「使徒の働き」講解説教(8)『最初のクリスチャン殉教者!』 (最終編)/2023.09.24

『これ程までに、イエス様と似た人はいただろうか?』

―霊的盲目で、永遠の死を迎え、憎しみに溢れていた人々VS霊的視界良好で、永の命に移され、愛に溢れていたステパノ-

【前 置】●「ステパノ」のシリーズは今回が8回目で、締めくくりの最終メッセージとなります。前回のメッセージの前置きでもお伝えしましたが、最高法院に属するユダヤ教宗教指導者たちに代表される上辺だけの信仰者と、真の信仰者たちを代表するステパノとの雲泥の違いを通して、聖書が教えておられる深い教訓の数々を学んで行く事にします!その中でも、特に、ステパノとイエス・キリストとの共通点に感動と驚きをおぼえる事を確信します!

●今回のメッセージの主題は『これ程までに、イエス様と似た人はいただろうか?』で、副題は「霊的盲目で、永遠の死を迎え、憎しみに溢れた人々VS霊的視界良好で、永遠の命に移される、愛に溢れたステパノ」です。紐解かれる聖書の真理に心を向けましょう。そして、その真理を、信仰生活で実践する者となりましょう。メッセージ全体の流れは、下記のアウトラインの通りです。

【全体のアウトライン】

序 論:ステパノと彼の殺害者たちとの天国と地獄の違い!/済

本 論:最初のクリスチャン殉教者!/今回(最終回)

[1]ステパノの優れた霊性!(6:8-15)/済

[2]ステパノの信仰の弁明!(7:1-53)/済

[3]ステパノ、最初の殉教者!(7:54-8:1a)/今回(2回目/最終編)

【今回のアウトライン】

本 論:最初のクリスチャン殉教者!

[3]ステパノ、最初の殉教者!(7:54-8:1a)

1)怒り充満の人々、聖霊充満のステパノ(7:54-55a)/済

2)霊的盲目な人々と霊的視界良好のステパノ(7:55b-57)

ア)霊的視界良好のステパノ(7:55b-56)

イ)霊的盲目な人々(7:57)

3)永遠の死を迎える人々と永遠の命に移されるステパノ(7:58-59)

ア)永遠の死を迎える人々の行動(7:58)

イ)永遠の命に移されるステパノの行動(7:59)

4)憎しみに溢れた人々と愛に溢れたステパノ(7:60-8:1a)

ア)愛に溢れたステパノ(7:60)

イ)憎しみに溢れた人々(8:1a)

―1―

【本 論】

最初のクリスチャン殉教者!

[3]ステパノ、最初の殉教者!(7:54-8:1a)

●それでは、本論に入りましょう。ステパノ、最初の殉教者の二番目のポイントは、霊的盲目な人々と霊的視界良好のステパノです。まずは、55節の後半から57節にかけた、霊的視界良好のステパノを取り上げる事にしましょう。

2)霊的盲目な人々と霊的視界良好のステパノ(7:55b-57)

ア)霊的視界良好のステパノ(7:55b-56)

●それでは、霊的視界良好のステパノです。聖霊に満たされた信仰者は、「上にあるものを求め」続けます。なぜなら、「そこ」には、「キリストが神の右の座に着いておられ(る)」からです!(コロ3:1)「はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしてい(る)」状況下で(7:54)、ステパノ自身は、55節の中盤に記されていますように、「じっと天を見つめてい」ました!ステパノは、既に「天に上って」おられたイエス様を求めていました!(参/使1:10-11)そして、彼は、「神の栄光と神の右に立っておられるイエス(様)を見(た)」のです!ステパノは、イザヤ(イザ6:1-3)やエゼキル(エゼ1:26-28)やパウロ(2コリ12:2-4)や使徒ヨハネ(黙4:1)と同様に、天国を垣間見るという祝福にあずかった、聖書の中でもわずかな人たちの一人に数えられました!神がステパノの目を開かれましたので、55節の終盤に記されていますように、父なる「神」の臨在を表わすまばゆい「栄光」と共に、「人の子」であるイエス様が父なる「神の右に立っておられるの」を「見え(る)」ようにされました!イエス様が昇天されて後、使徒パウロや使徒ヨハネよりも前に、栄化されたイエス様を最初に見る特権がステパノに与えられたのです!

