『あなたは人間を捕るようになる 』 ―全能であられ、聖であられ、あわれみ深いイエス・キリスト― 《 ルカ 5 :1- 11 今回は 5 :6b- 11 》
【序 論】
●『イエス様の神性の特徴』というテーマの第二回目のメッセージで、後半の3ポイントを学びます。ガリラヤ湖における漁は夜間に行われるべきものでしたが、イエス・キリストは昼間の時間帯に、これからご自分の弟子となる者たちが「おびただしい数の魚」(5:6)を収穫するよう導かれました。この奇蹟を通して、聖書は、人がキリストの弟子となる過程に見られる重要な霊的ステップを示しています。
●メッセージの主題は『あなたは人間を捕るようになる!』で、副題が「全能であられ、聖であられ、あわれみ深いイエス・キリスト」です。紐解かれる霊的真理に期待して、聖書を開きましょう。
【全体のアウトライン】
[1]イエス様は真理の源である(ルカ5:1-3)/済
[2]イエス様は全知である(ルカ5:4-6a)/済
[3]イエス様は全能である(ルカ5:6b-7)/今回
[4]イエス様は聖である(ルカ8-10a)/今回
[5]イエス様はあわれみ深い(ルカ5:10b-11)/今回
【今回のアウトライン】
[3]イエス様は全能である(ルカ5:6b-7)
1)「網が破れそうになった」(5:6b)
2)魚で一杯になった二艘の舟が「沈みそうになった」(5:7)
[4]イエス様は聖である(ルカ8-10a)
1)奇蹟の漁を通して神と向き合ったペテロ(5:8a)
2)イエス様に対する敬称が「先生」から「主」へと代わるペテロ(5:8b)
3)自分の罪深さを悟るペテロ(5:8c)
4)一緒にいた者ともう一艘の仲間たちもペテロと同様であった(5:9-10)
[5]イエス様はあわれみ深い(ルカ5:10b-11)
1)疎外感を抱くペテロ、和解をもたらすイエス様(5:8、10b)
2)イエス様のあわれみは委縮した者を人間を捕る者とする(5:10c)
3)ペテロ、ヤコブ、ヨハネの弟子としての正式且つ永久の召し(5:11)
【本 論】
[3]イエス様は全能である(ルカ5:6b-7)
―1―
1)「網が破れそうになった」(5:6b)
●前回のメッセージで、魚の群れの位置をピンポイントで知っておられたという事が、イエス様の全知性を表していたという事を学びました。それに続いて今回、前代未聞の圧倒される程の漁獲量は、イエス様の全能性を表していました!ペテロと他の漁師たちは、6節の後半で、「おびただしい数の魚」に驚き、衝撃を受けました!彼らは、これは人間が説明できるようなレベルではない事を知りました!こんな事は今まで起こったためしがありません!これだけの漁獲量に近いものは、これまでどこにも見られません!イエス様がこんなにも「おびただしい数の魚」を一つ所に集められ、そしてその大量の魚によって彼らの「網」が「破れそうになった」事を通して、彼らは神の御力の凄まじさを目の当たりにしたのでした!
2)魚で一杯になった二艘の舟が「沈みそうになった」(5:7)
●ペテロ並びに「一緒にいた者たち」は、7節で、必死になって「別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図し」ました。ペテロと「一緒にいた者たち」とを助けるべく、もう一艘の仲間たちが急いでやって来て、必死になって網を「引き上げ(る)」のを手伝いました。するとその結果、「二艘の舟」は「魚」で「いっぱいに」になりました!余りにも「おびただしい数の魚」の重さによって、「両方」の舟とも「沈みそうに」なった程でした!それは、収穫した魚がどれほど大量のものであったのを示していました!
