『おののきつつ震え、子に口づけせよ!』―罪の債務証書は十字架に釘付けにされた――罪の債務証書は十字架に釘付けにされた― 《使徒13:1-52/今回は13:38-41》

【復 習】

『パウロはキリストの福音を宣べ伝える』というテーマで、今回が4回目のメッセージです。一回目が、17節から23節で、「イエス・キリストは、歴史の頂点である!」という視点から、歴史は無意味に繰り返しているのではなく、救い主イエス・キリストに向かっているのだという点を学びました!二回目と三回目は、24節から37節で、「イエス・キリストは、預言の成就そのものである!」という視点から、救い主イエス・キリストは旧約聖書の預言の成就そのものであり、それゆえ聖書の証言は、寸分も違わないものであるという点を学びました!聖書には誤りがなく、実に偉大な書物であり、御子イエス・キリストと共に、人類に対する神からの最大のプレゼントである事を再確認しました!

【序 論】

さて、四回目のメッセージである今回は、38節から41節までで、「イエス・キリストは、罪人を義とするお方である!」という視点から御言葉を学びます。ユダヤ人が個人としもまた国としても、ずっと悩み続けて来た罪の問題に対して、イエス・キリストが、完全な解決をお与えになるお方であるという重要な点を取り上げます!ですから、この救い主イエス・キリストに対して、人がどう向き合うか、その態度いかんによって、その人の永遠の祝福もしくは永遠の滅びが決定されるという事となります!

その真理をよく表している旧約聖書詩篇二篇の御言葉に、まずは目を留める事にしましょう。2節には、「なぜ 地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。主と 主に油をそそがれた者に対して」、と記されています。これは、人々が救い主イエス・キリストに対して逆らう態度を取る事を示している預言の言葉です!他方、11節の末尾には、「おののきつつ震え、子に口づけせよ」と記されています。この「口づけ」とは、征服されて服従を誓う王が勝利者の前にひれ伏して忠誠を表す行為を意味しています。神は全ての人々に対して、御子イエス・キリストに対して忠誠と服従を表すよう命じています!そうする者とは、続く12節の最後の行に記されていますように、「幸い」で、「すべて主に身を避ける人」だという事を意味しています!(I see!)いかがでしょうか、あなたは、イエス・キリストに対して忠誠と服従を表す者ですか。それとも、イエス・キリストに対して逆らう者ですか?

●今回のメッセージの主題は『おののきつつ震え、子に口づけせよ!』で、副題は「罪の債務証書は十字架に釘付けにされた」です。それでは、下記のアウトラインを通して、メッセージの大きな流れを押える事から始めて行きしましょう。

【全体のアウトライン

[1]力あるキリスト教会の特徴(13:1-13)/済

[2]キリストの福音を宣べ伝える(13:14-41)/今回(4回目)

[3]明暗を分けるキリストの福音(13:42-52)/次回

―1―

【今回のアウトライン】

[2]キリストの福音を宣べ伝える(13:14-41)/4回目

1)イエス・キリストは、歴史の頂点である!(13:17-23)/済

2)イエス・キリストは、預言の成就そのものである!(13:24-37)/

3)イエス・キリストは、罪人を義とするお方である!(13:38-41)

ア)罪の赦しと義認は律法によるのではなくてキリストによる(13:38-39)

イ)罪の赦しと義認をもたらすキリストを退ける者への警告(13:40-41)

【本 論】

ア)罪の赦しと義認は律法ではなくてキリストによって(13:38-39)

―日本人の罪意識―

2000年平成12年)5月1日、17歳の少年(高校3年生)が、愛知県豊川市で殺人事件を犯しました。当時68歳の主婦の頭と顔を中心に40ヶ所も刺して殺した上に、帰宅したその夫にも重傷を負わせて逃走しました。彼はその殺人の動機について、「殺人の体験をしてみたかった」※1と語っていました。それから二日後の5月3日、福岡県太宰府市の九州自動車道上を走行中の西鉄高速バスが、17歳の少年に乗っ取られ、乗客一名が殺され、五名が重軽傷を負わされました。彼は犯行の動機について、「何もかも気に入らなかった」、「別にバス乗っ取りでなくてもよかった。何かで目立ちたかった」※2と語っています。

●これら二つの事件の後に、5月4日付の朝日新聞に、カウンセラーの伊藤友宣(とものり)氏が次のようにコメントを寄せました。「人が人を殺してなぜ悪いかという問いに、大人は答えられない」、と。(Wow!)そしてまた、5月18日号の「週刊文春」では、ノンフィクション作家である高山文彦氏が、少年から、「『なぜ、人を殺してはいけないか?』と問われ、答えに窮したことがあった」、と伝えています※3。(Wow!)「人を殺してなぜ悪いか」と質問に対して、はっきりと答えを出せない国が日本なのです!日本の法律がそれを犯罪としているという事では、その少年を説得できないという事であろうと思われます。それは、聖書という基準のない国の姿をもろに表しているのではないか、と私は受け止めています!