●新約聖書の他の10箇所には、イエス様が父なる神の右に着いておられる事が記されています(マタ22:44、26:64/ルカ22:69/使2:34/エペ1:20/コロ3:1/ヘブ1:3、8:1、10:11-12、12:2)。ヘブル10:12は、イエス様が「神の右の座に着(か)」れ、罪の贖いの御業を完全に成し遂げられた事を告げています!ステパノは、イエス様がその御座からお立ちになられて、自分に対して大きな関心を向けておられる事に目を注いでいました!そしてまた、イエス様がステパノを天国に迎えるために、お立ちになっておられました!

●ステパノはこの天国の至福に満ちた幻に全く魅了され、56節に記されていますように、次のように大声で叫びました。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」、と!これはもう、被告人が発する言葉ではありません!最高法院の議員たちにとって、そのような被告人の供述は、彼らの我慢の限界を超えるものでした!神を冒瀆する者に対する彼らの堪忍袋の緒は、切れる寸前した!

●ステパノが用いた「人の子」という表現は、最も鋭い短刀のようなものであったのかも知れません!なぜなら、それが、最高法院の議員たちに、“別の囚人”の裁判を思い起こさせたからです!(I see)すなわち、ステパノのように、「人の子」であられたイエス様もまた偽りの証言によって、その同じ法廷で、また同じ冒瀆罪で告訴されていました!

―2―

すなわち、ステパノのように、「人の子」であられたイエス様もまた偽りの証言によって、その同じ法廷で、また同じ冒瀆罪で告訴されていました!でもその際、イエス様は沈黙を守っておられました。それで、いらだちを募らせた大祭司が、とうとう、イエス様に語るよう次のように命じました。「26:63・・・『私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。』26:64 イエスは彼に言われた。『あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります』」、と!(マタ26:63-64)宗教指導者たちは、イエスは、自分が、神の権威と力を象徴する右の座に着く神の御子また人の子であるという事を言い張る神への冒瀆者だとして、イエスを死刑に処しました!このステパノの幻と言葉というものは、彼が見たお方を説明しており、それは、イエス・キリストがいずれ彼らの面前に戻られ、裁きを行われるという意味を含んだ主張でした!(参/マタ25:31-46)(I see)イエス様はご自分が神の右の座に着かれる事を断言されましたが、ステパノは、イエス様がそこに実際におられる事を断言しました!彼らは、イエスと同様にステパノも処刑しなければならないのか、それとも、自分たちがイエスを殺害した時、実は、自分たちが間違っていたと認めなければならないか、そのいずれかを決断しなければなりませんでした!

イ)霊的盲目な人々(7:57)

●最高法院はどちらを選んだのでしょうか?それが、次にポイントである霊的盲目な人々です。彼らは、ステパノを殺害する事によって、真理を黙らせようとしました!57節で、「人々は大声で叫びながら」、もうこれ以上の神への冒瀆は聞く必要はないと言わんばかりに、自分たちの「耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到し」ました!そうして、「盲人が盲人を案内」する者だと、天に挙げられる前のイエス様が彼らをそう描写しましたが、それが真実であるという事を、彼ら自らが証明しました!(マタ15:14/参 マタ23:16、24)自分たちに遣わされた神からのもう一人の使いであるステパノを退ける事によって、彼らは、自分たちの先祖の忌まわしい伝統を引き継いだのです!救い主を退けそして殺害した彼らが、救い主の最も忠実な使いであるステパノを退けて殺害するのは、驚く事ではありませんでした!

3)永遠の死を迎える人々と永遠の命に移されるステパノ(7:58-59)

ア)永遠の死を迎える人々の行動(7:58)

●三番目のポイントに進みましょう。永遠の死を迎える人々と永遠の命に移されるステパノについてです。初めに、永遠の死を迎える人々に目を向けましょう。聖書注解者たちの間では、ステパノが集団の暴徒たちによって惨殺されたのか、それとも法に則って死刑に処せられたのか、という点で意見が分かれています。しかし、状況から判断しますと、前者の集団暴徒による惨殺とみるのが妥当です。というのも、ヨハネ8:31に記されていますように、ローマの植民地下にある最高法院は「だれも死刑にすることが許されてい(なかった)」からです。しかしながら、ステパノの死について細かく見てみますと、人々が合法的な態度を保とうと試みている事は理解できます。彼らは、58節冒頭に記されていますように、ステパノを「町の外に追い出(す)」までは、石打ちを実行しませんでした。それは、まず彼らが、レビ記24:14の石打ちの刑を執行する場合に、「宿営の外に連れ出す」という命令に沿って行動していたという事を示していました。 