―神の天地創造と主権によるご支配!―
●彼らは、神がこの世界を創造されただけでなく、その後、この世界をご支配しておられる事を旧約聖書によって知っていました!その真理について、いくつかの旧約聖書の御言葉を取り上げましょう。ネヘミヤは次のように祈りました。「9:6 ただ、あなただけが【主】です。あなたは天と、天の天と、その万象を、地とその上のすべてのものを、海とその中のすべてのものを造られました。あなたはそのすべてを生かしておられます。天の軍勢はあなたを伏し拝んでいます。 9:7 あなたこそ神である【主】です」(9:6-7a)、と!また、詩篇作者は、被造物に対する主の主権的な支配を次のようにほめたたえています。
104:24 【主】よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。地は、あなたの造られたもので満ちています。 104:25 そこには大きく、大きく広い海があり、這うものや生き物は数え切れません。小さなものも大きなものも。 104:26 そこを船が行き交い、あなたが造られたレビヤタンも そこで戯れます。 104:27 彼らはみな あなたを待ち望んでいます。あなたが時にかなって 食物をお与えになるのを。 104:28 あなたがお与えになると 彼らは集め あなたが御手を開かれると 彼らは良いもので満ち足ります。 104:29 あなたが御顔を隠されると 彼らはおじ惑い 彼らの息を取り去られると 彼らは息絶えて 自分のちりに帰ります。 104:30 あなたが御霊を送られると 彼らは創造されます。あなたは地の面を新しくされます。
●神は、イザヤ50:2bで、「見よ。わたしは叱って海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える」と宣言しておられます。異教の王であるネブカドネツァルは、被造物を支配しておられる神の主権による支配を、次のように認めていました。「地に住むものはみな、無きものと見なされる。この方は、天の軍勢も、地に住むものにも、みこころのままに報いる。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない」(ダニ4:35)、と! ―2―
●このガリラヤ湖において、最も漁に適さない昼間の時間帯に、キリストの命令に従って「深みに網を下ろして魚を捕りなさい」という命令に従っただけで、「おびただしい数の魚」が彼らの網の中にかかりました。その「網」を引き上げた結果、網自体が「破れそうにな(り)」且つ「魚」で「いっぱいに」になった「両方」の舟が「沈みそうに」になりました!イエス様のなさるその奇蹟の現実を目の当たりにしたペテロと他の漁師たちは、8節に記されている通り、イエス様の「足もとにひれ伏し」ました!彼らは衝撃を受け、仰天し、そして恐れました!ペテロをはじめこれらの漁師たちは、詩篇62:1の御言葉の真理の確かさが迫って来たに違いありません!どのような真理でしょうか?それは、「力は神のものである」、という真理です!すなわち、イエス・キリストは全能の神であるという真理を彼らは身をもって体験したのでした!
[4]イエス様は聖である(ルカ8-10a)
●『イエス様の神性の特徴』の第四番目は、イエス様は聖であるという点です。この点について、引き続き御言葉を掘り下げて行きましょう。
1)奇蹟の漁を通して神と向き合ったペテロ(5:8a)
●8節の冒頭で、「これを見たシモン・ペテロは」と記されていますが、それは、彼が真っ昼間の大漁という奇蹟の中に、イエス様が全知全能の神であられるという証拠をペテロが「見た」事を指しています!そこで、ペテロは自分が聖なる神と向き合っているという事に圧倒されました!ペテロは、自分が真の神ご自身を見ているのであれば、真の神も自分自身を見ているのだという事に十分気づかされました!真の神が湖の深い所まで見る事ができるのであれば、そのお方は自分の心の深い所まで見る事ができるという事に気づかされました!自分自身が神の前で、完全に露わにされているという事を強く感じました!そのペテロが取った行動が、8節の前半に記されています。彼はすぐに、イエス様の「足もとにひれ伏し」ました!そして、「主よ。私から離れてください」と言い、次に「私は、罪深い人間ですから」と告白しました!