●三回前のメッセージで、ロシアの文豪ドフトエスキーの「カラマーゾフの兄弟」という長編小説の中から、次の言葉を紹介しました。「もし、神がいないのなら、全てが許されている事だ」、と!もし人間が人間を創造された神を取り除くのなら、人間にとって、「殺人のどこが悪いのか」という質問に対してでさえ、明確な答えが出せないのです!しかし、聖書を基準とした社会は、次のように明確にその質問に答える事ができます!神の形に造られた人間を殺す事は、極刑に値する犯罪だと聖書で断定しているので殺人は悪いのです、と!そう明確に断言できる社会が、聖書を基準とした社会だと言えます!悪い事は悪い事ですと根本的な理由を持たせてくれるのが、実に、聖書なのです!「殺人は犯罪です」と、人間を創造されたまことの神が断言されておられる事が、そう判断する基準です!「主よ、日本をあわれんでください」、と祈らざるを得ません!

―ユダヤ人の罪意識―

●ユダヤ人は、心底、罪の脅威と罪がもたらす破壊とを知っていました!彼らは一生を通じて、個人としてもまた国家としても罪に執着していました。国民全員が、罪の赦しを求めたダビデの悔い改めの詩篇に表されている悲痛な叫び繰り返していました!(詩32、38、51)(続く)          ―2―

ソロモンは、「罪に陥らない人は一人もいません」という言葉をもって(1王8:46)、人々のその葛藤を簡潔に表しています!これから、個人並びに国家の罪について、いくつかの御言葉を引用して行きましょう。まずは、個人的な罪とその葛藤を取り上げましょう。罪を悔い改めていない時の自分や、また罪に圧倒されている自分を、ダビデは次のように表現しています。

32:3 私が黙っていたとき 私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました。32:4 昼も夜も 御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ 夏の日照りで乾ききったからです(詩32:3-4)。

38:3・・・私の罪のゆえ 私の骨には 健全なところがありません。38:4 私の咎が頭を越えるほどになり 重荷となって 担いきれません。・・・38:8 私は衰え果て 砕き尽くされ 心もだえて ほえ叫んでいます(詩38:3b、4、8)。

51:1 神よ 私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。51:2 私の咎を 私からすっかり洗い去り 私の罪から私をきよめてください。51:3 まことに 私は自分の背きを知っています。私の罪は いつも私の目の前にあります。51:4 私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に 悪であることを行いました。ですから あなたが宣告するとき あなたは正しく さばくときあなたは清くあられます。51:5 ご覧ください。私は咎ある者として生まれ 罪ある者として 母は私を身ごもりました。・・・51:10 神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください(詩篇51:1-5、10)。

・私は申し上げます。「【主】よ あわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから(詩篇41:1)。

●次に、国としての罪を取り上げましょう。

9:8 【主】よ。顔をおおう恥は私たちにあり、私たちの王たち、首長たち、および先祖たちにあります。私たちはあなたに対して罪を犯してきました。9:9 あわれみと赦しは、私たちの神、主にあります。まことに、私たちは神に逆らいました。9:10 私たちは、私たちの神、【主】の御声に聞き従わず、しもべである預言者たちによって神が私たちに下さったみおしえにも、従って歩むことをしませんでした。9:11 イスラエルはみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そのため、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいの誓いが、私たちの上に降りかかりました。私たちが神の前に罪ある者であったからです。・・・9:18 私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている都をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです(ダニ9:8-11、18)。

●罪とそれに伴う葛藤について、ソロモンやヨブは次のように簡潔にまとめて語っています。

・この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は(伝7:20/1列8:46)。

・きよい物を汚れた物から取り出せたらよいのに。しかし、だれ一人できません(ヨブ14:4)。(Wow!)

―3―

●更に、ヨブは、次のような事にまで言い及んでいます。

・25:4 人はどうして神の前に正しくあり得るだろうか。女から生まれた者が、どうして清くあり得るだろうか。25:5 ああ、神の目には月さえ輝きがなく、星も清くない。25:6 まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子はなおさらだ(ヨブ25:4-6)。(Wow!)