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更に、石打ちの刑というのは、レビ記24:16の「【主】の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない」という冒瀆罪に対する刑罰でした。58節後半には、ステパノに「石を投げつけ(る)」前に、「証人たち」が「自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置い(た)」事を伝えています。申命記17:7の「死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、それから民全員が手を下す。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい」と命じていた事に従っていました。恐らく、ステパノの場合は、まず偽りの証人たちがそうしたのだろうと考えられます。

●自分たちの怒りによって死刑執行したにもかかわらず、最高法院は、ステパノの処刑はあくまでも正当な裁判の表れだと主張したいのでした。植民地支配をしているローマが、死刑執行の権利を有している事は確かな事でした。しかしながら、最高法院は、彼らを治めていた行政長官でありまた総督であるピラトを何一つ恐れていませんでした。イエス・キリストの処刑を許可するに当たって、ピラトは、キリストが無実であると知っていながらも群衆の声に押されてしまいました。それは、彼の揺れ動く弱さを露呈していました。そうして、ピラトはキリストが殺害される事を容認しました。なぜなら、ピラトは、ユダヤ人が自分の総督としての地位を失わせてしまう事を恐れていたからでした(参/ヨハ19:1-8)。ピラトのそのような自己保身の努力にもかかわらず、彼はローマとの深刻な問題を抱え、その後間もなく、総督の地位からは更迭される事になりました。

●ユダヤ教の律法や道徳や習慣などがまとめられたものをタルムードというのですが、それは神がモーセに授けられ書物としてまとめられて聖書におさめられているトーラーとは違います。ユダヤ民族が口伝によって継承して来たもので、その前半部分をミシュナ-と呼び、そしてそれを解説している後半部分をゲマラと言います。それが文書化されて仕上がったのは、最終的には二世紀の末頃です。そのミシュナ-の中に、石打ちの刑の全手順が規定されていますが、それに則ってステパノの刑が執行されたかについては疑わしいのです。

●その手順によりますと、まず冒瀆者を崖からから突き落とすよう命じています。それによって死ななければ、次に、最初の証人が大きな石を冒瀆者の心臓の上に落とします。もしそれでも生きていたなら、次に、二番目の証人が別の大きな石を再びその冒瀆者の心臓の上に落として死に至らせます。それをするために、証人たちは自分の上着を脱がなければなりませんでした。その石打ちの刑の手順がステパノに対して取られた可能性は、59節60節を見ますと、それはなかったであろうと推測できます。それどころか、その状況とは、怒りに満たされて制御できない人々が押し合いながら、ステパノに向って手あたり次第に石を投げ付けたというものでした。使徒8:2から明記すべき事は、タルムードに規定された埋葬の方法に彼らが従っていなかったという事です。それは、彼らが関わったこの出来事全てが不法なものであったという事を示す更なる証拠となり得ます!

イ)永遠の命に移されるステパノ行動(7:59)

58節後半に、「サウロという青年」の名前が記されています!これは、救いの歴史において、実に、大きな転換点を示していました!この「サウロという青年」は言うまでもありませんが、に使徒となるパウロを指しています!

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聖書において、この使徒の働きのこの時点で初めてパウロ登場し、6章後の13章から最終の28章の終わりに至るまで、中心人物として登場して行きます。世的な表現をしますと、まるで大物俳優が端役で出演するシーンのようなものです。その業界の専門用語では、それを「カメオ出演」と言うようです。ラテン語から来ていますが、日本語では「友情出演」と言います。サウロには、ステパノを迫害する者たちの「上着」をあずかるという役割がありました。最前線で行動していたサウロの役割が意味するのは、彼がこの邪悪な全ての出来事に深く関わっていたという事を指し示していました!どのような局面においても、ステパノの奥深くまた力強い説教、それと同時に、彼を殺害する者たちに対する彼の落ち着た態度と赦しの愛は、パウロの心の中にいつまでも消える事のない印象を与えたに違いないです!(参/使22:20)その後のサウロ自身の驚くべき回心の種が、実に、この時に蒔かれたのです!