2)イエス様に対する敬称が「先生」から「主」へと代わるペテロ(5:8b)
●ペテロはイエス様に向かって、もう「先生」(5:5)という人間レベルの尊敬の言葉を使う事はありませんでした!8節の中盤に記されていますように、イエス様への敬称の言葉が、「先生」ではなく神を意味する「主」という言葉に代っていました!信心深いユダヤ人であるペテロは神のみが礼拝されるべき事を知っていましたので(4:8/申6:13)、彼はすぐさま「イエスの足もとにひれ伏して」礼拝の姿勢を取りました!
3)自分の罪深さを悟るペテロ(5:8d)
●会堂におけるイエス様の優れた教え、悪霊を追い出す力、義理の母親を癒す力、そしてとりわけ、人間のレベルでは説明のつかない仰天する程の魚の収穫、それらの超自然の御業は、ペテロをイエス様の願っているところへと導きました!イエス様がペテロに願っているところとは何を指しているのでしょうか?
―3―
それは、彼が、「私は、罪深い人間です」と認識する事でした!このガリラヤ湖の出来事が起こる前に、ペテロがイエス様について思っていた事が何であるにせよ、今となっては、イエス様が神であるという事に疑いを持ちませんし、主の臨在の中で自分が全くふさわし者ではないという事を痛いほど認識しました!例えますと、ルカ18章の取税人のようです。彼は「宮」(18:10)で、自分の罪深さに押しつぶされながら、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて・・・『神様、罪人の私をあわれんでください』」(18:13)と祈りました!ペテロも丁度この取税人のように、聖いイエス・キリストの臨在の中で、自分の罪深さに気付かされたのでした!
―神の臨在の中に置かれた人々の反応―
●ペテロが恐れそして悔い改めたというのは、神の臨在の中に置かれた人々にとってはよく見られる姿です!アブラハムはいかがでしょうか?彼は主の御前で、「私はちりや灰にすぎません」(創18:27)と告白しました。ヨブはへりくだって、「42:5 私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目であなたを見ました。 42:6 それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で」(42:5-6)と語りました。サムソンの父親マノアが、「主の御使い」(士13:22)に出会って後、実際には受肉前のキリストでしたが、彼は妻へ次のように言いました。「私たちは必ず死ぬ。神を見たのだから」(士13:22)、と!神の聖い臨在に触れるという事は、それ程、自分の不完全さや罪深さを痛感させられるものだという事を示しています!
●イスラエルの民が、「みな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた」時、「民は見て身震いし、遠く離れて立って」いました。そして、「20:19 彼らはモーセにどうか、あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神.が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たち死んでしまいます」(出20:18-19)と言いました!民は、自分たちが聖なる神のお言葉を直接聞くにはたえられない罪深い者だという事を強く感じていました!これまで何回か取り上げて来ましたが、預言者イザヤが天の神殿における神の幻を見た時、彼は恐れの中で次のように叫びました。「ああ。私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから」(6:5)、と!エゼキルは、彼が神の幻を見た後で「ひれ伏し」(エゼ1:28b)ました!また一方、使徒ヨハネが栄化されたキリストを見た時も、彼は「死んだ者のように、その足もとに倒れ込(み)」(黙1:17)ました!神の臨在に触れるという事は、実は、こういう事を指しているのです!
4)一緒にいた者ともう一艘の仲間たちもペテロと同様であった(5:9-10)
●ルカ5章に戻りますが、この昼間の時間帯における大漁の収穫を真の当りにして「驚いた」のはペテロだけでしたでしょうか?彼と「一緒にいた者たちもみな」同様に圧倒されていた事が9節に記されていますし、10節では、もう一艘の「仲間」の舟に乗り込んでいた者たちも同じでした!ルカは、その漁師仲間たちの中から、特に二名の名前を取り上げて記しています。「ゼベダイの子ヤコブ」と「ヨハネ」です。ペテロを含め、この三名は、使徒たちの中でも核となる人物たちでした!
