「使徒の働き」講解説教(6)『ステパノの信仰の弁明!』2023.09.10
『“血の結論”へと導くステパノの最終弁明!』―律法への冒瀆罪、神殿への冒涜罪、そして死を覚悟した最終の弁明―
【前 置】
―歴史を知り、そこから教訓を得る大切さ!―
●歴史は繰り返されて来ました!ですから、過去の出来事から学び、どうしてそれが起こったのか、その教訓を現代にどう生かすべきかを考えるという事はとても大切な事です!
●また、歴史を学ぶという事は、今起きていることが今後どのように進んでいくのか予測できるという意味でも大切な事です!いろいろな分野で良い影響力を発揮している人々というのは、必ずといっていい程、歴史を広くまた深く勉強している事が多いと言われるのはそのゆえんです!
●聖書はその点を次のように伝えています。「10:11 これらのことが彼ら」イスラエルの民「に起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」、と!(1コリ10:11-12)
●歴史を学ぶ事に関して苦手意識をもっている方であっても、聖書に記録されているイスラエルの歴史を学ぶ事は、信仰者にとっては非常に有益です!その歴史を、聖霊の導きのもとに、ステパノが要約して紐解いてくれていますので、そこから聖書の貴重な教訓を共に学ぶ事ができるのは、とても幸いな事です!
―ステパノの弁明の締めくくり!―
●『ステパノの信仰の弁明』というテーマのメッセージは、今回が四回目で締めくくりとなります。下記のアウトラインが示していますように、これまで三回にわたって、ステパノが神を冒瀆し、次にモーセを冒涜したという罪で告訴され、それに対するステパノの弁明を取り上げて来ました。今回は、後半の三つの弁明を取り上げます。神の律法と神殿を冒涜したという告訴に対するステパノの弁明、そして“血の結論”と呼ばれる部分のステパノの最終弁明を取り上げます!それは、文字通り、彼が自分の死を覚悟した弁明でした!
●今回のメッセージの主題は『血の結論へ導くステパノの最終弁明!』で、副題は「律法への冒瀆罪、神殿への冒涜罪、そして死を覚悟した最終の弁明」です。ステパノの弁明を通して解き明かされる、神の選びの民イスラエルの偽らざる霊的実態に目を向けます。そして、その中から、私たちに必要な霊的教訓を学ぶ事にしましょう。
●前回のメッセージで、うっかり、「モーセはファラオのひ孫として養子となり」と伝えましたが、それは、「モーセはファラオの孫として養子となり」が正しいですので、ここに訂正してお詫びいたします。
【全体のアウトライン】
●序 論:聖書に見られる信仰の弁明/済
●本 論:ステパノの信仰の弁明!/今回(4回目/最終回)
―1―
[1]ステパノの優れた霊性!(6:8-15)/済
[2]ステパノの信仰の弁明!(7:1-53)/今回(4回目/最終回)
1)神への冒涜罪に対する弁明(7:1-16)/済
2)モーセへの冒涜罪に対する弁明(7:17-37)/済
3)律法への冒涜罪に対する弁明(7:38-43)/今回
4)神殿への冒涜罪に対する弁明(7:44-50)/今回
5)死を覚悟した最終弁明(7:51-53)/今回
[3]ステパノ、最初の殉教者!(7:54-8:1a)/次回
【今回のアウトライン】
●本 論:ステパノの信仰の弁明!
[2]ステパノの信仰の弁明!(7:1-53)
3)律法への冒涜罪に対する弁明(7:38-43)
ア)律法とは(7:38)
イ)律法を退け、偶像礼拝に走ったイスラエルの民(7:39-43)
4)神殿への冒涜罪に対する弁明(7:44-50)
ア)神殿の歴史(7:44-47)
イ)神殿が示す真理とは/神を神殿に閉じ込める事は出来ない(7:48-50)
5)死を覚悟した最終弁明(7:51-53)
ア)聖霊に逆らって来たイスラエルの民(7:51-52a)
イ)預言者と救い主を殺し、律法を守らなかったイスラエルの民(7:52b-53)
【本 論】
●ステパノの信仰の弁明!