●暴徒たちは、59節の冒頭に記されていますように、「ステパノに石を投げつけ(る)」という残虐な行為に走りました。死がその身に迫った時、59節の後半で、「テパノは主を呼んで言(い)」ました。「主イエスよ、私の霊をお受けください」、と!ステパノの叫びは、次のように、十字架上で主イエス様が「大声で叫ばれた」お言葉と重なり合っていました!「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」、と!(ルカ23:46)両者の叫び声の中で、一つだけ異なる表現がありました!イエス様はご自分の「霊」を父なる神へ委ねましたが、ステパノは自分の「霊」を主イエス様に委ねました!ステパノがそうしたのは、イエス・キリストが神である事を証しするものでした!ステパノは、明らかに、御子イエス・キリストが父なる神と等しいお方であるという事、すなわち神ご自身であるという事を理解していたのです!

●ステパノの告白は、息を引き取ると、すぐに自分が主の臨在の中に招き入れられるという期待を示していました!聖書は、この地上の命が天国に移行する時、いかなる遅れも生じない事を教えています!カトリック教会が教えているように、魂をかくまう煉獄というものはありません。また、他のグループの教えにあるように、魂が眠るという無意識の状態もありません!そうではなく、聖書は、キリストを信じる者が、死後直ちに神の臨在の中に入る事を教えています!(2コリ5:8/ピリ1:23)主イエス様は十字架上の強盗に対して、彼を、神と神を信じて義とされた者たちの住まいであるパラダイスへ連れて行く事を、その日に約束された事からも理解できます!(ルカ23:43)金持ちとラザロのたとえ話においては、死んだ人が決して無意識ではありませんし、また自分が置かれた状況を知らないのでもない事を伝えています!黙示6:9-11で、患難時代の殉教者たちが天に引き上げられて、神の臨在の中で目覚めている者として描かれており、自分たちを殺した者たちに対して主が復讐し、裁いてくださるよう訴えています!

●ステパノの確信に満ちた祈りは答えられました!そして、死後直ちにステパノは、自分が忠実に仕えた主の臨在の元へ引き上げられました!

4)憎しみに溢れた人々と愛に溢れたステパノ(7:60-8:1a)

ア)愛に溢れたステパノ(7:60)

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●四番目のポイントは、憎しみに溢れた人々と愛に溢れたステパノです。暴徒は情け容赦なく「石を投げ付け」て、ステパノに対する自分たちの憎悪を露わにしました!それとは対照的に、ステパノの心は、暴徒たちに対する愛で満ち溢れていました!投げ込んで込まれて来る石の只中で、ステパノは、60節で、「ひざまずいて大声で」次のように「叫(び)」ました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」、と!この出来事の前に、愛する主がなされたように、ステパノは死刑執行人たちのために、神の赦しを嘆願したのです!ステパノは、彼らの救いを祈っていました!なぜなら、それが、神が罪を赦す唯一の方法だからです!エホヤダの子、預言者ゼカリヤの死との比較は、私たちに教訓を残しています。第二歴代誌24:20-22は、彼を殺害した者たちを次のように描いています。

24:20 神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤをおおった。彼は民よりも高いところに立って、彼らに言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ【主】の命令を破り、繁栄を逃がすのか。』あなたがたが【主】を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」24:21 ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、王の命令によって、【主】の宮の庭で彼を石で打ち殺した。24:22 ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意を心に留めず、かえってその子を殺した。ゼカリヤは死ぬとき、「【主】がご覧になって、責任を問われますように」と言った。

ステパノのように、ゼカリヤは不当に処刑されました。しかしながら、ステパノのようにではなく、ゼカリヤの死に行く祈りというものは正義と復讐のためであり、赦しではありませんでした。

●クリスチャンのみが、ステパノがしたように、迫害者をそして敵を愛する事ができます!なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」!(ロマ5:5)