―4―
●この三名は、その後、もっと畏敬の念を起させる現象を目の当たりにする事になります!それが、変貌の山における栄化されたキリストの神としての輝かしいお姿でした!マタイの福音書は、次のように伝えています。「弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くな(り)」(マタ17:2)ました!「そして」、その変貌した姿に引き続き、「モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合ってい」ました!神の啓示による物凄い現象が繰り広げられて行きました!そして更に、「光り輝く雲が彼らをおお(い)雲の中から、『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』という声がし」(17:5)ました!この三名の「弟子たち」反応はどうだったでしょうか?彼らは、「この声を聞くと、ひれ伏して非常に恐れ」(17:6)ました!彼らは物凄い衝撃を受けて、「ひれ伏(す)」以外に反応のしようがありませんでした!神の聖さそしてその臨在に触れる罪人が取り得る反応とは、そういうものなのです!
[5]イエス様はあわれみ深い(ルカ5:10b-11)
●さて、最後のポイントですが、『イエス様の神性の特徴』の第五番目は、イエス様はあわれみ深いという点です。この点についても、引き続き御言葉を掘り下げて行きましょう。
1)疎外感を抱くペテロ、和解を求めるイエス様(5:8c、10b)
●ペテロは自分の罪深さを悟り、聖なるキリストの臨在の中で恐れ、彼は、「私から離れてください」と8節の中盤でイエス様に語っていました。皆さん、あなたはこれまで、イエス様に対して「私から離れてください」と語った事はありますか?「あわれんで下さい」と語った事はあると思いますが、イエス様に対して「離れてください」とまで語った方はいるでしょうか?自分の罪深さにあきれてしまって、「どうぞ主よ、私を戒めて下さい」と祈った方はいるかも知れませんが、「主よ。私から離れてください」とまでは言わないのではないしょうか?ペテロは自分の罪深さが露にされて、それが疎外感や孤独感にまで至ってました!しかし逆に、イエス様はペテロをご自分へより近づけさせようとしているのです!人はその罪ゆえに自分は最も疎外されていると感じるまさにその時に、救い主は罪人との和解を求めて来られるのです!
●ダビデは、詩篇51:17で、「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません」と記しました!預言者イザヤを通して、神は次のように「仰せられ」ました。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである」(57:15)、と!
●ペテロとヤコブとヨハネが自分たちの罪深さよって打ちのめされ、その場から逃げて身を隠したいと思うほど最も深い疎外感や孤独感に駆られている時、イエス様は御手を伸ばして彼らをご自身へ引き寄せられるのです!ガリラヤ湖におけるこの瞬間というものは、彼らにとっては本当に大切な悔い改めの時でした!先程取り上げましたイザヤですが、彼は聖なる神の臨在の中で自分の罪深さを嘆き、神に対して自分が全くふさわしくない者だと考えましたが、ペテロやヤコブやヨハネにしたのと同様な事を主はイザヤになされました!主は彼の罪を清めて赦す事を求められ、そしてご自分の預言者として人々へ遣わされる事を願われたのです!(イザ6:5-9)
―5―
●イエス様は、10節の後半で、ペテロを落ち着かせて不安を取り去るために、「恐れることはない」と語られました!ペテロにとってもまた彼の漁師仲間たちにとっても恐怖を抱く必要はありませんでした!ところで、神を正しく恐れるという事は、聖書が語っている大切な点です!申命記には次のように記されています。「あなたがたの神、【主】に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない」(申13:4)、と!神を尊ぶ思いから来る恐れすなわち畏敬の念からからくる恐れというものは、悪霊どもや神に背を向けている人々の恐れとは全く違.います!悪霊どもや背信者たちの恐れというのは、神の裁きを恐れて神の元から逃げ出そうとする恐れです!(参/黙6:15-17)一方、神への尊敬や愛や礼拝したいという思いから流れ出て来る恐れ(畏れ)というものは、信仰者を「あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神.」(2コリ1:3)にすがらせます!そして、その健全な恐れは神に仕えさせ、神に従わせます.!(申10:12-13/1サム12:24)そして更に、神への正しい恐れ(詩111:10/箴9:10)は知恵と礼拝(詩2:11)に至らせます!