[2]ステパノの信仰の弁明!(7:1-53)
3)律法への冒涜罪に対する弁明(7:38-43)
ア)律法とは(7:38)
●ここから本論ですが、ステパノの信仰の弁明の三番目のポイントです。ステパノが律法を冒涜したという事で、彼を告訴する人々へ、ステパノが弁明します。ステパノのメッセージが、「モーセ」から「律法」へ移行して行くというのはごく自然な流れです。なぜなら、その二つは密接に関わっているからです。38節で、ステパノは次のように語っています。「モーセ」が、「シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました」、と。この「生きたみことば」とは神の律法を指しており、それは他の御言葉と同様に、「生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭(い)」ものです!(ヘブ4:12)そして、それは、神からの権威ある啓示です!それが、御使いたち通して「授(け)」られたという事が、53節の御言葉によっても告げられています(参/ガラ3:19、ヘブ2:2)。しかし、御使いたちが具体的にどのように関わったのかについては、聖書は明確に言及してはおりません。
―2―
●ステパノが律法を信じている者であるという事を証言しており、よって自分が無罪であるという事を示しています!ステパノは、神ご自身が律法の著者であられ、御使いがその仲介の働きをし、更にモーセがその受取人であるという事を示しています!ステパノが律法に対する冒瀆者でない事は明らかでした!
イ)律法を退け、偶像礼拝に走ったイスラエルの民(7:39-43)
●自分自身を十分に弁護したステパノは、今度は、攻勢に出ます!ステパノは聴衆に対して「先祖たち」について語り、39節で、「先祖たち」がモーセに「従うことを好まず、かえって」モーセ「を退け、エジプトをなつかしく思っ(た)」事を思い出させました!律法に従わなかったのはステパノではなくて、実に、最高法院がまさに尊敬していた「先祖たち」でした!ステパノがモーセを退けたのではなくて、退けたのはこれら「先祖たち」でした!信じられない事に、イスラエルの人々はエジプトで物凄くひどく抑圧されたにもかかわらず、彼らは、エジプトにおいて過ごした自分たちの生活を慕って振り返ったのです!(民11:5)。
●モーセが神から律法を受けるためにシナイ山にいた間、イスラエルの民はエジプトの偶像に頼りました!40節で、彼らは「アロン」に向って、「われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから」と言いました!(出32:1、23)モーセを退ける事は、神の律法を退ける事と連動していました!アロンは彼らの頼みを聞き入れたので、41節で、「彼ら」は「子牛を造(り)」ました!そして、イスラエルの人々は、「この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造った物を楽しんでいました」。「子牛」礼拝は、エジプトの宗教にはなくてはならないものでした!イスラエルの民が偶像礼拝へ強く惹かれる傾向というのは、このシナイから始まっていたのです!その強い傾向というのは、イスラエルは律法を守る人々の国であるという、最高法院が誇って主張していた事と真っ向から反するものでした!
●神はイスラエルという国を亡ぼす全ての権利をおもちでしたが、イスラエルに対するご自分の契約に、忠実に留まられたのです!偶像礼拝の罪のゆえに、三千人が神の裁きを受けて命を落としましたが(出32:28)、国としてのイスラエルは保持されました!しかしながら、42節に記されていますように、神は、裁きの内に「彼らに背を向け」られ、「彼らが天の万象に仕えるに任せられました」。神が異邦人を「その心の欲望のままに汚れに引き渡され・・・恥ずべき情欲に引き渡され・・・無価値な思いに引き渡され(た)」ように(ロマ1:24、26、28)、神はまたご自分の民を偶像礼拝に引き渡されました!(参/ホセ4:17)荒野を歩き回った時からバビロン捕囚に至るまで、偶像礼拝はイスラエルにとって止む事のない問題でした!