―この罪の葛藤に対する最も一般的な対応とは?―

●このように、ユダヤ人は個人にしてもまた国家にしても、罪とその罪意識とのゆえに葛藤し苦しんで来ました!それで、どうこの葛藤に対処して来たのかと言いますと、最も一般的な方法が、パリサイ人たちが行っていたものでした。それが、外面的に律法を厳格に守るというものでした!(I see!)それを新約聖書では何と言っていますか?律法主義です!しかし問題なのは、単なる人間の努力による律法主義は、もともと罪によって堕落した人の性質を抑制するには、何の力も発揮できないのです!それは、誰も負い切れない重荷を負わせるようなものだ、とイエス様や使徒たちは語っておられました!その律法主義について、イエス様と使徒たちは次のように述べています。

・しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない(ルカ11:46)。

・そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たち(異邦人改宗者たち)の首に掛けて、神を試みるのですか(使15:10)。

●パリサイ人たちが提唱していた律法主義とは、「人々には負いきれない荷物を負わせ」また「先祖たちも」また自分「たちも負いきれなかったくびきを」人々の「首に掛け(る)」事でした!なぜ、律法を守るという事が「負いきれない荷物」となったり、「負いきれなかったくびき」になるのでしょうか?パウロが、ガラテヤ人への手紙3章で書いている内容が、その最たる理由です。10節で、パウロはこのように説明しています。「律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります」と語っています(3:10a)。なぜそうなのかと言いますと、「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行いわない者はみな、のろわれる」という事だからです!(3:10b)「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行(う)」事ができる人はいるでしょうか?いません!律法を守る事によって救いを得ようと労する事は、不可能だという事を聖書は告げています!

●更に、ヤコブ2:10には、「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです」と記されています!(Wow)完全な人がいないように、完全に律法を守れる人はいません!律法を完全に守れない私たちに対して、律法による救いの道はないのです!

―それでは、いったい何が救いをもたらすのでしょうか?―

●再度、ガラテヤ人への手紙の3章から答えを求めましょう。まずは、11節と12節に注目しましょう。「3:11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる』からです。 3:12 律法は、『信仰による』のではありません。『律法の掟を行う人は、その掟によって生きる』のです」とあります。しかし実際問題、誰も律法によって生きる事はできません!なぜなら、前述しましたように、誰も律法を完全に守る事ができないからです!律法を完全に守れない私たちに対して、救いの道はないのでしょうか?                                             ―4―

●そこで、続く13節に目を留めましょう。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです」。律法を守れない私たちは、「律法ののろい」のもとに置かれた者なのです!別の表現をしますと、律法を完全に守れない私たちに対して与えられる罰を、「律法ののろい」と言っています!その「のろい」という罰を、救い主イエス・キリストが私たちの代わりに引き受けて下さったのです!どのように引き受けて下さったのでしょうか?「木にかけられ(る)」事によってです!すなわち、私たちが本来受けるべき「のろい」という罰を、イエス・キリストが私たちの身代わりとして十字架に架けられた事によって、私たちが罰せられなくても済むようにされたのです!すなわち、キリストが私たちの罪を償うために十字架で身代わりに死なれた事によって、私たちに対する神の律法の全ての要求を、代わりに完全に満たして下さったのです!これが、救いの重大なポイントです!

●この真理が、テキストの使徒13章38節後半から39節につながります!使徒の働きに戻りましょう。次のように記されています。「13:38・・・モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、13:39 この方によって」すなわちイエス・キリストを「信じる者はみな義と認められるのです」、と!イエス・キリストを救い主として信じる全ての人々の罪が全く赦されて、「義と認められる」のです!その真理を、コロサイ人への手紙は次のように記しています。物凄い迫力ある御言葉です!これは、当教会の第12週目の暗唱聖句にも掲載されている御言葉です。

2:13 背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、2:14 私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

●全ての人が神の律法に違反しており、神に対して、全ての人が到底支払う事のできない罪の負債を負っています!そして、罪の「債務証書」が一人ひとりに届けられています!そして、「罪の報酬は死です」とありますように(ローマ6:23)、全ての人が死刑宣告を受けている者なのです!(Wow! & Wow!)人間の方法によって助かる見込みはありません!神が負債者に対して何とかする以外に、人が助かる道はないのです!神が罪人に手を指し伸ばして下さらない限り、人が死刑宣告から助かる見込みはないのです!そこで、神は、御子イエス・キリストの十字架の犠牲の死を通して、私達への罪の債務証書の文面を全部こすり消し去って「無効」にし、私達への律法違反の全ての罪の赦しを完全に成し遂げて下さったのです!(Wow! & Wow!)

●そして、コロサイ人への手紙の御言葉のクライマックスは、「神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされ・・・た」というところにあります!十字架のイエス・キリストの頭上には「罪状書き」が掲げられていましたように(マタ27:37)、十字架刑に処せられる全ての犯罪人には「罪状書き」が、その十字架に釘付けにされていました。それは丁度、イエス・キリストを信じる者の「罪状書き」が「取りのけ」られて、全てキリストの「十字架に釘づけにされ(る)」事によって、キリストが私たちの罪の全ての罰を受けられたという事です!(続く)

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それによって、罪に対する神の正しい怒りを晴らされ、その怒りが鎮められ、その怒りがなだめられたのです!(Wow! & Wow!)驚くべき事に、救い主を殺害するというまさにその罪を赦すために、御子イエス・キリストが神への犠牲のいけにえとなったのです!そして、悔い改めて信じる全ての人の罪を完全に赦され、その人々に対する栄光と祝福への道が備えられたのです!(Wow! & Wow!)

