは、旧約聖書の中においてでさえ、一つも語られていません!旧約聖書においても、救い主は、ユダヤ人と同様に、明らかに異邦人のためにも送られるという事を教えています!イザヤ42:1には、「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う」と記されています!使徒26:22-23には、「26:22・・・私(パウロ)は・・・キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです」と記されています!それゆえ、異邦人の救いに対して敵意と否定的な反応を示すピシディアのアンティオキアのユダヤ人たちが、聖書の真理に逆らっている以上、彼らが救われて義とされる事はありませんでした!
イ)異邦人の肯定的な反応(13:48-49)
●次に、48節と49節の異邦人の肯定的な反応に移りましょう。ユダヤ人たちの敵意とは裏腹に、「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した」、と聖書は伝えています!(続く)
―5―
「これを聞いて喜び」とありますが、「これ」とは何を指しているでしょうか?それは言うまでもなく、異邦人にも神の救いが与えられるという福音を指しています!この福音は「ユダヤ人にとってはつまずき」となり(1コリ1:23b)、異邦人には、48節の冒頭に記されていますように、「喜び」をもたらしました!このピシディアのアンティオキアの異邦人たちは、「主のことばを賛美し」ました!「そして、永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入(り)」ました!
●この「永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った」というお言葉は、救いにおける神の主権について最もはっきりと宣言している聖書箇所の一つです!聖書は、全くためらわずに、救いにおいて、人が神を選ぶのではなくて、神が人を選ぶものであると宣言しています!イエス様は、ヨハネの福音書6:65で、はっきりと「だれも」と仰せられています!「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」、と!使徒パウロは、コロサイ3:12、2テモテ2:10、そしてテトス1:1で、クリスチャンを「神に選ばれた者」と明記しています!また、テサロニケの書簡には、クリスチャンに対して、「神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです」、と明記されています!(2テサ2:13)また、「選ばれた者」という表現が、信仰者を表す言葉として、数多くの聖書箇所で用いられています!(マタ24:22、24、31/ルカ18:7/ロマ8:33)。そしてまた、ペテロは、信仰者を「選ばれた人たち」と呼んでいます!(1ペテ1:1)
●更に、神に選ばれた者が「いのちの書」に記されたのは(黙13:8)、何と「世界の基が据えられる前から」であった事を伝えています!(エペ1:4)48節には、「永遠のいのちにあずかるように定められていた」とありましたが、F.F.ブルースによりますと、この言葉は、「刻む、彫る」また「登録する、名簿に載せる」※という意味があると解説しています!神に選ばれ救われた人々の名前のリストが、「いのちの書」に刻まれて記され、天に登録されているのです!(詩69:28/ピリ4:3/黙3:5、13:8、17:8、20:12、15、21:27、22:19/出32:32-33/ダニ12:1)その名簿は不動のものであり、不変です!
―人の意志と神の選びのまとめ―
●人間の意志と神の選びという、この重大な聖書の教えは、私たち人間にとっては、とても測りがたくまた理解しがたいものです!しかも、これら二つの真理が、神のお考えの中ではどのように組み合わされているのかを理解する事なしに信じるよう命じられています!(Wow! & Wow!)誤りのない神の御言葉が、両方の真理を私たちに教え示している以上、私たちは、その両方の真理を同時に信じ受け入れる必要があります!
●聖書は、地獄に落ちる者たちは、「自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしてい(る)」がゆえに、永遠の地獄へ落ちるのだ教えています!(13:46)反対に、神に選ばれて天国へ行く者たちは、「永遠のいのちにあずかるよう」神によって「定められていた」がゆえに、救われて天国へ行くのだ教えています!(13:48)すなわち、人は自分の責任によって永遠の地獄の滅びに至るという事であり、また他方、人は神の主権による選びによって恵みと信仰が与えられ、救われて「永遠のいのちにあずかる」という事です!その両方の聖書の教えが真理であり、その両方の真理を、人は受け入れねばなりません!
―6―
―真の救いに伴うもの(13:49)―
●49節に注目しましょう。伝道というのは、真に救われた者にいつも伴います!真に救われた者は、自然に自分の信仰を分かち合う者となります!ピシディアのアンティオキアの回心者たちも、例外ではありませんでした!49節に記されていますように、彼らの熱心な証しを通して、「主のみことばは、この地方全体に広ま(り)」ました!いつもそうですが、救いは、「主のみことば」を通して与えられます!主の御言葉が説かれて初めて、救いは与えられるのです!(13:44、46、48)ピシディアのアンティオキアの町は、文字通り、霊的にひっくり返ってしまいました!それは、使徒パウロが神の言葉を宣言したからであって、他の何ものにもよりませんでした!