●ステパノは旧約聖書のアモス書から引用して、42節の後半から43節で次のように語って、自分の主張を裏付けました。
7:42・・・預言者たちの書に書いてあるとおりです。「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。
―3―
7:43 あなたがたは、モレクの幕屋と神ライパンの星を担いでいた。それらは、あなたがたが拝むために造った像ではないか。わたしはあなたがたを、バビロンのかなたへ捕らえ移す」(使7:42b-43)。
●ステパノはここで「バビロンのかなたへ捕らえ移す」と語っていますが、引用元のアモス書では、「ダマスコのかなたへ捕らえ移す」(アモ5:27)と記されており、双方に違いが生じていますので、説明が必要です。元々のヘブル語とそれをギリシャ語に訳した70人訳聖書では双方とも「ダマスコ」となっていますが、なぜ、ステパノはここで「バビロン」と語ったのでしょうか?旧約聖書のアモス書では、アッシリアの手によって、イスラエルの北王国の人々が捕囚の身となる事を預言していました。イスラエルの北の端の領土から更に北に、「ダマスコ」という大きな町がありますが(現在のシリアの首都ダマスカス)、その町を超えたところへ北イスラエル王国の人々が移送されるという預言でした。そして更にその後に、イスラエルの南のユダ王国がバビロン帝国へ捕囚の身として移送される事になります。聖霊なる神の霊感によって導かれたステパノは、北と南を合わせた全ユダヤ人に対する神の裁きとして捉え、そのアモス書の箇所を拡大して伝える事を導かれたのです!それで、ステパノは、「バビロン」と語る事を決めたのです!ステパノがこの預言を用いる事によって、イスラエルの悲しい偶像礼拝の歴史が、バビロン捕囚においてその頂点に達したのだという事を、イスラエルの歴史を簡潔に要約して、彼は語り告げたのです!(参/申17:3、2王17:16、21:3、エレ8:2、19:13)
4)神殿への冒涜罪に対する弁明(7:44-50)
ア)神殿の歴史(7:44-47)
●ステパノの信仰の弁明の四番目のポイントです。ステパノが神殿を冒涜したという罪で、彼を告訴する人々に対するステパノ自身の弁明です。ステパノが神殿に対して反対を唱えたという告訴に対応する中で、彼は神殿の歴史をさかのぼり、それは神によって定められたものであるがゆえに、そこに敬意を払っているという事を示しました!44節で、ステパノは、神殿の前に存在した「荒野に」おける「あかしの幕屋」から始めて行きます。神が、「あかしの幕屋」を「見たとおりの形に造れとモーセに」に言われたという事を伝えました(出25:8、9、40)。イスラエルの荒野における世代というのは、自分たちは、神の栄光を知らなかったと弁解する事はできませんでした!なぜなら、「幕屋」がイスラエルの民の只中にあり、「幕屋」を通して神がご自分の臨在を現しておられたからです!
●そして、45節に記されていますように、「この幕屋を受け継い(だ)」後の「先祖たち」は、「神が」彼らの「前から追い払ってくださった異邦の民の所有地に、ヨシュアとともに」幕屋を「運び入れ」ました。しかし、その後の「先祖たち」もまた同じように、神の栄光を知らなかったと弁解する事はできませんでした!(ヨシ3:14、18:1、23:9、24:18)。なぜなら、「荒野」の時代から、それに続く約束の地の占領の時代、そして「ダビデの時代に至(る)」まで、イスラエルの民は、神の聖なる臨在の象徴である「幕屋」をずっと持っていたからです!しかしそれでもなお、イスラエルの民が偶像礼拝に陥り続けていました!(Right)それゆえ、ステパノは、イスラエルの民の背教と、神が送られたご自分の器たちを彼ら自身が退け続けた歴史の事実を指摘したのです!