―律法による解放ではない―

●この使徒13章のメッセージを取り次いでいる使徒パウロは、かつてパリサイ人でしたので、律法が誰をも罪から解放してくれるものではないという事を痛切に経験していました。彼は、その真実について、ローマ人への手紙3章で次のようにまとめて記しています。律法、信仰、救いについて、実に、素晴らしく解説しています(ロマ3:20-22)。

3:20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。3:21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。

「律法を行うことによっては神の前に義と認められない」罪人が、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって罪赦され、自由にされるという事を示した神の御言葉の約束です!

イ)罪の赦しと義認をもたらすキリストを退ける者への警告(13:40-41)

―悔い改めずに信じない罪人たちへの裁きの警告―

●ここから、パウロのメッセージはまとめの部分に入ります。40節41節に目を留めましょう。このパウロの締めくくりの御言葉で、イエス・キリストによって与えられる救いを退ける者に対する警告です。40節で、パウロは厳かに、「ですから、預言者たちの書に言われているようなことが起こらないように、気をつけなさい」と警告しました!「預言者たちの書に言われているようなこと」とは、悔い改めずに信じない罪人たちへの神の裁きを指しています!

―悔い改めずに信じない罪人たちへの裁きの例―

●それに続く41節で、その裁きに関する御言葉が、ハバクク書から引用されています。「見よ、嘲る者たち。驚け。そして消え去れ。わたしが一つの事をあなたがたの時代に行うからだ。それは、だれかが告げても、あなたがたには信じがたいことである」、と!

●ハバククの時代に神から語られたこの裁きというのは、ユダ族に対して起ころうとしていたものでした。その時代に、神は、邪悪な異教の国であるバビロンをご自身の道具として用いて、邪悪なユダ族が侵略されるという厳しい裁きを下そうとしておられました。それで、その裁きとは「信じがたい」程の大変なものでした。パウロはこの例を取り上げて、悔い改める事を退けそして主に従わない罪人たちに対して、旧約聖書に記された滅びについての御言葉を引用して、警告を与えたのでした!(I see!)

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【結 論】

―罪の赦しと永遠の祝福を選ぶのか、それとも裁きと永遠の滅びを選ぶのか―

●それではここで、今回のメッセージの結論をお伝えしましょう。パウロは、ここで、二つの道しか選べないのだという事を示しました!この地上の全ての人は、そのいずれかを選ばねばなりません!イエス・キリストによって与えられている救いを受け入れる事によって、罪の赦しと永遠に続く無上の祝福を得るのか!それとも、イエス・キリストの救いを退けて、裁きと永遠の滅びに至るのか!そのいずれかの道しかないのです!聖書の神は恵みと愛に満ちているお方ですが、だからと言って、罪を裁かれるご自身の義と聖さとを取り消す事はなされないのです!(Wow!)神は、ヘブル人への手紙で、次のような厳粛な御言葉をもって、私たち一人ひとりに対して警告を与えています。「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう」、と!(ヘブ2:3a)それでは、祈りましょう。(I see!)

【まとめ&適用】

●それでは、最後に、まとめと適用をしましょう。私たちは、今回のメッセージで、二つのポイントを学びました。一つ目は、38節39節で、罪赦されて義と認められるのは、律法ではなくてキリストによって与えられるという事でした!完全な人がいないように、完全に神の律法を守れる人はいません!それゆえ、律法による救いの道はないのだという事でした!罪赦されて義と認められるのは、身代わりの十字架の救いの御業によって、罪の債務証書を取り除いて下さったイエス・キリストによるものだという事でした!

●二つ目は、40節41節で、罪の赦しと解放をもたらすキリストを退ける者への警告でした!救い主を退ける事によって永遠の滅びを刈り取る道を選ぶのか、それとも救い主を受け入れて永遠の祝福を刈り取る道を選ぶか、そのいずれしかありませんでした!さて、あなたはどちらを選ばれますか? それでは、祈りましょう。

[参考&引用文献]

※1 http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news2/2000/syuhu.html

※2 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/111201/waf11120110010018-n3.htm

※3 http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2000/ronbun/07-r4.html

 ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き13-28』(ムーディー出版、1996)(John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Acts 13-28, The Moody Bible Institute of Chicago, 1994, pp.25-27.)

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