●ステパノが主に向かって文字通り必死の嘆願をして後に、彼は、60節の最後の部分に記されていますように、「眠りにつ(き)」ました!平安の内に、穏やかに、ステパノは主の臨在の中へすっと移されて行きました!そして、「よくやった。良い忠実なしもべだ」、私の「喜びをともに喜んでくれ」、と主ご自身の語り掛けを聞いたに違いありません!(マタ25:21)ここで言っている「眠り」というのは、信仰者の死を表現する心地良い言い回しです!これまでの人生のありとあらゆる肉体的、精神的な全ての疲労から、また霊的な戦いから来る全ての疲労から解放され、痛みのない、新たなる新鮮な世界へと移され、心地良い状態である事を告げています!(参/ヨハ11:11-12、1コリ11:30、15:20、51、1テサ4:14,5:10)

イ)憎しみに溢れた人々(8:1)

●次に、憎しみに溢れた人々を取り上げます。この福音書の著者であるルカは、ステパノの生涯の最期を記述するに当たって、大変重要な説明を補足しています!ルカは、サウロがその場にいた事を再度次のように告げ知らせています!8:1冒頭で、「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた」、と。その時点から約30年後に、サウロ自身が、次のように告白しています。「私は・・・罪人のかしらです」、と!(1テモ1:13-15)

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サウロは、どういう意味でそのように告白したのでしょうか?それは、自分は、イエス・キリストを信じる全ての信仰者を殺害する意図をもっていた「罪人のかしら」であったという事を告白しているのです!そのサウロの殺害意識に溢れる憎しみは、ここではっきりとしています!●前述しましたように、ステパノの大胆な説教、そして特に死に直面した時の彼の落ち着きと勇気と赦しの愛が、実に、サウロ自身に物凄く大きな影響を与えたのです!その点について、サウロ自身が使徒22:20の証しの中で認めています!ステパノの影響がパウロにもたらされてから、また神が死をもたらすサウロをパウロにつくり変えてから、パウロが語った命をもたらす福音が全ローマ世界を貫き、永久に歴史の流れを変えて行ったのです!「もしステパノが祈らなかったのなら、教会はパウロを得る事はなかったであろう」、とアウグスチヌスは語っています。

●その生と死の両方において、まさに、ステパノは主イエス様とそっくりでした!イエス様は聖霊に充満していましたが、ステパノもそうでした!イエス様は恵みに充満していましたが、ステパノもそうでした!イエス様はご自分がこの地に来られた時の宗教体系や制度に対峙されましたが、ステパノもそうでした!イエス様は偽りの証人たちによって有罪判決を受けましたが、ステパノもそうでした!イエス様は形ばかりの裁判に掛けられましたが、ステパノもそうでした!イエス様はいかなる罪も犯していませんでしたが、ステパノもそうでした!双方とも、神への冒瀆罪で告訴されました!双方とも「町の外」で死なれ、また双方とも支持者たちによって葬られました!そして、双方とも自分たちの死刑執行人たちの救いのために祈られました!これ程までに、イエス様に似ている人はいたでしょうか・・・?

【まとめ】

●三つのポイントをそれぞれ要約しましょう。初めに、霊的盲目な人々と霊的視界良好のステパノについてです。迫害による死が迫る中、ステパノがした重要な事は、「じっと天を見つめ(る)」事でした!そして、ステパノは「神の栄光と神の右に立っておられるイエス(様)を見」ました!聖霊に満たされた信仰者は、「上にあるものを求め」続けます!なぜなら、「そこ」には、「キリストが神の右の座に着いておられ(る)」からです!(コロ3:1)一方、イエス様はその御座からお立ちになられて、ステパノを天国に迎えられるために大きな関心を彼に向けておられました!ステパノはこの天国の至福に満ちた幻に全く魅了され、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」、と大声で叫びました!ステパノが発した「人の子」という表現は、最高法院の議員たちに、彼らが十字架に付けて殺害したイエス・キリストを思い出させました!イエス・キリストが不当に告訴された時に、「人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」と彼らに告げました。ステパノは、イエス様がそこに実際におられる事、いずれ彼らの面前に戻られ、裁きを行われるという意味を含んだ主張でした!最高法院は、イエスと同様にステパノも処刑しなければならないのか、それとも、自分たちがイエスを殺害した時、実は、自分たちが間違っていたと認めなければならないか、そのいずれかを決断しなければなりませんでした!霊的に盲目な彼らが出した結論は、ステパノを殺害する事によって、真理を黙らせる事でした!そして、自分たちの「耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到し」、彼を殺害して退け、預言者を殺して来た先祖の忌まわしい伝統を引き継ぎました!