―4―
●全ての敵に対して、神が「ダビデ」に勝利をお与えになって後、46節で、ダビデは、「ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました」。すなわち、「ダビデ」は、「ヤコブ」の神が「とどまるところを求め・・・た」のです(2サム7章)。しかし、そのダビデの求めは受け入れられませんでした。それは、47節が示していますように、それはダビデではなくて、「ソロモンが神のために家を建て(る)」のが神の御心でした。「ソロモン」の神殿についてのステパノの言及はとても短いものでした。なぜなら、最高法院の議員たちが神殿に関する歴史についてはよく知っていたからです。
●更に、ステパノの時代の神殿と言えば、それはソロモンの神殿ではありませんでした。なぜなら、ソロモンの神殿は、バビロンによって既に破壊されていたからです(エズ5:12)。その後、ゼルバベルによって建てられた神殿が、ソロモンの神殿に取って代わりましたが、それもまた破壊されてしまいました。ステパノの時代の神殿は、ユダヤ人ではないヘロデ王によって建てられたものです。ステパノの弁明を聴いている多くの人々がまだ生きている内に、そのヘロデの神殿もまた、紀元70年にローマ軍によって破壊されました。
イ)神殿が示す真理とは/神を神殿に閉じ込める事は出来ない(7:48-50)
●人間の手で造られた神殿がいずれも短い期間のみ存続したという事実は、48節に記されたステパノの次のポイントへと導きます。「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません」、と!ソロモンは、その真理を理解していました!神殿を神にささげる儀式の中で、ソロモンは次のように真理を捉えた祈りをささげています。「神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです」、と!(1王8:27)
●ステパノは、自分が指摘した点を強調するために、49節と50節で、イザヤ書から次のように引用して語りました。「7:49 『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。─主のことば─わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。7:50 これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』」、と!(イザ66:1)ところが、最高法院の議員であるユダヤ教指導者たちをはじめ、イスラエルの人々は、神を神殿に閉じ込めていたのです!(Right)しかし一方、ソロモンやイザヤと共に、ステパノは、神はいかなる神殿よりも偉大なお方であると主張したのです!神殿は神の臨在の象徴であり、神ご自身を拘束するところではないのだという事を示したのです!ステパノは、神殿を冒涜してはおりませんでした!
5)死を覚悟した最終弁明(7:51-53)
ア)聖霊に逆らって来たイスラエルの民(7:51-52a)
●さて、ここから、ステパノの死を覚悟した最終弁論に入ります。ステパノのメッセージによって、聞き手たちの緊張感がエスカレートして行きました!イスラエルの民の拒絶と背教についてステパノが指摘した時、最高法院の議員たちは、ますます神経をとがらせて行きました!彼らは疑いなく、ステパノが何を意図して伝えたいのかを知りたいと思いました。そのため、ステパノが衝撃的な訴えによって、イスラエルの歴史の基礎を敷いた時に、彼らはもう自分たちを押える事ができなくなりました!彼ら自身が、ヨセフやモーセやダビデの時代の先祖たちとまるで同じ者であると指摘されたからでした!
―5―
●51節の前半に記されていますように、彼らは「うなじを固くする」強情な者たちで、自分たちの先祖に下されたのと同じ神の判断が、引き続き自分たちに向けられている事を指摘されました!(出32:9、33:5)この「うなじを固くする」という表現は、主なる神の前にひれ伏す事を拒絶する人を描く言葉です!彼らは自分たちが肉体の割礼を受けた者であり、宗教儀式を守っている事を誇りにしていましたので、ステパノは特に彼らを「心と耳に割礼を受けていない人たち」だと指摘しました!彼らの罪は決して赦されていませんでした!まるで彼らが割礼を受けていない異邦人のように、神の前に汚れた者たちであると指摘されたのです!これは、彼らに対する究極の有罪判決でした!
●更に、51節の後半に記されていますように、「いつも聖霊に逆ら(う)」彼らの頑なさというのは、彼らの「先祖たちが逆らったように」、彼ら自身も「そうしている」という事です!彼らの先祖たちがヨセフとモーセと幕屋の神の臨在を退けたように、彼ら自身は実に救い主を退けたのです!そして、52節の前半で、「あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか」と問う事によって、ステパノはその点を明確に示しました!ステパノの言葉とは、イエス・キリストがパリサイ人たちに対して語った次の鋭いお言葉を反復する事と同じでした!
11:47 わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。11:48 こうして、おまえたちは先祖がしたことの証人となり、同意しているのだ。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。11:49 だから、神の知恵もこう言ったのだ。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者たちを殺し、ある者たちを迫害する。11:50 それは、世界の基が据えられたときから流されてきた、すべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。11:51 アベルの血から、祭壇と神の家の間で殺されたザカリヤの血に至るまで。』そうだ。わたしはおまえたちに言う。この時代はその責任を問われる(ルカ11:47-51)。
イ)預言者と救い主を殺し、律法を守らなかったイスラエルの民(7:52b-53)
●それから、ステパノは、血の結論へと聞き手を引き入れます!(Wow!)ステパノの弁明の最後の52節の後半から53節に注目しましょう!52節の後半ですが、彼らの「先祖たちが・・・正しい方」すなわち救い主「が来られることを前もって告げた人たちを殺し・・・た」ように、今度は、彼ら自身が、救い主を「裏切る者、殺す者と」なったのですと告げました!そして、53節で、彼らは、自分たちが「御使いたちを通して律法を受けた」事で誇り高ぶる一方、自分たち自身がその「律法」を「守らなかった」と告げました!!彼らに、弁解の余地はありませんでした!というのも、神の律法自体がキリストを指し示しているからです!(ヨハ5:39)
●ステパノは、彼の主であるイエス・キリストのお言葉を反復していました!キリストがそのお言葉を語った時も、それを聞いた人々は同じ宗教指導者たちでした!イエス様は次のように語られました。「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです」、と!なぜなら、「モーセが書いたのはわたしのことなのですから」、と!(ヨハ5:46)
―6―
実のところ、彼らはモーセや律法を尊敬していませんでした!もし尊敬していたのならば、彼らは、モーセが約束したお方を(申18:15)、あるいは律法が告げているお方を、殺害するような事を決してする訳がありませんでした!