2)イエス様のあわれみは委縮した者を人間を捕る者とする(5:10c)
●神のあわれみは、恐れの中にいて委縮している者たちを、10節の最後に記されていますように、「人間を捕る」者にするのです!「人間を捕る」の「捕る」という言葉は、「生け捕りにする」という意味の言葉です!ですから、10節の最後の部分を直訳しますと、イエス様はペテロに対して、「あなたは人間を生け捕りにするようになるのです」と語っているのです!彼ら漁師たちは、魚を殺す目的で漁をします。でも、これから残る生涯を、彼らは人間に命を与えるために「人間を捕る」ようになるのです!
●再度、イザヤですが、彼は主の聖なる臨在の中で、「ああ。私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから」(6:5)と言って、自分が滅ぼされるのを恐れていました。しかし、主から自分の罪の赦しをいただいて、神のお言葉を伝える者として遣わされる事になりました!(イザ6:8-11)一方、また使徒ヨハネですが、彼が栄化されたキリストを見た時に、彼は「死んだ者のように、その足もとに倒れ込(み)」(黙1:17)ましたが、「あなたの見たこと、今あること、この後に起ころうとしていることを書き記せ」(1:19)と命じられて、黙示録を書く事に召されました!神の恵みとあわれみは、裁きに対する恐れで委縮していたペテロやヤコブやヨハネを、失われた魂に対する宣教へと向けさせたのでした!ここで、大宣教命令の下地が敷かれたのです!
3)ペテロ、ヤコブ、ヨハネの弟子としての正式且つ永久の召し(5:11)
●この時、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三名は、キリストの弟子として正式且つ永久に召されました!それで、「彼らは」、11節にありますように、「舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った」のでした!(参/5:27、28、9:23、49、57、59、61、18:22、28、43)彼らにとってその頃というのは、彼らの地上の仕事の絶頂期にありましたし、またガリラヤ湖でかつて見た事のない魚の最大の収穫量にあずかった時でした。その時に、彼らは自分たちの漁業の仕事を捨て、全てを置いて「イエスに従った」のです!(参/ルカ9:23-25)
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【まとめ】 それでは、今回のメッセージのまとめをしましょう。
●自分が罪深くそして神の御前に全くふさわしくない者だと認め、イエス様が真理の源であり、全知であり、全能であり、聖であり、またあわれみ深い神ご自身であるという事を受け入れる者たちに対して、神は和解を求めて来られます!神は彼らの罪を赦し、罪がもたらす裁きの恐れを取り去り、救いを告げる宣教の業に任命して下さるのです!そして、彼らは人々を生きたままで捕らえ、彼らを神の国の一員とするよう召されるのです!
【適 用】 それでは、今回のメッセージを私たち自身に対して適用して行きましょう。
●クリスチャンでない皆さんへお尋ねします。あなたは神の前に自分の罪深さに気付いていますか?その罪深さのゆえに、神の裁きを恐れてはいませんか?いかがでしょう、あなたはイエス様が真の神である事を認めていますか?イエス様のみがあなたの罪を赦し、あなたを永遠の神の御国へ導くお方である事を信じますか?そして、あなたも人々を生かすために、この素晴らしい救い主を人々へ伝える者になりたいと思いませんか?
●クリスチャンの皆さんへお尋ねしましょう。あなたも人々を生かすために、「人間を捕る」者に召されている事を確認できましたか?あなたが福音を伝えるべき人々は誰ですか?その人々の救いを願い、その人々のために祈りを捧げていますか? あなたがキリストの証人として更に用いられる事を祈りましょう。
【締めの御言葉】
こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです(ルカ5:10b)。
[参考文献]
・ ジョン・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/ルカの福音書1-5』(ムーディー出版、2009)(John MacArthur、 The MacArthur New Testament Commentary、 Luke 1-5、 The Moody Bible Institute of Chicago、 2009、 pp.304-309.)
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