―7―

●次に、永遠の死を迎える人々と永遠の命に移されるステパノについてです。最高法院やそれに追従する人々は、植民地支配を続けるイスラエルに対するローマの法を無視し、ステパノに対して死刑を執行しました。それであっても、極力、自分たちのユダヤ教の規則に沿って執行したかのように進めましたが、それは全て不法なものでした!その殺害過程の中で、「サウロという青年」すなわち後に使徒パウロとなる名前が聖書の中に初めて記されました!それは、救いの歴史において、大きな転換点を示すものでした!サウロはこの邪悪な全ての出来事に深く関わっていましたが、ステパノの奥深くまた力強い説教、それと同時に、彼を殺害する者たちに対する彼の落ち着た態度と赦しの愛は、パウロの心の中にいつまでも消える事のない印象を与える事になりました!何とその時に、彼がキリスト教に回心する福音の種が蒔かれたのです!

●石打ちの刑に処せられる中、ステパノは、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と「主を呼んで言(い)」ました!それは、主イエス様が、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と「大声で叫ばれた」お言葉と重なっていました!両者の叫び声の中で一つだけ異なる表現は、イエス様はご自分の「霊」を父なる神へ委ね、ステパノは主イエス様に自分の「霊」を委ねました!それは、ステパノが明らかに、御子イエス・キリストが父なる神と等しいお方であるという事、すなわち神ご自身であるという事を示すものでした!そのステパノのその告白は、息を引き取ると、すぐに自分が主の臨在の中に招き入れられるという期待を示していました!聖書は、この地上の命が天国に移行する時、いかなる遅れも生じない事を教えています!そして、ステパノの確信に満ちた祈りは答えられ、ステパノは死後直ちに、自分が忠実に仕えた主の臨在の元へ引き上げられたのです!

●最後のポイントは、憎しみに溢れた人々と愛に溢れたステパノです。暴徒たちは情け容赦なく「石を投げ付け」て、ステパノに対する自分たちの憎悪を露わにしました!それとは対照的に、ステパノの心は、暴徒たちに対する愛で満ち溢れていました!石が投げ込まれる只中で、ステパノは「ひざまずいて大声で・・・『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』」、と言いました!死刑執行者たちのために神の赦しを祈り求めたのは、彼の愛する主がなさった事と全く同じ事でした!イエス・キリストの救いこそが、神が罪を赦す唯一の方法だからです!クリスチャンのみが、ステパノがしたように、迫害者をそして敵を愛する事ができます!なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」!(ロマ5:5)

●ステパノは、「眠りにつ(き)」ました!「眠り」とは、信仰者の死を表現する心地良い言い回しです!これまでの人生のありとあらゆる肉体的、精神的な全ての疲労から、また霊的な戦いから来る全ての疲労から解放され、痛みのない、新たなる新鮮な世界へと移された、心地良い状態である事を告げています!ステパノは平安の内に、穏やかに、主の臨在の中へすっと移されました!天国に凱旋したステパノに対して、主は、「よくやった。良い忠実なしもべだ」、私の「喜びをともに喜んでくれ」、と主ご自身が語り掛けたに違いありません!

●一方、憎しみに溢れた人々の中にサウロがいて、彼は、「ステパノを殺すことに賛成してい」ました!彼は、自分が、イエス・キリストを信じる全ての信仰者を殺害する意図をもっていた「罪人のかしら」であったという事を、自分の回心後に証ししています!

―8―

ステパノの大胆な説教、そして特に死に直面した時の彼の落ち着きと勇気と赦しの愛が、実に、サウロ自身に物凄い大きな影響を与えた事が、後のパウロの証しの中に記されています!ステパノの影響がパウロにもたらされてから、また神が死をもたらすサウロをパウロにつくり変えてから、パウロが語った命をもたらす福音が全ローマ世界を貫き、永久に歴史の流れを変えました!

●最後のまとめとして、その生と死の両方において、まさに、ステパノは主イエス様とはほぼ瓜二つでした!双方が聖霊と恵みに充満し、誤った宗教制度に対峙し、偽りの証人たちによって形ばかりの裁判に掛けられ、何の罪も犯していないにもかかわらずに冒瀆罪で告訴され、「町の外」で死なれ、支持者たちによって葬られ、そして死刑執行人たちの救いのために祈られました!これ程までに、イエス様に似ている人はいたでしょうか・・・?