●彼らは、次のように大口をたたいていました。「もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう」、と!(マタ23:30)しかし、彼らがした事と言えば、彼らの先祖たちよりも遥かに悪い事でした!彼らの先祖たちは、神の預言者たちを殺害しましたが、彼ら自身は神の御子イエス・キリストを殺害しました!(使3:14、22:14)そしてこれから、彼らは、更にもう一つの殺害を犯すのです!ステパノが、間もなくその一人となります!ステパノは神のメッセンジャーたちの長いリストの中にある一人ですが、やがて、神が選ばれた国民によって殺されるのです!そして、イエス・キリストの御名を説教したために殺される最初の殉教者となるのです!●ステパノは自分を弁明する事によって、自分自身の無罪判決を勝ち取るというのではなく、自らの死刑執行へと進むのです!しかしだからと言って、それが、ステパノの弁明と告発の輝きを曇らせるものでは全くありません!むしろそれは、これまで取り次がれた最も偉大な説教の一つとして永遠に残されるのです!ユダヤ最高法院は、心からの悔い改めをもって、ステパノの説教を聞くべきでした!しかしながら、悲劇にも、彼らはそうしなかったのです!
【まとめ】
●それでは、ステパノの信仰の弁明の後半の三つのポイントをまとめて行きましょう。その三番目は、38節から43節のステパノの律法への冒涜罪に対する弁明でした。神ご自身が律法の著者であられ、御使いがその仲介の働きをし、更にモーセがその受取人であるという事をステパノは告げました!ステパノが、律法に対する冒瀆者でない事は明らかで、その点において、自分が無罪であるという答弁をしました!そして次に、ステパノは攻勢に出ました。ステパノがイスラエルの歴史を紐解いて行く中で、自分たちの「先祖」がモーセと律法「に従うことを好まず」、抑圧を受けた「エジプトをなつかしく思っ(た)」のだという事を思い出させました!荒野の旅路において偶像礼拝に陥り、その罪を犯し続けました!イスラエルは律法が与えられた人々の国であるという、最高法院が誇って主張していた点を、ステパノはきっぱりと否定しました!
●ステパノの信仰の弁明の四番目は、44節から50節のステパノが神殿を冒涜したという罪に対するものでした。その点においても、ステパノはイスラエルの神殿に関わる歴史を紐解き、それは神によって定められたものであるがゆえに、そこに敬意を払っているという事を示し、自分が神殿を冒瀆するものではないのだという事をはっきり告げました!その点についても、ステパノは全く無罪でした!「荒野」の時代から、それに続く約束の地の占領の時代、そして「ダビデの時代に至(る)」まで、イスラエルの民は、神の聖なる臨在の象徴である「幕屋」がずっとあったにもかかわらず、偶像礼拝に陥り続け、また神が送られた器たちを彼ら自身が退け続けた歴史を、ステパノは露わにしました!ソロモンの神殿、ゼルバベルの神殿、そしてヘロデの神殿、それら人間の手で造られた神殿は、いずれも短い期間だけの存続だけでした!神殿は神の臨在の象徴であり、神ご自身を拘束するところではないのだという事を示しました!