3)福音に対する反応の結果(13:50-52)
ア)宣教者を迫害して追放するユダヤ人たち(13:50)
●それでは、最後のポイントである福音に対する反応の結果について、50節から52節の御言葉に目を留めましょう。パウロとバルナバとの議論に太刀打ちできないとなると、ユダヤ人たちは、50節に記されている卑怯な手段に出ました。どういう手段でしょうか?それは、「神を敬う貴婦人たちや町のおもだった人たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出(す)」事によってでした。宗教的に尊敬されている女性たちや有力者たちを用いて町の権力者たちを説き伏せ、パウロとバルナバを追い出したのです。パウロは、この迫害について、後の第二テモテへの手紙で次のように言及しています。「アンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました。私はそのような迫害に耐えました。そして、主はそのすべてから私を救い出してくださいました」、と!(2テモ3:11)このように記されていますように、恐らく、パウロとバルナバは、棒やむちでひどく打ち叩かれたものと思われます。(I see!)確かに、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受け(る)」のです!(2テモ3:12)
イ)強情で不信仰の中に取り残されたユダヤ人たち(13:51)
●51節では、不信仰なユダヤ人たちに対して、悲しくまた恐ろしい結果が待っていました!「二人は彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオンに行った」、とあります!この行為の何が悲しくまた恐ろしい点なのでしょうか?それは、「足のちりを払い落として」という言葉に表れています!「足のちりを払い落と(す)」とは、険悪な行為を象徴する一つの方法です!イエス様が、70人の弟子たちを送り出す時に、次のように命じました。
10:10 しかし、どの町であれ、人々があなたがたを受け入れないなら、大通りに出て言いなさい。10:11 『私たちは、足に付いたこの町のちりさえ、おまえたちに払い落として行く。しかし、神の国が近づいたことは知っておきなさい。』10:12 あなたがたに言います。その日には、ソドムのほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです(ルカ10:10-12)。
パウロの時代のユダヤ人たちは、異邦人の地からイスラエル領に帰って来る時には、足の「ちり」を自分の国土へ持ち込まないよう十分注意を払っていました。パウロとバルナバがそのような行為を示したのは、このピシディアのアンティオキアのユダヤ人たちが、偶像礼拝をする異教の人々と何ら変わらない人々であるという事を示しています!(I see!)これ以上の断罪表現は、他にありません!これらユダヤ人は、強情な不信仰の中に取り残されたままにされました!(続く) ―7―
そして、キリストの再臨の日に行われる裁きの日には、天から下った硫黄や火によって完全に滅ぼされた「ソドム」やゴモラよりも、このピシディアのアンティオキアを含め、福音を拒絶した町々の方がより厳しい裁きに処せられる事となります!(Wow! & horrible!)
ウ)「喜びと聖霊に満たされていた」真の信仰者たち(13:52)
●しかし、どうぞ52節に注目下さい。そのかたくななユダヤ人たちとは対照的な姿が記されています。実に、麗しい光景について伝えられています!「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」、と!二人の宣教師は、約13Km離れたイコニオンの地へ向けて出発しましたが、彼らは、アンティオキアに二つの完全に異なるグループを残しました。偏見と妬みと怒りに満ちて福音を拒絶したユダヤ人グループと、「喜びと聖霊に満たされ(た)」信仰者グループでした!(Wow!)
―小結論―
●本日取り扱った13:45~52までのわずか12節の聖書箇所は、全ての人が直面して選ばねばならない事が何なのかを、はっきりと浮き彫りにして伝えています!全ての人は、イエス・キリストに信頼しそして救われるのか、それともイエス・キリストを退けそして永遠に罪に定められるのか、そのいずれかでしかないという事です!それ以外の選択肢はありません!
●イエス様は更に、その地上生涯で、人々に対して次のように語られました。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです」、と!(マタ12:30)イエス様は、究極的に何を言わんとしているのでしょうか?それは、人は、イエス・キリストの味方かそれとも逆らう者か、それ以外の選択肢はない、と語っているのです!(Wow!)
【まとめ&適用】
●今回のメッセージでは、福音に対する否定的な反応(13:45-47)と肯定的な反応(13:48-49)について取り上げました。そして、その真逆の反応が、いかに真逆な結果を生み出すのかについて学びました!人はイエス・キリストの味方かそれともイエス・キリストに逆らう者か、それ以外の選択肢はないという厳粛な結論でした!愛する皆さん、あなたはどの道を選択しますか・・・?あなたはイエス・キリストの味方で、キリストに従う者ですか?それとも、イエス・キリストに逆らい、キリストに従わない者ですか?あなたはキリストに従い、永遠の天国へ招かれる者ですか?それとも、キリストに逆らい、永遠の地獄の滅びの中へ進む者ですか? それでは、祈りの時をもちましょう。
【結 論】
■「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです」「(マタイ12:30)
[引用文献]
※ F.F.ブルース、新約聖書注解「使徒行伝」、聖書図書刊行会、1980、4刷、p.309。
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き13-28』(ムーディー出版、1996)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Acts 13-28, The Moody Bible Institute of Chicago, 1994, p.35-40.)―8―