【適 用】

●窮地に陥れられ、殺害の魔の手がステパノに迫った時、ステパノは「じっと」どこを見ましたか?それは、「天」でした!なぜなら、「天」に、「神の栄光と神の右に立っておられるイエス(様)」がおられたからでした!いかがでしょうか、あなたがこれまで窮地に陥れられた時、あなたは、「じっと」どこを見ていましたか?人ですか、この地上のものですか、それとも「天」にある「神の栄光と神の右に立っておられるイエス(様)」ですか?あるいは、信仰者であるあなたの内に住んでおられる聖霊なる神に心を向けますか?あるいは、永遠に変わる事のない神のお言葉に心を向けていますか?そして、その上で、信仰を共にする教会の指導者ですか、あるいは小牧者や教会の仲間ですか?

●サウロをパウロにしたのは、神ご自身です!神がサウロをご自身の器としてお選びになり、救いを与え、使徒して召され、そしてローマ社会を貫く福音宣教者として用いられますが、そのために、神が用いられた器は誰でしたか?その答えは、「ステパノ」でした!ステパノのどのような信仰姿勢が、サウロに対して、後々、深い影響を与える事になりましたか?その信仰姿勢と態度は、ユダヤ教指導者たちには全く見られないものでした!いかがでしょうか、たとえ迫害者であっても、神はご自分のご計画の中で、その人を180度お変えになる事ができますが、あなたは、その神の変革の力を信じていますか?どんな反対者や迫害者であろうが、神は、ご自分の御心を実現されるお方だという事を、あなたは信じていますか?必要であれば、迫害者や反対者を、神ご自身の器に変える事がお出来になると信じる事はできますか?

●石打ちの刑に処せられる中、ステパノは、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と「主を呼んで言(い)」ました!それは、主イエス様が、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と「大声で叫ばれた」お言葉と重なっていました!すなわち、それは、ステパノがイエス・キリストをどなただと確信している事を示していましたか?

●憎しみに溢れたユダヤ人たちによって石打ちの刑に処せられた時、ステパノは、「ひざまずいて大声で・・・『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』」と祈りました!いかがでしょうか、あなたに対して憎悪の思いをもっている敵に対して、あなたはどう対応していますか?憎しみで返しますか、復讐して返しますか、それとも愛で返しますか?

―9―

クリスチャンが敵を愛する事ができる原動力について、聖書は次のように述べていました。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」、と!いかがでしょうか、敵を愛する「神の愛が」、あなたの「心に注がれている」事を確信していますか?

●クリスチャンであるあなたが「眠りについ(て)」天国のイエス様の元に移されるのは瞬間的です!あなたがイエス様にお会いした時、イエス様はあなたにどのような言葉を掛けてくださいますか?あなたは、イエス様から、「よくやった。良い忠実なしもべだ」、私の「喜びをともに喜んでくれ」というお褒めのお言葉を掛けていただくために、あなたは地上の信仰生活をどのように歩んでいますか?罪を離れ、神と指導者と兄弟姉妹を愛し、世の人を福音をもって愛し、そして信仰生活を忠実に歩んでいますか?

●私たちの目標は、私たち自身がキリストのようになる事です!その最たる模範の一人が、ステパノでした!キリストに似るってどういう事でしたか?あなたはイエス様のように、聖霊と恵みに充満する事を願って、日々の信仰生活を歩んでいますか?誤った信仰に対峙していますか?不正を働かれても、それを愛で受け答えしていますか?あなたは、敵のために執り成しの祈りをささげていますか?あなたは、イエス様に似た人格をもっていますか?もし、あなたがイエス様から遠く離れている者であるなら、あなた今なすべき事は何ですか? それでは、私が祈って後に共に賛美をし、そしてその後に、それぞれが神に祈る時をもつ事にしましょう。

【締めの御言葉】

■「7:55・・・聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、7:56 『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』と言った。・・・7:59・・・彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。『主イエスよ、私の霊をお受けください。』7:60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。『主よ、この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、彼は眠りについた。8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた」(使徒7:55-8:1)。

[引用&参考文献]

・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き18-24』(ムーディー出版、2014) (John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Luke 18-24, The Moody Bible Institute of Chicago, 2014, pp. 223-226.)