―7―
●ステパノの弁明の五番目で最終の死を覚悟した弁明は51節から53節で、聖霊に逆い、預言者と救い主を殺し、律法を守らなかったイスラエルの民への断罪でした!それは文字通り、“血の結論”でした!イスラエルの民は神を退け、その教えに背を向けた歴史を辿って来ましたが、ステパノの時代の宗教指導者をはじめ、ユダヤ国民もまた「うなじを固くする」強情な者たちでした!彼らの先祖たちがヨセフとモーセと幕屋の神の臨在を退け、また「迫害しなかった預言者」が一人もいなかったように、ステパノの時代のユダヤ人たち自身は、「正しい方」すなわち救い主イエス・キリストを「裏切る者、殺す者と」なりました!彼らは、自分たちが「御使いたちを通して律法を受けた」事で誇り高ぶる一方、キリストを指し示している「律法」を自分たち自身が「守らなかったのです」!「もしも」彼ら自身が「モーセを信じているのなら」イエス・キリストを「信じたはずです」!そういう訳で、彼らは実際モーセや律法を尊敬していなかったのです!彼らは、「もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう」と言いながら、彼らは神の御子イエス・キリストを殺害し、先祖たちよりも遥かに悪い事をしたのです!
●そして、彼らは間もなく、神が遣わされたステパノを殺害します!ステパノは、イエス・キリストの御名を説教したために殺される最初の殉教者となります!ステパノは自分自身の無罪判決を勝ち取るために自らを弁護するというのではなく、救い主についての真理を語る事によって自らに死刑を招くのでした!しかしだからと言って、それが、ステパノの弁明と告発の輝きを曇らせるものでは全くありませんでした!ステパノが取り次いだメッセージは、これまで取り次がれた最も偉大な説教の一つとして永遠に残されて行くのです!ユダヤ最高法院は、心からの悔い改めをもって、ステパノの説教を聞くべきでしたが、悲劇にも、彼らはそうはしなかったのです!
【適 用】
●まず、今回、私たち一人一人が問わなければならない点は、私は聖書を神の聖なるお言葉と信じているにもかかわらず、イスラエルの人々のように、それを本当には信じておらず、その言動が聖書に反するものであるにもかかわらず、それに気づかないで過ごしているという点です!自分は聖書を信じ、聖書の神を信じていると思い、そう告白しているのですが、本当の信仰でないため、結果的に、聖書に反する言動をするのです!いかがでしょうか、あなたにそういう面は見られませんか?あなたは、自分はクリスチャンであると思いながら、実は、自分自身が欺かれているという事はありませんか?教会には加わってはいますが、心は神と教会から離れているという方はいませんか?今回のメッセージを通して、自分自身が吟味されねばなりません!
●人間が造った神殿はいずれも短い期間のみの存続で、それはあくまでも神の臨在を象徴するためのものであり、神ご自身をそこに拘束するものではないという事を学びました!今、神の真の神殿、神の真の宮はどこにあるのでしょうか?教会堂が神の神殿であり神の宮ですか?聖書は、神を信じる者の内に神が宿られ、そこが神の宮だと告げています!(1コリ3:16/2コリ6:16)あなたは、神があなたの内をご自分の住まいとしておられる事を確信していますか?あなたは、あなたの内に宿っておられる神との親しい交わりを喜び、その神との交わりに生かされていますか?
―8―
●ステパノの最終弁明は、彼のメッセージの“血の結論”ともいうべきものでした!彼の弁明は彼に無罪判決を勝ち取らせるためのものではなく、彼を“血の結論”へと導くものでした!ステパノは自分の命を守る事が第一ではなくて、聖書の真理を伝え、その真理によって、同胞のユダヤ人が悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じ救われ、地獄の滅びからまぬがれる事でした!そこでいかがでしょうか、あなたは、ステパノのような信仰姿勢をもって、日々の信仰生活を歩んでいますか?あなたは保身に走っていませんか?それとも、自分がいくら犠牲になろうとも、神の御旨や栄光を第一に求めていますか?日常生活の些細な事において、あなたを通して、神のご性質が、神の徳が、神の恵みが表される事を願って歩んでいますか? それでは、祈りの時をもちましょう。
【結 論】
■「7:52 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。7:53 あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです」(使徒7:52-53)。
[引用&参考文献]
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き18-24』(ムーディー出版、2014) (John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Luke 18-24, The Moody Bible Institute of Chicago, 2014, pp. 212-216.)